まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

バラック・オバマさんの眸   2008 11/6稿  あの頃

2016-10-10 08:04:38 | Weblog

2008 11/6に拙い章を本ブログで掲載した

昨日の連載ブログ「時節は儒を除けて墨を得る」は隔日として当稿を再掲載する

昨日のは、表現力の稚拙なためか文体整理もおぼつかなく意を連ねた。

拙い意としては、どの様な思想、宗教でも人物如何でその後が決まり、利用する者の栄枯盛衰もそこに帰すと思うからだ

一方、(学術的)に、とくに西洋合理主義を借用した我が国の官制学校制度とその修度(学校歴)価値は、それを学だとして求めるものの目的習性となり、ときに時節に対応できず、その形式修度を隠し屏風のように援用した政治。経済、宗教、教育等の分野に共通した問題を滞留させている。それは人間(人物)の問題である。
たかだか西欧近代化の模倣とした前記の数値選別価値は、その人間の分野にある意志や矜持と云った部分を体系化、分析、検証に基づくアカデミックな理解に落とし込むことで、より浸透するような理解から遠ざけているようだ。

ここで再掲載する「バラック・オバマさんの眸」は、分析した説明ではなく、かつ現代の通例としているアカデミックな考察価値を離れ、それらの人々からの納得性から忌避されるであろう、体験的感性と一過性の熱狂や偏見から離れた見方である。

ことさら氏の就任時に観察した拙い稿を再び掲載することで、現在のオバマシ氏の煩悶にみえる状況を予想したとの野暮な提示ではない。適うなら「時節は儒を除けて墨を得る」に関する拙い表現の補いとして参照していただければ、当時の備忘録が活きてくると考えることであり、過去の事象を有効的に積層する歴史の学びになるであろうと、ここに再掲載するものです。
 



以下、2008 11/6稿

゛目は口ほどにモノを言い゛昔の人は良く言い当てている。
なるほど、喜怒哀楽に表わす歓喜、怒り、悲しみ、あるいは悠々とした心は表情、とくに目と音声に表れる。

どうも目と音声は連動しているようで、「口角、泡を飛ばし眼は吊り上り・・」「声はわななき涙がほとばしる」「眸は中空を舞い、言葉はか細く・・・」など、多様な表現があるが、とくに昨今の政治家に必須?なパフォーマンス、つまり演ずる戯れのなかにも音声と目は単に顔面の部位の効果に留まらず、まるで意志表現の如く姿をみせつけている。

以前、気配り宰相とあだ名の付いた御仁は確かに目をキョロキョロして落ち着きが無かった。言語も明瞭、意味不明といわれていた。

ことに眼力に見る透明感は、己の秘奥から対象裏面の遠方まで見抜くかのような透徹した意志を含ませている。類似する眼として孫文、南方熊楠、児玉源太郎、東郷平八郎に見るマナコは世俗の欲心と離れた、ある意味では大欲を感じさせる。また共通していることは精神の鎮まりが、沈着冷静、義挙突破力、独自の智恵、あるいは洒脱な頓智に至る許容力と、責を我に受け止める許容があった。



           
               南方熊楠


                  

               孫文

            
               児玉源太郎

大欲から生ずる大業への使命感は彼等の墨跡にも表れている。
例えば大身のどんぐりマナコだった山岡鉄舟

「私することを忍び、以て大業を行なう」と揮毫している。

大西郷
もそうだ。彼は「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)と、自らの小欲を打ち払うことを行動を通じて精励している。

孫文は「天下為公」、熊楠は東西文化の融合を意図して曼荼羅世界を求めている。
かれらは民族国家に囚われない普遍的な基軸を様々な方法で表現した。革命、研究、戦火、義挙、あるいは維新を体現して、人々に、゛人とは゛゛国家とは゛を問い、行動を喚起している。

『イエス・ウイ・キャン』そして『チェンジ』とオバマ候補は絶叫した。

天邪鬼だが気になることがある。
眼と口の調和が取れていないことだ。

とくに冒頭に記したが、眼の動き、つまり意志と言葉の齟齬が観える。

それは権力と能力との関係に大きな因子となる、「時」のスピードとその刻み方、もしくはうつろいと戸惑いに表れる先見、それと同時に将来と現在を調和させ効あるものとする逆賭の考察が鎮まりの中の決断として可能かどうかの不安である。

口が発する夢や政策は熱狂が過ぎ去った後に人々の心に問えば、異なる観照に晒されるだろう。また我国の陣笠代議士が経年総理となって始めて感ずる宰相の責と孤独、それは閑居に感ずる孤独と重圧であろう。

余談だが、佐藤栄作総理はしばしば皇居に参内している。
普段は猟官、利権に囲まれて一心の安らぎすらない権力の任において、いっときの参内は心落ち着くものであり、顔相すら変化したという。佐藤総理は世俗宗教や走狗に入る知識人の言には到底及ばぬ境地に安心をみたのだろう。

翻って、米国でも宗教団体が支持勢力として彼を取り巻き、何れ我国同様に政策を狭めるだろう。それらの説く神の一面には、現世利益が大義というフレーズを整えて押し寄せるだろう。はたまた、あのセオドア・ルーズベルトでさえひれ伏したJPモルガンのような金融資本家が国家の懐を枯渇させるかもしれない。
これからは内なる戦いが待っているだろう

だが多くの為政者は内なる戦いを隠蔽して、外部の敵を模索し、宗教、資源、環境をフレーズに多くの戦いを自由競争の名の下に繰り広げてきた。
先ずは「内」に留まれるか。つぎはウイ・キャン忍耐と人の覚醒と新たな成功価値の創造だろう。

ムービーヒーローならぬ、テレビヒーローのような米国の大統領選挙は、スポーツ競技に熱中する国民の贔屓に似て、票や資金の数字確保が目の前のボードに映し出されることに一喜一憂する国民の正負ならぬ勝負意識を喚起して、よりその熱狂の度合いを高め、候補者は耳障りの良いフレーズと音量の変化でそのライブを盛り上げている。

音声は知性を表すと古人は説く。
また「知は大偽を生ず」(知識は往々にして自らを偽り、他に同ぜしむ)と、云う。
そして「小人は利に集い、利薄ければ散ず」と同調者の移ろいを読む。



いまどき隣国の古典を引き、駄論を理屈づけ、高邁にも米国大統領を語ろうと、それは引かれものの無名の凡人の洒落にもならない。むしろ野暮だろう。

ただ、兜の緒を締めるつもりで諫意を呈上したい。

【直にして礼無くば、則ち絞なり】

それは我国をはじめとする万国の権力負託者にも共通していることだ。








2014 10/4 追加章

直にして礼無くば、則ち絞なり

いくら時節に良いと思う政策でも、他(他民族、他国)との礼(礼とは他に譲る心 調和心)が無くては、いずれ己の身(自身、自国)の自由行動を絞めるようになる。とくに力のあるもの、威を恃む者が陥りやすい自ずから(否応なしに誘引する)の摂理だろう。
ここに、意地やメンツがからむと戦争になる。多くは臨機に起きる人間の問題でもある。


ときには豪雨のように降り注ぐ数多の情報を除けて、上記のような切り口で時の政権を見ることも必要です。

我が国に置き換えれば
予想屋的予見ではなく、安倍氏の責に堪えない状況が招来し、ときに転げ落ちるように事態は急変する。それは数多の大衆の欲望の因ではなく、自身に内在する感覚慣性によるものだ。循環性に遵った(道理)考察によるものだが、援けるのは深層の国力を支える部分に鎮まりを以て臨む「下座観」と、大内山の威を存在なさしめる「忠恕」の心の涵養が望まれる。

何よりも情報対応だけでなく、それを援ける人間の「観人則」が基となる

よって内外は信を基とした安定を取り戻すであろう、


イメージは関係サイトより転載

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1 コメント

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難しいです (Unknown)
2008-11-23 00:49:49

まなこ と 口の
ズレが
わからずにおり


今日

久しぶりに
TVに映るオバマ氏を
観て

やつれて
いることが
分りました。


上に立つ人は
命懸けですね。


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