
昨今は公文書でも改竄隠蔽を想定し、狡猾な知恵を巡らして起文するという。
文は経国の大業にして不朽の盛事也と。
文は民族の歴史綴であり、その時代の盛衰を書き遺す事である。
以下は筆者が30代のころ文京区白山の安岡正篤邸書斎にて、初めての面談にもかかわらず、監修を願った頌徳文である。
文中、笠木良明(満州建国精神的支柱)氏と大川周明氏は一時期運動を共にしていたが、その後、袂を別かった間柄ではある。安岡氏とも関係も深く、三度も読みかえして「直して宜しいですか・・」と丁寧に一部添削され監修して頂いた。
余談だが笠木氏の葬儀に一番先に駆けつけたのは安岡氏である。持参供物は笠木の好きだった月餅であった。
そして「文は上手い下手ではない。また浮俗や時世に迎合するものではない。百年先でも君の至誠が通ずるものでなければならない。そのときの一人によって国は興きるからだ・・・。文というものはそういうものだ。」
文はできるだけ短く、読み音(オン)を大切にするようになったのはそれからだった。
その意味で、ブログ文章は難しい。
易しく記すように努力するが、長々と説明調になってしまうため心根の半分も表現できない。
以下の普段聞き慣れない頌徳文は眺めると難解だが、人の経年表層の変化を織り込んで百年先の人間を逆賭できる。そして何度か読むと経文のようにオンがつっかえなくなる。
そもそも石碑彫(刻す)り後世に偉業を遺す文体として、書面に記すものとは趣を異とする碑文となっている
碑を読んで習う、慣れる、すると何となく人の世が上空の鳥の眼のように時空を超えて俯瞰できるようになる。ある意味では真贋が見えてくるということだろう。
思わぬ縁に誘われた碩学とのオーラルヒストリーは、吾が身を溶け込ませることだと教えてくれた。
【頌 徳 表】
明治維新の大業は吉田松陰先生の指導に因って成就す、蓋し過言に非ず、先生は夙
に国難を憂ひ日夜肝胆を砕き有能なる子弟育成に心血を注げり
憂国の忠魂今尚長州に脹る、村本忠言翁は明治三十年八月九日長州に生れ五十一年
三月三十日長州に鎮す
翁は幼にして憂国の志厚く長じて学び順って忠魂の気概益々旺んなり
秋恰も昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降るや我国古来の道義 美風 荒廃せり翁
は憂慮し決然と起つ
抑々翁は笠木良明先生の知遇を享け爾来国一を憂うる同志相集いて諮ること婁々なリ
時節到来日本再建法案大綱の編纂に当りその発起人に名を列ね国家の発展に貢献す
る処実に少なからず、然も尚翁の志操の遠大を遺さんと欲すれば則ち奮って翁の記
された言辞を以ってその極みとす
曰く 草芥の一声は天下に隆々として鳴り響くと、翁は争いを避けて和を尊び終
始、尽而不欲、施而不受の気節に富み又先人言う所の第宅器物その奇を要せず有れ
ば即ち有るに随って愉しみ無ければ無きに任せて晏如たり
而して然して語らず菰蓄を啓いて袴益することを太だ多し
俊英の志行半ばにして七十八才を以って長ず、児孫等日夜其の遺風を懐い憤んでそ
の遺徳を肝に銘じ競々として其の志操を忘れず、翁の生前を偲び永くその功を敬ひ
謹んでその徳を頑し以って紀念と為す
撰文 寳 田 時 雄
老師 安 岡 正 篤 先生添削監修
孫文撰書 山田良政頌徳碑 弘前貞昌寺
頌 徳 表 ルビ (徳を讃え明らかにする)
明治維新の大業(たいぎょう)は吉田松陰(しょういん)先生の指導に因って(よって)
成就(じょうじゅ)す、蓋し(けだし)過言(かごん)に非(あら)ず、先生は夙(つと)に
国難(こくなん)を憂(うれ)ひ、日夜肝胆(かんたん)を砕き有(くだ)能(のう)なる子
弟(してい)の育成に心血(しんけつ)を注げり(そそ) 憂国(ゆうこく)の忠魂(ちゅ
うこん)、今(いま)尚(なお)長州に脹(みなぎ)る、村本忠(ちゅう)吉(きち)翁(お
う)は明治三十年八月九日長州に生れ 五十一年三月三十日 長州に鎮(ちん)す
翁(おう)は幼(よう)にして憂国(ゆうこく)の志(こころざし)厚く(あつく)、長じて
(ちょうじて)学び順(まなびしたが)って忠魂(ちゅうこん)の気(き)概(がい)益々旺
(さかん)んなり
秋(とき)恰も(あたかも)昭和二十年八月十五日終戦の詔勅(しょうちょく)降るや
(おり)我国古来(こらい)の道義(どうぎ)美風(びふう)荒廃(こうはい)せり 翁は憂
慮(ゆうりょ)し決然(けつぜん)と起つ(た) 抑々(そもそも)翁(おう)は笠(かさ)木
(ぎ)良(りょう)明(めい)先生の知遇(ちぐう)を享け(う)爾来(じらい)国を憂(うれ)
うる同志相(どうしあい)集いて(つど)諮る(はか)こと婁々(しばしば)なリ
時節(じせつ)到来(とうらい)、日本再建法案大綱(たいこう)の編纂(へんさん)に当
り(あた)その発起人(ほっきにん)に名を列ね(つら)、国家の発展に貢献(こうけん)
する処(ところ)実(じつ)に少なからず、然も(しか)尚(なお)、翁(おう)の志操(し
そう)の遠大(えんだい)を遺さん(のこ)と欲すれば(ほっ)則ち(すなわ)嘗て(かつ
て)翁(おう) 記された(しるされた)言辞(げんじ)を以って(も)その極み(きわみ)とす
曰く(いわく) 草莽(そうもう)の一声(いっせい)は天下(てんか)に隆々(りゅうり
ゅう)として鳴り響く(なりひびく)と、翁(おう)は争いを避けて和を尊び(とうと)
終始、尽而(つくして)不欲(ほっせず)、施而不受(ほどこしてうけず)の気(き)節
(せつ)に富み、又先人(せんじん)謂(い)う所の、第宅(だいたく)器物(きぶつ)その
奇(き)を要(よう)せず、有れば(あれば)即ち(すなわち)有る(ある)に随って(した
がって)愉(たの)しみ、無ければ無きに任せて(まかせて)晏如(あんじゅ)たり 而
して(しこうして)黙して(もくして)語らず薀蓄(うんちく)を啓いて(ひらいて)袴益
(ひえき)することを太(はなは)だ多(おお)し 俊英(しゅんえい)の志(し)行(ぎょ
う)半ば(なかば)にして七十八才を以って(もって)長(ちょう)ず、児孫(じそん)等
(ら)、日夜(にちや)其(そ)の遺風(いふう)を懐い(おもい)、慎んで(つつしんで)そ
の遺徳(いとく)を肝(きも)に銘じ(めいじ)、競々(きょうきょう)として其(そ)の志
操(しそう)を忘れず(わすれず)、翁(おう)の生前(せいぜん)を偲び(しのび)永く
(ながく)その功(こう)を敬(うやま)ひ謹んで(つつし)その徳(とく)を頌し(しょう
し)以って(もって)紀念(きねん)とす
昭和五十八年九月吉日
人物になりたいなどと、恥ずかしくも思ってしまいました。
現日本文化に、もしこの様な風習が定着していれば、政治家、官僚はじめ、世の中の人がある意味、個々の人生結末までの(功名心かもしれないが)美徳を求め、今よりは遥かに良くなるだろうなどと考えてしまいました。
自身まずは、頌徳表を書ける様な人物を真贋をもってたくさん見つけ出していきたいと思います。
この頌徳表から、とてもすばらしい御人物と素直に感じとれました。
とても貴重なものを拝見させていただき、ありがとうございました。