上っ面の道州制や地方分権の争論が華やかだが、善男善女に潜在するであろう良心は他人との調和や制御において強い力のある善なる権力を望んでいる。潜在などと解りづらい表記ではあるが、依頼心や他動的な動きに安住する見方とは別に、またシステム的な分権システムを論ずる前に潜在する心の中に在る「分限」を考えるべきであろうと考えるのである。
よく、後味の悪い反発、批判のような自身の付和雷同を悟るとき、それが政治指導者なら尚更のこと、その対象になるような対象は目の前の官吏や職場の上司、あるいは芸能人などと同様に、一過性の怨嗟、反目、嫉妬など一種、説明の容易ではない自身の内面の患いがその因を成していることがある。
利権の分配や依頼心や安住を昂進させるような人の弱さ、集合の混乱、分離の放埓を考えるとき、どうしても内在する心の分限を、゛教える゛あるいは習慣化することを前提にしないと平準化、普遍性の名目のもとに混乱した社会、つまり混沌した国家を作り出してしまう。
それを防ぐには、正しい権力の使い方や仰ぎ見るような力が必要となる。
国家で云えば宰相(総理大臣)の力量とし至高な道徳心を顕す存在である。
以前にも記した「・・・複雑な要因で構成されている国家の要素は、領土、民族、伝統と精霊の存在である・・」を考える人間の存在である。
極論のようだが、便利だ、文明だ、合理的だとスパイラルのように変遷した歴史を近代だけを切り取っても民族の風情、つまり人心の、゛変化゛と、゛変化しないもの゛あるいは一過性にあるものなどは俯瞰できない。
昨今の人権、平等に言う元々備わっていると謳われているものが、他と接すると軋轢を生むことに、いかに表層理解であったか分かりつつある、つまり潜在する人心との齟齬が大きくなっているようにもみえる。
騒々しい、まとまりの無い、あるいは、゛どうしたら゛と争論する姿は、強く正しい力を現すべきと希求するとき、政治であれば統治力に必須な税と警察の姿に観るべきことがある。それらは公務という建前はあるが、官吏という立場の食い扶持待遇の惰性と、キャリアという分限の矜持の衰えが、正しい強さの表現でなく、手前勝手な既得権者と映っているのではないかという問題である。
それは権力の公平と正義が国民の面前に近い所で行使される権力の有り様の変化であるが、身近な教育でも教師が論議による理解を謳うあまり、悪しき習慣の矯正や制御を元とした調和が欠落し、思惑の自由を考える生徒に対しても率先力が乏しくなり、教室のコントロールがつかなくなっていることもその一つの姿のようだ。
その教育についてだが、校長と教師、学校とモンスターと揶揄されるPTAも、騒々しさ、まとまりの無い学校、どうしたら、といった困惑は免れない。ここでは当世擬似知識人に有りがちな責任転嫁が横行している。システムではない。人間の問題である。
以前、双心(ふたこころ)について語ったことがある。対象に対しての本音や建前ということではなく、自身のみが覚える、あるいは結果として悟る心のことである。それは、面前で突き詰められても言葉を捜してしまうほど戸惑いを覚えることでもある。
対象は登校拒否の高校生を寄宿させて教科を補う塾のお母さん達である。俗に父兄とはいうが、戦後のGHQの勧奨で始まったPTAも、アメリカとは異質の構成と推移をもって現在に至っているが、とくに女性の社会進出や情報交換の場として、あるいは遊興カルチャーの場として揶揄されて、ある意味、健全育成の名分の下、夫からの治外の場とする女性も出てきたと聞く。
唐突にも「お子さんが好きですか・・」と問うた。
巷のケースワーカーや教育関係者はこのようなことは問わないであろう。あるいは問題傾向や原因の羅列など「実利」の無い前段が先ず語られるはずだ。
「問題があるとあなたが困るのですか・・、それともお子さんのことが心配なのですか」
「・・・・・」
「お母さんが困るなら私は解決するすべはない。お子さんのことなら一緒に考えましょう」
「実は私も体験したことがあります。青年期の司法ボランティアのころでしたが、こんなことがありました。やっと願いが叶ってガールフレンドと食事に行こうとした、そのとき青年が相談に訪れました。彼は天涯孤児です。お父さんもお母さんも親戚もありません。不心得で法に触れて施設から退院してきたばかりでした。
悩みました。本当は食事に行きたかった。でも理由を話すにしても今どきの守秘義務ではありませんが深いわけは伝えられず、誤解を招きました。これは決して生真面目やストイックということではなく、それが誰であっても人の信頼に対する相応する応えと自身への、゛試し゛の機会でした。
つまり、゛ヤリタイこと゛と、゛するべきこと゛の問題です。葛藤などという言葉では片付けられない素直な気持ちでした。でも私なりに清々しかった」
「じつは思春期ということを考えたときのことです。春を思う時期とは何時でもあることです。老いも若きにも関係が無くあります。それは結婚をして子供を持ち、仕事や立場があっても自然な心の動きです。それはもう一つの心の姿です。つまり双心の一つです。大人は春の芽を積むことも避けることが出来ますが、童心に振り返るときその芽の育ち具合をそっと想像することが出来ます。それは自身の新しい可能性を想像することですね」
「パチンコ好きなお母さんが大当たりを想像するとき他人の心は入りません。カラオケを歌うときプロの歌手を想像します。そのようなものですが、母親と女性ば同一ですが動く心は違うようです。子供も呼称は学生でも一人の人間の心はお母さんと一緒です」
冒頭の言葉はこのようなことでしたが、あまり父親の存在感は垣間見ることはない
ささやかなPTA男性構成員は会長か監査役で、一昔前は近在の地主、あるいは一人で多くの役職である似非名誉職を獲得したような床の間の石のような人を置き、子供の教育を預かるお上御用宜しく地域でも特別な地位として映っていた。とくに有力者が議員なら選挙協力として女性保護者を手伝いなり票なりのアタマ数として算出提供すれば、晴れて会長候補となりえる地域もあった。
それらは意外と政権党の持分だが、保育園などは野党シンパの乗っ取りなどの不祥事が起きているが、一つの園で五百票と嘯く議員シンパもいた。
いまはお年寄りが集票や時節企業の食い物のようになっているが、子供は遥か以前からそのターゲットになっている。しかも年寄り、子供に関する施策は大義美名のもとに特殊な名誉と地位が提供され、だれでも参加しやすい、つまり反核、平和、人権のスローガン同様に全てが、がぶ飲み理解しやすい善なる行いとして理解させられている。
これらの例は、人の良心の表層であるのは百も承知ではあるが、潜在意識では下世話な事として男性の名誉や地位利得、女性の社会デビューの用となり、家庭や社会での分別のない権利を主張するような雰囲気の陥ったようだ。ひいては付き合いと称して教師や管理者と酒席を設けたり、教室を宴会の場として使うような無感覚の大人世界を子供に指摘されることも出てくる。
PTAだけではなく、社会全体が、゛このくらい゛との風潮で弛緩し始めると政治すら嘲笑や猜疑の対象となり、民主の名の元に自由という放埓が加味されると、その場限り、その日限りの遊惰な無責任状態に陥り、批判することで自己存在をはかなくも認めるような人が多くなり、動物ではないが「群れ」となったとき「国情」として、また一方の潜在する良心では徒労感や茫洋とした困惑が訪れることとなる。
ひとえに、゛横並び ゛の平等感の為せることだが、分別や尊敬、あるいは性癖の成す民情というべきものが制御、自制、良心の呵責という言葉によって覚醒されずに、ただ時流に蠢く群れとして一過性の時空を漂っているように観えるのである。
標題に戻るが、この問題が多くの要因を添加され、かつ教育であれば誰もが生育適齢世代を超えてしまうと忘れ去られ残滓のみが集積される。そのような問題集積のなかで当事者となった世代は自身と別の力の依存なり到来を、いずれ願うようになるだろうとの逆賭が筆者は見て取れるのである。
たとえば7月25日の拙章「明日を深慮して復(ふたた)、王政復考すべし」だが、あの創造力と突破力、そして変化があった明治の19年に天皇という称号を戴いた一人の人間の観察がある。それは教育について現在に起きている問題を当時の環境で推考している。それはシステムや組織、技術の末節論ではなく、人間を独りとあるいは集団の一員としての役割と為すべき修学として指摘している。
ここで天皇制や政治不干渉、当時の国民国家創生時の身分制や人権などを、あえて添加して論ずる向きもあろうが、暫し熟読、再々読して現在の状況と照らし合わせてみたら眼前の人の行なうべき本来の姿と解決策が明確になるのではないだろうかと考えるのである。
そこには、文部省や左右の思想に包まれた各種運動の争論、あるいは教職員組合や教育産業、モンスターと揶揄されている今流日本人の姿などの煩悶する問題の以前に考える本質があることが観えてくるだろう。見えるではなく、観えるである。それは眼前の問題に口舌を駆使することではなく、民族の性癖をも加味して人の修学や習いを大きく俯瞰することでもある。また将来を容易に描くことでもある。
【以下、拙章転載】
ここに教育面において『相』の養成に心を砕き、当時の教育に憂慮を抱いた天皇のエピソードがある。
「聖喩記」 明治天皇の侍従 元田永フが天皇の言葉として記したものである。
「喩(ュ、さとす)」は、諭す、分からせる、ではあるが、「君子、義において喩る」の、ここでは「教育に敏感で疑問を取り出してさとす」と考えたほうが、この場合は理解しやすい。
明治19年11月5日 元田永フ謹記とある。
小生の拙訳だが
11月5日 午前10時 いつものように参台いたしますと、陛下は直接、伝えたい事が
あるとのこと。私は謹んで陛下の御前に進み出る。 陛下は親しく諭すようにお述べに
なった。
「過日(10月29日)帝国大学(現東京大学)の各学科を巡視したが、理科,化学,植物,医
学,法科はますますその成果は上がっているが、人間を育てる基本となる修身の学科は見
当たらなかった。
和漢の学科は修身(人格、識見を自身に養う)を専門として古典講習にあるというが,ど
こにその学科の存在があるのか。
そもそも大学は我が国の教育でも高度な人材を養成する所である。
しかし、いまの設置している学科のみで、人の上に立って政治の要に役立つ人物を教育
できるような姿であろうか。
設置されている理科医学等を学んで卒業したとしても『相』となるべき人材ではない。
現在は維新の功労者が内閣に入り政治を執り行ってはいるが,永久に継続する事はできな
い。 いまは『相』となるべき人材の育成が重要だ。
しかし、現在大学において和漢修身の学科が無いようだが、国学漢儒はかたくなで、狭
いと思われているが、それは、それを学ぶ人間の過ちであって、真理を求めた学問を狭
い範囲に置くのではなく、普偏な学問として広げなければならないと考える。
わたくしは徳大寺侍従長に命じて渡辺学長に問うてみる。
渡辺学学長は人物の養成についてどのように考えているのか。
森(有礼)文部大臣は、師範(教師育成)学校の改正の後、3年経過の後、地方の学校
教育を改良して面目を作るといっているが、中学は改まっても現在の大学の状況では,こ
の中から真性(ほんもの)の人物を育成するには決してできない。君はどのように考え
るか。」
さて、我々はどの様に考えるか・・・
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