聖徳太子 像
近頃「偽」が、流行り文字のようだが、このコラムでも幾度となく「偽」を取り上げている。それも面前に現れる人間の所業のみを論(あげつら)うものではなく、古典にある「偽、私、放、奢」という【四患】にみる複合的人間の劣化の有様を、官吏を代表する権力当事者の倣いとして説明させてもらった。
なにも難しい古典の例を引くまでもなく、全国津々浦々に生活を営む無名の人々は、誰に教えられたわけでもない自己の「きめごと」「さだめごと」という道徳心によって、かれら擬似権力者の「偽」について語らずとも納得していることだ。
あえて小難しい理屈や、売文の輩、言論貴族を雇用した商業マスコミや、真の言論と魅せる人間力を亡失した政治家の言辞を借りずとも、とうに知っているのが民衆というもののようだ。なぜなら、敢えて抗するわけでもなく、忌諱するものでもなく、「いずれ彼らは自らの首を絞める」ことを解っているのである。
その彼らも薄々自壊するのが判っていながら、゛生きているうちが華゛と、名利稼ぎに向かっているのが現状である。
「直にして、礼なくば、則ち絞なり」
手前勝手に善いと理解しても、他との調和や譲る心がなければ、何れ自分の行動範囲を絞めつける、ということだろう。
しかも彼らは民法、刑法、事足りず条例を集積して、真の自由たる人間の尊厳を恣意的かつ、彼らの利の用とスベく、公務と称して日夜、狡智を働かせている。
面前に現れる下級職の潤いのように、社会保険庁、独立行政法人、自治体官吏、加えて「国家百年の計」と謳われた教育行政まで、口利き、付け届け、が横行し、「偽」教師が食い扶持目的の為に生産されている。不思議なもので警察官には警察官の子息が多いのもその例のようだが、上は国会から村議会、はたまた町内会まで、床の間の石の如く世襲が当たり前のようになっている。
以前、都内行政区における一人多役のボス紛いが、「役に就かないか・・」と誘いを受けたが、その取り巻きを作る魂胆は、数年後、二重帳簿の使い込みが発覚している。あるいは司法保護司の推薦来訪に「今からやっておけば藍綬褒章を貰える」と、不幸にもその世界に陥った人々を出汁に名利を思い図っている法匪のようなものもいる。
「上下交々(こもごも)、利を獲れば、国危うし」
誠に古典は簡単明瞭である
それほど日本人に「偽」が横行した歴史があっただろうか。
巷間、影武者だとか、゛すりかわり゛が裏面史に登場するが、今と比べればまだ昨今の「人品骨柄」の卑しさから比べれば別次元のハナシである。
切り口は変わるが、下校時に学生服でゲームに没頭する生徒に注意すると「生徒手帳に書いてない」との反論がある。それと同様に、゛法律に書いてない゛とは、かのホリエモンくんの台詞のようだが、我国の知識人の大多数が「法学」という「学」の僕(しもべ)となってマニュアル解釈という陳腐な屁理屈に埋没して、゛そもそも人間とは゛、゛日本人として゛という、同じ規(のり)でも、陋規(民族独特の規範)のあることすら認知しないために、その影響か、青少年、婦女子まで清規(一般成文法)のみならず、陋規の優越性を知らずに生活しているようだ。
このところ権力を構成する任職として、オールスターが出揃った。
最後に登場したのが教職である。これも狡猾ゆえに地を這って不作為悪事を重ねていたのであろう。
一般に権力を構成するであろう任職として、政治家、官吏、宗教家、教育者、知識人、そして今どきは金融家がある。古来、宗教的にも賎業といわれた利食い、あるいはその類の斡旋業は別として、政、官、宗、教の各職分は高貴な立場として特殊権限や待遇を与えられていた。
あの旗を振って勤務評定反対と叫んでいた教師の待遇も、田中角さんのお手盛りより特別な厚遇を得ている。それほど当時は教師が大切にされ、国民からも警察官、医師、教師は尊敬され期待されていた任職だった。
昨今、それが乱れ組織改変、システム更新など小手先の、゛直し゛が流行ごとになっているが、こと此処まで糜爛しては一筋縄にはいかないようだ。しかもそれを執り行うのが政治家と官吏では、まず無理なことは国民の承知するところだろう。
それも国民の耳に聞き捨てならない情報しか入らなくなったのも、その一因だろうが、経済も政治も教育も、そして人間の欲望も、どこへ進むのかどの任職からも光が見えてこない、それが国民の息潜む心配でもある。
普通はそのために法が効力を発揮するのだが、煩雑に積み重ねられた法は、弁護士を増殖させ、只でさえ網の目のように欲望が交差する社会を、より騒がしいものにしてしまっている。あの松下幸之助氏さえ訪米時の感想として「弁護士、精神科医が多い国は二流の国だ。人を信じられないことは全ての問題解決を困難にさせている」と嘆息し、追従する日本を憂いている。
それらの任職が為すべきことは、そもそもどうあるべきか・・・・
そんなことは彼らが考え、行動すべきことだ。そしてその任職の姿を見せればいいことだ。
どうしたら本来の姿になるのだろうか・・・
名利や食い扶持に堕していることが分からないのなら、国民は隣国の知識人を称したように、臭九老、九儒と蔑み面従腹背の柔軟な生き方をとれば良い。
投げやりな論ではない。あくまで擬似権力を構成するであろう、それらの任職は、何れ人間の尊厳を毀損するとして、それを制御すべく憲法を作った聖徳太子の意思は、たとえ不平等条約のクビキからの脱却を考えた明治政府の憲法制定時のおける、伊藤博文の「憲法義解」ならずとも、それを超えた陸羯南の憲法論に投射されていることにカツモクすべきだ。その意味で擬似権力に利巧になることだ
アカデミックな法理論は飯の種になっても、かれら擬似権力者達の覚醒には何の役に立たない。国民は熔けてしまいそうな人情と掟、習慣に一粒の光と可能性を見て、忍従している。中坊弁護士は成文法の支配力は二割ぐらいだと推考している。そのほかは面前の警察権力の恣意的運用や民暴に代表される暴力団、あるいは狭い範囲でいう地域、職域の陋規(掟,習慣)だという。また金融の管理が顕著になった金融資本家の管理システムであろう。
人間の尊厳、あるいは貧しくとも威厳をみる、それらを守護し活かすべき擬似権力構成者の錯覚した所業は、国民を止め処もなく亡国の淵に追いやっているかのようである。
「田園まさに荒れ何とす・・」陶淵明は帰去来の辞で詠み、屈原はベキラの淵に投身した。
良寛や西行になれそうもない日本人よ・・
内容関連サイトより【参照】 ふりかなは小学生向けであり、その世代でも理解、論議できる内容である。
十七条の憲法(けんぽう)のおもな内容(ないよう) 抜粋
一条(じょう) 和を貴(たっと)び,人にさからうことのないよう心がけよ。
【互いに仲良くして競ったり、争ったりしない社会をつくろう】
二条(じょう)
三宝(さんぼう)をあつく敬(うやま)え。三宝(さんぼう)とは,仏像(ぶつぞう)・経典(きょうてん)・僧侶(そうりょ)である。
【精霊と法と僧(教師)、(教師は縁ある萬師であろう)】
三条(じょう)
天皇(てんのう)の命令(めいれい)である詔(みことのり)を受けたなら,かならずつつしんでしたがうように。君主こそ天であり,臣(しん)は地である。
【官吏は連帯と調和の要の存在である天皇の命令に随い、それは天と地の必然の関係のようなものである】
四条(じょう)
官吏(かんり)(役人)は礼を基本(きほん)とし,人民(じんみん)を統治(とうち)する基本(きほん)は礼である。
【役人は礼(辞譲の心)を基としてする。人を導き方向性を示すのは礼を前提にしなくてはならない】
五条(じょう)
美食や財貨(ざいか)への欲求(よっきゅう)にもとづく賄賂(わいろ)を受けることなく,公明公正に訴訟(そしょう)をさばくこと。
【贅沢や金の欲求によって賄賂を要求することなく、不特定多数の人々に正しく説明して行政を行わなくてはならない】
七条(じょう)
官吏(かんり)は,各任務(かくにんむ)があるので,職務(しょくむ)をあやまらないようにせよ。
【役人はそれぞれの分担した役割があり、役割を誤る(賄賂、親族などへの便宜)ことの無いようにする】
八条(じょう)
官吏(かんり)は早く出勤(しゅっきん)して仕事をし,おそく退出(たいしゅつ)せよ。
【役人は仕事の準備と後始末をおろそかにしない】
十二条(じょう)
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやつこ)は百姓(おおみたから)(一般(いっぱん)の人々)からかってに税(ぜい)をとってはならない。国に二人の君はありえず,人民(じんみん)に二人の主はないと心得(こころえ)よ。
【役人は百姓(大御宝)から勝手に税(恣意的な税)をとってはならない。あくまで国税以外の税は腐敗堕落を招く】 ※ いまどきの条例乱発して徴収する 罰金、手数料の類だろう
十三条(じょう)
官吏(かんり)たちは,自分の職掌(しょくしょう)をよく承知(しょうち)せよ。
【役人は仕事の内容、その棲み分けを自覚せよ】
十五条(じょう)
私心(ししん)をさって公につくすことは,臣民(しんみん)の道である。
【己の立身出世を顧みず社会に尽くすことを役人の心構えとせよ】
十七条(じょう)
重大なことがらを決定するには,独断(どくだん)で決めてはならない。かならず人々とよく議論(ぎろん)をつくすべきである。 (『日本書紀(にほんしょき)』)
【大事なことは独りで決めず、皆で知恵を出し合い、大いに話あって決めるようにする】
学習研究社 キッズネットより
憲法はいずれ人間の尊厳を毀損するであろう権力(政治家、役人、宗教家、教育者)に対する制御であり、その権力に対して、天皇の「権威」によって、それらに示したものである。
いま、庶民(大御宝)には「民法」と「刑法」があるが、総じて明治の国家、国民の創生期に権力者の統治システムとしてつくられたものであり、以前はそれぞれの郷の長(おさ)による掟、習慣、あるいは裁制によって連帯は維持されてきた。太子の憲法はそれと調和していかなければならない役人の姿を諭しているようだ。
これこそ全国津々浦々の辻路に大書して掲げたらよいと思える聖徳太子の意志であり、゛憲法゛であるまいか。