まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

自衛官 田母神氏に観る歴史観と人物 08 11/15 再

2016-02-08 13:31:03 | Weblog

戦後生まれの自衛官だか雰囲気は古武士風の装いがある。
安倍総理の戦後レジーム脱却スローガンと軌を一にするのかどうかは田母神氏の言を待つが、もしその風に乗じた行動であったなら、いま一度、鎮まりの中で熟考願いたいことがある。

内容については紙面が少なかったせいか、尽くせない忸怩たるものがあろうが、筆者に寄託された未公開資料をなぞっても、概要は理解できる。
その上で理を立てたいことがある。

国家の誇りとか意志の発揮については、津々浦々の意思ある国民なら言を発したり功文を弄するまでも無く、労務の合間や青年の向学の目標として、他に発することはないが考えている。深くいえば誇りや意志を内外に発揮しうる近頃の権力受託者の有りの侭の姿を観察しながら憂いに似た気分を持っている。

意志や説明知識を文章に表し、かつ懸賞金三百万の応募ではあるが、一方の嫉妬こころや思想的反論に晒されることを想定し、かつ肉体的衝撃を回避すべく戯言を弄す左右両派の売文の徒、言論貴族の痴態が踊る舞台、あるいは食い扶持に堕した政官の争論を田母神将軍は逆賭したのだろうか。
             【逆賭】物事の結末をあらかじめ観てとる

よく確信犯とはいうが、イタチの最後っ屁のようだとも揶揄する声もある。それら一過性の軽薄な批評が落ち着くところに表れる冷静な人物観はこう観るだろう、田母神氏は将軍らしい俯瞰した戦術、戦略を図ったのだろうか、と。

戦前、軍官僚、将官は立身出世の花形だった。それはカッコウよく勇ましかった。
議員は負けたらただの人とはいうが、敗軍の将も負ければただの人だ。それも戦勝国から軍事裁判にかけられ些細な疑いから死を宣告されることがある。ことに高位高官はその標的となり戦勝国民の溜飲を下げるために、敢えて身命を捧げなければならない、それが戦渦にあがなう武人の靖献の仕様でもある。

社会の状況にも左右される。2,26の昭和維新の歌にある侠気は未だに心を打つ詩文だ。あるいは議会が外地事件の現状追認に陥り、ついには軍官吏の暴走と異民族の謀が組み合わさって劫火を招き、終には忌まわしい状況が外部の力を用して、その暗雲となった暴走を止めた一方の歴史観もある。



           


田母神氏は戦前の国家行為を侵略ではないという。官吏の感覚ではそうかもしれない。しかし、今は無き官名ではあるが、外国では通用する将軍、ときにはレッドカーペットで観兵をするゼネラルである。その将軍の文と読むと一抹の慙愧の念が浮かんでくる。

勝者は敗者に哀悼の礼を尽くすのが、真の勝者という。これは万国共通の刃を交えたものの矜持であり、祖国の国民にも示す情緒の教示の姿である。これは政治家には適わないものであり、戦闘体験者に通ずる礼でもある。

じつは侵略ではないとしても、軍人が異民族の地に先発として赴くときどのようなことが起きるのだろうか。陛下の軍隊として、また生活規範に勤勉、正直、礼儀、忍耐を涵養しているだろう日本人が、たとえ強者の忠恕として進出しても、たとえは悪いが農協の海外旅行のような醜態が無かったのだろうか。一兵卒なら滞ることもあろうが、高学歴で高位高官になった軍官吏は高潔だったのだろうか。

ある悪しき例を以って総てとはならないが、余りにも有名人ゆえ恥を知りつつ逸話をたどりたい。
辻正信高級参謀の逸話が児玉誉士夫氏とジャーナリスト大森実氏の対談に載っている。
シンガポールを攻略した日本軍の司令官山下奉文とイギリス軍司令官パーシバルの『イエスか、ノーか』の談判で有名だが、このパーシバルを座らせて、あろうことか辻は鞭で打ち伏している。しかも児玉氏に向かって鞭をプレゼントしている。さすがに児玉氏は断っている。


           


もう一人は寺内寿一南方軍司令官である。あの浜田国松議員と国会における、゛腹切り問答゛で有名になった人物である。
シンガポールに赴任していたとき○○がこっそり机の引き出しを覗いたら猥褻写真の山だったという。フィリッピンのマニラでも余りにも色事が頻繁で、ある豪傑浪人に部下の前で殴られている。(佐藤慎一郎 荻窪酔譚)

侵略ではないと田母神氏は記すが、それは占領地とはいわず駐屯地、居留地なのだろうが、銃をもった人間たちが、色と食と財を欲しいままにすることは如何なものなのか。
翻って横須賀では大型軍艦が入港すると数時間内に事件が起き、多くのトラブルが勃発するが我国官警は自国民における些細な摘発とは異なり、余り大きな話題にもならない。
沖縄などはその顕著な一例だ。

なにも左派の言い分をナゾルつもりは無いが、右派の、゛そんなものだ゛に加わるものではない。

ただ、国権を委ねられ異民族の地において地位を利用して邪意を満たすことは、旅の恥は掻き捨てとばかり種々の痴態をみせる一部の旅行者に似てはいないだろうか。

それが亜細亜の解放なのか。不自由が北朝鮮と同じだというなら、君たちは解放を謳った人民解放軍のその後の施政と同じではないか。
シビリアン・コントロールという自らの責を放棄して、官民格差といわれる俸給にぬくぬくと任期を全うして老後を計る隊員は居ないのか。それは国家の内患ではないのか。

あるいは浮世の三面記事を賑わす、汚職、背任、漏洩、セクハラ、これでは治安組織にみる腐敗同様、防衛組織も国民にどの様に映るのか。

将軍の文は人格と忠恕が薫譲されたものとして表れるものであり、歴史に靖献された防人の願いが記されるべきだろう。

はたして将軍を措いて隊員は懸賞当選するだろうか・・・
言い訳めいた名のある著名人の選考経過の繕いも、老後の賂言論の果てであり陳腐な論説の具現であろう。

まさに「李下に冠を正さず」

意志や文を批評するものではない。何を座標として、国家社会のどの部分に心を置いたのだろうか問いたい。何を憂いて、その根源にある国家の理念なり、異民族にも普遍な人間の尊厳を、どうすれば護る事が出来るのだろうか、それが巷間言われているノーブレスオブリュージュがもつべき俯瞰した歴史観や国家観ではないだろうか。

敬重されるべき人物にそれが欠けた時、日本人の情緒ではそのような男子を、゛潔しとしない゛つまり、辞譲の礼が無いということだ。

          
           弘前市 鈴木忠雄氏蔵
           石原莞爾氏から国民党何応欽宛て書簡


自由な土俵で、しかも金銭対価のない場面での意志の発揮、それこそ松蔭の謂う「異なることを恐れない自己の確立こそ学問であり人格」であろう。

その情感を繋げ守護することこそ軍人の任務であり、その矜持に尊敬を抱く国民の願いである。政治家の云う軽薄な「国民の生命財産を守る」、そんな前段で内外の情勢や歴史を語るより、生命財産を以って何を維持し護るのか。

それを国民に肉体的衝撃を以って教示するのが真の防人だと考えるべきだろう。
もう一度、兜の緒を確かめるかどうか、その観察は「観人則」を養う良機でもある。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-11-19 00:30:36

よく 訴えて
くれた・・・と、

思っておりました。


冷静に考えると

これからが
大事なのだと

読ませていただいて
感じました。


「追遠」

終わりを
全うする

ことが
できるのでしょうか



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