志は青雲
次郎長は山本長五郎、幕末任侠の徒。喜之助は戦後の新宿に光を灯した任侠,尾津喜之助。その稼業は異なるが政治が混乱し態をなしていないときに表れた義狭である。
ひとは総称してやくざ(役三)と呼ぶ。いまも全国津々浦々に散見するが当局の御都合で暴力団と命名され、いくら善行を積んでも国民の目線から遮断され隠れた存在となっている。
いくら格好良く名を売るといっても、端から暴力団では絵にならならない。まして、「俺みたいなやくざもんは・・」といわれたら二の句もさせない。せめて「俺たち任侠は・・」と言ってほしいし、それなりを魅せてほしいのは山々だが本人たちも一種の自虐に陥っている。堅気素人とて「どうせ学歴もなく貧乏で・・」といわれたら、どうも話が暗くなる。
土方(土木労務者)とて高学歴の青瓢箪では使い物にならないように、鶴嘴(つるはし)とスコップを器用に使いこなせなければ仕事にもならない。しかもその使いこなした道具は人をあやめる武具にもなる。゛バカと刃物は使いよう゛とは筆者の母の口癖だったが肉体的威力も戦争では前面にかりだされ軍官吏は安全地帯といのが大よその倣いだ。
安岡氏も(正篤)も、真に頭のいいということは暗記力や知識充足だけでなく直観力がいいことだと説くが、その直観力は良質なバーバリズム(野性)としてもともと備わっている。
ならば、机上で数値データーを駆使したり高邁な理屈ではなく、大自然の恩恵である陽の光(熱)風雨(潤い)大地(恵み)大気(循環)などを感知する能力を劣化させないような習慣性や変化の直観を養わなくてはならない。つまり、この手の学問と修得の必要を感ずることが、゛頭のいい゛人間になる早道ということになる。
その点、肉体的衝撃や忍耐を自らすすんで受け、かつ利他(不特定多数の人の社会)に向かう姿は、「己をむなしくする」という武士や僧侶の情緒と同様な薫がする。
清水次郎長こと山本長五郎について
≪ 明治十一年十一月
清水次郎長、五十九歳、網元の伜に生れたが、養子に行った山本屋でグレだし、イカサマ博突のゴロツキから、いつか無宿兇状持の暴れ者となり、力ずく度胸ずくで、張り合い争い合って、やがて街道にも鳴りひびく大親分と成り上った彼も、ご維新前後の変転の中に、幸にも、山岡鉄舟や榎本武場、関口隆吉などという偉物たちの知遇と指導を得て、ようやく正道に立ち帰ろうとつとめたので、他の博徒たちとちがい、後年名を残し、謳われるまでの男になりえた。実に恵まれた。
小柄肥満で、目方は二十三貫もあった。容貌もあの近藤勇に似て、黒い顔の中に大きな造作が、泥でねじこまれ、押しこねられたような、みるからに太々しい、不敵さをたたえ、これなら人の何人もぶった切って生きてきた者とすぐ分る。
しかし、この頃は、鉄舟らの教えを守り、自分から何ごとも人にゆずる身腰になって、着物も粗末な木綿をまとい、それだけはどうしようもない凄みのある目玉。
このころ、明治七年から、富士山麓(富士郡大潟村万野原)に、静岡県令大迫貞清に願って、静岡監獄の兇悪犯や刑人たちを引うけて、数十町歩の開墾をやっていた。子分はもとより、自分も鍬をとって働いた。桑や茶畑を作る一方、清水港に、横浜との蒸気機関船定期航路までひらき、少しでも人のため世のためになり、過去の乱暴者の終りを良く飾ろうと、損得かまわず、何にでも、手を出していた。家の中では、養蚕までやっている打こみ方で、昔の次部長を知る者には、何もかもおどろきである。
そのくせ、子分はいつでも三十人程はゴロゴロしているし、古くからの子分、大政や桶屋の鬼吉や、増川の仙右工門らも、それぞれ縄張をもち子分ももって、近郷近在に居り、声をかければ、三日で、ウソではなく千人のやくざが清水港に勢ぞろいできる実力を、いまだに持っていた。その家内は、二代目お蝶が、先年浪人に斬殺されて、その後に迎えた三代目お蝶が切盛っている。本名お花、元三河国西尾の武士の篠原藤吉の娘で、一度は嫁いでいる。出戻りで、連れ子があるが、学問もあり、勝気で、よくやくざの世界にもなじみ、良き伴侶になっていた≫
【愚 庵】より抜粋 作 久坂総三 編 たからだときお
浜辺に流れついた幕軍の亡きがらを弔ったことで山岡鉄舟の知遇を享け、山岡の家に集まっていた原敬、陸羯南、三遊亭園朝、勝海舟、落合直文など明治傑物たちとの交流があった。
総じて次郎長のような人間は人情家だ。もっといえば童のような純情がある。
鉄舟の臨終に場面を借りてみる。
≪ 英女を呼び、着物を、と云う。運ぶと、首を振った。
英女は、ハッと覚り、退って、再び携え来ったのは、かねて用意の白装束。
英女が、さしだすのを、鉄舟は自ら着して、また、病床に戻ったが、アグラをかいて、煙草を一服した。終ると、禅坐に変り、金剛経一巻を懐中に、左手に念珠、右手に団扇を執り、静かに周り 居並ぶ一同を見廻した。一人ひとり、じっと、静かな微笑で見つめる。
「では、みんな、達者でナ、おれは先へ行く」
耐え切れずに、だれかが泣きだした……が、叱りもせず、ことばもかけず、もう鉄舟は、従容慨然として、微動もせず。
そこへ、勝海舟が来た。
次男の直紀があわてて出むかえる。
「先生っ」泣きそうだった。
海舟は、ズンズン中へ入っていった。
薄眼端然たる坐像の前に、小兵の海舟は立ち、見下して、こう云った。
「山岡さん、どうだね」目をあけ、鉄舟。
「これから行くところです・・・ごきげんよう」
云っただけで、また瞑目……静かな呼吸。
みんな、見守り、石のようになっていた。
いつのまにか、鉄舟の呼吸は、微かに、微かに、長く、長くなって……一同が、気づいた時には、坐亡していた
口辺の微笑は消えず、休は全く崩れない。すすり泣きと共に……驚嘆の感動が、清風の如くひろがった。
午前九時十五分 五十歳。(五十一歳とも)
次郎長は、まに合わなかった。
やっと一番船で、三度笠に手甲脚絆、合羽姿、さすがに廃刀令で、長脇差こそ腰にぶっこまないが、殆んど喧嘩支度にさえみられる、子分百人も引きつれて馳せ参じた光景は、見る人集る者たちの眼をヒンムカせた。
その次郎長は、お英の手をとるや、恥も外聞もなく、ワァと吼えるように泣き、鉄舟の遺骸に抱きついた。
「先生っ、先生ッ、大将、なんで俺をおいていっちまうんだよぉ……!」
お英も、もて余しつつも、また涙だ……
次郎長一家の、キビキビとした、しかし、哀傷深き葬祭の執り仕切りは、人々の目につき、また感銘を与へた……
会葬千人……さらに、その葬送の後には、二百人も東京中の乞食が、泣いて付いていったというのは、奇異、奇観である。
新聞は、「サスガに、化け物屋敷の名に恥じず」と、これを伝えた。≫
これが任侠の徒、次郎長である。
後で記すが最後は次郎長と同じ境遇の尾津喜之助について記してみたい。
じつは筆者が三十そこそこの頃、尾津さんとの縁で新宿の扇風堂という武具骨董品の店を工事させていただいたことがある。多くの職方を引き連れての夜間突貫工事だった。
夜も更けたころ着流しの粋なオジサンが「御苦労さん」と職方に声をかけたきた。
小声で黙って掌に入るくらいなポチ袋を筆者の手に握らせた。大金だった。この様な渡し方は余程の遊び人か、人の気分に障らないことを知っている器量人であることはすぐ解った。
「大変だね」左衿の内側にしつらえた子袋には細身の護身用が差し込んであった。
ただものではないと思ったが、戦後の瓦礫が片付かないころの新宿でマーケット(葦ばりの露店)をつくった関東尾津組の尾津喜之助氏だと知ったのは別枠で来た親方の言葉だった。
愉しく、利口な人だった。たびたび人生経験も浅い若造に近寄ってる。淡い関係だが、たしかに「君子の交わり淡交」とはいうが、仕事の発注人とはときに利交になる。べたべたする女とは違うが、駆け引きは詐交、いっときの関係は熱交、さまざまだが尾津さんとは、探り、上下、面子などない淡交のようだった。もっとも懐古すれば学んだことばかり。それも口からでる武勇伝やお足(金)を語ることもなく、どこか感じさせる背中学のようなものだった。そういえば安岡正篤氏も子息の正明氏には何も教えなかった。それでもどうにか門前の小僧になったと筆者に語っていた。
次郎長と共通していることは、時代の混乱期もあるだろうが御上(政府)が混乱し、経済や治安が脆弱なった社会に率先して行動したことだ。しかも「尽くして欲せず、施して求めず」といった意気地(矜持)が備わっていた。それは貪らないことを心の宝としたことだ。
なにも次郎長や喜之助だけではなく幕末の混乱、明治の創成期には多くの義狭が遺されている。時代を生き、己を活かす、くわえて人を活かすという人情、いや忠恕心があった。
横田尚武氏
その「忠恕の心」だが、昭和の中期、ブラジルに渡った日本人による不毛の大地セラードの開拓も現地に棲む民衆の苦難を救うことがきっかけだった。そして大地に頬ずりし、臭いを嗅ぎ、手にとって舐め、覚悟を決めた。まるで疲弊した現地人のような姿で懸命に土壌改良を重ね、いまは豊饒な大地として穀物輸出の大半を占めている。田中総理はヘリコプターで訪れ、多大な援助を即決している。
しかし、はじめは歓迎された彼らも米系の作為的金融、中国資本の侵入で再び苦しみを味わっている。西欧の入植者は本国からの資金援助があったが、政権の変わった日本政府は彼らを救おうとしなかった。外国資本に遠慮したのである。そして作物は農薬を使いだし輸送は外国資本によってコントロールされている。余談だが、大西洋からパナマ運河を通るが、アンデスにトンネルをつくってペルーから出荷することを計画した人物がいる。
しかし、それは欧米資本にとって死活問題である。政権はつまらぬ嫌疑で倒された。
それは、日系人大統領アルベルト・フジモリだ。フジモリは天皇陛下との会話で「私は勤勉、正直、礼儀、そして母から忍耐を学び、その心で国民の理解を得ています」と。
日本大使館の占拠では自ら防弾チョッキを着て現地指示している剛毅さもある。
いまは大きな監獄に収容者はフジモリのみ、父の訓導を得てはるばる北九州から面会にいった若者がいる。その人物も元暴走族のリ―ダーで、いまはサンパウロ新聞の日本支局長としてブラジル奥地で活躍している日本人を訪ねまわっている。
吉永正義、卓也親子の海を越えた義狭も語り継がれる日本人の情緒だ。
《当ブログで「ブラジル番長・・」を参照》
ブラジル番長 吉永特派員 と麻生太郎氏
フジモリ大統領
再び「忠恕の心」だが、セラードの開拓者の若者たちと天皇陛下に拝謁したときだった。
がやがや騒いでいた二世の若者たちだったが陛下の御入りの時は促されることなく整列した。陛下はおもむろに引率代表の横田尚武にお声をかけた。
「忠恕の心を以て活躍されることを期待します」
後日、横田はその「忠恕」を開くことも少なくなった辞書で調べてみた。
「自分の良心に忠実なこと、他人に対して思いやりの深いこと」
難しいことは解らなかったが、現地の人々の苦難を見過ごせなかった。大地を苛めることなく土を好きになることで恵みを育ててくれた。育てたのは大地であり人間はささやかな手助けをしたのだ。横田は子供心に進駐軍が憎くて下を走るジープに向かって小便を掛けた。先生には怒られたが母は怒らなかった。
ブラジル渡航のとき、奥の仏間の前に座らされた。目の前には母が嫁入りに持ってきた懐刀が置いてあった。
「この刀は防御でも人をあやめるために使うものではない。自分が良心に恥かしいことをしたら此れで自身を突きなさい。もし還ってきたかったら船に乗って大洋の真ん中で飛び込みなさい」
そういって送り出された横田は苦難のなか大富豪になった。そして女遊びだ。
関わった女は大学ノートにつけ、陰毛を貼り付け印象を書いた。ただ、セラードの困窮を観てピタリとやめた。八〇〇人以上だと笑うが,日本でたまに頼まれる講演で話したら女性から苦情がきたと童心のように笑う。「これもあちら(ブラジル)では忠恕なんだ」と軽口も出る。そして大富豪はすっからかんとなった。だか、いまだ眼光は鋭い。何かといえばピストルをぶっ放す現地での体験を物語る真実の姿だろう。
横田さんと呑む酒も、肴が要らない語りがある。愉しい仲間である。
此れも海を越えても通用する任侠の姿である。
尾津さんだが、新宿のマーケットはどこから仕入れたのか物が豊富だった。もちろん不埒な人間が隠匿した軍の物資や盗品もあっただろうが、ともあれニーズがあった。鍋から魚、衣類に野菜に鯛焼き器まであった。買う方も売る方も有り難い市場だった、しかも無理強いすることなく活き活きした場所だった。露天商はテキ屋の領域だが、売り子は引揚者や引き上げ軍人を雇用した。
もちろん警察はもとより行政機関の手続きも正規にとった営業で、かえって戦後第三国人に警察を襲撃されたり占拠された警察にとってはありがたい存在だった。もちろん尾津喜之助は新宿、いや日本のヒーローだった。新聞もはやしたてラジオやテレビにも招かれ、請われて仁義をきって見せたこともあった。法に触れることもなく当局とは、狎れ合いでなく、協力関係も良好だった。いや、善良な彼の力にすり寄ってきたと言ってもいい。
もちろんこの時代は尾津のような義狭のある人物がいなかったら新宿の復興は大きく遅れただろう。物が動き社会が安定しなければ博打も打つ余裕もない。ある意味、社会基盤整備のような作業を尾津が行ったのだ。
当時は占領下、GHQ(占領軍司令部)が日本を支配していた。朝鮮、台湾も戦勝国国民だ。
双方とも直接戦闘はなかったが、併合された異民族として繁栄の経過はともかく、敗戦国になった社会では当然の権利として特権を主張していた。日本の警察は手も足も出なかった。被災した土地、疎開不在な土地は彼らの占有となり、いまでも繁華街の目抜きはその痕跡を多くのこしている。その彼らは駅前マーケットを設営する新橋、渋谷、新宿の土地をめがけて強引な収奪を重ねてきた。もちろん戦道具は短銃、手榴弾、機関銃、などだが、前記したように警察は彼らに占拠されることもあり、無力だった。
巷間、さまざまな記録が著されているが、ここでも尾津はリ―タ―に祭り上げられている。もちろん戦勝国の民衆との争いにはGHQの規制捕縛の危険があったが、尾津の一声で数千人の手勢が集まった。新橋の商店主は炊き出しを申し出た。そして旧軍の機関銃を発射して彼らを追い払った。しかし尾津は一末の危惧があった。
案の定、GHQは日本の民主主義を定着させるために親分子分のような隠れた掟や習慣で機能する組織の取り締まりに動いた。よく、解体は憲法や教育だというが、恣意的に誘われた狭い議論である。かえって国民が争い、調和や連帯をつかさどる家庭、郷村、社会、国家の分離、分断を意図し、自由と民主主義というありもしない現実を理想として謳う彼らの背景にある歴史的意図に巻き込まれたといったもい。
フランス革命も自由と民主を掲げて国家の長(おさ)を断頭台に送った。ロシアは同様なことを、さも新しい主義のように装った人民革命で長である皇帝を抹殺した。
どこでも残るのは右往左往する市民という大衆であり、長が維持した民族の大綱を差別や搾取の元凶として破棄し、社会の複雑な構成を超えて連帯を促す従来の矩(規範、道徳価値)を意味のないものに落とし込んでしまった。新たに出現したものは文章化した規則や、より企みをもつ一群が入り込みやすい普遍的な愛や平和を謳うものだった。
旧来のモノは悪という前提から、郷村の決まりごと固陋とし、上下の関係を差別と置き換え、より曖昧かつ一方では狡猾な管理体制を築いた。それは為政者と民衆をダイレクトに結ぶものではなく、狡知を絞る官吏の出現であり、権力化であった。それは王族の財(この頃は宗教的にも不浄もしくはそれによって利を得ることを避けてきた)を預かる特定の民族によって金融の概念が虚である利子を実利に転換する金貸しが力をもち、巨額の金利によって多くの債権者が奴隷化した。フランスはブドウ畑や城が担保としてとられ、戦争を企画すれば王族に金を貸して新たな支配構造を構築した。彼らがまず行うことは民族の連帯の融解であり大衆の分断だった。
ここで述べるのは、なにも国家を国家なさしめているのは憲法など文章ではなく、かつ金融でもない。要は人びとの融和と連帯であり、それを司る穏やかな掟や習慣だということだ。それは共通の情緒性のもと、欲望をコントロールして分け与える民といえど「公」の意識であり、俗に言う「人のため」という互助の表れでもある。
それを促し、率先して範を垂れる、それが民から自然発生した任侠なのだろう。
なかには不埒な欲張りや、行儀の悪い邪まな人間もいるが、あえて法を盾に取り締まる御上の手を煩わすことなく、郷の矩(掟、道徳習慣)によって制裁したり、訓導する自治が必要になってくる。
とくに作為的に法を駆使して税を取り立てたり、恣意的に罰金を徴収する官吏の跋扈する社会では、暗黙の認知を得る長(おさ)のような任侠が出現したのも必然のことだろう。それは民衆の世界では歓迎され畏敬の対象でもあった。
しかし、それこそ分断され連帯をなくした大衆をつくることを目指す者たちの障害なのだ。大衆は浮浪して、ときに盲動する。御上が大義を掲げれば熱狂して迎え、異なるものを排除する。個の発揮といえば、個人は勝手気ままに行動し発言もする、国際化といえば、異民族を模倣し、普遍的といえば、愛を語り平和を謳い血は混交する。まるで大阪城の堀埋めのような状況だ。
じつは次郎長も喜之助の、そして現在もその気配がする。
それは国内事情だけでなく、治安プレゼンス(宣伝)を通じた国際的イベントの招致や市場開放の環境整備など、よりグランドの解放とその平準化を意図したものだろう。悲惨な歴史だが、不具や精神を病む子供を座敷隔離したり、ライ患者の隔離などは、病巣因果の解消や撲滅を名目として、一方では人目につかない所に置き、曲がりなりにも健常な社会から区別なり、あるいは差別隔離といわれる作為的仕組みつくりなのではないだろうか。
次郎長は新政府の新規範周知、喜之助は民主主義移行への旧習慣との別離など、彼らだからこそ甘んじて随ったが、農地解放政策での郷の長の衰退、相続税制での篤志家の減少、教育改革の教師の労働者教員など、国家の情緒まで融解させてしのったことを考えると、
日本人みずから再興するすべを考えることも必要だろう。
次郎長は鉄舟やら傑物との交流から自らの生きる道を覚醒した。もともと人情家だが時代の先が読めなかった。いやそれでよかった。
混乱期の義人、陰の功労者は明治近代化の西洋と背比べするようにカブレ模倣した成文規範によって、馴染まない部類としてお縄になった。あの時もやくざモンと呼称されその部類は一網打尽だった。それは装いを付けた着物のシミのような扱いだった。民衆は今でいえば更生し、人生を覚醒した次郎長を偲んで講談、浪曲、歌謡曲、映画で次郎長を讃えた。
一方、尾津喜之助はGHQの指示で捕縛された。
理由は民主主義に上下関係のある結社はなじまない、と。
警察も、検察も、占領軍にはからっきしだらしがない。いくら、逮捕したくはない、しかたがない、お世話になって申し訳ない、といっても、監獄に入るのは喜之助である。しかも重罪犯の如く八年の判決だ。有り難かった庶民もそうなると助けようもない。これまた、体裁と御都合で任侠は捕まった。
尾津喜之助氏
ただ、尾津にとっては好都合だった。人生の内観ができよい機会だった。
内観は、生まれて今日までの人生を鎮まりの中、じっくり考えることで、休む間もなかった人生を更新できることだった。監獄は、日々新ただった。(毎日が新鮮だった)
学問の機会もできた。歴史、政治、潤いのある邦楽、俳句、好きな古美術書をひもとくこともあった。よく晴耕雨読とは言うが欣読(悦んで学ぶ)の毎日だった。それは緊迫した現場を踏んだものだからこそ味わえる環境だった。
あの着流しから掌に包んだポチ袋(チップ)の包み方、渡し方、眼の流し方、緩やかな挨拶、そして遠目で視線を送る優しさは、タダものではない、筆者にとっては人物、人格を味わう良機でもあった。まさに筑前の豪傑と称された加藤三之輔翁のいう薫醸の学だった。薫り立つ人格とはこの様な人物のことだろう。
まさに倣うべき任侠だと実感した。
次郎長も尾津も世の転換期に官吏の御都合で貶められた。いや却って庶民から敬愛された。そして語り継がれている。だだ、官吏はいつの世でもだらしない。次郎長は西洋かぶれ、尾津は占領軍、近ごろはやくざより悪辣な金融マフィアの手代の草刈り場として良質な任侠気質まで総称暴力団としてタガをはめられ、これぞ文明社会だと胸を張っている。
外車、ギャンブル、女、に見栄を張り、子分に辛酸を舐めさせているボスもいるが、近ごろでは糖尿病と肝臓疾患で病む者が増えていると聴く。
つい最近でも郷に敬愛された親分が強欲なシマ荒らしにあったとき、近在の堅気衆が集まり「親分は稼業で同じことでも罪は重い、私たちなら素人なので罪は軽い」と親分を護ったという話を聞いた。もちろん炊き出しは近所の商店主やかみさんだ。
このごろは高学歴も多い。同級生が警察官や自衛官というのも普通になった。
いっとき、政治家や経済人は虚悪として糾弾されたが、みな東大法学部。逆に警察、検察、裁判官も東大法学部。いったい国税で運営されている東大はどうなっているのか、かつ、それがさも国家の中枢に巣をつくっていると国民はたまったものではない。
しかも、すべて金がらみだ。加えれば陛下の認証を得る褒章、勲章もお手盛りのように虚像を飾っている。この様に大御心を汚す行為すら恥じない連中が法を駆使する狡知は、最高学歴といわれる者の倣い(慣性)のようになっている。
松下幸之助は渡米の感想として、「弁護士と精神科医が多い国は三流国家だ」と喝破した。
つまり人を信じられなくなり、関係が希薄になるという。人はバラバラで流浪する。正邪も弁護士の腕次第、つまり懐次第なのだ。それがまともな社会なのかという疑問だ。
日本及び日本人もその社会を迎合し、模倣した。そもそも、大御心すらその在るを知らものも少なくなった。法および法を司るものが当てにならない社会は善悪、正邪が混沌として判らなくなる。人々には怨嗟と諦めが充満して自棄になり、野蛮性すら蘇ることもある。
あの中国を統一した秦代のまえ春秋戦国時代もそうだった。そして、多くの侠客が出現した。政府あって人物なし、どこか昨今は似ている。
陸軍若手将校が決起した二月二十六に際し歌われた詩だか、どこか、やりきれない様子は当時と変わらないようだ。参考に抜粋する
昭和維新の歌
泪羅(べきら)の淵(ふち)に波騒(なみさわ)ぎ 巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ 混濁(こんだく)の世に我れ立てば 義憤(ぎふん)に燃えて血潮(ちしお)湧(わ)く
(屈原は世をはかなんで泪羅(べきら)の淵に投身した。われわれは混沌とした世を正すために立ち上がる)
権門上(けんもんかみ)に傲(おご)れども 国(くに)を憂(うれ)うる誠(まこと)なし 財閥(ざいばつ)富(とみ)を誇(ほこ)れども 社稷(しゃしょく)を思(おも)う心(こころ)なし
(為政権力者(政治家、官吏、金融資本家)はその力をおごり、国民を憂うる心なし。財を誇っても国家を思うことなどない)
ああ人(ひと)栄(さか)え国亡(ほろ)ぶ 盲(めしい)たる民世(たみよ)に躍(おど)る 治乱(ちらん)興亡夢(こうぼうゆめ)に似(に)て 世は一局の碁(ご)なりけり
(浮俗の亡者が大手を振り、社会は衰亡する。盲目になった民衆はそれに踊り、歴史の栄枯盛衰は夢の如く、世の中は盤上の遊戯のようになった)
功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢の跡(あと) 消(き)えざるものはただ誠 人生意気に感じては 成否(せいひ)を誰かあげつらう
(名利衣冠はいっときの夢のようだ。誠の心は消え、人生を有意義に行動することに遠慮はいらない)
さてこの例示を以て懐古趣味、右流れとするかは、次の逸話をもって推察願いたい。
近在のことだが、ある稼業人の子息がいる。どのような起縁だったかは忘れたが筆者の催す郷の学びに参加したことがある。そのご街で逢っても挨拶する程度だったが、別縁で稼業人の従者の何人かが訪れてきて、いろいろと話を聞いたことがある。それは更生保護分野の委嘱をうけている筆者だからでもあるが、居心地がよかったらしい。出所後の生計、稼業での悩みなど様々だが、あるとき街なかで行われる縁日について子息に語ったことがある。
「元来、このような人の集まる縁日には色々なところから酔客や若者が集まるが、むかしは地元の稼業人が混乱を納めたりして堅気衆から感謝される立場だった。この様な場所には警察官はなじまない。なかには後輩もいるだろう。時をみて一声かけて戴いたら有り難い」
約束もなかったが、当日は若手の従者を誘って雑踏の中に入り、やんちゃ坊主を注意して回ってくれた。終わりまぢかになっても帰らない遊び盛りの若者に、言葉はきついが「そろそろ帰りなさい」と帰宅を促してくれた。良くしたもので若者たちは反発もなく滞りなく終了した。「お世話様、ありがとう」『いや、自分たちがこうゆうことをしているということを知ってもらえばいいんですょ』暴対法という法ができても、彼らはその仕事の大切さを知っている。今年も誰彼となく率先して参加してくれた。もちろん、更生の相談も兼ねてのことだ。昔はケンカや恐喝などで怖くて近寄れないという母子の嘆きからのことだったが、彼らの参加以来もめ事なくみな安心して楽しんでいる。
最近の話だが、その子息も親の道に入ったという。訪ねてきた刑事も「あの子はとてもいい子だ。補導歴もないし人柄も優しい。稼業を変えられないか、どうか促してくれないか」という。稼業人も「あれ(息子)はこの稼業には合わない。優しすぎる。堅気にもどってほしいんだ」と呟く。
それからしばらくして人のもめ事で法に触れたということがあった。当局が厳しいことと稼業人の実子ということで逮捕拘留され東京拘置所に居?を得たときのこと、旧知の従者が「稼業の人ばかりの面会で参ってしまう、時間があったら面会に行って戴けますか」という。なにぶん篤志面接で地方の刑務所まで行っているが、東京拘置所は始めてである。それから二度ほど訪問したが、彼とは病院面会の如く「顔がむくんでいるぞ,陽に当ったほうがいい。運動もしているか。」差し入れは彼の学力向上を期待して少々難しい本を持っていった。「むずかしいですよー」よき記念品になったことだろう。それよりどうにか堅気の道を促そうとしたが、野暮な気持ちになって言葉を閉ざした記憶がある。
その彼の行動にうなることがあった。いや感心したのだ。
ある知り合いの友人が困って稼業関係に借りたことがあった。額は数百万円、それが間もなく一千万になったという。短期間に数倍になった。要は返せなくなって親の財産に眼を付けられたのだ。その計算理由は稼業人特有のものだが、彼は相談を受けてその行儀の悪さに義憤を感じた。業界の大物である稼業人(親)に相談したが、「やめとけ」という。どうも気が治まらない。
普通だったら組織間の稼ぎに口出すことはもめ事になる恐れもある。この場合は稼業人の言葉は絶対だが、組織間の按配で堅気が苦しめられることを是としたくはなかった。それは自分の良心に照らしても助けなければならないと思った彼は相手の事務所に乗り込んだ。もめれば抗争である。
「堅気に対してあまりにも行儀が悪くありませんか。それはこちらの親分も承知していることですか。」と悠然と切り込んだ。相手は「そうだ、了解している」という。「了解しているのですね。それなら解りました」昔ならこちらの仕事にケチをつけにきたと暴力沙汰になっても仕方のないことだ。稼業人(親)も人の親、それを心配したようだ。その頃、別部屋で様子をうかがっていた責任者は大先輩である稼業人(親)に連絡を入れ、この件は引く(ごわさん)にすると伝えてきた。彼の度胸もそうだが、堅気を援ける気概は恐れるもののない勇気となったのだ。この世界では「解りました」とは了解して引くということと、覚悟を決めましたよ、という意味が含まれている。年期からすれば駆け出しの時期だが、若さの突破力はこの様に使うのだということを覚っている。
後日談もある。その借り手の親がお世話になった少なくない金額を持参して、使ってくださいという。親はその世界の淵も歩くことのない、ごくありふれた善人である。相談を持ちかけたのも友人である。「受け取るわけにはいきません」押し問答があったようだが、彼は受け取らなかった。いまどきの堅気でも「いただけるものは貰え」と口惜しがるが、彼は任侠だった。いや、ごく普通の常識ある日本の青年だった。それも考えようによっては稼業の世界のありように一石を投じた行動であり、かつ稼業人の面目と矜持をいつの間にか親である稼業人から学んでいた。別に教えたわけではないが、親の背中学というものだ。
門田隆将著
「これからは勉強だ。西郷も龍馬も晋作も大学など行ってない。だが、その後の教育は彼らのような人物の出現を閉ざしている。いや、名もいらなければ金にも転ばない人間は始末に悪いのだ。その意味ではその悪になるべきだ。これからは自分の特徴を発見して伸ばす勉強をしよう。法の庇護の届かない人たちや、ヤンごとのない理由で稼業に入った若者を自立できる稼業の世界をつくるべきだ。義理や意気地はそのなかでも活かすことにもなる。視野を広げて新しい世界をみる余裕が欲しい」
身近にも任侠はいる。「俺はやくざだ」という捨てバチで肩をいからすものもいる。次郎長も尾津も生まれながら稼業を求めてきたのではない。総て縁なのだ。人のめぐり合いもそうだ。そして人は転化する。
戊辰の戦いで親とはぐれた会津の天田五郎は車曳きだったが、山岡鉄舟との縁は人と学問の愉しさを知った。無学の五郎は次郎長の養子になり、目の前で繰り広げる大政、小政、石松の姿を漢文で東海遊侠伝として遺した。囚人を引率して富士の開墾をした。そして白刃も抜いて制裁をした。ふたたび鉄舟の促しで京都天竜寺の禅僧になった。貧乏寺を庵にして人生を回顧した。
自分みたいな無学の天涯孤児でも気に留めてくれる人はいる。勉強すれば漢文を修め、和歌も詠めるようになった。任侠無頼の徒になって行きずりの人を援け、そのために喧嘩をしたり、斬ったこともある。そして坊主にも成れた。
どうだろう。願うなら平成の任侠にも希望はある。後に続く若者もいるだろう。魅せてもらいたいものだ、次郎長や喜之助に劣らない人生を・・・。
敬称略
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