津軽弘前貞昌寺 辛亥革命殉難 山田良政の墓
よく“あの人は哲学がある”ということを聞く。
別に官制学歴で哲学を学んだとか、古典をひもといた碩学の言論を指すものではない。 分派、分裂した各学派の混雑した理屈も忌諱するわけではないが、知識人の幼児性にはない簡略な響きがそこにはある。
一方の独占的知識と思われるものが、学域にはない雑学、散学、遊学によって自然にほとばしる哲学的語りを、無理やり分類の箱に整理したり、学派に振り分ける穢利偉人(エリート)がはなはだ多いようです。
世の中の目立つところには人の矜持を論評の材として生計を保つ知識人や、亡人の教えを捧げ抱いて“賢語”を借用するてんぷら学徒や、はたまた有名知識人の謦咳に触れたことをステータスとして怪しげなサークルを取り持つ経(怪)済人が表層を漂っている。
書物もそれほど必要とせず、論拠、論証、実証という言葉に触れることもなれば意味を解釈することもなければ必要とすることもない人達に“哲学がある”という評価が存在する。 要は人物価値が“分かる”か“解らない”かの類いではあるが、私的な場面はともかく不特定多数を考慮したときとか、土壇場の判断ではまるで逆の結果が現れることがある。
泥棒を別名“梁上の君子”、土方を“地球の彫刻家”などと称するのも相当な域に達した言葉である。
逆に知識人であっても野暮でウスノロな人間を称して“行徳のまな板”と笑い飛ばしている。 行徳はどこどこで、まな板は桧が良いなどと真顔で思案するのもおかしいが、年がら年中まな板の上で行徳名産のバカ貝(あおやぎ)の殻むきをしている様相から使われだしたのだろうが、何でも論拠を求めて頭を巡らす手合いには程の良い言葉である。
情報に一喜一憂する人間を流行(はやり)者と嘲笑し、いずれの行政区割りや勝手な職域呼称に属することも意識する事なく、ゆえに哲学という学派があることも解らず、高邁にも語るすべもない。
思想哲学とか行動哲学とかどこでもくっつき易い文字だが、語る対象を装飾し聞くものを納得させる言葉だが張り付け膏薬のようなものだ。
東洋哲学の本場中国の巷では“あれは話”“語る意味がない”と言われるのも意味深い。
ともかく話はわかった、たのむどうにかしてくれ、と訴える不特定多数の善男善女の嘆きと怨嗟は“潤いの哲学”さえ無味乾燥の利学、詐学に変えてしまうだろう。
知識人の変節は哲学そのものの変質である。 理(ことわり)の追求は深遠なるがゆえにえてして物事の本質をあいまいにさせ、ついには枝葉末節に理屈に執着させてしまうことがある。
それゆえ変節が転向として対極の位置を占めたり、その根拠がましい言い訳が理論と称して一派を形成し珍妙なる奇説を論壇の新説として位置付けたりするのがその例である。 とくに異国の古典を魂にしている知識人(読書人、学者)の言動変遷をみるとそのことが良く表れている。
知は誠実でなければならない。知的(インテレクチアル)な誠実(インテグリティ)こそ知識人の唱える哲学の根本要因であり、しかも報酬なき職責を持ち得るべきである。
それは哲学が有るか無いか、あるいはどのような内容かということの大前提には、いかに対象とするものに誠実かどうかを始めに問われなければならない。
知識人は庶民にとって希望の対象であると同時に、物言わぬ怨嗟の根源を形成していることもある。 知識人をどの位置にみるか、どんな期待を添えるかによって見方はさまざまだが、近頃では小説家や経済人、学者、政治家までが知識人を気取って予想屋的情報を宣伝したり、救世主風なアジテーターが軽薄な民情とあいまってもてはやされ、ときには社会の方向性や一過性の解決方法を指し示している。
それは、本来あるべき哲学の役割までもが知識人の占有学として意味のない屁理屈と化してしまうことだ。
蒋さん 毛さん 台北土産
昨今の混迷した状況にひるがえれば、中央に位置する者の言論行動の軽薄さを観るまでもなく、庶民哲学の軽妙洒脱な物言いは知識人の口耳四寸の口舌とは異なる乱世の鎮まりとして価値あるように見える。
碩学の言葉だが、男文化の華麗なまでに華ひらいたとき、それは戦国時代、幕末、大東亜戦争末期にみられる大志大業の目標を抱きながらも一時の静寂や独居のなかにその姿が現れると述べている。
宗教や思想、あるいは文献哲学によって境遇を納得することもあろう。しかし歌詠みや辞世の句に表現しきれない靖献と恐怖の間には、生まれながら存在するという羞悪、是非、辞譲、惻隠といった心が混在し、現世の境遇に放たれてしまった童心回帰を死後の世界に取り戻し安息したいという精神の願望が漂っている。
官制知識で得た言葉を用いた論理、論拠ではなく、肉体的衝撃を目前にして逃避することのできない場面をもって初めて感動感激を通じた魂の継承や、民意に帯同した誠意ある哲学が表現されるはずだ。
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