粛軍演説で国会を除名された 斉藤隆夫氏
国際主義、平和主義、平等主義
耳障りのよい文字配列だが、そこに自由主義、民主主義、はたまた経済構成を消費資本主義と管理社会、それらをミックスすると現代社会のようになり、茫洋としたなかで目標を描こうとしても、情報という便利魔物にかき回され、確かな答えがうっすらとモザイクを掛けられたような、まさに混沌とした状態が導き出される。
そもそも「主義」なるものをみるに一例がある。
戦前の碩学といわれた大川周明の日記の一章に、「近頃、主義と冠するものが増えたが、往々にして主義業のようなもの・・・」とある。つまり食い扶持を賭して主義を唱えていたのである。
国際の云うところ、ボーダレス。平和が謳われると戦争への道程。平等は特徴を無くし却って不平を生ずる。自由は放埓、民主は分裂、消費は贅沢を生じ、管理は奴隷化の端緒、情報はハナシの充足感。
変わり者の切り口だが、人間を知らずば、そのようになること必然である。
そこには必然を意図する者もいれば、未然に考えるものもいる。
バーバリズムを幾らかでも文明に親しもうと知識を仕入れ、物腰を自制して、妙な成功価値を与えられ文明人を気取っても、現代の多岐にわたる忌まわしい現象は防ぐことは出来ない。却ってバーバリズムに内在する、ナチョラル、ピア、つまり素朴で純粋な人間の在り様が欠け、問題意識もなく危機に鈍重な人間を作り出してしまう。
不謹慎な戯れ話しだが、以前政党の世界について外国人からこんなセリフを聴いたことがある。
社会党は「斜解党」、公明党「混迷党」、共産党「共惨党」、自民党「自眠党」
主義業もそうだが、「党」も旧字には「黨」、黒で表す悪を賞する人々の集まりだと隣国の諺言にある。
「業」それを掌る「党」も似たように衆を恃み(数や勢力を当てにする)特徴を埋没させ、しかも大義と称して主義を唱え、人々を一定の檻に閉じ込め、それが世界だと思考さえ狭くさせている。
我国の情緒を著した本居宣長のいう「もののあわれ」を超え、哀しさと共に「悲哀」すら感ずる文明の姿のようだ。
明治以前はこのような文明観にもとづく「業」も「主義」もなかった。それは「分」を弁えた人たちの気概や規のなかに包まれ、「党」といえば悪党に限っていたと記憶している。たしかに善党はない。
西も東も左も右もと騒がしいが、独り鎮考すると「どのようなことを」「どのような人と」語り合おうかと、ふと心が前に進む。
そういえば安岡正篤氏は
「往々にして世の中を変え、歴史を動かすのは一握りの変人の集いだ・・」と
そして
「それには、無名で有力な人物になることだ。いまは有名だが土壇場では無力なものが多い。また今どきの学問もそのような人間を粗製乱造している」
無名を誇り、異なることを恐れない人物は、名利、財貨の成功を二の次にして己の矜持を高めている。
西郷も
「金も要らぬ、名誉もいらぬ、このような人間は困ったものだが、イザ(危機に際して)となったときに役に立つのはこのような人物だ」と回顧している。
確かに西郷、安岡も、人と異なることを恐れない言を歴史に標している。
冠位褒章歴ナシ、記すべき官制学校歴ナシ、数多の成文あれど商業著作ナシ 世俗無名に座し、と教えられればそれに随い、貪るな、と諭されれば貧を悦こび、枯木寒岩を装いつつも、浮俗に浸ることを一片の学として朋と遊び、時として独り逍遥しつつ清風の至るを悦しみ、齢を重ねている処士なり。 頑迷の誹りあるも、学ぶ処、唯、先人万師の追隋なり
寳田時雄著 「天下為公」自歴より
致知出版社 所沢木鶏倶楽部 依頼講話
https://www.youtube.com/watch?v=UO0lQkpPk94
(財)郷学研修所 安岡正篤記念館 寳田時雄講話
https://www.youtube.com/watch?v=V-KOP9uItA8
郷学研修会 当初の構成
http://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1
売文ではなく有為な方に贈呈
寶田教学随聴記
≪その志、嗣ぐものあらんことを≫
国策研究会元評議委員 村岡聡史
大学における寶田時雄氏の特別講義の内容それ自体について、私が独言(論評)を展開することは極めて難しい。何となれば「屋上屋を架す」の恐れがあるからです。
それゆえ本稿では「何故に寶田時雄という日本人離れした大型の人物が形成され、皆さんの教壇の前に立つに至ったか?」という視点から寶田教学の本質と学問の方法論に就いて随聴記を編んでみました。
実相観入して神髄を極めるところ、寶田教学の本質と学問の方法論は、佐藤一斎(註①)の次の言葉に尽きる。
「学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以って有字の書を読む。故に字に曲し、通透することを得ず。当に心を以って無字の書を読むべし。乃ち洞して自得するところ有いん」
【言志四録】
問題はそこに至った寶田氏自身の学問上、教育上の形成過程にある。要諦は寶田氏が二人の歴史的人物と青年期に邂逅し、その薫陶を享け、これを自家薬籠中のものとして自らの人間形成に活かして現在に至っているということである。
一人は安岡正篤氏であり、その同友たちである。深沈重厚、精義入神たる昭和の碩学であり、戦前戦後にわたって要路にある人々に多くの影響を与えた教育者である。
また終戦の詔勅に朱筆を入れたことは、知る人ぞ知るエピソードでもあり、その学識の深奥は計り知れないものがある。寶田氏の説く、無名有力の奨めと郷学の作興は、官制学にはない人間学として安岡氏から直接、訓導され、その後の活動に顕示されている。
安岡正篤氏
もう一人は、佐藤慎一郎氏である。明朗闊達、正言躬行たる昭和の国士であり、「拓大最後の教官」と評されていた。佐藤氏は辛亥革命を指導した孫文に終始帯同した山田良政、純三郎兄弟の甥に当たる方である。
満州某重大事件で開幕した昭和動乱の渦中、二十数年にわたる大陸生活の中で、山田兄弟同様に日中提携によるアジアの安寧を願い、これに全霊を傾け、献身した人物である。遺憾ながら、風雲に大是を定むることができなかったが、その驚嘆に値する行動の軌跡は、明治が生んだ「日本の快男児」の一人として歴史に刻印されている。
この佐藤氏の精神とその行動学は、永年にわたって行動をともにした寶田氏に継承され、脈々として生き続けている。
佐藤慎一郎氏
斯様にして、寶田氏には二十代の青年期から両巨星【註②】と接し、人物的にも学問的にも多大な影響を受け乍、自己陶冶に努めてきた。つまり、寶田氏にとって両巨星が高等教育の場であったわけです。それは音声と触覚によって自身を供にした修学であった。
無論、寶田氏の学問や人物形成の背景の一つに膨大な読書【註③】による研鑽があっただろうことは想像に難くないが、根本的には両巨星との邂逅を契機にした素行自得にあったと思われる。
そのような来歴によるのか、寶田氏の教学や文章は難解であると感ずる人々が財界から言論界に至る各界に少なからず存在する。このたびの特別講義を通して、皆さんの中にもそう感じる人が居るかもしれない。
然らば、同情を禁じえません。実は私自身もそう感じている一人であるからです。
またそのように映ることは、氏の思考環境を支える座標にある、「無名有力」という浮俗の一般人からすれば頑なな自制心として映る名利に対する恬淡な行動があります。
それは公私を問わず、市井の観察や透徹した歴史観、あるいは異民族との間に横たわる現実の難問においても縦横無尽な応答を可能にしていることです。
それは官制学にない人と自然が活かしあうことによって生ずる直感力が、学術的な論から出される無機質な内容を有機的に転化させる柔軟な発想の基になっています。
氏は有名という現示的欲望は人間そのものを無力にさせると言います。
また「異なること」を恐れてはいけない、とも説いています。
然しながら、「ものは考え様」です。頭の表層で直ぐ理解できるようなコンビニ知識や、インフォメーション(情報誌)の類は、すぐ役立たなくなる、すぐ飽きてくる、応用が利かない、普遍性に乏しいという致命的欠陥を内包している、これは真理であります。
例えば、電車の時刻表、受験の参考書はスグ役立つという点では大変便利だが、これらが百年後に役立つとはどうしても思えない。
翻って寶田市の説く「小学」(註④)と「大学」(註⑤)は、その起源を遡及すれば中国春秋時代に至り、朱熹の大成した「朱子学」(註⑥)も、その基礎に「大学」が鎮座しているわけであります。人間の本性が根本的に変革されない限り、おそらく此の学問は百年後の二十二世紀社会においても十分通用するであろうと予見できます。
1989 北京騒擾の臨場
此処まで読まれて、賢明な皆さんは既にお気づきのことと思います。
要するに、学問とは時代を超え、民族を超え、一般的、普遍的に通用する原理原則や、真理を追究する学為であって、学歴と称する官制学校歴とは似て非なるものである、ということです。
そして、教育にもっとも大切なことは、教育に関わる人自身が知りえた学問成果(原理原則、真理)を、現実に可能な範囲で率先垂範することであります。確かに、他者(生徒、聴衆)への訓導や説教は、必要不可欠な課題ではあるが、第二義的な意味しかも持ち得ない。
言うは易く、行なうは難し。率先垂範は困難な課題ではあるが、教育者足らんと欲するものは、これに努めなければならない。「大学」が人を説く所以は、教育が聖職であるという所以でも在る訳です。
安岡正明講頭 郷学にて
次にごく簡単でありますが、特別講義に出席された皆さんの感想文と、ゲスト二人のスピーチに対する印象を徒然なるままに筆にします。
寶田教学に関する皆さんの感想文【註⑦】は総て精読いたしました。
素朴ではあるが、生き生きとした率直かつ真摯な意思と心情が私の心胆に津々として伝わり、久しぶりに感激を覚えました。
そして、皆さんの感想文を読みながら、私自身も学ぶことが多く、「教えることは学ぶこと」(教学一如)というテーゼ(定立)を改めて実感した次第です。
皆さんありがとう、心より感謝申し上げます。
また、ミスター・サキール・カーンと金沢明造氏のスピーチ、謹聴いたしました。即興とはいえ、短時間でテーマ(学問と教育)に適したトピックスを自己の体験(日本体験と法曹界の堕落)と結びつけ語られ、見事に要諦をスピーチに纏め上げました。私には百年河清を以ってしてもできない技量であり、お二人の手腕には本当に感心しました。
最後に、私の願望を一言述べて結びに代えたいとおもいます。
私は、寶田時雄氏と亜細亜大学の皆さんとの「対話と交流」が、近い将来、再び訪れんことを期待しています。何となれば、私の予感では是が日本人および日本の教育の現状に対して一石を投じることになる、と考えるからです。
確かに寶田氏と皆さんのコミュニケーションは、深刻な問題を抱えた日本の教育という巨大な社会現象に比肩すれば、微小な一石に過ぎないものかもしれない。然しながら、我々は次の佐藤一斎の言葉に鼓舞されて、前進できるのではないでしょうか。
『一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂う勿れ 只、一灯を頼め』
【言志四録】
寶田氏と皆さんとのコミュニケーションが日本の教育における一灯たらん事を、延いては21世紀のアジア世界の万燈たらんことを希求します。
教える人、学ぶ人、その志、大学において嗣ぐものあらんことを。
寳田時雄 大学講話
【註①】
佐藤一斎
江戸後期の儒学者 美濃岩村藩の家老の子
中山竹山に学び、朱子学を主としたが、後に陽明学に傾く。林家の塾長、昌平坂学問所教官。門下に渡辺崋山、佐久間象山など多数の人材を輩出。主著「言志四録」
文献 井上正光全訳注 講談社学術文庫
【註②】
安岡正篤氏と佐藤慎一郎氏の人物や思想について、さらに精細を知りたい人は、寶田氏に問い合わせ願いたし。 ホームページ「郷学研修所」参照
文献 「運命を拓く」安岡正篤著 プレジデント社
「佐藤慎一郎選集」佐藤慎一郎著 国際善隣協会
ブログ「請孫文再来」寶田時雄著
「荻窪酔譚」佐藤氏と寶田氏の師弟酔譚 郷学研修会編
なお両氏は近しい交流関係がる。
【註③】
寶田氏の読書について想像を巡らしていたところ、南宋の黎靖徳が編纂した「朱子語録」の次の言葉を憶い出した。
『人が読書するのは、酒を飲むのに似ている。もしも、酒の好きな人であるなら、一杯飲み干せば、また一杯飲みたくなる。もしも嫌いであるなら、無理して一杯飲むと、もうそれでお終いだ』
多分、寶田氏は高級な美酒(古典の名著、現代の良書)を毎晩飲んでいるのでありましょう。老婆心ではありますが安い酒は身体や精神に悪い。
参考【朱子語類について】
1270年南宋の黎靖徳が朱熹とその門人との問答を部門別に集大成し、朱熹の思想、学問を体系化してた書。全140巻 鎌倉末期に日本に伝来した。
参照「朱子の自然学」 山田慶児著 岩波書店
【註④】小学について
12世紀末に成立。南宋の劉子澄が朱熹の指示で編纂。酒掃、応対、進退などの作法、嘉言、善行を古今の書から抜粋、収録し、中国小学(修身、道徳)の課目を示した書。内外二編 全六巻
【註⑤】大学について
春秋時代(紀元前五世紀)に成立。四書(大学、中庸、論語、孟子)の一つで、元々は五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の一つの礼記の一編であったが、朱子学が重視されて以来、盛行した。最高の学問の理念について、三綱領(明徳、臣民、止至善)と八条目(格物、致知、誠意、誠心、修身、斉家、治国、平天下)を立てて説く。 後代、南宋の朱子学に多くの思想的影響を与えた。
【註⑥】「朱子学について」
南宋の朱熹が春秋以来の「大学」の人間哲学(修己治人)と、北宋以来の理気世界観とに基づいて大成した宇宙論から人間学に至る儒学の壮大な体系。
明代、清代を通じて体系強化のパラダイム(ある時代を特徴付ける思考や認識方法の基礎的枠組み)としての役割を果たし、李氏朝鮮や江戸時代の日本にも多くの影響を及ぼした。
参考
小学、大学および朱子学の歴史的沿革は、大雑把に言えば南宋時代に成立した「小学」の源流は、春秋時代に成立した「大学」の徳目の一つである修身に遡ることができる。また、南宋の朱熹によって大成した「朱子学」も、その骨格となった源流は「大学」である。但し、朱子学の宇宙論は北宋の世界理念と朱熹の創意工夫によるところが大であった。
大学には説かれていないことに要注意。要するに「小学」も「朱子学」も「大学」に遡るのである。「大学」が四書の一つに位置づけられている所以はそこにある。
朱熹と朱子学に関心のある方は次の基本文献を推薦する
「人間の知的財産19 朱子」三浦国雄著 講談社
【註⑦】鳩首作業
学生たちの感想文の整理と検討があった。難解ではあったが真摯なコメントの中にも、抱腹絶倒する場面などに遭遇して疲れを癒す場面もあった。気がつくと終電間際、千葉から来訪した学友高野華門氏は慌てて出立、小生も学ばして頂いた次第。
航空自衛隊 外部幹部講話
寳田氏とは
在学中、司法ボランティアを志向 更生保護体験活動従事
近在の古老より近代史を学び、明治の識者との邂逅を通じて日中史実を学ぶ
安岡正篤・佐藤慎一郎・皇室関係者など国内外の識者らと郷学を通じて人間学を学ぶ。
笠木会「満州事情」佐藤慎一郎「近代日中史」師友会「内外古典」
安倍源基「民生治安」卜部亮吾「皇室関係」安岡正篤「人間学」
督励によって郷学研修会を発足。
TMS・China香港(IBM)副総経理を経て自営に従事。
現、(財)国際平和協会主任研究員 郷学研修会代表世話人 槇の会
sunwen@river.ocn.ne.jp
主な講話抜粋
(財)郷学研修所・松下政経塾・大学・専門学校・警視庁・地方郷学塾
三菱グループ筑波幹部研修 致知出版木鶏会 航空自衛隊目黒幹部学校
北部方面航空警戒管制団(三沢基地) など
講話趣旨「一人でも少なしといえず、千人でも多しといえず」真摯に学ぶ者あれば対価経費は要なし。
誓詞 「他と異なることを恐れない自己の立命」
このような気概と忠恕心をもった人物が存在する意義、それは政治権力や財の所有多寡にはない長(オサ)のような存在でもあろう。
明治天皇は在任中に10万部に届こうとする和歌を詠んでいる
勅語とは異なり、真情が表れている。なかには国民をおもう御心や、重臣、官吏、教育者に諭すような詠み歌がある。これを別位置の客観性と見る向きもあろうが、なかなか届くことのない境地である。
詠み歌は国民には直接届くことのないことだが、為政者を越えて繋がる太い綱がある。
あの被災地の歴訪も多くの為政者が訪れたが、陛下のなす自然の動きと言葉に多くの国民は感動した。そして選良といわれる為政者の言の葉と比べたりもした。
歌会始でも御心を詠まれ、皇族もそれに倣った。
中学校でも和歌の授業が行なわれ、多くの生徒が和歌に心模様を託している。
ここでは、明治天皇の和歌を掲載させて戴き、遺すこと、繋ぐこと、事象の見方、そして現代に比して考えてみたい。
簡訳と羅線は筆者の拙意
「詠み歌」
言の葉の花の色こそかはりけれ 同じ心のたねと聞けども
わが国の情緒や感性の根は同じだというが、言の葉の使い方で詠み歌はさまざまな心を表している
「処世」
世の中はたかきいやしきほどほどに 身をつくすこそつとめなりけり
世の中は縁の作用によって高いとか低いとかのいうが、それぞれが適材適所(特徴)を発見して怠惰なく生活を営むことが幸せに導く方途だとおもう
「塵除」
つもりては払ふがかたくなりぬべし ちりばかりなることとおもへど
小さな問題でも放置すると積もり、解決さえできない大きな残滓となる。為政者もそのことを深く考えなければならない
人を観る、人間を活かす、この「観人則」が衰えると法の運用が偏り、人間の尊厳さえ毀損するようになる。そのような堕した慣性がはびこると民は施政者に倣い共に衰退する。これは精神の塵であり、その兆候を見逃さず除くことが経国の要諦である
「教育」
いさをある人を教へのおやにして おほしたてなむやまとなでし子
歴史上の賢人や勇者の英知を教育に活用して、それらの人格に倣うことは子供にとって有益な学びである
目標とする人を敬い、人格を倣い、感動と感激を通じて魂の継承を学びという「人間学」
「学処」
いまはとて学びの道に怠るな ゆるしのふみを得たるわらべは
たとえ学び舎の卒業証書を授与されても安心せず、本来の学問を怠らず立派な人間になるように留意すべき
「机上の浄」
よりそはん暇はなくとも文机の 上には塵をすゑずもあらなん
たとえ家業、事業で多忙でも大切な学びの机は清掃して学びの準備を怠らないように
「家庭の訓」
たらちねの庭のをしへはせばけれど 広き世にたつもとゐとはなれ
家庭には家訓や歴史も善き習慣がある。その教えを将来につなげ、立身の基礎にしなければならない
「情操」
ともすればかき濁りけり山水の 澄せばすます人の心を
往々にして自然の恵みである山水も汚れ濁ることがある。人の心も純に澄んでいる時は美しい善性をもっている
数値評価で表れる経済や軍事力だが、民族の善性を護ることを深層の国力という
「慎み」抑制
思ふことおもふがままになれりとも 身をつつしまんことを忘るな
たとえ思い通りにならないことがあっても、平常心を以って心身を慎まなくてはならない
東電の停電の際、暖房を消して生活していた今上天皇を想起する
「人材」
山の奥しまの果てまでたづねみむ 世に知られざる人もありやと
山奥の郷村にも無名だが世に有力な賢人がいる。往々にしてそのような人材が斬新な智慧と鎮まりを涵養している。そのような無名有力な人材を捜し求め、世に活かすことが肝要なことだ
人格を何ら代表しない附属性価値(地位、名誉、財力、学校歴)が人物選定の具になったのでは有効な人材は探すことはできない。
「忠恕の心」
あつしともいはれざりけりにえかへる 水田に立てる賎をおもへば
極暑のなか、津々浦々で懸命に勤労する国民のことを思うと、吾が身の暑さなど考えることでもない
昭和天皇も侍従が「今年は涼しくて・・」と呟くと、『東北は冷害で大変だぞ』と叱責
秋山真之氏
このままでいい、いや変えなくては、との様々な世俗の評を観る時、直すべき対象を吾が身に振り返るときがある。
ものを書き、ものを云ってみたところで、その技量の乏しさの為か余計に滞留するものが滲み出ることがある。それは衣服を伝って表面に染み出るように、云い難い匂いを漂わせている。
若い頃、よく古老から「問題意識を持ちなさい」と言われた。
また、それを素朴で純粋に観察する為に「無名かつ有力に」と付け加えられた。
力を抜くことでもあろう。
近頃は懐中の厚みや、食い扶持となる釜の蓋を開け加減を横目で見ながら、自分にとっての人生の仕事の住処について譬えられる、蟹の甲羅に合った穴探しに没頭している。
掘ったと思えば狭く、あるいはユルイ、下手な穴掘りでもあるが、身を休めるつもりは無い。気は阿修羅だが、お人好しの気弱で、お節介。
その裏腹に可笑しくなるほど気をモミ、ときには病むときがある。
ただ、世の中便利なもので、じっとしても数多の刺激が降り注いでくる。固陋なる古典書物の紹介から、色事のお誘いまで、余ほどシッカリしなければ、いつの間にか自身を茫洋の淵に追いやる。これも終いには面倒なことに無常感を背負い、あの頃の世間知らずを懐かしみ、童心にあったようなバーバリズムにある素心への願望、はたまた胎内回帰の如く心音を聞き風に薫りを求めるようになる。
竜馬、晋作の詩情にもあるものだが、自身の五臓六腑をぶちまけても自らの邪神を祓い、「純」に「空」に希求したものは、歴史にあって芥子粒のような存在に一寸の魂の存在だろう。それは「たかだか」「でも」にみる逡巡を払い確信に向かうスパイラル循環のようなものだ。
ただ非凡なのは、そのスパイラルに回転する循環リレーには「縦軸」の存在が不可欠と認め、その「維」の改新を自身の生き方にトレースしていることである。
先ずは己を知り、己に問う作業であり、日本を問うたのである。
そういえば、竜馬の新婚旅行もオツなものだが、児玉の女郎買い、博文の異様なまでの女色、真之の昼行灯、それぞれ事績とは思いもよらぬ潤いがあった。
陽は陰に問い、陰は陽を問い、互いに惹きあい、その別なるを知る。
筆者の評点に誤解なきように望むが、何となく疑問の要因が解けかかってきたようだ。
孤立無援、国会で粛軍演説を行なった 斉藤隆夫
タダでくれるものには、意味がある。それが乗数効果という国民を相手にした投資なのだ
出したら回収することは銀行も同じ手法だ。以前、別枠信用保証があった。中小商工業者は競って借りた。借りた途端、金融機関は今までの負債と相殺した。数兆円の資金は真水といわれる使える資金ではなくなった。しかも金融機関は日銀に還流したが政府保障貸出金より多くの資金が日銀の金庫に回収された。エサを撒いて大魚を釣ったのだ。流動資金は枯渇してサラ金、商工ローンへ追いやることになった。この政策で助かったのは金融機関だ。だが貸借バランスは良くなったが、国債は買わされ、これもエサになった。
天邪鬼の屁理屈だが、金をくれると云われた時の人間の姿を考えてみた。
まずは、民主の時代の政府と国民の関係におかしいと思わないか。公僕が余ったからと主人が小遣いを貰うのか・・・
政治家はこんな芸当はできない。狡猾な官吏の意図を測れず徳政に似たエサをそそのかされたのだろう。なにしろ⒈⒉年でいなくなる総理だ。
標題でが・・・
政府与党の色々な事情があろうが、江戸の徳政令とは似ても似つかぬ給付金という貰い下げ金をアリガトウと言って手を差し出せるか・・・
巷間、売文の輩や伴食議員の仔細な争論はさておき、減税ならぬ給付という名の現金を貰うのか、いや君は貰うのか訊いてみたい。
なかには、旅行だの、デジカメ、あるいは借金返し、子供の小使いなど貰う前から思案している人も多いが、一方ではその手合いとは相容れない気分と、国家に対する怨嗟が少なからず巻き起こる。
「くれるものなら貰っておく」とは云うが、それが政策失敗や官吏の不作為のツケだとしても、よくよく考えると、゛ツケ回し゛であることがよく分かる。また、大多数の国民は分かっていても、「くれるものは貰っておく」算段は付いているし、期待もしている。そんな時のためなのか、民主・自由・平等・人権・国民の権利などが幅を利かし、政治家は手柄話をする。
財産家、知識人といわれる労働教員、お巡りさんに医者、生涯賃金を企図する狡猾官吏、もちろん善男善女も手を出す。勝手にくれるものは貰っておく、と。だが、数年後には新税で強制的に財布から金が流れ出す。振込先が判れば預金の捕捉もある。、
明治の言論人 陸羯南
政治家、いや宰相たらん人物の修養は自ずと異なるものだ。生半可な言辞や先見性の無い行動は、近頃とみに多くなった世襲紛いの偏った血脈によって助長されている。
一口に世襲といっても、単なる既得権継承もあれば、「道」に表現される免許や伝承、あるいは秘伝もある。政治家、警察官、教員の縁故採用の食い扶持確保は秘伝ならず、秘匿すべき既得権益の保護の為にある狭い範囲の「掟」である。
初代 川路大警視の顕彰像
それは彼等に限ったことではなく、ヤクザや夜盗盗賊にも厳然とした陋規というべき掟があり、しかも習慣化され、ことに公務に関わる組織においては公金搾取、横領などが名目を変え組織内規として現存し、今以て政治権力を以てしても是正されずにある。
彼等も一応に「税金を払っている国民である」というが、欧米ではタックスイーターとして一方の納税者であるタックスペイアーとは厳しく色分けされている。
実は今回の給付金はイーターとペイアーを問わず支払われるのである。
ならば、以前も宗教政党の立案に政府が支払った似寄りの金券があったが、分捕ってくれた分け前には謝金代わりの政治献金や選挙の労力提供によって成り立っている忌まわしい政治慣習からすれば、磨りガラスの向こうの意味合いは大方の国民が知るところだろう。
さて、それでも手を差し出して貰うのか・・・?
世情が混沌として目標がオボロゲになったとき、多くの賢者は数多の歴史事象に記載されている賢人や事績に懐かしい日本人の原像を辿ろうとするが、それらに遺っている正邪の行く末や、現象を支える時間経過と賢者、偉人の事績の集積を鑑みるとき、彼らだったらどうしただろうか。
自ら官位を降下してまで戦勝に導いた 児玉源太郎
あるいは父や母が、゛もらえる゛と嬉々とした笑顔を見せたとき、その気持ちを忖度したとしても己は世界の異なる問題として許容できるだろうか。
どうも、天邪鬼のような偏屈するのが倣いになったようだが、窮屈かといえば、そうでもない。やせ我慢ではない。
幸いにも手を差し出す先師、先輩の縁を知らなかったことが、これほど大衆流動と思える機会に際立った観察ができたことだ。
地位、名誉、学校歴、財力を唯一の成功価値とする多くの人々が、「さもしく」「卑しく」手を出す姿を想像は、少なくとも今まではしなかった。必要な方々には差し上げるべきだろう。だがさして意味もなく、労働対価でもない下げ降し金ゆえ、「譲る」「分ける」「断る」など様々な子供の自己判断の善導にも良い機会と捉えることもできるだろう。
意味もなく他人から貰う金の意味をだ。
付け加えるが、とくに先人先師が説いた「観人則」がある。
それは人も国家も行く末が鮮明に観えるということだ
清瀬一郎氏 パル博士 岸信介氏
パル博士と日本人の関係では、箱根のパル・下中記念館という名もあるとおり平凡社創業の下中弥三郎氏が特筆される存在でもある。
また「パル判事の日本無罪論」を著し、晩年は南京虐殺の欺瞞を英書にして配布した田中正明氏は松井岩根大将の側近として、かつ下中氏の傍にいてパル・下中厚誼を観てきた市井の証言者でもある。
筆者はふとした縁で下中氏の子息で平凡社の相談役であった邦彦氏との好誼によって多くのエピソードを遺しかつ願望を託されている。
よく業界では、゛社会に為すべき仕事゛をする独特な社風をもつ平凡社ではあが、邦彦氏から託された下中弥三郎辞典にある膨大かつ有意な事跡を観ると、なぜパル博士との交流がこれほど深甚になったのかを下中氏の人物像をとおして現代に語りかけてくれるものがある。
このほどベンガルのパル博士のご子息から、ある意志を託された人物が来訪した。
その人物は、「日本に来るときお父さんから『日本に行ったらパルさんのことを研究しなさい』と言われました。それは東京裁判のことだけではなく、法律家としてのパルさんの見識をアジアの意志として世界の法律に携わる方々に知らせたい」と。
また友人が二十数万字に及ぶ英文の判決文を打ち込み、インターネット配信しようと作業を完了した矢先でもあった。
何れも偏狭に日本擁護するものではなく、アジア特有の過ぎ去った事象への諦観と、それを意志に醸成して世界平和に供するといった下中弥三郎の世界連邦提唱運動にも共鳴するものである。
多摩の下中家墓地に礼して想起することは、嘱望されたことの言辞を辿りつつも、その普遍な意志には途切れることのない「道」が存在することを教えてくれた。
銀座 某風呂屋にて
もし、あの太平洋戦争がアジア民族解放のための聖戦と考えるなら・・・・
いまでも国内に膨大な面積を占領(領土を占める)している米軍基地の諸問題に難儀している日本を中国が開放名目として企てたら・・・
稚拙な問答だが、たしかに日本は独立国の態をなしていないと考える人間もいるだろう。
少しは考える人間は、行動を起す前に理屈の立つことを考える。
あなたがやったことなら,オレもいいだろうと・・・
あなたはアジア解放を旗印に進軍した。それに倣ってオレも解放軍とした。
要は資源と人間の支配だ。オレは金で白人の棄てた世界に傀儡政権をつくる。
ところで、精神が確かな日本人は、「聖戦の美名に隠れ・・」と議会で唱えたが、国民の代表と地位も名誉も保全された議員の多くは大勢に迎合して野次を飛ばして除名した。
だが、次は最高得票で議会に舞い戻った。ときの陸軍大臣に「腹を切れ」と議会で発言した剛毅な議会人もいた。
どうも日本風の議会制民主主義という代物は、議会では罵詈雑言を浴びせられる実直な議員を除名したが、最高得票で再び議会に送り出すような多くの賛辞を無視するらしい。
今どきの飼い馴らされたような、さもしい欲望の交差点と成り果てた議会とは似たようなものだが、日夜の空襲、戦地での惨禍、食料困窮にさらされた、もの言わぬ国民の願いは、賢い議員の発声さえ除名という代償を与えるような、日本人になり下がっていた。
その心根でアジア解放をいくら説いても、純真な彼らの多くは見抜いていただろう。
五族協和のスローガンも庶民の世界では善なるエピソードは数多有ったが、ソ連侵攻の報がきたとき、まだ数百キロ離れた新京では高級官吏、軍官僚は電話線まで切断し、しかも居留民を置き去りにして夜陰にまぎれ内地に遁走している。
新京の日本人会長平山某は日本人婦女子を集めて占領軍に提供している。当時の日本人婦女子の貞操観念は異人に汚されたわが身を恥と考え、そのまま異郷の地に残った人も少なくない。
ベンガルの子供たち
戦後のレジーム脱却はアジアも歓迎するだろうと考えがちだが、危険性を感ずるのはあながち見当はずれでもない。それは除名された議員や満州にとり残された居留民ではない。現地の戦闘を現状追認し、守るべき居留民を棄てた明治以降の速成エリートの立身出世に問題意識もなく流された指導的立場とそれに追従した日本人が信用できないのだ。
それは、日本やアジア圏のみならず、全世界の政治形態にたずさわる為政者や周辺関係者にも表れる背徳でもある。
そのことは中華民国(台湾)の国立近代史研究所の黄自進研究員(慶応大学博士課程)の言にもある。中国は日本軍閥の行為を糾弾するが、日本国内では歴史検証のもと責任者の処罰を行わず、戦勝国に任せている。そして当初はそれを受容しながら、現在では日本としての検証が対外的反証となっているようだ。
それは日本国民が考えることだが、その組織構成に伴う責任所在の明確化などは過去の歴史考証のみならず、現在、日本の政策や災害対応において歴史反復しなければならないことを考えるべきだろう。
震災後、欧米のジャーナリストの検証では「作業員の技能や精神は責任感とともに世界で有数だが、会社の責任者や担当政治家は最も低い評価がある。どうして日本のエリート教育はこのように間違ってしまったのか・・」というのが彼らの総意だった。
戦後レジュ―ムの脱却は対米国の戦後体制ではない。
日本人の変容と正邪を含む民癖を慎重に分別し、一方の邪まな内面を観察して省き更新することが、明治の近代化速成に取り残され、あるいは忌避された部分の検証になるだろう。要はその部分に在る日本人の覚醒だ。
そのためには、教育、民生、治安、の政治が行う部分と、自ら(己)を治める自治の地域(郷)再興を分別して取り組まなくてはならない。つまり、「書き連ねた法律の条文」と「掟や習慣性」の分別だ。また、それぞれが境際を峻別して補い合う関係をつくることが大切なことだ。また、その前提として「人情は国法より重し」にある潜在する善なる情緒性の作興も含まれるだろう。
余談だが、いま問題となっている慰安婦云々だが、慰安婦とは優しい言葉だ。
当時は多くの日本人女性が外地に渡った。現地軍司令官などは妾を帯同している者もいた。
いつも其ればかり興味を示すので部下から叱責され、なかには殴り殺された総司令官もいたが、もちろん病死扱いだ。残された机の引き出しには女の写真が幾枚もあった。
戦後、外地で行方不明になったあの参謀もその折檻のような暴行は止めることはなかったという。
不埒な上官も女と喰い物に強欲だと突撃の際に後ろから友軍に撃たれることもあった。憎悪の感情は世間と変わらない。
ある島ではお国のためと、出征送りまではなかったが、率先して慰安婦として外地に赴いた女性もいるが、当時は島民からは剛毅な女性と称えられたりもした。
よく女は「身を落として春をひさぐ」というが、男は「身を崩してやくざになった」といわれたことがあった。いまはそれらの人たちが否応なしに連行されたといわれているが、現代において置き換えれば、ひどい話であろう。
だが、外地占領を追うようにして料理屋や芸者斡旋のために商売を始めた商人もいる。たしかに芸人や置き屋という職種は今なら知らず当時は素人の手を出す商いではなかった。
それでなくても身を売る商いは、地方の困窮身売りとは言うが、口減らしで長男以外は郷から放逐されたように、多くは都会に出てきたことによる供給があったからだろう。
金貸しの証文でも小作人(男)や作物では担保にならず、まして返済財源もなく、働き手の子供を商人の手伝いとして年期を定め預けていた。いくら売られたといっても総てが春をひさいだわけではない。また連れていくほうも悪徳だけとは限らない。要は金が介在すると人身売買のように見えるが、西欧の奴隷売買とは大きく異なる。
当時は郷の名家でも行儀見習いで子息を預けていた。男は書生や丁稚、女は女中、多くは分別の付く社会人として成長して大人物になったものもいる。つまり、思春期を過ぎれば親子間の関係ではなじまない教育もある。だから社会の親代わり、烏帽子親といわれる仕組みがあった。
手元に置くことを固執すると往々にして人物観、あるいはその峻別意識が狂うことがある。得てして一過性の愛欲や地位や財力、学歴といった変化が激しい附属性価値で選別する夫婦関係はよく破綻するが、公位に就く立場の戸惑いは社会や国家まで価値錯交に陥れることがある。
侠客はやくざと呼ばれ、人生行路の選択を可哀そうだというのは他人の言葉だ。似て非なるものだが、「これがしたくてやくざになった」というのが大半で、身を崩したとみるのは他人の言葉だ。彼らにとっては、男を売る、格好いい、と思う風潮もあった
いま、若い女性が学費や遊興、あるいは趣味のためにか、当時でいえば春を売る仕事に就いている。もちろん短期アルバイトか興味もあるが、彼女たちに身を落とすとか、崩したとは気分は毛頭ない。だだ、教育費が高くて仕送りが間に合わない、たまには人並みにオシャレをしてみたいという理由だが、ここでは供給には事欠かないくらい志望者がいる。
なかには探究心と好奇心でその世界を覗き見ることもあるようだ。老齢な紳士とコンビニで飲料を買い、腕を組んで足取り軽くホテルに入る盛り場の光景も不思議観もなくなった。
どうも日本だけではないようだ。
あの消費者金融の新法ができて過払金までもどるようになった我が国だが、数年前に北海道で韓国の被害者を援ける団体と交流会に参加した友人の話である。
韓国の貸金業の金利は49%,それでもあまりにも酷いので下げたが、以前は66%が法定上限金利だった。その借用書の特記には払えない場合は子女を担保とする項目があるという。どんな高学歴であろうが、あの名門梨花女子大であろうが担保は外さない。
有名芸能人の性的接待で自殺者も出る社会なのか、はたまた女子は蔑まれているのか、行く先は同じ結末をみる。たとえ同族に頼み込んでも66や49%では返済できるはずもなく、多くの被害者が出ている、と当時の状況をつたえ、なかには売春婦として海外に出て行く女性も多く、統計では世界的にも韓国女性の売春婦の割合はつねに高いレベルにあるという。
総生産の指数にはなじまないが、最近の調査では年二兆円余、GDP5%という記事もある。しかも海外に輸出、いや転出して稼ぐ女性は世界一だともいう。
日本でも在日一世のころは母と娘は台所、夫は居室で食事をとっていた。その一世も長男ではなく次男三男で、女性と同様に郷里では口減らしのために外地転出は普通だった。
我が国も苦しいときは都会の働き手として年期奉公もあったが、性を商いとする場所に入る率は高くはなかった。それは余程の事情などというものではなく、職種選択としてカフェの女給、酌婦、芸子が憧れでもあり、裏事情はともかく他人との比較価値に拘り易い女性にとっては外見の装いが大事だったようだ。運よく普通生活をする側からすれば、堕落と切り捨てられそうだが、嘲る側も近ごろでは好奇心ゆえか、淫靡な秘めた行動として不倫が盛んな時節柄である。
男とて江戸のころは都市建設の流れとして、武家屋敷と商家、長屋の職人の構成ではどうしても女性は少なく、お下がりが多かった。武家の腰元、商家の女中など、もしやのお手付きでも、「俺の女房は何々家のお下がりよ」「あの大店の旦那の妾よ」などと、嫁に巡り合った喜びで自慢吹聴していたくらいに、あっけらかんとしていた。
もちろん、性も謳歌していたのだろう色事の文化が流行り、地方では、゛夜ばい゛が公然と行われていた。夜ばいは男が忍び込むだけでなく、先ずは中年女性が手ほどきをすることもある伝承ごとでもある。たとえ子供ができて、父親が判明しなくても縁者や郷で育てたおおらかさと、働き手の必要性があった。
逆に処女性を厳しくする向きもあるが、男の童貞はその厳しさとは別のものだった。いわんや娼婦も心と身体は別物だ。それは現代女性の酒宴で語られる異性体験とは似て非なる職業婦人のせめてもの矜持なのだろう。
色事は、隠しごと、秘めごと、というが、色と食と金の欲望は揃わなくては意味がない。しかし色事だけは、その職種も蔑まれているのが現状だ。
いっそ、慰安婦と総称するのではなく、労賃を貰う売春婦、男と同じように国内でやんごとなき事情があり、喰えなくなって一旗揚げようと海外へ飛び出す男と同様に、売春技能を生職として認知したらどうだろうか。
韓国では売春婦が待遇改善で白昼に繁華街で大挙してデモをするようだが(マスクをかけて)、ことのほか近代化された肉体労働職種でもある。占領地の米国の調査では、行動は自由、恋愛も自由、所得は日本兵士の10倍もある女性もいた。なかには兵士と結婚する女性もいた、という。
彼女たちは、みな身を落として、売られて、嫌な仕事なのだろうか。そうならば待遇改善より治安当局に自由の保全を訴えたらいいはずだ。別に正業といわれる仕事なら不満はあろうが探せばあるはず。なぜその仕事に留まっているのか尋ねることも必要だろう。
男であれば、やくざに尋ねることも必要だろう。いくら資金を遣い更生を援助するといっても、彼らなりの所属の自由があろう。あるいは法の庇護のもとに身を置かず無法の自由を謳歌する者もいるだろう。もちろん道徳に照らして、現行法に照らして誤っていれば堅気も稼業も区別はない。
法(矩)の下の平等だからだ。彼らなりの狭い範囲の掟や習慣、あえて言えば文化に棲むことが、形式的、外形的にもよくないのなら、それはあまりにも許容力のない四角四面の社会ではないだろうか。畢竟、それは堅気にも住みづらい世の中だ。
裏金のために領収書を書かされ、唯々諾々として生涯賃金安定のために辛い思いをする職業もある。あるいは人並みといわれ、借金ローンで家や車を買うことが普通とされ、人生選択の自由すら謳歌できなくなって借り物の幸せに戸惑う大衆もいる。
今は変質したが盗み、強姦、薬物は彼らにとっては禁忌で愚かと排除された。意地やメンツで法に触れれば刑罰を逃げ隠れせず受容した。
いま、堅気や稼業を問わず流行っているのが覚せい剤だ。戦後間もなくは薬局でヒロポンを売っていたが、切れると水を打つ者もいた。荼毘にふせば骨はボロボロで採骨は箸ではなく小さなスコップでなければすくえなかった。当時は疲労回復か徹夜の勉学に重宝されたが、男女の性交にも用いた。眠くなく長続きする、中国のアヘン窟も桃源郷への誘いだった。
常習性は本人も縁者にとっても困ることだが、見つかれば刑務所だとなれば余計に秘匿せざるをえない。だから刑務所の出入りが忙しくなるものも出る。元々、世間の話も効かないためか、本人の更生意欲しか当てにはならない。小心と好奇心が常習性になったものには強制力が必要だが。世間にはそんな場所も人もいない。だから刑務所なのだろう。
津軽の秋
侠稼業にも厳しい親分がいる。いまでも間違いを起せばゴルフクラブが折れるほど折檻するが、親分の元から離れることはない。もちろん覚せい剤は破門だが、この世界での破門は出入り禁止とどこも拾ってくれないため、彼らにとっては死活問題だ。
こんな稼業人もいる。子分が堅気になりたいという。理由は生活保護を受給するためだという。警察に脱会を届け、警察は所属組織に責任者である親分に脱会認証(印)をもらうが、この親分は印を押さないという。
親分が言うには「だいたい世間に迷惑をかけて、生活が苦しいからと堅気の人が汗水働いて納めた税金から、自分の生活が苦しいからとやくざを辞めて生活保護費をもらうなどという料簡(りょうけん、狭い考え)は許せない。それでも警察は印を押せというが、親の孝行をしたいとか、迷惑かけた世間に恩返ししたいなら赤飯を炊いて送り出してやるが、それでも押せという警察の了見がわからない」
親分は半端な気持ちが許せないという。せっかく縁があって来たからには、いい加減な気持ちで世間に出しては堅気衆に相済まない。所属する若い者にも示しがつかない。
こんな心配もしている。東北の刑務所に長期刑で入っている幹部のことだ。
「このご時世に出てきても七十過ぎで、一人前の動きはできないだろう。かといって組織に戻っても彼自身にも無理が出る。堅気になる気があるなら、いろいろ考えてやりたい。あとは、当局がどう見るかだ」
この親分は「おれたちヤクザは・・・」という。
筆者は、言霊(ことだま)は、切なさや、やるせなさ、からは生まれないと応え、
せめて「おれたち任侠は・・・」と語るように勧めている。
誰でも不幸で貧乏に産まれたくはない。ましてヤクザや売春婦になろうと生れついたものはいない。縁は親や友人や環境が運んでくる。屁理屈だが世間に認知されるには税金を払うことだが、彼らは罰金か拘留刑罰だ。
以前、税務大学の洒脱な校長は高学歴税吏の卵に、「泥棒と売春婦から税をとるには、また必要経費」と、設問した。
「売春婦はコンドームと布団に枕、宣伝はチラシがある」
「泥棒は脅し凶器の刃物、黒装束、逃走用車、電話がある」
税金のうずもれた徴収について設問されると世間知らずの官吏は頭をひねった。
校長は「税金は取れない。刑法犯なので罰金収納が適当」
それでも法の埒外に身を置く彼らや彼女にも倣うことはある。
それは、その位置から見える社会だ。
それは差別感や疎外感ではない、ねたみや嫉妬ではない。
存在を自覚する、つまり己を知ることの好位置にいる、ときに独悦だ。
時代環境で収益の増減はあるが、その位置にとどまる堅気から見た不思議感は、ときに、興味や好奇さえ覚えるのも筆者だけではないはずだ。
それは、己は何者かを明確に教えられることもあるからだろう
後藤新平 児玉源太郎
寶田時雄 著 「天下為公」より
◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ
津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を頼まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
山田と孫文
☆りんごの原木
来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。
「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ」
◆後藤新平に採用された純三郎
その後藤には純三郎も縁がある。大陸へ行って満鉄に入りたいと考えた折り、伯父九郎にその事情をはなして後藤に縁をつないでもらおうと思い面会にいったことについて後藤という人間についてこう言っている。
「後藤という人物は誰々の紹介などというとなおさら採用などしない。それより目的と意志
と完遂する勇気を見せることだ」
純三郎が面接に行くと九郎伯父さんが言った通りの人物だった。寡黙な良政とは異なり、応答辞令の長けた純三郎が面接採用後に伯父との関係を伝えると、後藤は生涯、師と仰いだ菊地九郎との回顧を懐かしみ、その甥純三郎との縁の感激に浸っていた。
良政の後をうけ革命に挺身する純三郎は、自身の身分である満州鉄道株式会社の社員として業務履行の妨げになると上司に上申したところ
「満鉄の社員は何人いる。その中に満鉄のために働く者も大勢いる。国のために働く者もい
るだろう。しかし、日支善隣友好のため、ひいてはアジアの安定のため行動しているのは何
人いる。満鉄のことなど気にすることなく一生懸命やりなさい」
純三郎はそのあと、給料が増額されたのに驚いた。後藤の器量が委ねた大きな希望の意味に背筋が凍りつくような感動を覚えたことは言うまでもない。孫文が日本人を語るとき、つねにその後藤を懐かしみ、後藤に真の日本人の姿を認めた心情が山田の口から語られる。
《ドジョウは目が泳ぎ、溝(ドブ)に潜るのか》
ことさら目くじらを立てることではないが・・・・
以前、日中友好交渉の訪中の際、周総理から論語の一章を田中総理が貰ってきたことがある。その内容について当ブログで紹介したが、揮毫されていた文は「言必信 行必果」で、まさに実行力を謳われた田中総理に適した内容だった。
内包されている意味は『守って実行しなさいよ』という事だ。
問題は、そのあとに続く章だ。「硜々然として小人なるかな」(小石のような小者)という章が前の色紙の語と一つになって意味となる。孔子に弟子が質問した逸話である。
弟子が問う
「言うことが信用できて、行うことに必ず結果が出る、このような人物は?」
孔子が応えて
「それでも一等な人物ではない。せいぜい小石の様な小者だ」
「ならば、どのような人物が・」
「君主の命を受けて他国に遣わされ、主に辱めを受けないような人物、つまり義のある人物だ」今どきの主(ヌシ)とは日本および日本人だ。
まさに外交交渉の前提となる人物の教養だが、世俗でさえ締まりのない面妖、だらしない装い、怠惰に映る動体は、戦時の最高指揮官としても憐れさは拭えない。それは応答辞令にも現れる。国会で官僚の福話術や二人羽織の無い世界での応答機略だが、世俗では縦横無尽、臨機応変する感性(センス)、逆は野暮だ。
昭和の女傑が嘆いたことがある。「外遊送迎で女房と手を繋いでタラップを昇り降りまで西洋かぶれすることは似合わない、かえってみっともない。女房はあらかじめ搭乗するか、一段でも後に並んだほうが絵になるのに、いつ頃からだろうね・・」
周恩来総理の色紙の件だが、その後の国会では、公明党のある議員が宮沢総理にその色紙を譬えに質問した。
「あの周総理の色紙に書かれているような立派な・・・」と周恩来のような宰相を見倣ったらとの皮肉であった。宮沢氏は掛け軸の漢詩をスラスラ読解する教養人である。
筆者は早速質問者の議員に連絡、「議事録は残るだろうが、認識の是正なくして議員は務まらない」と勉学を促した。ついでの逸話だが、その党の委員長が訪中した際、歴史上多くの惨劇のあった万里の長城で、よりによって万歳を唱えたことがある。見識や感性の問題ではない、その威容に感嘆するもよし、戦火を交えた歴史が残置された場所なら鎮魂黙祷もあろう。その条約締結前の露払いの訪中なら尚更のこと、国家のお遣いとしては寂しい姿だった。
もっとも話題にもならなかった重大なことがある
調印の前に毛主席に接見している。(交渉の相手は両国の総理、首相、主席は元首、日本は天皇がカウンターパートとなる)「喧嘩は終わりましたか・・・」と毛は切り出した。
そのとき有り難く頂戴したのは、毛沢東が熟慮して選んだ歴史書「楚辞」である。
このなかに端午の節句でなじみ深い屈原の逸話がある。世をはかなんで汨羅(ベキラ)の淵に入水自殺した屈原だが、民衆は魚に食われてはいけないと粽(チマキ)を作って池に投げ入れた。それが端午の節句のチマキである。
なぜ屈原は世をはかなんだのか
春秋戦国の末期、大国となった楚は繁栄した。
しかしその繁栄は堕落と怠惰に陥った。とくに官吏の奢り、貴族の贅沢は極まり、世の中は財貨にまみれた。それを戒めたのが屈原である。
毛は資本主義の行きつくところ、あるいは金権政治の終末を「楚辞」を贈ることで戒めている。あるいは逆らうと屈原のようになると、暗に恫喝したともとれる。
しかし、周の色紙も、毛の楚辞も、ある意味では外交上の戯れであり、面子潰しのようなもので、粋な教養人なら絶妙な応答が利いた場面だ。
屈原に戻るが・・
もはや食い扶持の身分となった官吏、そして困窮し世をはかなんで自殺する民は毎年三万人。いや白書ではそうだが、変死、不審死、として認定されるなかで、行き倒れ、衰弱死、身元不明はその数倍となる。
つまり十年間で百万人はいるはず。ちなみに都内近郊でも毎日のように人身事故で複数の交通機関が止まる。なかには事故死として認定される犠牲者もいるだろう。それでも三万人・? 酷いのは、殺人被害者だ。相当な数に上るだろう。
これを以てしても、人は嘆き、儚くなるのは当然だ。
楚の統治でもこのようなことはなかった。
しかも、文明国、GDP第三位、最も治安のよい国、と自称している国である。
「田園まさに荒れなんとす・・」と帰去来の辞にある。
しかし、日本人は帰るところがない。外にも出られないような軟弱になった。
だだ、衰弱の末路なのか共食いが始まっている。
あの時もそうだった。
汨羅の淵は波騒いでいる。
屈原は人に押されたのではない。自身で入水した。
石破君 君は権門に棲み付く身分ではない。あくまで民の救い主でなければならない。
佐藤栄作氏は事あるごとに陛下に拝謁した。そして国を知り民に悟った。
陛下は悦んで民の代表者たる君の清言を迎えるはずだ。
そして真の勇気を涵養することと、国家の将来を独り鎮考することを課せられる
それが宰相というものだ
桂林の子供たち
弟子(役人)が孔子に尋ねています
新たな「まち造り」の根本的要諦は・・?
「外の人、来たる。内の人,説こぶ(よろこぶ)」
2008年の伴氏の章ですが、今と変わりませんね
萬晩報主宰 伴 武澄 (共同通信経済部,現高知市議)
昨年来考えていることは、日本の物価水準が世界的に安くなっているのではないかということでした。
日本経済新聞の新年企画は「YEN」から始まりました。 アジアの人たちが日本で買い物天国を楽しむさ風景はまさに20年前の金満ニッポン人が欧米で繰り返したビヘイビアでした。
日本の物価が高い、人件費が高いといっていた時代はとうの昔に終わっていたのです。47ニュースの編集で頻繁に目にする地方紙の記事はアジアからの観光客誘致です。正月にも山形新聞は蔵王での韓国からのスキー客誘致の話題がトップでした。
日本の半分以上の地方空港には韓国の大韓航空やアシアナ航空の機体が並んでいます。
不思議なのはそこにJALやANAのマークが少ないことです。
国境を海で閉ざされた国民の習性でしょうか、日本の国際化は日本人が外国に出向くことでしかありませんでした。日本に外国を招くことは日本人の国際化には ほとんどなかったのです。いまやアジアの国々から100万人単位の観光客がやってきています。それも年々二けたペースで増え続けています。
台湾緋桜
中国人などは昨年3000万人もの海外渡航者がいたという話です。すでに日本の海外渡航者を上回っています。たぶん世界有数の人数だと思います。その中国人を日本に迎えないで、何が観光立国なのか。そう考えざるを得ないのです。
年頭に買い物をしたヨドバシカメラでは、中国語、韓国語だけでなく、ドイツ語、フランス語、スペイン語などでも店内放送をしていました。20年近く前、新宿の百貨店で韓国語や中国語放送を始めるというニュースを取材したことがあります。隔世の感があります。
姉が勤務する高知県のある大学では大学院生の3分の2が外国人でその半分が中国人だということです。その大学では中国人学生なしではもはや経営が成り立たないのです。姉の仕事は中国を始めアジアの大学との提携関係を強化して学生を高知に"誘致"することなのです。
秋に何回か訪れた群馬県大泉町では日系ブラジル人によるマイホームブームが始まっていました。日系ブラジル人たちは出稼ぎから定住に切り替えつつあるので す。この町では住民の一割以上が外国人、つまり日系ブラジル人になっています。イギリスやドイツ、フランスなどと同じ水準になっているということです。役 場で聞いた話では「少し前まではゴミの捨て方などを指導していたが、今では自治会活動などに積極的に参加している」ということなのです。
一時期、オランダ村、ドイツ村、デンマーク村などテーマパークが各地で生まれました。異国情緒を国内に持ち込んで国内の観光客を誘致しようと考えたのです が、多くが失敗に終わっています。逆に本当に外国人たちが日本の各地に住み込むようになる。そんなことは考えられないのか。町づくりに外国人の発想を導入 すればおもしろいことになるかもしれない。そんな初夢を描いています。
室蘭で中華街をつくる構想が浮上しています。実はある中国企業が熱心にそのプロジェクトを推進しているのです。
青森県弘前市 子供議会(中学生)
猫も杓子も「世の中は民主主義だから・・」とうそぶく。
それを有効成さしめるのは議会制民主主義の要員を選ぶ選挙だという。
近ごろは国民も選挙にはお付き合い程度の感覚しかなくなっている。
それに連れて議院内閣制である行政府と立法を専らとする議員の関係が混在し、その整理なのか,専制への導きなのか、内閣官房の力が増大している。
つまり、官吏の集合体と化し、形式的になった政府の発する規制、扶養、が、これまた委任事務を扱う出先の自治体の作業を通じて、政府と国民の関係が密になり、その選挙を通じて選ばれた議員の権能が、とみに衰えているようになった。
それは連帯を希薄にして個別化の進んだ国民個々と内閣が直結して,慣らされた群行選挙によって選任した中間監視組織でもある議会の衰退でもある。
むかしは陸軍、いまは官僚と揶揄されるような現在の実態政府の形態は、゛選挙は民主の根幹 ゛と、ときに無知蒙昧にも言葉だけの人権、平等、民主、自由を大言する大衆をいまだに混迷の囲いに閉じ込めている。
もとより、専制によって人々を収斂(恣意的に集合)するには、美辞麗句がある。選挙で謳うあの大義であり名分である。住みやすい、安心、豊かさ、行政官吏も利便と効率で追従する。現実に手玉に取られポチになった食い扶持議員は、無責任な官吏の失態や細々としたミスや恣意的作為などの議会の質問追求に、まるで隠し屏風にようになって行政官吏の擁護に窮している。まるで寄席の福話術か二人羽織のように巧みな演技をする。 答弁の脚本だけではなく、質問まで役人任せだ。
めでたく政府側に位置すると言語障害、思考狭窄になったかのように、選挙の票の騙取につかった大義は消えうせる。とくに行政改革、無駄のない政治、などは無かったかのような態度だ。これも内閣を司り官吏の住処である省庁の代弁者となった官房の管理と監視である。
つまり内閣官房と国民の直結関係であり、民主平等を掲げ遊惰に生活を営む国民との変質した民主の姿であろう。どうだろうか、この直結した関係は専制を通り越して独裁主義になりつつある前兆ではないだろうか。
上からの下ろす道はあっても、間接要員(議員)を通じた下からの道は理屈形式では整っているようで道はことのほか狭い。
とくにその風潮は、小泉氏が国民に直接唱えた郵政選挙のワンフレーズに、嬉々として投票所に足を運んだ国民大衆の群行と、その群集心理を効果的に利用した為政者の狡知なのではないだろうか。よく陣笠いわれる議員だが、国民の選任するのは腹話術のように大義を連呼し、闇雲に突撃する陣笠の就職運動にも観えなくもない。
つまり、これが民主主義のシステムに組み込まれた伝統的な間接選挙の要員の姿なのだ。これが、いまは用を成していないのだ。
瓦版屋(マスコミ)も政治記者の総理との会食が頻繁に催されている。
総じて為政者のポチに成り下がり、なかには博打場の開設や世界運動会の便宜を請う瓦版屋もいる。ここでも第四権力の有効性を衰亡させている。
いくら平等主義でもこの関係は無くてはならない相互関係だ
独裁者は思い込みと過度の恐怖心が逆な効用を誘引する。
かといって、独裁者自身も過去の歴史が示すように機関の構成員であり、一員でしかない。
民主の前提は人間の尊厳を継続することにある。尊厳とは真の自由の発見と自他の厳存を認め合う連帯を己の任務とすることから始まるが、その秤の均衡はいかに熱狂と偏見による欲望をコントロールができるかどうか、それが民主の成立前提である。
その個々の民が思索と観照を衰えさせ、種の継続要因である神と精霊の思想を無用なものとして、財貨の欲望に突き進み、善なる欲望すら退化させて他と競い争う姿は、より前記した政府との直接関係をより依頼性の強いものとして、政府は平等観念を無謬性にまで高め、より人々の制御膜を希薄にさせて刺激過敏な条件反射に応ずる享楽なり遊惰を注入している。
人々は高邁な政治には無関心となり、ひたすら群行群止を繰り返して、しまいに疲弊する。
享楽は無駄と簡易利便であり、遊惰は清規(成文法)に拘泥して易きに流れる国の方向だ。
民主は人心が微かになり、政治が易きに流れると自ずと全体主義独裁に陥る。選良の有効性を無くし中間的制御がなくなると政府と国民の直接関係が深くなり、我が国の場合は特に内閣官房を支える姿なき官吏の自浄なり改正がない限り、容易に独裁に進む傾向がある。
軍、軍官吏の暴走も議会の形骸化にあった。
他国だが、韓国の経済は財閥主導で中小企業は弱小だ。中国は官製公司が幅を利かせ、民は国家への帰属もなく財貨の欲望に邁進している。だだ、濁水に生きることを習性としている民族は滅びることもなく、他の清水に交じっても躍動はさらに増している。
韓国は財閥でさえ国際金融資本のコントロール下におかれて逼塞している。
彼らには伝統的に中間的緩衝が乏しい。民族の性癖なのだろう中央政府の直接関係、つまり専制に慣れた人々である。だから解放したりすると混乱する。ゆえに民主の価値観や欲望はなく一党独裁でなければ収斂しないのだ。
国家より天と地の間に棲むという天下思想のもと、守ってくれなくても邪魔さえしなければと考える為政者との関係がある。
ここではどのような主義が全世界の異なる文化を持った人々に普遍性を持つものだとは限定しない。宗教や独特な規範、独裁、自由、民主、社会、共和、いろいろ呼称はあるがそれが混沌を維持する妙なのだからだ。
だだ我が国をみれば、民情と制度、生業、つまり業となっている教師、官吏、宗教家の歴史的変遷をみると、政治家、官吏の突き詰めた選択肢が標準や管理を、普遍性、無謬性に置き換えられたとき、国民との中央政府の関係において独裁的方向に進みやすい前提があることに気が付かなくてはならない。
それは大権を持った当時の天皇でさえ煩悶した状況であり、いつの間にか、どうして、との疑問が熱狂した群行に遮られた、つまり大人しく、涵養で、連帯心と調和する習性なり掟を涵養した民族でもそうなった不思議さでもある。
そうなると頭を当てるか、冷水を掛けられなければ分からなかった民族である。なかには敵の力を利用してその暗雲の根である陸軍に鉄槌を下してもらおうとする企図もあったのだろう。しかし、ことは国賊的企図である。
歴史は隠蔽されるべきことも存在する証左だ。
他民族の混在は強制的収斂、統一的専制しかない 国家の弱体は他国の侵入を招く
一方は同志友愛と金融による統治だ
最近は前記した小泉選挙だ。田中真紀子議員の漫談アジ演説、小泉の政策ならぬ米国からの年次要望書にある郵便業務の透明化と解放を「開放」と「改革」にしたワンフレーズ「良いか、悪いか」がある。
慎重もしくは反対する候補者をうむも云わせず国民の熱狂と偏見を煽り抹殺する。この手法こそ独善的手法なのだ。また、それが可能になった民情なのだ。
多くの国民は喝采し、中間的緩衝層である国会の議員諸氏まで黙らせた。食い扶持安定職の就職担保なのだ。ここにも独裁の要因土壌がある
我が国は独裁が容易なのだという証左だ。また、遊惰、放埓、平等に飼い慣らされた国民を扇動し、勤勉、正直、礼儀、忍耐が国民の徳性だった頃の実直精勤した官吏や疑似権力者である、宗教家、知識人、教育者、経済人を覚醒するには、ときに善なる独裁の誘引を願う国民の心に残置されている。
もちろん第四権力や他国の、似て非なる思想主義を借用する政党は反対するだろうが、陛下の被災地巡察慰問に感動する国民の存在するうちに、一時の善なる権力行使も多くの国民の歓迎することでもあろう。
つまるところ、為政者の信頼にかかっている。多くの独裁者は国民から熱狂で迎えられた。
畏敬とか偉大は文章上の装飾文字だ。国民は簡便な善悪の区別と憧れが人を歓迎する。ときに連帯からの疎外や排除の恐怖もあるが、自由と裏腹の孤独感は新たな収斂と帰属意識を生ずる。
本来は宗教家や瓦版屋が助力するものだが、効を成さない現在は中央政府の扶養にすがるしかない。ただ、欲望の際限が亡くなった大衆は、その裏腹に苦しみの共有には従順とする習性もある。とくに迎合心と好奇心が豊富な国民性は多くの為政者にその妙手を提供してきた。
上記は、独裁は近いし、人々はすぐ慣らされると考える。
誰が言い始めたのか、独裁は悪で民主主義は善だと。
大衆が選んだ総理は震災地では罵倒されたが、陛下が膝を折れば感涙する。総理が企業から五億円を受領し、瓦版屋と談合しようが、議員や官吏が放埓になって国政は荒れても、騒ぐのは第四権力と揶揄されるマスコミの売文の輩や言論貴族だが、直ぐに一過性の好奇となる。とこかで、安逸な生活を自覚しているか、国がなくなることなど心配していない。
あの時は王政復古だった。権力が糜爛して有効性を無くした時、倒したのは利害得失に敏感な無頼の武士だが、だから西郷は「こんな国にするつもりはなかった」と嘆いたが、復古した威の存在の変わらぬ座標に望みを懸けた。
考えは西洋の直線的滅亡のハルマゲドンではなく、東洋はスパイラルに時空を循環する輪廻感覚が政治観にあった。西郷のみならず無学な民衆とて当然の如く熟知している。
「もうそろそろ終わりだ」「このままで済むはずはない」「そんなものだ」渦中に飛び込むオッチョコチョイもいるか、世の中はそのように移っていくことを言葉に出さなくても知っている。
そんなつもりの諦観じみた考察だが、いつの間にかそのような政体になることは分る。
論拠や論証、合理的説明や体系化した組立と数値選別の徒は騒ぐが、そんな庶民の直観が堆積している下座の観察は、深層の国力として君たちの立つ処を支えていることも忘れないでほしいものだ。
数多の主義も人心が微かになり、堕落、弛緩したら別の統治方法を選択するものだ
だだ、旧来の既得権、つまり欲得の放棄がなければ消滅を待つしかない
「亡国は、亡国の後にその亡国を知る」たしかに歴史は鑑のようなものだ。
今どきの若者は・・と、いつも世代循環でいわれることだが、企業もコンプライアンスという自縛装置がないころは他社の成功例を自社に当てはめて是正なり更新を試みることがあった。しかも生産性向上を意図した労働の組織構成やシステムにキャッチフレーズを付けて本業とは別にシステムコンサルタントの依頼に応えていた。
トヨタには「5S」があった。数字と英文字はトヨタの洒落だが、サ行ではじまる五つの日本語である。その大意は、整理、清掃、習慣などだが、解りやすい本意は「気が利かない」「だらしない」「周りを考えない」そのような人たちが行う作業は不良品も多く、生産効率も悪く、連携が乏しい、ということだ。
実はトヨタもそうだった。ただ、周囲の評判は生産と販売の独立した並立関係と、幾らか合理的と思われるトヨタ式オートメーション、車種の多様化と売上数値の効率的関係がホドよくまとまっているように見えた。しかし、それだからこそ逆賭する人物がいた。
その人物は西洋の合理的分類や考証、論理づけとは異なる教養があった。それは国柄のなかにごく普通にあった様態だった。
加え、その人物には、目標、使命感、俯瞰性というゼネラリストでしかできないマネージメント・プロデューサーのような思考力と、鉄鋼、造船から自動車産業に移った経営者の国家観があった。そして日本人の性癖、資質を再考して、より良質な部分を伸ばそうとする意志があった。また、糜爛した中央から離れた地方企業の質を社風として誇りさえもてる自信を養い、むやみな競争や外装形式を避け、異なることを恐れない孤高の経営を志向した。何れ流れはこちらに向かうという先見である。
※「逆賭」将来起きることを予見して、現在に行うべきことする。
蒋介石の施政下中華民国台湾でも新生活運動があった
蒋介石、の息子緯国の提案した整風運動だが、彼は国民党が大陸で共産党に敗れた原因は軍事力ではなく、父親の周囲の歴史的慣習にある高官官吏の腐敗にあると考え、国を挙げた整風刷新を考えた運動だ。整風とは腐敗堕落した国民党施政に怨嗟を抱き、ときとして怠惰になりがちな国民の気分を刷新する意図があった。
それは国の維(センターライン、存立基盤)を正し、戦後台湾に渡ってきた国民党を主とする外省人と日本施政下を経験した内省人の融和を求めたものだが、権力者の性癖は一様には変わらなかった。しかし、その政策は時節の折々に想起させる歴史の倣いとして、現政権においても民生安定のための先人の遺策として活かされている。あの八田与一氏の貢献によって豊饒の大地に換えた灌漑ダムへの恩顧を奉る式典の恒例化も、内外省を問わず実利と歴史体験の共有として、日本と中華民国台湾という政体を超えて官民の運動となっている
トヨタも維を正すことを5Sに懸けた。そこまでとは思う社員もいるだろうが、゛そもそもトヨタとは゛にかける堤唱の本意は歴史を俯瞰した整風運動として大きな効果を上げた。それは高々数値で評価を与える生産性が、人の考え方や行動の実(じつ)を観る経営者の先見性と覚悟を試す行動でもあった。
だだ、標題に「5Sプラス3」と記したのは、いくら推考を重ねたものでも経営者から発せられた提唱は時が経てば5Sにある良き習慣性が、゛馴れ゛となって、善き理解の共有が興すであろう、着実、勤勉、自主の精神が意識の熱を失い、数値成果の果実を内実ではなく形式にこだわるようになってきた。
一時、大企業病という妙な病が流行った。
何のことはない、よく怠惰になった官吏に表れる四つの患いである。
これは国家の患いだが、多くの政治抗争や収支のアンバランスなどはそれを要因としている。つまり6・3・3・4の官制の学校歴マニュアルにある整理探究の習慣的思考回路の梗塞が人間の我欲によって起される病である。
※ 四つの患い「四患」旬悦 「偽・私・放・奢」 本来は「真正・公意・自制・倹約」
梗塞は血管の劣化と部分の詰まりだが、整体でいえば経絡の歪みである。これを組織や人間に当てはめれば、面子,意地、形式拘泥となり、デストロビュータ―の火花が弱くなり、またタイミングが狂い不完全燃焼に陥るようになる。
従業員の声が届かなくなり、声も小さくなる。そして放埒、つまり弛緩する。
人が弛緩すれば組織は緩み、経営者の指示も偏った理解を招くようになってしまう。
エンジニアはその仕組みは解かっているが、コンピューター制御、つまりコンプライアンスと数値追及による組織の自縛のように、ただ時節の要求や流行り情報に惑わされて自己決断ができなくなってくる。ただ魔物に沿うだけで覇気が乏しくなる。
弱気な店主にはコソ泥も言いがかりをつける青い目もやってくる。
じつは本田にもいえることだが、宗一郎と喜一郎の本意と躍動が理解不能になっている。なかには不埒な食い扶持に堕す社員が出てくる。流行りの白アリだ。ただトヨタの救いは回帰するものがあった。あの当時の夢のコンセプト(内実)を教えてくれる車の製造と、貫く力のあるトヨタの維(太綱)の「威力」が遺されていた。
あの5Sという、アジアの光明と謳われた時の日本人が、普遍の倣いとして継承した善き習慣性を現代に新たなものとして顕示した精神の継続できうる人物が、トヨタのどこかに鎮まりを以て存在し、しかもそれを有効なものとして活かす人材がいた。それがトヨタの更新を可能にしたのだ。そして経営の神髄を継承する紐帯を支えるために敢えて糜爛した中央財界を忌避する気概と異なることを恐れない意志が継続している限りトヨタは再び興るだろう。そして海外においてはホドを学んで身の丈を知った。
残念ながら本田は宗一郎氏が技術者だった。技術は一子相伝ではない事を熟知した創業者は縁者を経営から排除した。綺麗なことに思えたし格好良かった。
だた、社員が取り付く島である綱の縒りがゆるくなり、分化した細い綱が簾(すだれ)のようになってしまった。風通しはよいが、フランスの市民革命で皇帝という長(おさ)を倒し、市民だけで落ち着きもなく、まとまりのない議論を繰り返す社会にみる人間の姿を学ぶ姿勢、つまりアカデミックな論証法では、人の群れの集約を司る長(おさ)や、艦隊行動にたとえられる旗艦の遅速を操る司令の存在理由が、拙速な組織マニュアルやコンプライアンスを操るコンサルタントの餌食になって、その社の存在理由さえ見失っている。
本田宗一郎は部品を整理し無くならないように足下を掃除した。また用具を大切にした。技術向上には惜しげもなく資金を使った。良いものをつくる探究が昼夜も問わぬ勤勉さとなり、たとえ若者でも至誠ある提案は躊躇なく取り入れ、それを本田の社風として習慣化した。これを本田の遺した維であり、本田流の「5S」なのだ。
その頃の本田はトヨタにはない姿があり、見習うべきものだった。そして再生の道を本田の躍動をまねるだけではなく、宗一郎の人間性の本となる精神の倣いと習慣性の研究だった。たどりつけば善き日本人の至極当然の身に浸透した生き方だった。
何のことはない「5S」は便利性や効率性にかまけて忘れてしまった実効性ある精神の甦りだった。それは子供の躾と同然だった。技術は進歩し、便利にもなった。だがそのことを鑑として考えると日本人は何かを棄て、それさえも考えなくなった。
トヨタの秘奥に存在するであろう人物はもう一つ悩みがあった。
それは艦隊旗艦の司令官のような明確な目標に向かう使命感と、企業を超えて地理的には世界を見据え、くわえ棲み分けられた多くの民族、培われた情緒、その潜在する能力、それらの行く末を推考し俯瞰できるトヨタの長(おさ)の存在だ。
それは地球に有効的に活かし、保護する見識と、胆力の如何を観る観人則を企業の人材養成の座標とすることだ。
それがトヨタの存在であり、その価値を見出すのはあなた方だと・・・
ブラジル入植者とその子供達の謁見だった
横田は言う
「それまでガヤガヤしていた子供たちだったが、陛下が入室すると皆引き締まって整列した。普段はそのような訓練など受けてはいない子供たちだったが、みな真剣な眼差しだった。」
横田は代表してこう述べた
「私達はブラジルに移住した日本人を代表して参りました」
陛下も皇太子のときに訪伯してカイザル大統領と面会している。そのとき大統領は皇太子に感謝の意を伝えている。
「不毛の大地といわれたセラードを豊饒の大地に転換させたのは日系ブラジル人のたゆまぬ努力によるものです。勤勉で忍耐強く、しかもその土地の人々に馴れ親しんで立派な成果を挙げブラジル農業に大きな貢献をしていただいた。その姿は畏敬の民として私達も誇りを持っています」
地球の裏側において異民族の信頼を集めたことへの大統領の感謝は、皇太子にヒトの大切さと、自然に習慣化された勤労と大地への真摯な取り組みを、異民族さへも普遍の精神として認め、自らの辿るスメラギの道にある忠恕心の同感具現とみたことだろう。
「私達はセラードから参りました」
陛下は意を得たように
「忠恕の心を念じています」
「忠恕」は自らの良心に問いかけて他(不特定多数)に思いを寄せる、つまり心遣いある優しさである。陛下は自らを律してそれを実践し不特定多数の公に奉じている。しかも誰も垣間見ることのない一隅において独り実践している。
横田はブラジル成功者として億万長者になった。一時は怠惰に暮らした。しかし、自らが見たセラードではみすぼらしい小屋に食料も乏しい人々が棲んでいた。
「何とかしなくては・・」
セラードは酸性の強く、まさに不毛の大地だった
横田は仲間とセラードにキャンプをつくり、土を手にしてモミ砕き、臭いを嗅ぎ、口に含み、そのようにして土の性質を感じ取り、゛これならできる゛と確信した。
誰も入らない熱帯サバンナの地である。
初期ブラジル入殖者
ブラジルへ渡るときのことを想いだした。
≪母は仏間に呼び寄せた。先祖に報告かと思ったら、母は仏壇の後ろから取り出した懐刀を横田に渡してこう伝えた。
「これは護身用ではない。もし日本人として恥ずかしい行いがあったら自らこの懐刀で己の胸を突きなさい。もし日本に帰りたくなったら海は広い。船から身を投げなさい」
セラードで数年苦労したことで緑に変わる大地が眩しかった。
訪問した田中総理の英断で大きな援助もあった。
セラードは日本の数倍、莫大な食料をまかなえた。
しかし、あるとき彼等はあの時と違い武器でなく札束を抱いて襲来した。米国の金融資本と結託した穀物企業だ。
取引銀行は恐れおののき運営費用も遮断された。
〈 大地から取り出した富は投機家を通じて我々の金庫に収まる・・〉
まさにその通りだった。
彼等は札束の力でブラジルの法律を捻じ曲げ、外国人にも広大な農地取得の権利を得た。
政府は農薬で塩化した農地に莫大な融資をしてセラードを買いあさった。
横田は日本の助力もなく指をくわえてみるしかなかった。
しかも彼等の農法にある遺伝子組み換えは、将来に禍根を残すことを横田は知っていた。
それは横田の見ている前でその葉を食べた昆虫が大地に落ちる姿だった。
あのベトナムの枯葉剤を大量に製造した会社の製品であることも知っていた。
横田は言う
「私達は単なる技術や知識でこれを解決したのではない。先に渡った多くの日本人の努力があってこそ成功したものだ。何を遺したのか。勤勉、忍耐、正直、清潔、そして現地の人々との心からの融和だ。国の政策で予算が出て大型機械が備わっていても、働く人々との連帯や調和がなければ成り立たない。
「清潔」さは川の側にキャンプを構え沐浴したが、マラリアで全滅したエリアもある。
「勤勉」は作物と語ることができても商売が下手だった。「正直」は異端視されもした。
だが、そもそも在るべき人間の姿を忍耐強く勤労に励んだことが異国の大地が応えてくれた成果だと思う。そしてブラジルの人たちが驚きをもって日本人という民族を倣いの対象にしてくれた。日本の生きる道は日本人が真の日本人に倣うとき、その向上は始まる。私はいま祖国日本に感謝している。そして恥ずかしいことをしたら自らを突け、と懐刀を持たされたあの母の本当の忠恕がよく解るようになった。
「 陛下の仰る忠恕は、受けての甘えであってはならない。厳しく律した意志ある人々によってこそ理解されるものだ」横田は云う。
ある縁で,筆者はアフリカのモザンビーク駐日大使を横地に紹介した。
横田は同じ経度にあるアフリカのモザンビークの熱帯サバンナをブラジルのように豊饒の大地にしようと準備に取り組んでいる。
その担い手は横田の子供たちブラジル農民の二世だ。(群馬や浜松に多く在留している)
そこで、日伯議員連盟会長麻生太郎氏の地元後援者である吉村氏の案内で議員会館を訪問した。
左2人目横田 右 麻生太郎元総理(日本・ブラジル議員連盟会長)
「在任中(麻生総理)、ブラジル大統領に同じ提案をした。モザンビークの農業計画は是非やるべき事業だ」
国の背景や資金も重要だが、もっと大切なことはモザンビークに真の豊かさを作り上げることだ。
人々が仲良く、健康で、意義ある仕事に取り組んでもらいたい。時おり権力は人々の営みを制約し収奪することがある。また他国の悪意ある侵食もあるだろう。我々は目の前の人々に収穫の方法を伝え、共に天を見上げ大地に頬ずりする。
そして多くの友を作ることだ。戦火を味わったモザンビークの人たちならわかってくれる。
幸いブラジル同様、旧宗主国はポルトガルである。言語も共通している。日本の農民の矜持とブラジルの試行経験を余すところなく伝えたい。
それには人間だ。研究者、科学者はできるだけ少なくてもいい。現地の彼らと寝食をともにできるヒトが成功の鍵を握っている。
いずれ成功すれば投資や投機の群れが札束を持って跋扈するだろう。
大地の恵みはそのような成功価値を一時は受け入れても、必ず罰をあたえる。
大豆も馬鈴薯も青菜も面白いことに「ヒト」をみる。
そんなときは、許しを請うてお願いするしかない。
世の中もそんなときが来ないとは限らない」
世界中で農地の買い漁りが進行中だ。ウクライナ、沿海州、ブラジル、みな投機だ。
農地が開発され対価をもらって働かなくなり享楽にふける人々も東京郊外に散見した。
国の力加減で資産を置いたまま投げ出された満州もあった。
作物値段の高低で効率化を描くために減反補償によって民情が功利的に変化したところもある。
豊穣の地には群れが集う。
しかし荒涼としたサバンナの一粒の種と忠恕ある人間の営みに、彼等は虎視眈々と、しかも指をくわえていなければならない。
なぜなら彼等はサバンナに住み分けられた人々の吐息と幸せ感を無意味にしか感じていないからだ。
横田は言う。
「そこに 陛下が語った忠 恕の意味があるということを大地は教えてくれる」と。
佐藤慎一郎先生の現地体験を聴く
S・・・佐藤先生
M・・・モト夫人
T・・・寳田時雄
第一宵 五坐 其一刻
S : 三 (参) と云うのは生命誕生のしるし。 男性は何ぼ威張っても子供を産め無い。 女性は何歩威張っても独りでは子供をつくれ無い。 神様だけでも駄目、 三つ一緒で生
命が誕生する。 中国の皇帝は 〝一皇后三婦人九嬪二十七世婦八十一御妻〟 を貰う。 総数で百二十一人 (そして総て、奇数であり参の剰除である)。
T : 〝世婦 (セイフ)〟 って、〝婦人 (夫人?)〟 の 〝フ〟 は?
M : 側妾を貰うの?
S : 三は生命の源。 亀の甲羅に焼け火箸を当てて八卦を判断する (亀甲占式)。 桃の
節句、〝桃〟 は厄除け、女性の陰部を顕わしている (印度仏教を起源とする考え
方)。 老は背を曲げて杖を点いた格好。 〝ヒ〟 を省いて 〝子〟 が支えるのが、
【孝】ですよ、と昨日も老人会で云った。
T : 〝天・地・人〟 の違いは無く、一貫すると?
S : 天地人を一貫して合わせると 〝王様〟 に為る。 畝々した流れに杯を浮かべ自分
の前に来たら其の杯に詩を詠む、此れは三月三日に行われた (桃雛節祭としてでは
無いが奈良・平安期にも旧暦の宮中行事として行われた/追儺の儀後の慶事として)。
T : 王 義之の《曲水の宴》! きざしの 〝兆〟 が木で 〝桃〟。
S : 三月三日、川に入って心体を洗って 〝禊〟 をするの。
T : 日本でも古来より俗に 〝桃色遊戯〟、好色に遣いますね。 (其うする事に拠って)
逃げ払われるものは?
S : 〝厄〟 が逃げ (去) るの。
T : 交合して三月三日に逃げる、いけ無いね (笑)。 知ら無いですよね、雛祭りの日 (桃の節句) に (本当は) 是う謂う意味が有るなんて。
S : 此う云う噺、爺ちゃん婆ちゃんは悦んで聴くの (笑)。
T : 我々だって悦んで聴きますよ (笑)。 此う云う説明が出来る様に為ったのは中国体
験ですか? 庶民の学問と皇帝の学問て区別が無い訳ですよね。
S : 黒板が無いから、画いて持って行ったのです。
T : 今度此処の老人会で学んだら、うちの方の老人会で話そうかなぁ。
S : 僕は中国の事しか識ら無い。 日本の事は全然解らん。 「僕も皇帝に成りたかった
なぁ、だけれども (今は) 独りの女房 (ですら) 持て余して在るよ」、と云うと笑わ
れてねぇ (笑)。
T : うちにも皇后 (女帝?) が一人棲ます (笑)。 〝妾〟 と云う字は出て来ませんね。
是は飽くまでも正当な女性ですか?
S : 曾うです。 時代に拠って名称は異なるのだけれども必ず貰う。
T : 我々は儒教で堅苦しく考えているけれども、中国は我々とは似て非なるもので、
向こうは性に対して平らかですね。 此う云う噺だと、安岡先生だって此う為って
(グッと噛り付く様に) 聴くでしょうね (笑)。
S : 親孝行の 〝孝〟、〝ヒ〟 を取って 〝子〟 が支えている訳です。 結婚以来、両
親が死ぬ迄の十数年、コレは給与の三分の一をずっと僕の両親に送っていた。
M : だって、お父さん (佐藤先生) が働いてお金を持って来てくれるから (笑)。
T : 其の言葉、最近出無いの? お父さん、働き悪い、て (笑)。
S :『毎日新聞』に掲ていたのだけれども、今は親の面倒を見るの四人に一人も在無い。
「何の為に勉強をするのか」
と謂う問いに
「金の為」が日本は世界第一位
「社会貢献の為」が世界最低。
T : 漢和辞典等を調べると語源等の説明は有るけれども、活きた漢字の使い方は出て
来無い。 日本では完全に記号に為っている。
S : 師友会の会合で
「孔子様、孔子三世、妻を追い出す」と云ったら皆吃驚して在た。
彼が説いたのは愛情 〝仁〟 でしょう。僕はコレ(妻)出して在無いから、孔子様
拠りも偉い (笑)。 孔子の言葉は確かに偉いけれども、或れでは中国 (の本質) は解
ら無いよ。
T : 中国大好き人間が在て、(本当に) 何でも好き。 自分が 無いと何でも受け容れてしまう。 だけれども下手に教えると、斜めに世の中を観る惧れが有る。
先生の説かれた聖徳太子の 「和を以って貴しとせよ」ですが、或れは夫婦の和合の
話しでしょう? <夫婦、相和し、拒まざるをもって、むねとすべし>
S : 老人会で 「何でも政府に嗚呼して欲しい、此うして欲しい、と謂っては駄目だよ」、と云った。 主体は自分だよ。
T : 日本人は 〝血〟 を尊びますが、中国には有りますか?
S : 矢っ張り有るのでしょうね。
T : 鄧小平や毛 沢東の親戚と云えば尊ばれるかも識れ無いが、逆に溥儀・溥傑の様に
忌み嫌われるケースも有るでしょうね。 最近の日本の様に、身分制の無いお蔭で
妙に俗世の附属価値に傾く事も有るし、中国の様に 〝善い人なら善い人〟 と観る方が
自然で、もっと真面に世の中を観られる。
S : 中国は大自然の流れから離れ無い。 例えば
「満州国が滅んでも、一姓の滅亡に過ぎ無い、俺達には関係が無い」
と謂って全く以って慌て無い。 八月十五日の玉音放送を聴いて、僕はベソを掻いて役 所で掃除をして在ただけ。 中国人は皆、青天白日旗をポケットから出して在た。 半年前から、日本が負けたなら之を点てるって準備をして在たらしい。 ベソを掻いて在るのは僕独りだけ。
「何故泣くの? お前には関係が無いでは無いか」、と中国人に笑われた。
T : 今の内に五星紅旗を作っておいた方が (笑)。
S : 偉いものだよ、全く以って実に淡々として在る。
T : 或る意味では、其れは力強さですね。
S : 大自然から離れ無い。 悪く云えば 〝食・艶・財〟 のみ。 中華民国も中共も要ら
無い。
T : 大した肚だと思ったのはチンギス・ハーンです。 色目・漢等、嗚呼云う侵略された人達を平気で使う。 耶律楚材も其の典型でしょう。 丘さん(大同学院の生徒、台湾経 済人)何かは満州でしょう。 懐が深いと謂うか、日本では考えられ無い。
新京にて
S : 日本人は如何ですか。 毎日、新聞を見るのが厭に為る。 賄賂・人殺し、如何する
のかな、此れ。
T : 惧いのは、何時の間にか (危惧する感覚が) 麻痺する事です。
S : 外部から緊張を与えられて活きて行くしか無いか。
T : 其の国の運勢を診た時、今の日本は八方塞がりですね。
S : 食糧 (生産自給力) は無いし石油も無いし、終わってしまう。
T : 今、米屋に米等有りませんよ。
M : うちのお米は如何しているの?
S : 新潟の庄内平野の米を送ってくれるの、其のお蔭。
T : 今、アメリカのお米が輸入されているでしょう。 今日、天丼を食べたら矢っ張り
少し違うね。 満州のお米は美味しかったですか?
S : 王道楽土でも日本だけが米を喰って、満州人はあまり喰え無かった。
T : 誰かが謂って在たな
「佐藤さんは本当に変わった人だ」、って。
「俺が戦後佐藤の家に行ったら、青森県人がゴロゴロと居候して在た」
と話していましたね。
S : ご飯だけは喰わせるから、と通知を出した。 其れは皆中国人のお蔭です。
T : 満州へ行っていた当時、上海の山田さんとは全く交流が無かったのですか?
S : 上海へ行った伯父の記録を採ってある。 広東にも行って孫文の息子の孫科とも会
って色々と話しました。
T : 溥傑さん、亡く為りましたね。 日本に好意を持っていましたが。
S : 嵯峨公爵の娘が嫁いでいたが。
T : 溥儀さんの周りに宦官は在たのですか?
S : 在た。 子供の時に宦官と遊ばされ、ふぐり(睾丸)を弄ばれて壊れてしまった。
T : 其う云えば、本当にか弱い感じですね。
S : 女を雇って壊す方法も有る。
T : 宦官て、勃起はするけれども子種は創れ無い、と云う事ですか?
S : 珠(睾丸)は必ず採られた。 一番の方法は竿(陰茎)を幾許か残す。
T : 為る程。
S : 棗の実、之をキズ付けて若い女性の陰部に挿入して浸す。 皇帝は是を朝、必ず食べる、此れ宦官の仕事。
皇帝の身体を20~30人の若い女に舐めさせると、彼女達は本当に白痴みたいに為るらしい。
T : 鄧小平が若返りの為に、同じ血液型の若い女の子の血を輸血するとか。
S : 男の欲するものを女が持っているからと謂う簡単な論理です。
T : 儒教の中でそんな噺は全く出ては来無い。 道教・房中術・仙道術等、本来は其う謂う事を理解し無いと、中国は理解出来無い。
S : 宦官から僕が訊いた噺、かなり詳しいのだけれども文字には成ら無い (と云うより
も出来無い)。
T : でも、其う謂う勉強は楽しいですね。 所謂、精力増強。 何しろ精力が無いとね。
(自分の) 肝臓が悪ければ (健康な他者の) 肝臓を喰うとか。
S : 全く簡単な論理だ。
T : 出来れば動物より人間の(臓器)が善い。
左 蒋介石 と 革命の先輩 山田純三郎
S : 一番困るのは、日本語と中国語がゴチャ混ぜな事だ。 中国語だけでなら信じてく
れる。 終戦後、追い駆けられた中で急いでいて日本語を混ぜて書いたから、嘘を
書いたと思われた。 (文書は) 十分の一だけ持って来て、残りは向こうへ置いて来
た。
T : 本当の庶民の考え方、此れが基本ですね。
S : 七名の宦官から訊いてね。 全部在れば素晴らしい記録に為るのだけれども、留置
場から奉天へ強制送還されたから何も持て無い。
T : 其う云う基本が解ら無いと、怖さも善さも何も解ら無いですね。 日本人は同化さ
せられ易いから惧いです。
S : 僕の命を救けてくれたのは全部中国人。 7・8年前のお礼をする為に、吉林の田
舎から新京迄3~4日も掛けて、卵20~30個も持って捜し廻ってくれた。 其のお
蔭で僕等は飯が喰えた。
T : 3~4日だと百キロメートル程でしょう。
S : だから中国人の善さとは日本人が考えているものとは違う。 孔子様が此う謂った
から此う、では無いの。 日本人も善い処は在るとは思うのだけれども。 牢屋に入
っていた時、僕だけには差し入れがある。
M : 牢屋に入って在る時の態度が善かったからよ。(M・・モト夫人)
S : 三・四百名も囚人達が在た中で、僕独りだけが特別扱いだった。 賄賂一つ遣った
訳では無い。 機嫌を摂った事も無い。 満州一の悪党と新聞は伝う、其れでも差し入れは僕独りだけ。
M : 普段から中国人との付き合いが有ったから。
T : 監獄に入ると勅任官でもうろたえますよね。 僕等もうろたえますよ。 矢っ張り
余りにも外の世界を観無い善い生活をしているのですよ。
S : 最後は伯父(山田純三郎)さんのお蔭で救かった。
T : 矢っ張り本当の勇気が無いと出来ませんよ。
S : 忙しくて忙しくて、僕独りで皆の世話をするのだ。
T : 矢っ張り其れは理屈では無い。 或の人が来ると楽しくて仕方が無い、と云う雰囲
気って在りますよ。
苗剣秋夫人 台北 1989 筆者
S : 大連の小学校で一緒に先生をして在た人が、国民党の外事課長さん。 十何年振り
に会って 「逃げなさい」、と。 僕はお断りした。
「あんたに迷惑を掛けるし留置場に在る日本人を残して僕だけが返る事は出来無い」、と云って。国法か人情か。 やはり人情は国法に勝る。
T : 其う云うお譚を訊くと、其う云うものが仄かにでも在れば。 矢っ張り好きだから、無言で判る訳でしょうし。
S : お世話に為った此の人、中国に在る筈なのだが。 恐らく、もう生きてはいらっし
ゃらないと思うのだけれども。
T : 五月頃。 拓本を採ったのが出来たので、国府記念館に寄附をしようかと想い、台
湾へ行ったついでに大連へ行きますから、其の噺もね。
T : 苗さんの奥さんは大連出身なので、写真等渡そうと想って。 張 学良は苗さんの奥さんとの交流は無いのだそうだけれども、奥さんの 「或の人 (張 学良) はお坊ちゃんだからねぇ」と謂うと真実味が有りますよ。 苗さんの娘は中共の会社に勤めていますね。 でも苗さんは普通のアパートに住んで居ます。
S : 苗さんをアレすると、蒋 介石の事を暴露されるからでしょう。
T : 苗さん位なら、もっとずっと凄い家に住んでいても善いのだとは思うのだけれど
も。
S : 苗さん、 仲々良い言葉を謂っているよ。
「三木には見切りをつけた・田中 角栄と云う奴は一角の繁栄しか判らん奴だ・大平にはオオッピラに御免だ・中曽根には根が有るとは思えん・今の日本には日本人が在無い、日本人の在無い日本など日本では無い」
と僕に謂った。 是の言葉、活きているよ。 台湾へ行くと本当に温かく迎えてくれる。
ひとまず・・・・
バングラデシュ 新聞も教材
近年、資格ビジネスが繁盛している。
とくに介護は社会福祉系、保育は児童福祉系、ビジネスは英語系の資格認定のために多くの若者、とくに女性の男女雇用均等法の援用もあり、盛んになっている。
なかには漢字,漫画、歴史などの資格認定もあるが、その資格証発行元も、むかしは各省庁の天下り受け皿としての社団法人が主に行っていたが、内容はともかく、御上の威光なのか仮装信頼を仰ぎ戴いたものたが、最近はNPOの資格認定もある。
ビジネスにおいては技術系の技能や検査の認定資格だが、これも生産性と節約で端折るところもある。それも新米の資格持ちの検査より、熟練技術者の確認作業の方が検査も確実なのだが、資格証の所持如何で検査証の認証がとれる。先輩の熟練者は、日々技を磨くために現場に馴染み、習熟を高めて後輩に伝承するので、資格のための試験勉強などする暇もない。資格は無用ではないが、その持ち分をバリアーとして超えなければ安全性や品質保証がとれない訳ではない。
だだ、万が一問題が起きれば、監督官吏は資格者の責任として、かつ雇用者の責任として監督責任を回避できる。それは訴訟社会となった昨今の事情でもあろう。社外取締、有識者による第三者委員会、現場では検査士など、形式上つねに監視の目に晒されている。
ましてや、セクハラ・パワハラ、ワークライフバランス、雇用条件、と重なれば、現場は常に生産性を阻害しかねない緊張に晒され、加えてコンプライアンスの陋規(狭い範囲の掟や習慣性)を包囲するような自縛が、より企業内における自由度や柔軟性を狭め、単なる株主要件の数値利潤を唯一の指標として無機質な組織を構成している。
使役される側の論理は、身の安全と生涯賃金の企図となり、つまり資格は凡そ「食い扶持担保」、今では官吏に似たオイシイ職掌となっている。
「松下政経塾 」 資格は無いが、世俗ではブランド? コレも人格とは違う。
資格には要件がある。
女子短大の二人の学生が、ファミレスで社会福祉の資格を得るために、何処かの教員の作成した資格に関する要件を記した書類の要点を抜き出してノートに切り張りしていた。
「何しているの?」
『理解の速い級友はこのようなことをしなくても覚えられるが、私は難しいので要点と思われるところを整理してノートに切り付けている』
「何の資格?」
『社会福祉士です』
「そんなに難しいの?」
『私たちにとってはよく解らないことばかりで・・・』
「ところで、勉強は楽しいの?」
『楽しいとは思ったことがないです‥』
「好きで楽しいことなら、すぐ覚えるのにね」
『授業も覚えることばかりで、考えたり、想像したり、感動したりするような授業はないですよ。ともかく資格をとらないと・・・』
「就職に有利なの? 資格が有ると無いとでは、そんなに違うの」
『福祉関係は、全ての採用基準が資格の有る無しが前提で、役所の仕事などはソレがないと仕事ももらえない』
「対象者への優しい気遣いとか、個人の奉仕的対応などは、すべてが時間とお金に換算される時代になって、お互いに法がバリアーのようになっているようですね」
『今、この短大で何をするかというと、それは資格、それも上位な資格を得るための生活ですね』
こちらは命懸けの学び 空自指揮官対象 定期講話
数日して短大の教員で司法ボランティア(BBS)の後輩と会合で同席した。
『このあいだ、うちの生徒と会いましたよね』
「君が担任・・・?」
『何を話したんですか、あんな積極性をみたのは今までにないことですよ。どうすればアノようになるのでしょう』
「ファミレスの隣の席にいた生徒かな・・、こちらのオセッカイでしたが興味あったみたいですね」
『私のクラスの生徒で、普段と違う積極性で私に話しかけてきたのでビックリしました』
「普段と違う・・・」
『彼女たちは、勉強の必要性は分かっていますので、修得の方法を知れば理解は速いと思いますが、今はそこで戸惑いがあるようです』
「伝えたのは、出された課題と、本人の目的意識が整理つかないようなので、別の切り口で、学校は落第しても、人生を落第しない学びをしなさいと。それと世界で何十億人いる中で、あなたと同じ人はいない、すばらしい特徴を持っている。それを探して伸ばすことが勉強で、それが人のモノマネをしたり、やたらに数値の競争をしたりして、援け合い、補い合いの気持ちを失くしたら社会福祉の前提がおかしくなり、人に役立つための人間としての勉強の前提がなくなってしまう」
『いまの教育現場の情況では難しい対応です』
「いや、生徒を好きになることです。真剣になることです。○○女子大に講話依頼されたとき、行儀のなってない生徒に注意し、かつ自分を大切にと伝えたら、専任教員が小声で、゛生徒を叱らないでください、大事なお客様ですから・・゛と云われました。教育ビジネスの堕落の典型ですが、学校は落第しても人生は落第してはいけないというのはその為です」
『・・・・』
「それと、自己紹介してもらいました。お決まりの出身と経過、現状の経歴紹介でした。
そこで、一番よく知っているアナタはどのような人なのか自己を語ってください、といったら戸惑っていました。自分が分からなければ仕事も恋愛もヤリタイことばかりで、自分の特徴が分かれば、ヤルベキことが解りますと伝えましたが、目の色が変わり、意欲が膨らむのが分かりました。その疑問を解くことの方が、まずおこなう勉強だといったら、゛そんなことは今まで教えられなかった゛と言っていましたが、変化は楽しみでね」
1989 北京 落ち着いて利発な生徒 (外は戒厳令時)
もともとBBSの後輩で生徒にも好評な教員である。
鉄は熱いうちに打て
「ところで以前、オリエンテーリングでBBSのことを学長の依頼で話す機会がありましたが、あなたの授業の一コマ(90分)を預けてもらえば、彼女たちに伝えることができますよ」
『ぜひ、お願いします』
「その時は、あの可能性が大きい二人の問題生徒にお手伝い願えれば・・・」
戸惑いながらも不思議感をいだいた教員が承引したのは、あの生徒のお陰かと、内心「無用の用」の効用を覚えた次第。
「無」は用が立たないことではなく、無限大の可能性を想像させ、役立つ人格として育てる醍醐味でもある。
それは、意欲としても拙者の老成だけではあるまいと思う次第。