秩父
大いに両性の炎上を請う
「女厲」は五寒に記す、政外、内外、敬重、謀弛と同時に表れる相互作用だが、女性が荒々しく烈しくなる現象だ。
この兆候が表れると社会は崩壊し、国家はなすすべもなく崩壊する。それは生産や軍事力という数値評価の多寡で競うものではなく、真の国力と云うべき人間の深層に存する情緒が五寒に記すそれぞれの問題の顕在化によって毀損され、数値の繁栄が砂上の楼閣のようになる危険性があることである。
なぜなら、数値の多寡を競い、成功価値や幸福感を追求するなかで、個々の成功や幸せが行き着くところにある「全体の毀損」が、まるでエントロピーの法則のようにその高低差を激しくなればなるほど、閉塞感や戸惑い、不安などの精神的社会基盤が歪み、回復力を失くすことになってしまう憂慮だ。
昨今は、格差社会といわれ、一過性でもある、情報、収入、などが、その一過性の人生価値によって、より激しさを増している。そこに付随するように「五寒」も顕著に表れている。
安易な生活感によって、考えることは難しく、観照することは関心もなく、問題意識すらない人々は、その境遇すら人任せにする傾向が多くなった。まるで羊飼いに飼われた犬に追い立てられるように、群れは流行り事や、政府の刺激に群行群止している。
台北市老人住宅 松崎敏彌氏と
第五次になる中華民国台湾の施設訪問が3/15から行われた。
施設は台北や高雄の高齢者住宅と小学校の朝礼、少年観護署(矯正施設)などだが、それぞれ数次にわたる継続訪問である。
この章に関係することだが、台北の高齢化施設での女性には、いつものこと応答や仕草など、便利性や情報に囲まれ、文化的と云われる世俗に生きる我が身に照らすと、ことのほか至らぬことに気が付くことがある。
ものごし、笑顔、言葉の選択、応答、すべてに日本の生活域では見かけられない情景がある。なかには台湾高等女学校や、あの映画KAMOで有名になった嘉義農林野球部出身者もいたが、みな応答辞令に優れている。懐古趣味に留まるものではないが、改めて日本語の教養的な使い方、心の沈潜した部分の表現、さらに異国ならではの一期一会の遠望するような眼差しなど、不謹慎にも抱きしめたくなるような老境の潤いがある。
高雄市老人住宅 カラオケ室
それと云うのも、訪台直前にネットや国会を騒がせた日本女性の意見表現に、どこか裏悲しさを感じたこともあり、早くあの方々に会って、゛そもそも゛を取り戻したい気持ちがあった。
なにも大戦を前後しての価値評価を云々する野暮なことではなく、心地よい人々の「和」や「間(ま)」が、たとえ異郷においても、瞬時に連帯や調和による親和心を作ることのできる応答と観照の妙を浸透させる、人間の真の力を感受するために、己の敏感性を研ぎ澄ます体験への期待だった。それは、邦家では乏しくなった日々新たな発見でもあった。
その我が国の情勢だが、多くの女性の賛同を得て政府さえガブリつく文句があった。
何なんだよ、日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ、私、活躍出来ねーじゃねーか。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
世上、いくら欲張りでも都合のよいことばかりで思い通りにはいかないことは子供でも知っている。現状を認知して内容を熟慮しても、ヤクザや不良弁護士や利権代議士、はたまた扇動家が「いい話」や大義を言ってきても、世間は眉唾で聞き流すものだ。
いわんや方策としてもこの手の言葉を用いる人間が、浮俗の風でまかり間違って政権を取り、認証官(大臣)にでもなったら、陛下は平然として信任状をお渡しになるだろうか。
しかも、男女平等を謳う世で、義務はともかく人の権利を唱える、ここでは女性に、嘲り、罵声を浴びせられて、ごもっともと語るオノコも情けない。
゛いつのまにか゛それが複合的に社会の隅々に表れるのが五寒にある「女厲(じょれい)」なのだ。
制度や待遇を考慮しても、わがナデシコの言は烈しくなった
これではまとまるものも、まとまらない。だが選挙目当てもあるが政府は瞬時に五兆円もの対策費を計上予定とのこと。これも選挙次第でウヤムヤニなってしまうのだが、どこか情けない気分だ。いわんや課題(批判)に対する応え(対策)だとするなら、対策のみで政策すら出せなくなった為政者との出来レースの芝居かと思えるほどの、タイミングの良い、゛さもしくも卑しい゛役者がそろっている。
秩父
当ブログで記す、陋規の習慣と掟を倣い、自省や模範とすることがなくなっては、いくら法を積層しても意味がないと考えるが、この陋規(狭い範囲の掟や習慣)には、前記した台湾の高齢者の「ものごし、笑顔、言葉の選択、応答」あるいは、「整理、整頓、清潔」などトヨタでも5Sと称されることの習慣化、あるいは食事態度、姿勢、礼儀などが大きな部分を占めるが、件の女性は、野暮で古臭い、人権、平等を掲げて反論、いや争論でもするような威圧姿勢がある。
思春期を過ぎて大学生になり社会人になってからでは間に合わなくなることがある。
それは付け焼刃のような人間の矯正と、役に立たない知学である。
人間を粗製乱造する教育産業の変容を進歩的成長とする風潮と相まって、その評価とする数値的選別が、なんら社会生活なり国家組織の形成に効あるものではなく、かえって屋上屋のような法の積層や内規(コンプライアンス等)を作らなければ、人間がその世界(組織なり)用と成さない現状がある。
近ごろは、職掌責任ある上司でさえ言葉を控え、いたずらに逡巡する傾向があるようだ。
なかには真性の病いでもなく、単なる我慢が利かないストレスという流行り語や、それを病気項目に当てはめた「うつ病」が多いようだが、言葉を失くし、動きを失くすと、それらに括られ、しかも数値に追いまくられ人情薄弱になった環境から逃避するように病を盾にすることもあるようだ。まともな病をもって苦しんでいる人はその偽病に嘆いている。
体裁のよい憑りつき病のようだが、これに「さもしさ」も「むさぼり」が感染したら、生活習慣病となるのは必至。点ける薬はないが、体質改善と精神の覚醒は肉体的衝撃がことのほか効く。人の弛緩や堕落は、それによって構成される社会なるもの、国家なるものも同様に弛緩し堕落する。
まさに、「何だよ、日本」、敢えて云われなくても、その姿で国民は察している。
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