佐藤慎一郎氏の叔父 山田良政(辛亥革命で殉死)
<寳田時雄氏とのある日の対談>
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S : 僕の家を県人会本部 (会長・松野氏) にして、青森県人だけでもご飯を喰べさせようと思った。 高粱飯と豚汁で。 狭いから皆立って喰う。 便所に行くと、トイレット・ペーパーも電球も盗まれている。 靴も (苦笑)。 そして然し翌日、再び喰いに来る。 コレ (奥方)、二人も産婆役で取り揚げたよ。 或る時、桜田って奴が来て (自分の親戚を見付けて)
「あっ、オバさん!」、と謂うから
「君、我家にはこの通り家族や避難民だらけで満杯だから、オバさんを引き取ってくれないか? そうすれば、新しい人を一人入れられるから。 頼むよ」と云ったら
「家の女房が体弱いので駄目だ」って言い訳するものだから、僕、怒ってね
「犬畜生、返れ!」、と。
四~五日したら謝りに来て連れて帰った。
T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。
S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其 奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。
T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う 国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。
国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〝If〈 もしも ~ならば、 〉〟 を
遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。
S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。
T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。
S : 勅任官が留置場で僕に
「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。
全く情け無いよ。
T : この間、『教育勅語』の起草に関与した元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江 戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒つまり官制の学歴が国家指導者の任に堪え得るで或ろうか……」
と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。
S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。
「聖諭記」明治天皇が視察の後、教育のいく末を憂慮して側近の元田に諭した記録
T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。
S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が
「お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、
と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから
「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、
と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。 其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。
T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。
S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。
T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?
S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ
「はい、解りました」
と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。
T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。
S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。
T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、多寡が人間のやる事だ、と。
王荊山の遺児と
S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。
T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。
S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんです。
T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟 どち等で判断しますかね?
S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種 類の人間は) 考えられ無いよ。
T : 協会の○さんはご存知ですか? この前、大連から来たお客さんと三人で食事をしたのです。 先方が立場上カチンと来るのを覚悟の上で、敢えて云ったのです。
「之う云う席では、〝東北三省〟と云う言葉を遣ってくれと謂いましたが、戦後生まれの僕は満州と云う教わった言葉しか遣えません」
云々と自分の考えを率直に陳べたら、大連から来たお客さんその場で怒っていたが、新宿から池袋のホテルに送っていく途中、あなたは嘘が無いと、
「今度大連に来たら、二人で良い商売をしましょう」
と迄謂ってくれました。共産党の幹部です。
S : 中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。
T : 自然の三欲 〝食・艶・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。
S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。
T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。
S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、の席は公文書だからだ。
T : 六月三日の天安門事件で彼等学生は、日本人が考えて在る以上に命を懸けて在たと謂う事ですね。
S : 如何解釈したら良いのか、難しいな。 例えば紅衛兵のやった事でも、人を殺して喰っているし。 実態をレポートした本が此処に、未だ目次しか読んでい無いのだけれども。
T : 此う云う本、中共でも出せる様に? 嗚呼、台湾で。
S : 記録を持って、夫婦でアメリカに逃げたのだって。 其処で英文に成り、其れが日本語に成った。
T : 人を喰べる文化は中国だけでは無いのですよね?
S : 世界中至る処に、其の歴史は在る。
T : 変な話ですが、人って美味しいのですかね (笑) ?
S : 簡単な論理。 (自分の) 肝臓が悪ければ (健康な人の) 肝臓を喰えば、体には善いと謂う。 (話が変わって) この前、カジ園さんが来た。
T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王 荊山さんの?
S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。
T : 平山が横流しを!?
S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、ソ連が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった。
T : 高級将校がですか?
S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで
「如何したのだ?」
と訊いたら
「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」
と訊いてやっと解った。 僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて
「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」
と謂う事も判った。 兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら
「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。
もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は
「私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、とほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て
「この野郎、殴り殺してやる!!」
物凄い剣幕だった。
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