北京、戒厳令下の小学校
(感想余話)
構内は緊張感があり、PCデスクトップはまちまちの色(中古品)だが完璧に清掃して、使用しないときは白い布をかぶせていた。休み時間は机の上を整理整頓して騒ぎ立てる子供は少ない。教師は合間をみて図書館で教授案の作成、校庭の体育では
整列しした子供達が印象的だった。
帰国後この状況を伝えると「共産主義だから・・」との声。
天安門の騒擾、大学生活の怠惰、それとは異なる小学校の姿があった。
問題があれば欧米に視察に出かける教官吏、文教族政治家がいるが足元を知らないようだ。何を見るか・・知識技術のレベルではない。どう人間を育てるかだ。
本論
゛するべきこと゛ではなく、゛ヤリタイこと゛の世界である。
ことさら文字の意味を解釈すべきとは思わないが、筆者の周りにはその、゛ヤリタイことをやりたい゛という音が多くなった。
内容は「思い通りに好き勝手に出来れば・・・」という空想に似た願望である。
よく人間を容量や秤に譬えたりして、゛器量がある゛とか、゛重みがある゛と評するが、そのヤリタイこともその容量によって大きく変化する。また容量が多いもの、例えば地位や権限とした場合はノーブレス・オブリュージュ(地位、役割に応じた行い)などという自意識や客観的観念で「枠」がつくられ、その「・好き勝手・・」が叶わない。
また、それらは「するべきこと」の客観的要求に晒され、余計にヤリタイことへの欲望に誘惑される。それゆえの四角四面の知識の鎧とまとっている御仁もいるが、そのせいか隠れた「陰徳」変じて巨悪に転化する者もいるようだ。
それらは人の表裏、あるいは立場においては現役のフォーマル、インフォーマルの部類だが、昨今は若者を含め定年を迎えた団塊と揶揄された世代にもその、゛ヤリタイこと゛がよく聴こえる。
満州 新京にて
ある教員だが、この手の職業には多い夫婦ともども教員である。あの田中総理の肝いりで地方公務員の俸給に特別待遇を設けた彼等の立場に、数年前さらに土曜休校と研究日を加えて、国民からすればうらやましいとも嫉妬される教官吏の姿である。国大のせいか一ヶ月に五時間で75万とカラオケの間奏でマイクに漏れて話していたが、これも彼等のヤリタイ職業だったのだろう。意外と慇懃でかつ行儀が悪いという特殊な態度をするのもこの手の似非日本人である。
『定年だから好きなことをするぞ』と吼えていたが、
『カカアはまだ教員なのでオレは留守番と猫の世話でのんびり暮らす』これから・・・
よほど嫌な職業だったのか、相当鬱積している。
「好きだ愉しくなければ、覚えない」とは孔子の意だが、嫌でつまらない職業は高給取りの好待遇でも我慢ならないらしい。走狗に入る知識人の心底はことのほかすさんでいた。
丸くなった積み木の整理整頓(節約)の身体習慣 弘前養生幼稚園
小学校の教頭で定年を迎えた教官吏だが、これも夫婦教員である。
くだんの、゛ヤリタイ゛ことだが、問答したことがある。
「ヤリタイことは厭きませんか? まだ60だし、健康であればアト20年以上ですよ」
『いままでヤリタイことはたくさんあったが、時間もなく・・』
「ところで、やるべきことは・・・」
『・・・・・』
今でも使用している木製遊具 驚くべき管理保全の習慣性
実はこの問答にも伏線があった。
筆者が教職課程の学生に拙い講義の感想を所望したとき、一番多かったのは「ヤリタイことよりやるべき事を探すこと・・・」が印象的だったと、特に女性からの感想が多かった。
それは、昨今の教師を取り巻く職場の環境に管理者と教員との関係、モンスターペアレントといわれる親との関係、落ち着かない子供との関係、またそれを解消する為に生ずる自身の苦悩、一部ではそこからすすむ遊興、サラ金、と教師の実態など、教官吏であるがゆえの妙な、゛縛り゛の自意識と立場への要求を伝えた現実の姿としての講話であったためだろう。
ある千葉の小学校の教師がサラ金問題で訪ねてきたことがある。
当時でも三件の裁判を抱えていた。一つは耳元で注意したら耳に障害が出たとの裁判だ。
アメリカでもピカチャウという映像漫画で視覚、脳障害が出たと問題になったが、テレビにしがみ付くように近寄って大音量と映像変化をみたらおかしくなるが、ここの学校では裁判になり教育委員会、学校、教師は敗け慰謝料を払うことになった。
野にして粗にして卑ならず 清潔簡素 津軽弘前
その判決のとき傍聴していた母親から
『これならウチも貰える・』とのヒソヒソ声があった。
軽鬱になった教師はパチンコと同じ教職にある女房の浪費もあってサラ金に手を出した。公務員、特に地方公務員はサラ金の上客である。高給であり収入は間違いない。しかも低金利での融資も審査も甘く受けられる彼等の職域制度もある。つまり過剰貸し込みが出来る相手である。たしか8社で500万以上という。
またこの組織は隠蔽を常とする。それは管理職で校長の管理度の査定もあるようだが、同僚とのつながりも希薄で、問題解決能力と自己意思決定が弛緩しているのが原因である。
つまり、それを補うべき当たり前の人間関係にある「人情」の欠落であろう。係数を追いかけ、相互不干渉、恣意的な寡黙、上司の隠蔽、上部組織の無責任、自らもその思考に染まり、都合よい安住に暮らすことを生活の守りと錯覚する教官吏がことのほか多い。
しかも、健全育成、子供の成長と安全という美名に飾られ、まさに堕落の坂を錯覚した知識人像を掲げて国家の先頭に立ち転げ落ちているようだ。
もちろん『ウチも貰える・・』とほざく戦後婦女子の道義的な教養も、たとえ消費市場の競争と収穫、あるいは比較生活の慣性を、゛幸せ゛と馴らされてきたとしても、その風潮に問題意識を起こす思索や観照もなくなった姿が後押ししているといって過言ではない。
バングラデッシュ 子供新聞発刊式
数十年前のことただが、ある私立高校では公私格差是正の恩典?なのか、憲法にも明記されている私組織にたいする公金拠出(私学助成をふくむ)や文教族議員との関係か、または箱物学校や流行カルチャー課程を売り物にした学校が多くなった頃、門前には教師のマイカーが競うように並べられるようになった。
もちろん時間の空いているときは車磨きであるが、いまどきのパソコン遊びと同様な状態であった。私教組のガンバリで待遇は改善されたが修学旅行を委託された旅行者から下見旅行の招待や、教科書会社から教科書に掲載されている書家や画家の小作品を販促として頂戴したり、運動具屋からは試供と称して当時流行ったブランと衣料をせしめる教員も増えてきた。
この頃の流行は地方の景勝地に研修所、宿泊施設など建てる学校が多くなり、物販、建設には地元選出の文教族が蠢いて、もちろん入試に下駄を履かせることも日常のこととなった。
『生徒はお客さんですので、あまり厳しいことは・・』
筆者が講義を依頼されたある有名大学でのことである。
理科系や文科系の修度の国別比較が官制学の競争範囲ではあるが、現在の教育制度は現世の繁栄と成長の基礎的条件といわれながら、裏側にあっては表層の成果を侵食し、かつ未来に残置され忌まわしい状態がある。
今年、北京や台北、タイの小学校の体験や、畏友のバングラデッシュの小学校の実態を聴いて再度、隣国桂林の施設を訪問する。
きっと、あの弘前の養生幼稚園を想い見るに違いない。
訪問の目的は、現在の収穫の基準となった官制学校歴の部分範囲の学問ではなく、永きにわたる人間の連続性(栄枯盛衰の歴史とも)に培われた生き方に観るような、人の成長に遵ったな方法や人物の配置活用について現世価値の座標から離れて、切り口の異なる観察をもう一度してみたいと思うからである。
後段三行は今の時節には男子にとって必須の心根であろう
倣う、教える、遵う、を精神的、身体的にも成長過程の必須な問題を、人に習う前提として自然的尊敬もなしに、習わせる、教示する、従うといった捉え方は応答修得の関係に齟齬をきたすだろう。いくら労働者、食い扶持、教官吏と都合よくレッテルを変えても、あくまで人間としての長幼に置かれた場合は、人の師で在るべきだろう。対するに「経師」があるが、教科書を説明するだけの人である。
「教育とは魂の継承である」と師は繰り返していた。
遵う・・・(道理にしたがう)
縁ある生徒に説く「ヤリタイことより、やるべき事」の探求は、自らに課せられた命題でもあるようだ。