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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

格差とは「官」と「民」の間(かん)に在り 2008  11/1 あの頃

2025-02-14 07:40:27 | Weblog

怨嗟と嫉妬と反目の社会に今更といった内容だが、幾許の叛意を浴びることを思いながら敢えて記してみたい。



このところ蟹工船が流行っている。
流行りモノといっては恐縮だが、公害問題が騒がれていたときは、栃木県足尾の古河鉱山と下流の遊水地渡良瀬遊水地を舞台にした田中正造翁の義挙が映像化され各地で上映された。

ともに資本家と大衆の問題だが、金持ちの長(おさ)が富国強兵にともなう近代工業化によって経営者となり、隣国の近代化にもある先富方針の倣いにもなった金融、諸税などの優遇政策により資本集中から多くの財閥が形成され、曲がりなりにも西洋近代化の産業構造模倣が出来上がりつつあった。

この方法はなにも経済理論にともなう政策という代物ではなく、偏向的便宜供与もしくは国家資材の騙取のようなもので、販路開拓などそのための理屈立てに国威伸張を掲げ、かつ明治期に誕生した高学歴立身出世主義という、゛主義゛にもならない曲学阿世の学徒が論理という後付を弄し、かくも合理的発展と謳い上げたのである。

もちろん逆を唱えるものの出現もあるが、双方とも怪しい主義を掲げ政治的陣取りの利得に勤しんでいる様でもあった。


            


ことのほか乱暴な物言いだが、いまだかって良化することのない日本人の成功価値と繁栄の後に顕在する、゛人゛の有り様が、頭上に吠える如き左右主義者に阿諛迎合する姿と、その一派を構成する一群に、嘆息の域を超えて慙愧の念さえ起きるのである。

つまり果実を以てそれらの経過を良しとする成功価値が人々の観念に植え付けられたかのようになり、それに反して日本人の「人成り」が変化せざるを得ない状況があった。

近頃ではカニも正造翁も一方のプロパガンダに用いられるフシもあるが、筆者は現実の例題として以下を記してみたい。

それは名も無くも深層の国力というべき情緒を育む人々を観るに、第四権力に成り下がったマスコミの売文には馴染まないことゆえ、敢えてお知らせしたい。

社会が疲弊すると都市部から遠く離れた列島の外周がまず劣化し、徐々に都市部を取り囲むように状況は切迫してくる。とくに内外圧が直接影響されるエネルギーはイギリスの産業革命から炭化鉱物およびその油脂に変化し、それを以って先進工業国同志の軋轢を生んだ経過を見ても、人間の生活の節目に新たなハードルを構成するようになってきた。


             


昨今のエネルギー事情の狂変をみても、対価となる通貨単位(ドル等)の変動や、それに変わるべく単位(ユーロー、円、ルーブル等)の普遍性と信頼性の基となる実績経過と国家の確定した力がグローバルという、ある意味では統一管理に移行する経過での多様的流動性、単一国家の人と繋ぎの融解など、金融危機という部分的問題を越えて、通貨そのものの必然性まで問われる時代となってきている。


今までは国威に象徴される軍事力や、利便文化の浸透力によって自国の通貨単位の決済有効範囲の拡張が行なわれてきたが、それとて妙な金融工学とかいう「学」を背景とした過度な金利経済が制御不能な状態を起こし、通貨があるべき基礎的要因さえオボロゲになってきた。


日本もバブル崩壊後には制御(収拾)不能になり、あの昭和史に記された戦争における戦費の総量と同量の資金が一滴の血も流さず消滅した。まさに金融戦争だが、影響は倒産、自殺、政治混乱と大きいものがある。
ところが、今回は数百兆円を超える消滅である。

これとて、地球史では一過性の出来事ではあろうが、ハルマゲドンやマヤ暦の終焉、はたまたフォトンベルト(電磁波)の接近、温暖化などがそれらと並行するように人心を惑わしているが、心と実態生活の分別は、表裏の本音、建前を問うまでもなく、複合崩壊しつつあるような雰囲気になってきた。



           


恐れ、不安、孤独は自由と民主、そして平等の美句に誘引され取り付く島も無くさまよっている。もちろん政治、経済もだ。
2000年、暦の平準化は完成した。これからは制御管理、危機回避を名目に交換価値である単位の平準化が謳われるようになるだろう。まさに「時」と「金」の統一化が進むだろう。そしてその条件に沿える人間種のみが生存を許されるようになるだろう。

力のある者はそのように考えるのが一連の流れから観た自然の姿である。

蟹工船に戻るが、多喜二は成文化された出版物を遺した。しかしその当時の世相は、事あることも知られず多くの国民が辛苦の淵にあった。それは政治問題、文明観、あるいは民族の性癖など多岐にわたる要因が内外の経済事情や端境期にあった国内の社会構造が絡み合って、今の格差と呼ばれる状況が内包されている事情は異なるが、とくに地域間、業種別に顕著な姿で表れていた。

分野別に部分分析をしても接ぎはぎだらけの小論で終始するのも、全体像、つまり社会なり国家の眺めるような観点はみられない。
それは経国の座標ともなる理念、目標の立て方にもよるが、何よりも為政者の言行に関する「覚悟」の問題が横たわっている。

            




どうも那人の矜持に照れ、引っ込みにある遠慮が有るからだろうか、食い扶持俸給についての批判は、小ざかしい嫉妬心のようでナカナカ声が出にくい。
ただ、それさえも気が付かない人々の群行は、よりその既得権を強固にさせ、気がついた時には諦めにも似た状況に追い込まれるのは必然でもある。

それは各々の成功価値のみに言を指すものではないが、国家の富の偏在が眼前に現れないままに社会の底流として構成され、つい百年前に歴史の「維」を更新しなければならなかった状況と同様に誘引される危機感さえ想起させてしまう

それは武士道を矜持とした権力階級とそれを構成するサムライ官吏の怠惰にみる、゛切れの悪い゛武家御家人の世襲一群だった。

そこで起こったのは、矜持が気風や大義として謳われたサムライの、貰い扶持、食い扶持に堕した結果に起きた反目無頼とも揶揄された維新の一つの側面でもあろう。

下級武士の問題解決能力の欠如や大局観の無い政策など、官位に甘んじ自己保身に汲々として士農工商の職分別や立場の矜持を無にした、゛官族゛が社会の根幹をバチルスのように侵食したために起きた「維」の更新だった。

今どきの意志の見えない四角四面のヒラメ官吏、官警の点数と罰金の道路利権、たしかに「国維」(国のセンターライン、中心的骨格)が歪んでいる。それを「内なる賊」と感知して歪みを正す(糺す)事ができなければ、社会は自ら滅ぶのは必然だろう。

その更新があの維新だとしたら、西郷が呟いた「こんな国にするつもりではなかった」を如何に聞くか・・・

今、懐かしくも想うと、当時の人達に比するにその経年劣化は、職責を踏まえた意欲と自制について放埓に近い状態に置かれているようで、当時の伴食サムライと何ら変わらない姿に見えてくるのは、彼等の止め処も無くスパイラルに上昇する俸給や奇妙な貰い扶持手当てが、庶民から陰湿に隠された特権の如く映るからだろう。


             


知人から聴く語るに落ちた話だが、自治体の課長給与の二人分が総理の俸給とは何とも情けない。イラクの俸給別の現地手当てが一日三万円、そのほか退職金の億単位がゴロゴロしている。ある都税の徴収官は「貧乏人が多い地域は徴収事務が忙しくて・・」と慇懃にもホザク。

法の多くは彼らの不作為に苦情を訴る民への盾、つまりやらなくても良い理由だ。

禁止(規制)法は手数料、罰金を受け取る証、しかも取り締まり法運用官(警察官)の恣意的行為も中にはあり、国民の怨嗟の的になっている。

彼らの模範?になっているのは、税で賄った学び舎で高位を得た人間の所業である。卑しい犯罪のみならず、隠蔽、改ざん、廃棄、にみならず、昔から横行している補助金詐欺、収賄など役得などがある。始末が悪いのは、それを摘発、裁判する職掌もタックスイーターなのだ。彼らは傷を舐め合い境遇を察する妙な同類意識がある。

 


今ほど怨嗟と嫉妬が渦巻く時代は無かった。夫々が職責の分を弁え、官民が調和していた頃と違い、いつの間にか肥大した官域は国家の行く末まで茫洋とさせている。

http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=4b53ff45dd58d4b6e9773d59468ae7e4
【当コラム 2007,11,20 昇官発財】


これを以て以前のコラムに記した「四患」の氾濫である。
「上下こもごも利を獲れば、国危うし」
まさに官域による、偽、私、放、奢、の増進である。


困った人達である・・・


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盧溝橋事件は偶発と、多くの日本人研究者いうが

2025-02-13 02:28:42 | Weblog

盧溝橋事件は偶発と、多くの日本人研究者いうが

 

 

歴史上の出来事は遠因がある。

それは今ばやりの量子学の泰斗ハイゼンベルグ博士の説を用いれば、多くの不確実性要素も考察の切り口として活かせることだ。

歴史と複雑数学で・?とは、学派を構築した学び舎教員からは批判もあるだろうが、突発的に起きた事実の不思議感は学び舎で集積されたモノだけでは、ときに四角四面な分析考証学になったしまう危惧がある。

いわんやボスの学説を引用しても侵さず、新説異論すら忌避される世界だ。

くわえてボスを戴いた学派では、研究費確保やマスコミステータスを企図した、売文の輩、言論貴族の装いは「有名」とする名のもとに、こと歴史については確定もしていない考証に、さも証人的裏付けを提供する「経師」が多数出現している。

まさに今風のマスコミの代理説明担当者だが、これさえも視聴ないし読者は、単に知ったか覚えたくらいの類で留飲を下げてしまう状況だ。

「※「経師」学びの説明 「人師」人物養成の為の人の師

 

そこで標題に戻りますが、多くの日本人研究者は、歴史では日中戦の端緒となった日中両軍が対峙していた盧溝橋での事件は「偶発」と認定(今のところ)している。

日本軍の守備陣地に対岸から発砲され、それに応戦したことで拡大した、との説である。

相手は蒋介石率いる国民党軍。確かに満州から南下して北京近郊の盧溝橋に侵入されれば、当然、抵抗するのは当然とみるべきだが、現地は両軍兵士が行きかう平穏な状態だったと日本軍将官は述懐している。そこで突然の発砲である。両軍も驚いたが、現地の武装勢力は国民党軍と日本軍しか存在しない。

そこで偶発的とのみかたは、銃の暴発、これは交通事故でいう「もらい事故」だが、よく考えると有り得ることであろう。

 

発砲への反応は兵士の瞬間発砲となるが、南下侵攻は将来意図していたとしても、軍律上、上官の命がなければ部隊は動かせない。まして天皇の皇軍であるため上層部の裁可も必要となる。事前に裁可をもらい、敢えて相手方の初砲を待つとしても、以後の真珠湾の相手からの先制攻撃を待つ、あるいは謀略企図で誘引することは当時の現場状況としては起こりにくい状況であった。

 

偶発とはあるが、問題は日本軍の侵攻が始まり、国民党軍は後退し、日軍は誘引されるように中国の山間平野に侵攻した。まさに従軍作家,火野葦平の兵隊三部作「麦」「土」「花」の実景であり、パールバック女史の悠久の「大地」に営む民衆の祖地に軍靴を進めている。

 

当時、中国には軍閥の残影があったが、蒋介石率いる国民党が政権を掌握していた。

一方では共産党がソ連共産党の指導と援助で地歩を築きつつあった。

後の内戦から合作、そして再び内戦から共産党政権の樹立をたどれば、盧溝橋で起きた事件から日中戦の泥沼化、国民党、日軍双方の疲弊は、敵の敵を用いて国民党を疲弊(夷を以て夷を征す)させるという共産党にしては絶好の機会ではなかったか・・・

  • 周恩来総理は「日本のお陰で・・」と、先の日中戦を意味深に語っている

 

そこで筆者に寄託された資料と、当事者からの音声聴取を引用してこの問題を記してみる。

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戦闘なき80年、兵を養うことの難しさ

2025-02-07 01:15:32 | Weblog

 青森県黒石市 2025  1月

 

以前、山本五十六大将の言をひいて、「平時に兵を養うことの難しさ・・」を記したことがある。

米国は世界中に軍を展開し、装備の更新や兵站の充実など、戦後、戦闘行動がなかった自衛隊とは現下の指揮隷属関係は同盟とはいえ、この部分においては国権すら委ねざるを得ない状況である。

敗戦国の頸木は経済や軍事、はたまた外交においても戦勝国の顔色伺いに終始している。

 

  

 当時は占領国進駐軍

 

配備についても、自衛隊の役割はの多くは国内に点在する数多の米軍施設の警備、防衛を任務としている。主に米軍の三沢、横田、岩国、嘉手納の周辺に設けたレーダーサイトやミサイル迎撃施設、海洋深度調査には国交省所管の海上保安庁、攻撃型空母艦隊の周辺警備や、海自の潜水艦、P3C対潜哨戒機などが任務に就き、基地周辺の国籍不明機には航空警戒団、スクランプルには空自戦闘機があたっている。

憲法の遵守もあるが、あくまで防衛任務として攻撃戦闘任務の組織でもなければ、有事の指揮権さえ米軍の隷下にあり、自前の戦闘機さえ造れない環境です。

 

  

関東軍による張作霖爆殺      極東軍事裁判        

 

古代から大国は分断統治として、周辺諸国の宗教や民族間の軋轢を謀り、「夷を以て夷を制す」手法を用いるようです。

植民地の撤退では、分割統治として、インドからバングラデシュ、パキスタン。インドネシアと東モール、南北ベトナムや朝鮮半島、台湾と大陸もそうです。また、中国はチベット侵攻にモンゴル騎兵を用いました。騎兵は満州国軍騎兵ですが、もとをたどれば元の西方侵攻が西洋騎馬兵法となり、日露戦争での秋山好古の騎兵戦術が、再び満州国モンゴル騎兵となったもので、武器は銃器と日本刀です。

 

        

        アヘン戦争で英国は香港を割譲

 

要は、当時チベットが憎むのは中国でなくモンゴル騎兵だったのです。たしかにモンゴル人、チベット人、漢族(中国)ですが、漢族からすれば他は周辺の夷族です。

肌の色や宗教となれば、西欧と東洋、とくに問題が起きる東アジアの軋轢ですが、これも冷戦の頸木から紛争国それぞれに政体や経済圏の異なる大国の援助国が存在し、戦端が開けば代理戦争といわれる、ベトナム戦争や中東、アフリカで起きている紛争と同様なことが行われます。

行政の逸話ですが、上司が部下に施策を指示すると、まず「できない理由を探す」といいます。今までは憲法や法律が、できない理由でしたが、その面倒な仕事を増やさないようにという官吏の狡知すら届かない政治状況にもなってきた現下の状況です。

遊惰に陥ったかのような民情と、緊張感の乏しくなったかにみえる当局の様相は、現業である戦闘集団にも戸惑いとして伝播するのは当然です。いくら莫大な予算を得て装備を充実しても、ことは戦後80年の戦闘もない平時において、山本五十六氏が憂慮した兵の、ここでは司令部局と隊員の「統御」について、募集さえままならない環境で果たして目的成就が適うのか憂慮を超えた危機として現示しています。

 

     

 北部航空警戒管制レ=ダー イメージ      災害復旧

 

今回、影山好一郎元防衛大学校教授と、語らう機会を得た。

さまざまな切り口で語り合った。筆者は自己の人生の備忘録として、防大卒の一自衛官の影山氏が、どのような背景のもとに、指揮官任務に就いたか、その発言内容に如何なる背景や考えがあるのかという点に、興味を抱いた。そして影山氏(教授)の体験と、それに対する本人の客観的な考察文を、ブログ掲載することを所望した。

筆者は、航空自衛隊の幹部学校、三沢基地などにおいて、定例的に講演を行っているが、これに対する隊士諸君の所感等に鑑み、生死を伴う職掌に対峙する彼ら自身の気概を自己確認すること、同時に、影山氏の思索が、彼らの任務に対する一助になればと察したからに他ならない。

以下は影山氏から頂いた綴りです。

内容は、目的を確立して、平時における機体整備をはじめとする任務に、疎漏のないように、職掌に対する隊員の責任感の調和と、人間的向上について、影山氏の隊司令としての回顧と気概がこもった一文となっています。

 

対潜水艦哨戒機 P3C

 

愛情と責任感

―部隊統率の体験と考察―

                   影山好一郎

                   1942年生、防大9期生

 

1965(昭和40)年に防衛大学校本科(第9期)を卒業以来、海上自衛官としての道を歩き始めた。

1971(昭和46)年に同研究科(第8期:電子計算講座)を卒業後、自衛艦「あずま」の艦長付として、新装備のファイヤービー(無人標的機)誘導装置の整備・運用に携わった。

その後海上幕僚監部防衛課にて、導入が決定されていたP-3Cの実際の受け入れ態勢整備のための計画立案に携わり、昭和54年、鹿屋教育航空群の第204支援整備隊の検査隊長、統合幕僚会議事務局勤務の後、成元年8月1日に、青森県八戸市の海上自衛隊第二航空群第二支援整備隊の司令(隊司令)に着任した。

部隊指揮官としては、鹿屋に検査隊長以来の二度目であった。この度の隊司令は、北方警戒を主任務とする2個航空隊が、円滑な作戦が出来るように、P-3C 20機の整備を行い、提供できることを任務としていた。

かつて導入に携わったP-3Cの第一線部隊の整備隊司令に着任出来たことを幸せに、光栄に思った。第二航空群は、本部、第二航空隊、第四航空隊、支援整備隊、航空基地隊で構成されていた。

 

 

 

1 第二支援整備隊司令としての部隊統率の体験

 私の第二支援整備隊は、本部、航空機整備隊、電子整備隊、武器整備隊、検査隊と五つの部隊から構成されている。したがって、私の下に5人の隊長がいた。部品の補給は、航空基地隊の補給隊から供給された。

 私は、着任の際、緊張した空気の中、P-3Cの大きな格納庫内に設けられた壇上に立った。隊員約500名が整列しており、司令新着任の挨拶儀式が始まった。

私は答礼の瞬間に、初めて痛切に感じたことがあった。それは、「私に与えられた任務を、この目の前にいる隊員500名の諸君がやってくれるのだ。そのような貴重な隊員を私は全力で守らなければならない」という自覚であり、そのために必要な業務を全力で行う覚悟であった。

後になって考えたことだが、この自覚と覚悟は、自己の任務に対する責任感と、その任務を隊員が代わってやってくれるという感謝と隊員に対する敬意から来ている。

 このような気概で私の二年間の任務が始まった。各隊の隊長との定例的なミーティングは、月曜午前に司令室でこれを行い、整備業務、諸懸案事項をはじめ、隊員の心情把握に心がけた。

幸いなことに意思疎通は和やかである一方、各隊の現状や抱える懸案や最悪の事態への対処法等を論じ合った。

 毎週月曜日には、格納庫内に集まった隊員に、5分間の司令講話を行った。内容の選択に心がけたことは、「任務第一、楽しく愉快に」をはじめ、人間関係の参考事項、人は一生通じて学ぶ続けること等を中心に、また、諸行事を捉えて隊員を激励した。また、隊員のマイナスな行動には、失敗を責めず、次に活かす姿勢で臨んだ。

 隊司令としての勤務が始まって間もない頃、隊員が夜を徹して、エンジン、機体、計器類、武器等の整備に全力で取り組んでいる姿に、改めて感動した。その後の訓示において、「諸君が、毎日、ひたすら全力で取り組んでいる整備業務の成果は、昨日も、今日も何もなかったという、戦争を抑止し、平和を勝ち取っているのであって、このことに諸君は誇りと自信を持ってほしい」と訓示したことがあった。

私の素直な気持ちであった。その時は、分かってくれたかどうか、分からなかった。ところがその日の午後、たまたまトイレで会った若い隊員が、「司令の今日の話しは、すっきりしました」と笑顔で、話してくれた。その回答に私は感激した。分かってくれる若い隊員がいるのだという喜びであった。ここに至って強く感じたことは、四つあった。

一つ目は、幹部、海曹、海士の全てに対する公平な愛情を持つことである。それは職務に対する愛情でもある。隊司令としての自分に与えられた任務を、これ等の隊員すべてが、自分に成り代わって、やってくれているのだという、それは感謝の受け止めであり、部下は本当にかわいいと思うことに繋がり、それが部隊統率の原点であると思った。

 

                     

                   機体整備

 

二つ目は、隊員全体の明朗さを獲得するためには、5人の隊長との意思疎通を図り、隊長を信頼し、彼らがやり易いように、手綱を緩め、独創性を重んじてやることである。

隊長は自己の隊員の作業向上に一生懸命であった。この効果は、整備技術の向上と作業チームの効率化を生んだ。そして、隊長による隊員の心情把握と指導に役立った。

三つ目は、司令も、隊長クラスも、具体的に航空機整備の作業をやるわけではない。しかし、平素の隊員の整備作業を通じて、トラブルが生じた際に大所高所からの判断に貢献できるよう、技術的、人為的な両面からの平素の勉強と考察が必要であることを、隊長との対話に心がけたことである。

隊長クラスも打ち解けて現状や問題点を披瀝してくれた。P-3C航空機は、これを構成しているどの分野も、高度の技術的なノウハウの集積体であった。このような機械を使いこなすには、「マン・マシンシステム」としての基本に立ち返って、虚心坦懐に運用・整備することが必要と思う。

隊長との信頼関係を築くには、私の上司である群司令、他部隊との連繋を円滑にし、また、海自全体の術科会議等に参加する上で、自ら努力して海自全体のために寄与できる見解を築き、説得力のある資料等の作成に尽力する必要があると思う。この努力の姿勢が、隊長を指導する一つの糧になると思う。

最後の四つ目は、隊員との接触において、指揮官先頭の心構えを持ち続けることである。隊員は、いざという時に、指揮官の顔色を直感的に捉える。

そのような緊急を要する有事的な場面は、そうあるものではないが、指揮官は、泰然として対応措置を執れるよう、平素から学習をしておかねばならない。緊急事案が発生した場合に、事案に対する正確な判断・行動が執れるか否かは、自己の知見・能力と、隊長・隊員との平素から信頼関係が出来ているかどうか、であると思う。

この信頼関係を構築するための一環として大切なことは、隊長との意思疎通はもちろん、自ら、部隊行事(駆け足大会、柔剣道、講話、宴会等)に積極的に参加し、隊員と一緒に汗を流し、交流を深めることによって、隊員との適度な間合い(距離)を保っておかなければならないと思う。

 これらを押し並べていえる不可欠なことは、以上のことが、旨く行かなかった、あるいは失敗した場合の、一身にその責任を負う「覚悟」である。部下を愛し、隊長を信頼し、隊員の作業に対する自信によって、部隊は明朗闊達を得ることができる。

しかし、人間は如何なる人も不完全であることを忘れてはならないといえる。部下への信頼は、その部下に悪意が無くても、失敗・事故に繋がる可能性があり得る。幸い私の在任中、大過がなく有難いと思った。

その失敗の存在を常に慮って、自己の責任として対応できるだけの平素の度量が無ければ指揮官たる資格がないようである。

覚悟は驕らず、誇らず、常に広く、深く学び続けることによって、その形成と維持が可能となろう。

 

 

    着任挨拶

 

2 統率の精神的支柱

顧みて、私の隊司令としての統率を支えていたものは、いったい何だったのか。それは二つあるようである。

一つ目は、防衛大学校初代校長の槙智雄先生の薫陶(精神的支柱を備えること)が、私の現役時代に一貫して生きていたのではないかということである。

英国のオックスフォード大学に留学(古代ギリシャの民主政治思想)し、パブリックスクール的教養を身に着けた槙先生の薫陶を、私のクラスは4年間受けることが出来た最後のクラスである。初代校長に課せられた歴史的使命は、新憲法以外に指針がない中で、戦前とは異なる新しい幹部像を追求し、これを実現する教育方針や学校運営の体制を確立することであった。

槙校長の遺訓は、主なものを列挙すれば、

「幹部自衛官たらんとするものは、軍事専門家である前にまず良き社会人であれ、紳士であれ」

「広い視野、科学的思考力、豊かな人間性」

「名指揮官たらんと欲すれば良き下僕たれ」

「個性の尊重は近代文明の基礎なり」

「心に遅れをとっていないか、腕に力は抜けていないか」

「うそをつくな、あざむくな、盗むな」

「持ち場を捨てるな」

「成熟した社会は教養を重んじ、情操を尊び、節度を敬う」

「道義は誇りの根源なり」

「任重く道遠し」

「正しき行いにおいてのみ自由あり」

「ノーブレスオブリージュ(高い身分には義務が伴う)」

「服従の誇り」

「規律なくして真の自由なし」

「希望のない人生は暗く誇りのない生活は無意味なり等であった。

 

私は、学生当時は理解不十分であったが、実際の自衛官勤務を重ねるにつれ、その真意と深さが身に染みるようになった。槙先生をはじめ、同窓の先輩諸兄に感謝している。

もう一つは、日本の「武士道倫理」である。

私は当時、剣道5段(現在7段教士)であり、週に一回程度、剣道同好会員に対する技術指導を行っていた。年に一度、体育館において群剣道大会があり、技術の錬磨に励み、初年度は優勝した。しかし、私はその技術的な向上の難しさを自覚する一方、剣道は日常の勤務や生活そのものと同床であり、戦うことは真剣に生きることであると考えていた。

日本剣道連盟の「剣道の理念(定義・哲学)」は、「剣の理法の修練による人間形成の道である」とあり、これほどものの本質を深く思索し、表わしている言葉は他にないと思う。竹刀という一つの媒体を使い、意思ある対手に対し、友好打突を如何に勝ち取るか、その一点のために生涯、鍛錬し続けるのである。

その理解のために、身近な言葉を考え、稽古の合間に、また時に、隊員への訓示の中に、分かり易く話すよう心掛けなければならないと思った。

因みに、「友好打突」とは、ひたすら「己の目的の達成」を意味すること、「適度の間をとる」ことは、「平素の生活の人間関係や仕事にも適度な間(時空の距離)を保つ」ことにも通ずること、「相手の中心を割る」ためには、「より強い自己の中心軸(覚悟、信念など)を作らなければならない」こと,「丹田に気を納めれば(事前準備や思考に自信を持てば)、恐怖が飛ぶ」等であり、人は常に学び続けなければならないように思う、と付したように思う。

武士道とは、武士が戦国時代の武勇に殉じた倫理観から、安定した幕藩体制社会の、人を斬る必要がなくなった江戸時代に、初めて完成したといえる。

被支配階級の人々に対する道義的な指導者としての「武士の倫理(山鹿素行の「士道」)」であった。

これは山本常朝の『葉隠武士道(武士道とは死ぬことと見付けたり:徹底した忠義の維持)』を凌駕するような、現実的な変革・改善の力をもっており、幕末以来の後世に与えた影響は大きいと言えよう。

今日的に言えば、如何なる分野においても、任務に対する忠誠心、相手に対する敬い、率先垂範をはじめ、特徴的なことは、現状変革・改善の強靭な探究・努力、道義に悖らない誇り、等といえるだろう。

 

 

3 結論

私は、無意識のうちに、司令としての自己制御をもって勤務していたように思う。そして、今、振り返って思うことは、この武士道倫理と、槙校長の薫陶に込められた指導理念とは、その根本において、時空を超えた人類に普遍的かつ常識的な教養ではないかということである。

つまり、私の体験が意味するものは、独自の創造的な統率法ではなく、より広く、如何なる場面も、如何なる指揮官においても、槙初代校長の薫陶や武士道倫理に底流する普遍的な統率の在り方を、私が自身の個性をもって体現に務めていたものに過ぎないと言えよう。

自衛隊は、国内外の多様な任務に赴く時代になり、国際情勢の悲惨な現状と、日本の将来において、皆無ともいえない何らかの危機に鑑み、国民の負託に応え得る活動が強く求められる。

そのためにも、健全かつ有効な部隊指揮における精神的支柱を、後輩諸兄姉に継承・発展させ、任務に生かして戴きたいと心から願う。

 

最後に、自衛隊は、「武」の字が意味する様に、「武」の技芸の熟達を目指して全力を傾注することによって、その「戈(鉾)」を使わずに済む国際社会、ことに波騒ぐ極東・アジアの安全・安定の構築に貢献しており、平和希求の世界の創造者であるといえるだろう。

 

 

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真の国力に憑依する軍と財への誘惑  09 9/19 再

2025-02-04 01:19:47 | Weblog




[憑依]は弱っているものにとり付くことである

現実の生活にある嗜好の基礎的条件を否定するものではない。ただ将来を見つめるための座標軸と欲求充足のホドを弁えることが必要だと考えるからだ。

異民族の賢人、孫文は「真の日本人がいなくなった」と歎くが、゛あの時は存在した゛ということだ。その意味で真の国力を考えたみたい。



               





国力のバロメーターは経済力と軍事力だという。またそれがために他国の事情が気になり、ついつい知った時点から意味の無いものになるような一過性のかつ、たかだか努力次第で変化する数字に翻弄されるのが近頃の人の倣いになった。

加えて世界に普遍的であるとグローバリズムの基準に沿って、より俯瞰した考察からすれば、たかだか人間のみの要件を引き合いに狭い範囲のルール「掟」によって国内事情までが混乱し、政府は重い荷を背負って泥足を引きずる状態に落ち込み、しかも他の比較するべきあやふやで流行じみた欲望を謳歌する自由と偏平等の意識は、より社会の調和を失くし、曲がりなりにも国家として維持されてきた民族固有の連体さえ衰えさせてきた。

その国内事情とは、アメリカのギャンブル経済と、そこに蠢(うごめ)く不埒な人間による彼らの仕組みやルールに合った市場という賭場の拡大と、至るところに埋められた地雷の傍に人間の餌というべき金を散らせ、身の程知らずの懐が淋しくなると胴元の貸し金よろしく、金融と称して金利を掠め取る。どちらにしても借りるのも、博打を打つのも、換金(為替)もサジ加減で、働かされるのは財による成功価値を植えつけられた人たちである。

それは「上下交々(こもごも)利をとれば国、危うし」の古語を例え、かつ古のギリシャ、ローマ、大英帝国、そして先進国といわれる財を産み出す国々の人間の嗜好は、温泉、グルメ、旅行、イベント等に共通した価値観、いやそんな観などにも及ばない糜爛した怠惰な欲望の習慣性に社会の衰えをみるのである。

その一見平和的とも思える環境を維持するのに経済、そして護るに軍事、はたまた国内のパイが飽和すると外を確保したり、行動域の自由化を促すための虚偽美辞麗句となった自由と民主を唱えながらも衣の下は軍事力を用いるようになってきた。

大義を唱えながらも、その建前大義にがんじがらめになり閉塞状態になる国内事情は、外の収穫が無ければ持ち堪えられなくなる。さして肥沃でもなく薄い表土の下は岩盤のヨーロッパにおいては尚更のこと其の傾向が強い。






                    





異なるものを悪と言いつのり、゛それを看過するものは同罪である゛それは、どうしても解らなかったあの湾岸戦争のアメリカの行動が、ふと彼等が言う聖書なるものの一章に合点がいったことと、それを日曜日に唱和し誓いを立てている人たちの行動であると、あの時は寂しい理解をしたものだ。


このところ我々はつねに数値の多少を根拠として事象を見るようになってきた
軍事力、経済力も他国の比較について其の量を問題視してきた。それは努力次第でどうにでもなる数字だ。よく危険度を探るに兵器の性能をみるが、過去の実績、占領運搬への船舶数と渡洋能力、侵攻意図のなかで最も重要なのは軽薄な欲望を充足させるような夜盗、海賊の類ではなく、自国のシステムや習慣への隷属を含めた、血の支配、つまり混交による種の拡大が根本にある。

軍の勝敗や祖国の興亡が戦争なら、その後の婦女子陵辱による血の汚れであり、殺戮による民族浄化や、血の系統の抹殺にみる本能的な行為は国内の部族、あるいは近隣家族といった部分から、宗教、思想を背景とした排他行為、経済利敵など多岐にわたる要因を観ることができる。

また動物のように環境に則して凶暴さを宿す種もあれば、柔和な姿をみせる種もある。
あくまで人間から見た姿だが、柔和な弱者の凶変や凶暴さを宿しながら泰然としている各々の種は指導者なり精霊を戴き、民族という名で営みを継続させている。

誘惑とは誘い惑わす、あるいは惑わされることであるが、経済軍事の多少、大小、ことに其の数値を基とした他国との比較は前章に表れる人間の一方を際立たせて、その姿として戦渦を招来させている。
とくに、経済のしがらみから大が小を呑むといったことが顕著になり、たかだか人間の大義を謳うという理屈の付回しで、国際間でも付和雷同を起こしている。





                 

     孫文をして真の日本人と言わしめた後藤新平




遠い過去から大量の生き血を吸い込んだ大地は腐葉土のように各々の種の営みを支えている。そこから精励への畏れと生命への感謝が芽生え情感として人の心の糧となっている。
回顧や恩顧も時を得て甦り、あるときには無常と儚さを抱かせスパイラルのように人の歴史を繰言のように繰り返している。それはアカデミックな検証とは異なる、人の科学ともいうべき姿をもって、茫洋ではあるが、゛人生゛という名で人間種を成り立たせている。

現世のみに埋没し、生死で表される肉体的問題と一方の本能的要求として、かつ非生産的と遮断されもする、人間としての本性の在り処を自得して、その甦りに期待するには、潜在するであろう、様々な因子を含む力を知ることだ。





                


            津軽の夏



余談だか、巣鴨拘置所の教誨師であった仏僧の花山信勝氏は筆者に秘話を伝えた。
「東條氏はエリートで地位もあった。ただ、私の語りに、゛其のことを早く知りたかった゛と慙愧の念を持っていた・・」

国民の生命財産を守るために軍事を増大させ紛争も解決し、財産を増やすために経済を拡大させた、これが国家の繁栄であり、国威の伸張であると国民を鼓舞した当時の政府の言は、字句を変えれば今とどこか似ている。いや現世はそう流れるのだろう。

ただ、゛早く知りたかった゛ということに含まれる、もう一方の人の心に潜在する力、連帯すれば国力の在り様を疎かにしてはならない。

これを忘却したとき国内の施策は浸透せず外交は混迷する。諸般の因は表層をなぞっては分からない。

潜在する真の国力に目覚めるべきだろう。

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「人間考学」 日中はそれぞれを「用」とするか、「体」とするか   8 5/18再

2025-02-02 20:16:45 | Weblog


 それぞれの「体」(本質)を理解しつつも、それぞれが「用」(利用、活用)とする妙な関係がそこにはある

今どきの6,3,3制の官製学と教職員による「知った、覚えた」類の数値評価選別には皆無の人間考学ではあるが、「活かす」とはその種の問題に含まれた人の交歓を云うのだろう。あの安岡正篤氏も「応答辞令」について、よく言の葉にのせていた。また、異民族との交歓において、よく感じられることであり、かつ有効となる倣いでもある。

 中国は日本に中国的なところを観る。日本もそのように感ずるところがある。

 ここではチベット,餃子など中国に向けて投げかける問題と、靖国、南京を相殺するものでなければ、それぞれが哀れみに近い人情を相互の問題として理解するものでもないが、縁あってアジア圏に棲み分けられて、あまりにも儚く、切なく,亡羊の歎きに近い感情交換する隣人について、童心のような不思議さを考えたい。

 天安門事件から6年後、あの時の緊張と感動の体験を引きずって訪中した。
 広場はほのぼのとした情景が広がっていた。天安門の楼上から見る広場には占拠したトロリーバスや革命記念塔に翻っていた紅旗はなく、革命記念堂の石段に座っていた多くの青年の姿もない、いつもの広場だった。

 数万ある広場の敷石は翌年取り替えられるという。そっと両手を着くと自然に膝が折れた。目の前では童が凧揚げをしている。あの時と同じ空は青かった。

 訪中は中日青年友好中心(センター)の董事長との面談だった。
 彼は共産党青年同盟の元委員長という履歴がある。あの胡主席を始めとする現政権幹部の出身母体である。センターは中曽根、胡書記と合意した3000人の青年交流のために作った複合施設である。日本大使公邸前の広大な敷地にホテル、劇場、室内競技場が点在している。

 

陳松 中日青年友好中心董事長との招宴


「友好」と「誘降」ユウコウ

宴はその言葉で始まるわけだった。
「日中友好を祝って・・」

参会者が杯を上げたときだった。
「お待ちください。ユウコウとは日本人は友の好きと書きます。また政治家や商売人はユウコウの下心がありますが、自分はアジアの友人として杯を干したい。貴国は時折技術と資金を思い図ってユウコウと言い、日本人も訳もわからずユウコウと連呼していますが、「誘降」では永い好誼は出来ません。これからは立場を超えてアジア万歳でいきましょう」

 通訳者は慎重に言葉を選んでいる様子だった。通訳が終わって10秒位の沈黙があった。これを通常外交非礼というのであろう。しかし、政治舞台に居れば党幹部、政治局の重要ポストに就いただろう彼の立場において、あえてその位置に留まる意志に委ねた提言だった。

 董事長は破顔して「そうしましょう」と言葉を発した。
その後は宴テーブルに盛られた料理はそっちのけで、庶民好みの北京銘酒「京酒(雑穀酒)」と無造作にニンニク(日本ほど辛くない)を椀に盛り、それをカリカリしながら乾杯、いや連杯が始まった。

 止め処も無い宴が終わりに近づいた時、「○○さんに中国各地の有数の△△の優先的使用を認めます」
もちろん「そんなつもりで来たのではない、結構です」と応答した

それを感応して、また宴が続いた。

標題の「体」は同じと観た。だが「用」の使い方に巧みさはある。
翻って日本人としての「体」はどうだろうか。
用」が慇懃で巧妙になっては居ないか。

彼の国の人々から、日本人の「ハナシ」ではなく、吾を言う自信を持った「語り」を見たいと云われたことがある。「脅せば黙る」は歴史とともに相互に交差する。

孫文は死に察して側近の山田に述べている。
「真の日本人がいなくなった」と。
彼らの言う「真の日本人」とは、筆者の命題となった。

つまり「用」でなく、「体」の認識である。

 経済発展は西洋の市場と金融グランドに順化する。
 それは、我国が緊張する「用」としての「反日」から、将来は「体」を再考する「反西洋的」に転化するだろう。

 豊かさと、平和、人権、自由、民主は、その美句、美章であるからこそ、理想像を構成し誘引される形であるが、辿り着いた実感は弛緩した「体」を露呈し、「用」のみが利便性、有効性として、「無用の用」が説く、人と自然の関係を無意味な位置に追いやっている。

 我国においては潜在する意識、直感に近い観察で問題を捉え、その本質を認知する人々が増えてきた。彼の国にも「用」のみでなく「体」、ここではアジアの「体」を憂慮する人々が居る

まんざらでもない隣国との将来である。

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小事に見る歴史の特異点

2025-01-31 07:06:54 | Weblog

  「敬重」は畏敬の存在である。生存を委ねる政治家は見た目の「羨望」ではない。

   ことに、浮俗の衆を助長させる行為は慎まなくてはならない。

 

 

前号の小泉進次郎君の「特異点」について多くの反響があった

記載したことがある章ですが、歴史の「特異点」について抜粋参考とします。

 

元国策研究会 村岡聡史の稿

 

≪Ⅲ  歴史に学ぶ≫

本節では、歴史(客体)を学びつつ、歴史(主体)の中に教訓や知恵を発見するという課題について論考します。やや大胆な発想になるが、ここでは大日本帝国崩壊をミクロの視点(小さな事系)から分析していきます。

 

①  青年 中岡艮一の短刀 (起)

大正十年(1921) 11/4 大阪毎日号外。「原首相、東京駅で暴漢に刺され絶命」翌朝の見出し、「狂刀、心臓をえぐる。犯人は十九歳の鉄道員(大塚駅)中岡良一」

ちなみに、中岡艮一の出自はそれほど低くはない。彼の父は土佐山之内容堂家の藩士中岡精で、伯父中岡正は維新の志士で、故板垣伯の先輩である・この暗殺事件が中岡艮一の単独犯七日、あるいはまた、なにか複雑で大きな政治的背景をもった犯行なのか(黒幕説)、近代史の専門家でも諸説あり、現在でも不明である。

いずれにしても、大正期の大政治家原敬は頓死してしまった。

事件当日、原首相の周囲には警視庁、政官界の随員など三十人がいたが、あっという間の出来事であり、気付いたときには既に瀕死の状態であった。(凶行後15分死亡)

当時の原敬(南部藩)は内外で期待された大政治家であった。彼は伊藤博文が結成した政友会を藩閥、官閥などの人材を取り込み、結党以来最大、最強の党にまで発展させた。その剛腕というべき政治手腕(マキャベリスト)の一方で、議会制民主主義にも深い理解を示し、多くの国民から平民首相として歓迎されていた。(デモクラット)

その原敬が無名の青年の「短刀一本」で頓死してしまった。

 

英紙デイリーメール(大正10  1/4) は書いた

原氏の死によって氏の堅実な勢力がワシントン会議の上に影響する日本の不運を悲しまなければならぬ原氏は内政に外交に偉大な抱負、経綸をやり遂げる不僥不屈な精神をもった偉大な政治家であった

たまたまシベリア、山東等の問題で非難を受けたが、これは人格云々するものではない。氏の死は日本、否、世界にとっても悲痛な事件であるとともに、世界平和の世界的運動の上に、日本の公平な態度を了解させ、また外国に日本の地位を了解させるために努力し、日本の地位の向上に力を尽くした公明な人である≫ 傍線は村岡

英紙の論調は元老山県の伸吟になって現れる。

 

元老、山県有朋の呻吟 (承)

政友会と元老山県の連絡役として水面下で活動していた松本剛吉(後の貴族院議員)は、事件を知ってすぐに山県邸に急行した。山県は八十五歳の病体を横たえていた。以下は松本と山県の会話である。

M 閣下、原首相が東京駅で暗殺されました

Y 何・・・、原が殺られた・・・、本当か。

M はい、犯人は大塚駅の若い駅員とのこと。

山県は呻(うめく)くようにして

Y 原が殺られては・・、原がやられては・・・、日本はタマッタものではない。

そう言って呻吟した。(参照 松岡剛吉政治日誌 岩波1959)

 

問題は『タマッタものではない』のスケールの大きさである。単に「国益のマイナス」レベルではないのか、「国家の崩壊」レベルなのか、という問題である。

前者ならば、人為的な政策で対応可能であるが、後者ならば、人為的な政策では対応することは極めて難しい。最悪の場合、歴史の自動律的な巨大な慣性に押しつぶされ、国家崩壊への坂道に転落していくことになる。元老山県の伸吟はどちらを意味するものなのか。結論からすれば後者である。それは山県の更なる呻吟(うめき)に耳を傾けたい。

Y 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 (再び) 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 

何度も伸吟(うめき)を繰り返している。元老山県をして、うなされるように。この呻吟を吐かせる根本は何なのか、と自問自答したとき、結論は一つ、山県は「明治国家の崩壊」を予感(予知)したわけです。

幕末維新の動乱を辛くも生き残り、下関戦争、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦等々、幾山河の修羅場を経験し、国際社会のパワーポリティクスと明治憲法体制の構造的欠陥をも冷厳に認識していた山県である。世俗の老人から聴こえる呻吟とは同列に論ずることは絶対にできない。

以下は、元老山県の真理と予感を村岡流に分析してみた。

松陰先生以下の名前の連呼は、幕末維新以来心血を注いで営々と建設してきた明治国家が、この暗殺事件を契機に崩壊の過程を歩み始め、自分〈山県〉には、もはやその歩みを押し止めるエネルギーはない。だから、連呼した方々に祐けを求めたい、これが理由ではないだろうか

 

もう一つは、みなで建設してきた明治国家が早晩崩壊していくだろう運命に対して、無力な己の境遇に「申し訳ない」という謝罪の意味。

 

第三に、山県は次世代の人材に対しても危機感を持っていたと思う。つまり、明治の第二世代〈官製学校エリート〉にあっては、知識の量は増えたが、それを内外の大局的見地から政策に活用するべき、智慧と勇気と経験が欠けているというクールな認識がある。その有為なる人物の問題に関する危機感が呻吟として現れた。

 

第四に、以上の三点と「明治憲法体制」の構造的欠陥が結合すると、国家は物理現象のように自動律的に崩壊の過程を進んでいくことになる。山県は瞬時にそのことを見抜いていた。

 

明治憲法は、建前上では「天皇は統帥権の総覧者、大元帥」と規定されていたが、運用は英国流の「君臨すれど、統治せず」であって、政府が輔弼責任を負い、天皇には責任が及ばないようになっていた。

しかも、厄介なことに首相は各省大臣の同輩中の酒席程度のポジションであり、各省大臣の任命権を有せず、ゆえに内閣(政府)は憲法上、極めて脆弱な権力基盤の上に立っていた。

考えは簡単。薩長土肥に代表される維新の功労者たちが、成文化された明治憲法体制の欠陥を、補って余りある政治的手腕を発揮したがゆえに、「ボロ」が顕在化しなかったわけです。文字は無機でも、人物に依って有機的機能を発揮したのです。

彼らが次々に世を去っても、元老として山県等は内外の政治を支えていました。

 

ところが、元老も次々と世を去るにつれ、明治国家は扇の要を失ったように弱体化してきた。次代は立身出世を企図し、その用として官制学校歴の数値選別に励み、官位は名利のために用とする風潮がはびこってきた。この段階から遺産の食いつぶしが始まったといってよい。

山県が描いた次代の元老を原に委ねようと考えたとしても、不思議ではない。もはや、歴史を俯瞰して内外を総攬する見識を有した人材は原の頓死でいなくなった。

「原が死んだら日本はタマッタものではない」という伸吟は、明治国家建設の参画者としての危機感の表れであり、明治国家の将来への危機的憂慮として元老山県なりの逆賭でもあった。

   逆賭・・・将来起こりうることを想定して、いま手を打つ。

山県は本件の三か月後の大正十一年八十五歳で亡くなっている。

 

➂ 長官 山本五十六の手紙

山県の没後、二十年の歳月が過ぎた。

その間、明治国家は内憂外患の諸問題を継続的に受けていた。内に於いては関東大震災、昭和恐慌、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、外においては満州事変、日中戦争、日米通商航海条約破棄、ハルノート等々。それは内憂の政治的要因、外患の経済的、軍事的要因など、明治以降の外征的政策と前記した国家構成上の構造的問題が一挙に出てきたような時代の流れでもあった。

とくに外憂の要因を惹起する国内の政治的抗争を誘引するような軍事的(人事、陸海の歴史的軋轢)など、多くは明治創生期に勃興した軍事を中心にした国力伸長を期すという政治構造が内憂の大きな部分を占めていたようだ。その行動形態は民生、経済、政治がバランスを欠くこととなった。

つまり、国家統御の弛緩(人事、組織のゆるみ)は弱点として外患を誘引する問題ともなった。

 

結局、昭和十六年十二月一日の御前会議で、米英に対する開戦を決定することに結び付いた。要因の切り口はさまざまだが、ここでも各界の要路における人材、つまり用となる人物登用の問題として、山県の伸吟に現れているのだ。

満鉄調査部、総力戦研究所などの部署では、正確な資料分析(総合国力の比較)の結果、日米開戦不可論を提言(山本五十六等)していたが、もはや歴史の運動量が万事を決していた時点では、諸組織,諸個人の抵抗力(抑止力)では止めることは不可能な状態だった。

以下、それを象徴する「山本長官の手紙」に着目して歴史を学んでみたい。

 

日米開戦の二カ月前、山本五十六(長岡藩士高野貞吉の六男)が海軍の無二の親友、堀悌吉(当時は予備校)に宛てた遺書とも思える手紙がある。以下要約する。

昭和十六年十月十一日

一 留守宅の件、適当にご指導を乞う

二 大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。・・・これが天なり、命なりとは、情けなき次第なるも、いまさら誰が善い、悪いといったところで始まらぬ話なり。

三 個人としての意見は正確に正反対の意志を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。これを命というものか。

傍線部(村岡)は、山本個人としては、三国同盟に反対し、日米開戦にも猛反対してきたが、歴史の巨歩が万年を決した今となっては、日米開戦に突進せざるを得ないと、海軍の一員として山本長官の覚悟と決意を語っている。この手紙は、組織(規律)と個人(良心)との関係を考察する上でも貴重で深刻な史料となっている。

 

     

          

 

Ⅳ 安岡正篤氏(48才) (結)

更に四年の歳月が流れた昭和二十年八月十五日、大日本帝国(明治国家)は崩壊(滅亡)した。国内の大都市は空襲で焼け野原となり、広島・長崎には十五日の正午、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を流し、国民の日本の敗戦と、終戦を知った。

その三日前の十二日、大東亜省顧問の安岡正篤氏は、迫水書記官長が内閣嘱託の川田瑞穂氏の起草依頼した草稿に朱筆(監修修正・加筆)を入れている。

「万世の為に太平を開く(拓)かんと欲す」(拓)は筆者挿入

この言葉、敗戦後の日本の政策(経済重視・軽武装)を見事に象徴した表現ではないだろうか。このように元老山県の伸吟は、敗戦を経て四半世紀(25年)の時空を経て、顕現したわけです。

寳田先生の備忘録では、安岡氏は敗戦間際、旧知の哲人(岡本義雄)に漢詩を贈っている。それは大東亜省の顧問であり、文京区白山の町会長でもあった安岡宅に早朝訪問時のことだ。

「先生、先生は偉い人だと聞いた。毎日の空襲で国民はもがき苦しみ亡くなっている。軍は聖戦だと騒いでいるが、このままだと日本および日本人が滅亡してしまう。・・・」

安岡氏は大東亜省の迎車を四十分も待たせて、側近には『来客中!』と告げ、岡本の烈言を聴いている。

数日して秘書から一幅の漢詩が届けられた。

 

漢詩簡訳

春の朝、夢を破って空襲警報が鳴る

殺到する敵機は雲のように空を覆っている

炎はすべてのものを焼き尽くしているが、嘆くことではない。

塵のような害あるものを掃って、滞留した忌まわしい風を除くだろう

 

傍線は、明治以降伸長し、ときに増長し、組織的には立身出世を企図した上層部エリートで構成する組織の止め処もない増殖は、国家の暗雲として天皇の権威すら毀損するようになった。

これを、国家の暗雲として、いかんともしがたい内患として安岡氏は観ていた。その憂慮の根底は天皇を象徴とした多くの国民の安寧だ。

また、邦人が支え、醸成し永続した国柄の護持への危機感だった。

漢詩では、「君、歎ずることはない」とある。劫火同然(焼き尽くすことによって暗雲は祓われ、新世界が訪れるという激励の漢詩でもある。

終戦の詔勅に挿入した、万世・・は、「世が続く限り平和であることを願う」意味は、まさにこの継続した意志によるものだ。と、寳田先生は記している。

 

     

      米国の特異点は・・・

 

Ⅳ 歴史の特異点

要するに、山県が憂いたように、駅員、中岡艮一(こういち)の短刀一突きで(歴史の特異点)を契機として、事後、明治国家は崩壊したことになる。

「そんなバカな・・」と思う方は大勢いると思う。

では、私も聴いてみたい。セルビアの一青年の短銃一発によってオーストラリア皇太子が暗殺され、これを契機に第一次大戦まで発展し、人類に未曾有の不幸をもたらした訳です。

これは歴史的事実であり、世界史の教科書にも記載され、ほとんど常識化されています。

ルーマニアの独裁者チャウシェスクも集会に集まった群衆の一人の青年が「バカヤロウ」と発声したことで群衆はおののき、混乱して、終には栄華を誇った独裁政権はなんなく崩壊しています。

事後はさまざまな観点から原因を研究されていますが、貧困、軍の膨張、他国との軋轢、国内の政治事情など様々ですが、もしそこに沸点、飽和点、があるとすれば、一刀、一発、一声は、現状崩壊、覚醒、更新の端緒として、また研究者には歴史の特異点(分岐点。キーポイント)として、かつ問題意識をもった人間の行為として記されるものです。

第一次大戦に至る因果関係は諸説あり、専門家の間でも紛糾しますが未だに確たる定説がない。つまりよくわからない訳です。結局、歴史学(人文科学)岳からのブローチでは、自ずから限界があり、納得のいく合理的説明ができない訳です。やはり、社会科学、自然科学の成果を取り込み「腑に落ちる」説明に努める必要があると思います。

つまり「思考の三原則」に順って、根本的、多面的、に思考し、もって歴史の特異点として回想することだと思います。

以上は「歴史の特異点」に接近するための一般的、描象的な方法論を説明したものですが、より客観的、実際的な方法論として、二つの処方箋を提示したい。

①   まず第一に、或る小さな事件が発生したら、それは、もしかすると「歴史の特異点」かもしれない、と直観を働かせることだ。元老山県のように「人間考学」を学ぶ意義はここにも存在している

敷衍(ふえん)すれば、「人間考学」は、単に記号(文字)の順列、組み合わせを表現しているのではなく、直感(カント流にいえば先験的認識)を前提にした直観(絶えざる学修、経験による後天的認識)を働かせることを主題としている訳である

つまり、「実相観入して神髄を極める」ことである。

 

➁ 現代数学の一分野である「複雑系数学」(フラクタル理論=自己相似、ベキ乗数の理論、バタフライ効果など)の基礎概念について理解を深め、それを「歴史の分析」活用してみることである。

たとえば、ヒットラーのモスクワ侵攻(失敗)をナポレオンの同様な侵攻と比較考察しても、(失敗要因として双方、極寒には勝てなかった)これはフランクタル(自己相似)の関係にあると考察することである。一駅員の中岡良一の短刀とセルビアの青年の一撃も然り。

このように複雑系の数学を活用することによって、歴史を多面的、根本的、将来的に分析し、現代の現象に活かすことが大切なことである。

以上のように論考しくると、何となく「腑に落ちる」ような気がしますが、実は現実には厄介な問題が水面下には存在しています。

「歴史の特異点」において、発生は偶然の産物であり(必然性はない)、それが「歴史の特異点であるか否か」を認識できるのは、元老山県有朋のように、ごく一部の例外を除いて事後的に結果を知っている未来の人であって、渦中のほとんどの人は「歴史の特異点」を認識することは適わないという事実である。

このように論を進めていくと、「慧眼の士」は、「なんだ、結局、理解にならない説明をしているだけではないか。それは要するにトートロジー(同義反復)じゃないの?」と思うでありましょう。であるならば。とりあえず「然り」と応えざるを得ない。(認識論理の限界)

 

ここで皆さんに質問したい。曹洞宗の開祖である道元「不立文字」(文字によらない)と、「正法眼蔵」(仏教哲学の書物)の関係は如何かと。

その解答(回答にあらず)のヒントは、「人間考学」のなかに存在している。

認識の論理(合理的思考のプロセス)と実在の論理(正反一如)とを比較考察してください。そして繰り返しになりますが、直感と直観の大切さを理解ください。

 

     

      青森県 むつ横浜より陸奥湾

 

 

寳田先生の抄

碩学といわれた安岡正篤氏も、「真に頭の良いと云ことは、直感力の鋭敏な読み解き」と言っています。

その意味では、地に伏し、天に舞うような俯瞰力(眺め意識)をもって事象を考察することを勧めたい。

また、前記した「逆賭」(将来起きることを推考して現在、手を打つ)だが、難儀な労を費やす論理の整合性を求める前に、東西の学風にある同義的研究を対峙することではなく、南方熊楠が希求した東西の融合を通して、異なるものの調和を図るような寛容な人間(人物)陶冶こそ、人間考学の理解活学と目指す万物への貢献かと考えています。

その上での理解の方策として、東西の学風を用とすれば、各々の説家(研究者)も大局的見地で協働が適うはずです。

山県氏でいえば、土佐藩主山内容堂の見方として、幕末維新の騒動は、多くは無頼の徒の行動だったと感じていました。維新後は名利衣冠を恣(ほしいまま)にして、政官軍の上位に納まり曲がりなりにも国なるものを操ってきた

政権につく与党もいずれそのようになるのは、下座観を基にしてみれば良く分かることだろう。

その経過は、当初、出身郷(藩・地域)の競争をエネルギーとしてきたが、少し落ち着くと軍閥、官閥を蟻塚のように作り、威勢を誇り、なかには功名争いをするものまで出てきた。胸章や褒章で身を飾り、職位が名利食い扶持の具になってきた。それは獲得した「場面」を価値あるものとして戯れ、愉しんでいるような児戯でもある。

 

その中で名利に恬淡で剛毅な鉄舟に縁をもち、維新功臣から除外された旧南部藩から原敬が台頭してきた。

似たように児玉源太郎の慧眼もあり台湾民生長官として功績のあった後藤新平も岩手水沢出身の、官界の異端児(変わり者)だった。愛媛松山の秋山真之も然り、みな不特定多数(国内外を問わず)の利他に邁進し、人情にも普遍な日本人だった。

その気概は、我が身の虚飾を忌避して、物に執着せず(拘らない)、名利に恬淡な人物だった。

老成した山県が有用とみたのはその至誠ある人物だった。

武を誇り,威を振りかざし、竜眼(天皇)の袖に隠れて権力を壟断する明治の拙い残滓は危機を誘引し惨劇を異民族にも演じた。

また、それが明治創生期にカブレたようにフランスから借用した教育制度の成れの果てでもあった。とくに数値選別では測れない、本来有能な人物を見出すすべのない教育制度は、戦後の官域に残滓として残り、現在でも同様な患いを滞留させている。

 

山県の危惧は自身の成功体験が時を経て、善悪、賞罰の見方を転換させる状況が生まれてきたことを表している。それは西郷が「こんな国にするつもりはなかった」と言ったという事にも通じます。

 

つまり、勝者の奢りから安逸になり、組織の規律は弛緩し、模範とする人物は亡くなり、増長することによって自制するものもなく、終には自堕落となって、白人種の植民地経営を模倣し、大義を弄して異民族の地に富を求めるたが、老境に入り、かつ死後のいくすえを思案する精神的境地に至ったことで、人物の真贋や無私の観察ができるようになったと思います。

そのとき、掃きだめの鶴のようにオーラを発していたのが原敬だったのです。

 

山本権兵衛海相は、地方司令官の東郷平八郎を連合艦隊司令に登用した理由は、「運が良い」と観たからでした。その運の良さは、部下にも恵まれました。参謀の秋山真之ですが、これも緻密な作戦を立てますが、最後は「天祐」(天の祐け)と述懐しています。

児玉は国家の危機に二階級降格までして日露戦争の参謀長として心血を注ぎましたが、司令官は愚鈍とも思える大山巌でした。それが東郷や大山の涵養した国家に有効な「観人則」だったのです。

思考の多様は、意図すれば目くらましになる。あるいは目を転じさせる興味があれば人間は、深く、落ち着いた思索を疎かにしてしまう。

それは、他があって自己が存在するという「自分(全体の一部分)」の確立を妨げ、連帯の分離、コロニーからの離脱、排斥、といった茫洋としたところでの夢遊な自己認識しか、できなくなってくる危険性をはらんでいる。

 

      

   

   小泉君は、台湾でも人気の政治家

 

清末の哲人、梁巨川は「人が人でなくなって、どうして国が、国と云えるのか」と。

その「人」とは、どのような人間をみて感じ、察するのか。いまどきの人格とは何ら係わりのない附属性価値でいう、地位、財力、経歴、学校歴(学歴ではなく)を人間判別の具にしたのでは見えてきません。

今は、食い扶持保全のために高学歴エリートが、その知を、我が身を護るための用として虚言大偽を弄し、文を改竄し、責任回避します。

≪文章は経国の大業にして,不朽の盛事なり≫

これは山県でなくとも「タマッタものでない」と思うところです。

いかがですか、人間考学は、あなたの内心を怖がらずに開け、無駄なものは省き、器を大きくしたところで素直に事象を観察することです。老境の域にならなくとも、童のころに戻れば醇な心は還ります。

それで眼前の事象を眺め。考察することです。

人間考学」は、思索や観照の前提として、まず自らに浸透しなくてはならないことへの促しです。それは「本(もと)立って、道生ず」まずは、その内心に本を探り(己を知る)、特徴に合わせて伸ばし、道を拓くことです。

 

その道の歩みも、やたら巧言を語らずに、体験を糧に内心に留まった考察を反芻して、利他のために発するのです。

口耳四寸の学といいますが、口と耳の距離は四寸くらいですが、聴いた、見た、知った、覚えた、この簡単なことを身体すら巡らすことなく口から発することは「話」言べんに舌ですが、「語」りは、「吾」を「言」うです。

つまり梁巨川氏も言うとおり、吾のわからないもの、知ろうとしないものは、彼の云う意味での「人」ではないのでしょう。

その「人」を考える、人の織り成す現象の行く末を想像する、それが「人間考学」命名の由縁でもあります。

 

平成の結びに

 

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天涯孤児の人情と許容

2025-01-27 23:43:27 | Weblog

天涯孤児の人情と許容

父母不明、親類縁者なし、朋友は見当たらず

 

アカデミックに考えるものではないが・・・。

人間は産む本能、あるいは性欲にいう男女交接の歓喜は、なかなか口舌に挙がることは無いが、まつわるハナシや五感を触発する成果物(著作、映像)は数多創造されている。人生の潤いにおいても大切なことではあるが、秘めた心情はより増幅した想像を生んでいる。

 

斯様にもってまわった言い回しだが、あからさまに性交の誘惑や歓喜にまつわる話題を秘めた仲間以外には話すことはない。ただ、視界に思いがけずに飛び込む異性の衣服の乱れや、誘惑されるわけでもないが勝手に妄想してしまう欲望の衝動は男女を問わず覚える程好い緩みの一瞬であろう。

 

          

 

そこまでは至極よくある秘めた情感だが、同棲、結婚、生活、離婚という状況に置かれると、飽き、抵抗、排除と動物のバーバリズムというべき理性とかけ離れた自身にも説明のつかない行動がおきる。

建前の理性と本性の野蛮性、良きにつけ悪しきにつけ人間には併存している。

それまでの恋慕や愛、尊敬、追従といった単純かつ素朴な情感が一瞬のうちに転化することがある。昨今は産む、育むといった人間の継続や情緒にかかることまでがそれらと衝突するように、かつ乖離するかのように多くの事件なり煩いを引き起こしている。

 

よく誕生した幼子を゛愛の結晶゛というが、前記のようになれば憎しみや排除の対象、つまり当たる対象として、あるいは己の自由の担保の障害として忌諱することがある。愛玩ペットの犬や猫もそのターゲットになる。総じて弱いものであり、他に見せる幸せ感の虚ろな慈愛の演出小道具のようなもののようだ。ブランドに身を飾ることと同様な状態である。

 

それは往々にして異性より同性に向けられる優越表現のようなもので、しかも相手に優越性があると、より飽きや反目、排除が昂進され、その都度目新しい更新が繰り返される。

それゆえ宿命に対する反目や弱きものへの排除が巧妙かつ陰湿に行なわれ、それを覆い隠すように表層の慈愛表現もその深さと華麗さを増すようなる。

 

それゆえ表裏のギャップは自己愛の演者として、止め処もない切迫感を生んでいるようだ。

それは他に心を悟られない行動として陽気さを表現し、内心においては案山子のように内外のバランスに苦渋するようになり、生活にも落ち着きがなくなる。

 

         

 

 

国家の衰亡を説く「五寒」(当ブログ内参照)に「内外」という、内政が治まらないために外部に危機を煽ったり、足元の政治が成り立たなくなる状態がある。

家庭なり人間では、内面(内心)が治まらなくなると外に気が向かい。いや他が気になって仕方が無いという状況だ。無駄が多く整理がつかなくなり乱雑になる。そして子供は騒がしく落ち着きがなくなり、考えることが疎かになり流行ごとに追従する。そして流行ごとを競争し争うようになる。

 

その社会なり国を衰亡させる「五寒」には、「女厲」がある。

女性が「烈しくなる」という。つよき母、シッカリものの女房ではない。「烈しく」なる。

 

そうなると「敬重」という、敬うことがなくなる。つまり父母、師弟、為政者、精霊などの存在を功利的、数値的な損得に置くようになる、と「五寒」では警告している。

 

虐待、放棄、殺人、遺棄、など、良し悪しの分別もそうだが、まるで憎しみの衝動のように幼児に向けられている。邪魔なのか飽きたのか、ペットの如く母を魅せていた、いや、゛オンナをしていた゛女性の変容は、阿修羅のような母の剛というより、゛烈゛のはげしさをみせている。

 

よく「男とは違い女の性欲は精神が大切」と聞くが、性欲はなにも肉体交接に限ったものではない。ジャマを排除するのもその為せることだ。ここでのジャマは、邪(よこしま)の魔ではなく肉体を分けた幼児であり、一時は狂うほど恋慕を寄せた夫であり、信頼を謳った友人である。

 

決して女性のみの問題とすることではないが、一体化した細胞が体外に産出されたときからどのような関係になるのか、それは鈍感化したかのような男性には感じ取れないよことだ。

こと雄か雌かの区別だが、女子の優れた性、あるいは劣性ともいえる排他性が対立するかのように、葛藤にも似た苦悩は多くの患いを発生させ、その烈しさとともに社会をも劣化させている。

 

それはデーター数値ではなく、群れの盲流に起きる、微動が激動になるような衝突や、檻に入れられた子犬のけたたましい叫びが解放とともに歓喜に替わるように、つねにプロパガンダに触発された安易な不平と不満に囲まれていると、゛易き゛解き放ちに充足するようになる、つまり明確な処方も無いような風、ここでは社会の「気」の噴流のようなものである。

 

亡羊な未来、つまり分かりにくい未来を醸し出す「気」の処方はある。整流と方向、つまり女性の、゛そもそも゛゛らしさ゛に整えることと、辿り着く道順を明らかにすることである。

男にも男の教育と習慣性が大切なことだが、女性にもそれがある。

ここでも障害となるのは恣意的に使われている自由、民主、平等、人権、などの啓蒙的宣伝への盲従である。それしかないという思索と観照の狭さが問題となってくる。つまり、頭の整理より肉体の習慣化と、そこから自覚する互いの性の異なりと分担の峻別を前提とした宣伝への問題喚起であろう。

 

小難しい理屈のようだが、オンナは女でありオトコは男であるという当たり前な姿だ。それを前提とするならば何も専業は主婦でなく主夫もあり、所帯主も同様だ。家庭も国家も効果的な運用について妨げるものはない。ただ互いの性別という袖に隠れて守られながら不平や不満を垂れ流しても劣性が際立つことが問題なのだ。

 

江戸の川柳にも「女房に負けるものかとバカが言い・・」とあるが、心の自由は担保するのは貧しくとも、苛められても、如何様にも在るものだ。

 

        

 

いまから40年前のこと、当時はボランティアという呼称が周知していなかった。

筆者は司法ボランティアという枠の中で社会資源ともてはやされた多くの若者とさまざまな施設を訪問した。服装のことを例にしても時節の違いと生活規範の変化がわかるが、当時はまだ子供と大人の峻別と、悪いことは悪いと判る分別はあったようだ。

 

いまは、悪いことにも大きなワルと小さなワルがあると、多岐にわたる多くの事情を勘案した多くの論を交差させ、解決不能で茫洋な状態に迷い込んでいるようでもある。

 

あの時は論を恃むことなく言葉が無かった。つまり思春期を過ぎたばかりで正邪の峻別に素朴な疑問を持ち、情緒も荒削りな若者でさえ沈み込む思いだった。

とくに何歳も違わない施設の子供たちの姿は、今どきの施設訪問、視察、慰問、など、囲いの覗きや触りとは異なる衝撃あった。それはその後の社会観、人間観に多くの影響を与えてくれた体験だった。

 

施設の名は失念したが千葉冨里の海に面した養護施設だった。青年司法ボランティアが小父さんさん、小母さんと呼んでいた保護司と更生保護婦人会の訪問だった。収容されている子供たちは小学生。生活苦で扶養できない子供や、当時の筆者の感覚ではわからなかった夫婦の諸問題による扶養不能や、数年前のマスコミを賑わしたコインロッカーでの捨て子、事情を伺えば齢わずかといえ多難な宿命を負う子供たちだった。

 

下着も共有、つまり自分のものはない。今日のパンツは明日別の子がはいている。味噌汁には具が少ない。バットもグローブも自前で作っている。木の枝とゴムひもを利用したパチンコも器用に作っている。そして屈託のない笑顔と応答に、そう年代も違わない吾が身の境遇を考え直した。

それは大人の事情はともかく子供をコインロッカーに棄てる母というオンナの姿だった。ついぞ男が子供を棄てることは聞かないが、事情は共有するものだろう。いま問題にもなっている虐待も想像できる。

 

帰り際に手紙を渡された。まだ見ぬ母への手紙だった。

「この手紙、お母さんに渡してください」

ただ、どうしようと独り沈考したのを覚えている。

 

その後、保護観察所より委託された若者もそうだった。

父は不明、母は再婚、本人は教護院。非行、それも喧嘩だ。

クリーニング工場に勤め、右手の指と手のひらの境はタコが山脈のように固く盛り上がっていた。母恋しさか工場主の妻の入浴をくもり硝子越しに見ていたところを咎められ、そのまま飛び出した。恥ずかしかったと言ったが気持ちは理解した。

見たい、触れたい、抱かれたい、不埒なことではなく、雄の子の自然な本性だ。

次は印刷工場だった。根気があったのですぐ仕事は覚えた。

盆暮れは必ず小子にお土産を持って来てくれた。律儀だった。

 

        

 

夏の暑いさなか急死した。発見されたのは死後3日を経たときだった。

工場主が発見した。新宿コマ劇場で歌手の舞台を観るくらいの趣味しかなかったが、不思議と貯金通帳も印鑑もなかったという。連絡が来たときは荼毘にふされて遺骨は工場の2階に移され、間借りしていたアパートの備品は整理され、残っていたのはダンボール一個に入った人形だった。それはお世話になった人の子供に送るものだった。

 

数ヶ月して保険会社の女性から連絡があった。彼の階下に住む女性だった。

契約書には、もしもの時には筆者に連絡するようにと連絡先が記されていた。

相当な金額である。何れのときの結婚を計画してコツコツと納めていた保険だった。

もちろん預金もあっただろうが、詮索するすべもなかった。

だだ、縁者もいない保険の受取人の欄が気になった。

担当者は妙に躊躇しながら指し示した欄に彼を棄てた母親の名前が記されていた。

たどたどしい漢字だった。

 

「探し出して渡してください。叶うならお母さんと一緒に入れる墓を作ってくれるよう伝えてください」絞った言葉はそれだけだった

 

その後は追跡していないが、それが彼の男としての母への思いであり、生きざまに沿うことだと思った。生前、彼には母を捜して会ってみたらとは言えなかった。棄てた母への哀慕は彼にとって手のひらの異様に盛り上がったタコで充分だった。決して恨みを語ることはなかった。

そして、多くの人情を知って彼になりの誓いとして誇りにした。

保険受取人、 「母」

やりきれない思いで雄の子の大きな慈愛と許容力を教えてもらった。

 

 

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腰の落ち着かない防衛多論  19 7 あの頃も

2025-01-25 01:11:35 | Weblog

腰の落ち着かない防衛多論

 

腑に落ちない」は、気に入らないことではない。意志を共に行動するとき、頭で考えるロジックなるものを整理納得しても、生死の土壇場に係わる問題は、よく「腑に落ちる」と表現することがある。肉体にも感応する、つまり浸透するように沁みることを言うのだろう。「落ちる」は誤用ともいわれるが、書き物はともかく、内なる心の了解ごととして市井ではよく使う言葉だ。

耳から入った情報を賢察もせず口から出る、これを「口耳四寸の学」というが、耳から入り、頭を回って、身体内(体験など)を巡って口から発する、これを浸透学とか実学ともいっている。これに直感力が備われば、瞬時に反応できる。

 

 

わが国では兵士といわず隊員という。

ある壮年の団司令が、「我々は軍人とはいわない、でも武人です」と応えていた。

防衛当局者の、゛徐々に゛゛着々と゛が、無関心の国民からすれば、゛いつの間にか゛その防衛(戦闘)能力は諸国と比べて格段の向上をみせている。

軍事における宗主国のような米国とは、経済貿易における摩擦と称する論理を背景と、わが国の依頼心と迎合をチームバランスとして、物理的(装備等)、政治的、軍事能力において、その役割分担は、より明確さを表してきている。

それは戦闘の指揮権限や装備品にしても米国との共有性と指揮専権であり、米軍の軍事プレゼンス(存在感)を補完する部分は自衛隊と明確に分担されている。

 

例えば海上自衛隊は航空部門として海上の監視と警備、船舶は補給と第七艦隊の周辺警護、潜水艦やイージス艦がその任にあたる。航空自衛隊は空域の目であり、航空機の運用に欠かすことのできないレーターサイト、あるいは不明機のスクランブルや地対空ミサイル(高射隊)など、米軍が運用する日本国内の基地や政府施設の防衛警護の役を任じている。

 

とくに、兵站や航空警戒の空自、周辺海域警戒監視や戦闘艦となる太平洋軍の空母を中心とする第七艦隊(米国)の警護哨戒を任務とする海自は、米国司令部と緊密な連携をとって運用されている。安全保障協定の随時運営上の取り決めである地位協定では、指揮権、基地権、裁判権が明記され、国内に広大な基地を専有する米基地に寄り添うように空自、海自も配備されている。

 

極東軍司令部の横田は航空総隊、三沢基地は敷地の90%以上は米軍が使用し、自衛隊は残り僅かな敷地に基地司令部、第三航空団、北部警戒管制団が配備され、基地ゲートの管轄は米軍が行い、自衛隊員もその許可を得なければ基地にも入れない。

 

近ごろ、これも、゛いつの間にか゛だが、平床型大型護衛艦二隻(海外ではヘリでも戦闘機でも航空の母艦)に戦闘機を搭載するという。支援戦闘機には渡洋能力、ミサイルは距離を伸ばすなど、着々と自衛から外征型戦闘集団に装いを変えている。

近隣の軍事上の変化に応ずるのは政治の責任だが、今まで担ってきた米軍の警備・警戒・補給・基地提供が、米軍のお墨付きを得たのか、彼らが疲れたのか?、徐々に武装集団の運用が変化している。

それは、自主防衛を面前の問題としてきた制服組の当然なる欲求指向でもあり、その機能と戦略思考は徐々に態勢を整えつつある。

 

   

 

 

現実問題への対応には状況の鋭敏な観察と、自己能力と目標との対戦能力を測り、実働への不可にたいする事前計策が必要となる。まして面前に近づいている軍事攻守には待ったなしの判断が必要となる。

無関心や享楽遊惰の、これも、いつの間にか親しんできた浮俗の民情のようだが、火事に消防士の喩えのように、武装しなければ戦争がない、消防士がなければ火事がない、などの論では、最後は人の責任とする民情となり、その説明理解も難儀になるのは仕方がない。

ここでは、゛誰だって゛とは思うが、その誰が、゛自分゛になったら、生死は自分で決めなければならない。いくら税金を払って任せているといってもだ。

 

それとは別に防衛現場では、また癖が出て、しかも深くなってきている。

よく、明治以降の軍は人も組織も、欧米の植民地主義に抑圧された被抑圧民族からすれば、一時は光明にも映った時期があった。その特徴は組織になれば強固だが、まさに民族性癖という悪弊が発生する。

民は町会から各種団体、官は縦割りと、それぞれが蟻塚(コロニー)を造ってボスを推戴して同類の他組織と競い、利を企図するようになる。近年、謳われてはいる「個人」だが、その個人が各々独立できない蟻塚は、出れば風邪ひくヌルメの温泉のようで、目的を失くし怠惰、劣化、腐敗に進むことを誰も止められない。

 

とくに、肉体的衝撃を体験しない「戦争を知らない世代」になると、装備を持てば高邁になり、ときに夜郎自大にもなる。持てば使いたくなる。なかには威張りたがる。大型車や舶来車に乗ったり、世俗でもブランド装身具に身を包むと、男女問わず虚飾者同士が競い、そして争い、内心の争いになる。

中身が乏しいと、なおさらその劣情は激しくなり、ときに衆を恃み(味方を集い)闘いにもなる。人間では中身は健全な思考と価値観意識だが、国家では内政が騒がしく落ち着かい。そこでパンとサーカスだが、今は贅沢に慣れて効き目がない、そこで外に危機を煽り向けるのが為政者の常套手段だ。

 

          

 

 

ことに組織の内部統御について顕著になる。力のあるものは何れ弛む。政治権力もそう言われている。

細かい説明はいらないが、よき例がある。

終戦時の陸軍大臣阿南惟幾の言葉に軍人は政治に拘わってはならない」 「軍を失うも国を失わず

そして、将官だった子息戦死の報に側近が伝えた

「若い兵士の声をよく聴いた立派な士官でした」何よりも意を強く満足げだったという

筆者も機会あるごとに防大卒の幹部指揮官諸士に、統御は地位や肩書、あるいは内規に負うものではなく、本の立った人物に依ってこそ成るものだと伝えている。

また、教えることについても秋山真之氏の言を用いて、

 

戦勝の余光は一般社会の風教に変化をきたし、または外国将校等の交際もだんだん増加するにあたり、奢侈の増長する傾向がないとは言えません質素は軍人の守るべき最大要目です。礼儀を失せず、体面を重んじさえすればそれでいいのです。」

 

「今日の状態のままで推移したならば、わが国の前途は実に深慮すべき状態に陥るであろう。総べての点において行き詰まりを生じ、恐るべき国難に遭遇しなければならないだろう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救うのか」

 

教官から話を聞くことは啓発の端緒にはなっても、知識が増えるだけで諸君の知識が増えることにはならない。戦史を研究し、自分で考え、さらに考え直して得たことこそ諸君のものとなる。たとえ読み取り方を間違っても、100回の講座を聞くより勝る。」

 

そして、学生の書いた答えが自分の考えと違っていても、論理が通っていて、一説を為しているとすればそれ相当の高い点数を与えた。もし教官が自分の思い通りでなければ高い点数を与えないというやり方をすれば、学生は教官に従うだけになって自分で考えなくなる。その様では、いざ実戦で自分の考えで判断し、適切な処置をすることができなくなってしまう。」

 

あえて秋山氏の言葉をここで借用するのか。なぜ、再記しなければならないのか。

時代が変わろうと生命を賭す職掌にある若者に対する上官の普遍な心構えだからだ。

あえて彼らに語り、書き伝えるのかは、現況を実感して、秋山氏の云う「行き詰まり」を誘引する状況だと感ずるからだ。これが政治にリンクするとよりその傾向は明らかになってくるとの直観がある。また、それを推考する学びも亡失している。

憲法とか戦争とか焦点を当てることも必要だが、現われる事象はすべからく人間の及ぼす欲望の制御域の問題である。今は行政職の一端を担う防衛組織であるが、ときに肉体的衝撃をも含むその特異なる職掌と組織の性格をみるに、何処か形式的統御の様相が少なからず観えるのだ。

若い指揮官はいう。「自衛隊の最大の特徴は、未だ戦争を体験していないことです」と。

 

 

 

    

     北京の知人 作

 

思えば、その起因する状況も個人の考え方、社会の仕組み、国家の目的も、慣らされ、馴れた結果のシステムなのだ。つまり大自然に生息する犬も、犬小屋に入ればエサは与えられるし、散歩もする。本来、犬は散歩などしない。自由に大地を駆け、泳ぎもする。

人間に馴れるから名犬ではない。ちなみに檻から解き放たれ自由に動く犬の歓びと、顔つきならぬ犬相は、まさに犬らしい。

 

゛いつの間にか゛檻に入り、掃除され、エサもあり、小屋も居心地がよくても、いずれはほかの檻が気になり、不満も貯まる。すると吠える(声を上げる)。なにぶん外を知らないため、エサがまずい、日当たりが悪い、散歩が少ない、鎖(自由)が短い、などの狭い欲求だが、他の洋犬や若い犬がくると、人間同様に嫉妬や諍い、排除が働くようだ。犬には学歴ブランドはないが、それでも純血意識はあるのかもしれない。

はたして、野良犬から檻の中の従順な犬をみたら、どのように思うのだろうか・

たとえ貧しくとも、自由がいい、と思うに違いない。

 

人間の世界でも常人からみれば変人でも、その変人に興味を持ち、模倣したりすることがある。もちろん、居心地の良い檻での一時の夢だが、ひそかに、その純真さを覚えて、我が身を嘆息することもある。

 

歴史上でも、過去に立ち戻って、あの時の感情、些細な行動が後の惨禍の起因であったと思える特異な分岐点がある。防衛問題から大衆の集団化されたときの民癖、そして犬の人生ならぬ本来の、゛犬性゛に例をひらいた。

詰まるところ犬と同様に安逸の檻、それは皆で造って、悦んでいた檻が、つまらなくなって別の檻を求めたりても、脚力は野生に及ばず、考えは狭く、与えられた餌(課題)に無意味に腹を膨らませることのみ考えている飼い犬は、広い世界には通用しないばかりか、他の犬との普遍的交わりも難しい。たとえ柴犬がチワワの鳴き声を真似しても、似て非なる犬に相違ない。

 

   

     万物有霊  北京の知人作

 

人間社会も柴犬語、ブルドック語、ポメラニアン語のように、様々な言語が混在している。

ブルドックに守られたいとブルドック語を倣い、ポメラニアンの雌犬に気に入られようとポメラニアン語を習ったところで、純なる血統は雑になるだけだ。

 

まさに課題を与えられれば、課題そのものに疑問も抱かず、美味い餌ほしさに懸命に主人の好きな答えを出し、単なる一時の出来、不出来で、しかも毛並みならぬ、数値で選別され、居心地の良い檻に閉じ込められることに慣れた、それに似て安全と豊かな暮らしと沁み込んだ人間種には肉体的衝撃や、略奪、殺傷はなじまないはずだ。

 

近ごろではコンピューターと武器が、ファジーでバーチャル世界のような戦争を繰り広げている。痛くて、寒くて、帰りたい、そんな戦争は少なくなった。それでも血と涙は無くならない。

 

空も海も陸も組織はそれぞれの職掌がある。それは部分だが、それも前記した各々の蟻塚によって、分離し、機能不全になった歴史が厳存する。戦闘指揮権は米国とのことだが、平時組織の軍官僚の内部統御は、有事に機能するのだろうか。

なによりも有事になると想定したら、背後を支える国民の無関心に覚醒は望めるのだろうか。

 

すべては人間の問題とはいえ、厄介な民癖と蟻塚の存在は、現況の経済と装備をリンクさせた政策に、別の切り口で検証が必要となるだろう。

また、「生死の間」に生存の意義があるとしたら、あまりにも生命の亡失を想念しない学びに、一抹の不安と、かつ助長させる世俗の情況に憂慮さえ覚える。

力の優越を問う以前の問題として考えなくてはならないことだと思うのだが・・・。

 

 

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切り口として、少子化と虐待の遠因  19 7 あの頃から

2025-01-22 01:36:16 | Weblog

暑くなれば寒さが恋しくなる・・・・ 岩木山

 

SNSなら炎上は間違いなし。

ことさら勇気もいらないが、ゴマメの歯ぎしりとして当世を備忘してみた。

 

中華人民共和国は「一人っ子政策」という、゛人口減対策゛によって産児調整をしていた。

いまは小皇帝とよばれる子供たちが青年期に差し掛かっている。

彼の地の古い諺に、男児が4人いれば一家を机にたとえ、4脚の支えとして吉事とした。

ゆえに一人っ子政策では、女児は忌避されたりもした。

日本と同じで、まつりごとは皇帝、為政者も男子が担い、ときに則天武后や清朝の西太后など、幼帝を背後で支える政治を執り行っていた。まさに陰(地・女)の支え、陽(天・男)の動きだ。

ちなみに漢字を操るのは男子(漢)、なぜだか女篇ばかりで、男篇は見当たらない。いたぶる意の「嬲」(なぶる)があるが、同意だが女が男を挟んでナブルがある。当世は娘と女房に挟まれてナブラレているようで、やはり女篇が合う。

 

その昔、男子は武人や官吏として一族の繁栄に役立った。陰茎を断って宮廷に仕官する宦官も皇帝の権力を盾に、財を蓄えた。つまり、官吏も宦官も「昇官発財」を目的として、登用試験には名目として孔孟を学び、行いは「色(性)、食、財」の三欲獲得に邁進した。

ゆえに国のスローガンとして孔孟を由縁とする道徳運動は、「あれはハナシ」として、面従腹背した。大衆に密かに人気があったのは「厚黒学」(李宋吾)に説く、腹黒く、面の皮が厚い生き方の処方や、老子の由縁を持つ道教が好まれた。

薬の神様、財の神様、健康の神様、つまり実利が歓迎された。台北の龍山寺、横浜の関帝廟は、まさに繁盛している。

 

賄賂は「人情を贈る」と、陋習はデジタル社会になってもアンダーテーブルの有効性は表の成文法(法の書きもの)など、なんのその、狡知を働かせて庶民の潤いとなっている。

数学ならぬ、算数を駆使する四角四面の税官吏や取り巻き士族などは、あれも食い扶持と揶揄する鷹揚さと、応答さえも余裕がある。それは「逢場作戯」(場面において種々の人間に戯れる)智慧が為せる技でもあろう。

余だが、アインシュタインは想像力、つまり直感を含んだ思索だが、あとは合理、説明論拠は後世の学者なるものに委ねた。いま流行りの量子学にも不確定原理(位置の曖昧さ、運動量の曖昧さ)がある。つまり自然の本質は曖昧だ確定していないという。東洋では数千年前の老子が類似したことを説いている。実利活用については西洋学的だが、感性については東洋の自然活学の啓が学を俯瞰しやすいように思える。

 

インドの哲人 タゴール

 

知恵が増せば、自ずと三欲のために狡知を働かせ、平然と大偽を唱え、一族のために精勤?した。一人が官に昇って高位に就けば一族が繁栄する。「一官九族に繁える

そして「智は大偽を生じ、小人は利のために殉ず」、国家社会はその為の利用目的でしかなかった。(ウソのために知識を活かし、財利のためには命を懸ける)

 

そのような社会が一人っ子政策を行えば、自ずと個々の競争は激しくなり、親類縁者の構成上、甥っ子、姪っ子、おばさん、伯父さんもいなくなり、親族構成は人情薄弱となり、政権とて個々の欲望充足のために政策選択も狭まってくる。

政権につく高位高官も殖財に励むようになり、かつ賄賂さえも「人情を贈る」意識の陋習もあり、選択としては国家を括るには、便宜的に専制的手法(共産党独裁)を採らざるを得なくなってくるのは至極、自然な姿なのだ。

 

田中角栄総理が周恩来に「おたくは便宜共産主義ですね」と語り、付け加えて「これだけの人口を取りまとめるには共産党専制でなくてはまとまらない。一家に10人も子供がいては親も大変だ」と田中流の考察を述べている。

 

あの天安門の騒擾も、はじめは冷静だった。学生は、徐々に専制体制を緩やかにして、諸外国と比すぐらいな成長を描くためには、大衆も国の将来を落ち着いて考え、政府も統制を緩やかにするべきだと考えていた。ところが、どこの国でも世間は人が集まるところに興味が向く。地方から学生や労働者が北京に押しよせ、学生指導者も収拾が困難になってきた。

 

   

   桂林

 

もともと、学生指導者は大衆の性癖を知り尽くしていた。

もし、見たこともない、有るかどうかわからないような民主、自由、平等、人権を掲げたら、この国は混乱する。その時は、国家は脆弱になり、外国からの浸食が始まる、その歴史を知っている。

 

筆者の体験だが、デモは整然として長安街を進んでいた。まるでイベントのように軍人、官吏、教員、労働者、学生が、それぞれの制服なり、こぎれいな身なりで和気あいあい歩いていた。路肩の見物する市民もビラを受け取り、拍手したりして応援していた。

そのさなか、小学校は普段と変わらない授業風景だった。

五十万人とのことだが、北京飯店から広場に渡るには斜めに隊列の中に入り、普段の3倍の時を要したが、熱気というか爽やかな笑い声が印象的だった。そんな情景の記述がこの章の本題ではない。

数年後、北京にある孫文の妻、宋慶鈴記念館の館長が来日したおり、知人の紹介で懇談した。

記念館の前の大きな池の畔の朝市の話題から始まったが、「ところで、あの頃の若者たちは、いま社会で活躍していますか。彼らは歴史を熟知し、あれだけ市民から歓迎された行動をました。拙速な対応が適わない政府だと理解しつつも、一人っ子政策で大事に育てられた彼らが、不特定多数のために行動したことに感銘を受けました

 

「・・・・・」館長は言葉を選んでいた。

 

政治の話しではなく、あの気概と勇気は、いずれの機会でも社会に有為な人材です。遅れているとか汚いとか、日本でも嘲る方はいますが、そんなことは国力評価ではありません。普遍な人情をもつ素晴らしい人間が大勢育つことが、貴国の力になると思います。その意味であの時は、いずれ日本は負ける、と思いました」

 

あの時、来館されて、孫文先生が云った、゛真の日本人がいなくなった゛と伝えて頂きましたが、社会は人間の在り方、とくに若者の姿で将来がわかります。でも、経済が発展し、社会が弛んでくると若者も変わります。今は、経済の富に夢中です」

 

「・・・・」今度は筆者が言葉を探した。

 

その後、一人っ子政策は中断したが、その影響は様々なところに及んでいる。

教育は受験戦争が激しくなり、享楽的、厭世的にもおもえる非行も増えてきた。自然の運行を遮ると、思わぬところに弊害が生まれてくる。その対策に、また専制的な治安対策などの社会対策のコストが増大する。為政者が公職者の腐敗汚職を取り締まるのも当然な姿として国家運営に露呈する。

 

    

 

ちなみに、蒋介石率いる国民党は台湾に逃れた。子息の経国氏は「いま台湾にいる国民党は戦備が乏しくて負けたのではない。大陸において国民党が腐敗し、堕落したから民衆の支持がなくなった。それが一番の敗因だ」と説いて「新生活運動」という社会整風(道徳)運動を行っている。

その意味では、他の意味も含んでいるが、習近平主席の腐敗幹部摘発は民衆の歓迎をうけている。また、最近では党学やエリートの学び舎では、今まで禁忌のように思われていた古典の学習が盛んになっている。上海ではゴミの分別もはじまり、赤信号は歩行者も止まるようにもなってきたという。

 

運動は一握りの問題意識を持つ人間が始める。しかし付和雷同する無知文盲が問題の行くえを混沌とさせる。そこに権力の策謀が働くとデモは騒擾となり、動乱分子として当初の人間も括られ、市民からも反発を受け、そして一網打尽となる。

香港の公官庁の破壊も、見知らぬ人間の行為であったという。もしも、そうだとしたら破壊よって彼らは反感の対象になり、市民の怨嗟によって官警なり軍の出動が大義となる、どこの国でもありうる権力の姿だ。

耳障りの良い自由と民主の標語は、無知文盲やそれを策動する為政者にとっては、諸刃の剣だが、タイミングさえ逃さなければ、立派な行動大義ともなるようだ。

 

その自由と民主、くわえて富の欲求が添加されると、家庭では離婚率が高くなり、経済は投機的になり、抑制のきかない実利現世主義は、地球の表皮を食い荒らすようになる。まさに、国家は営利獲得のグランドとなり、大衆は国境を超えて天下思想に戻るようだ。(天と地の間のどこでも棲家となる)

その栄枯盛衰の倣いに沿えばと、筆者は、「日本は隣国と同化しつつある」と、度々小論を発した。

 

温泉・グルメ・旅行・イベント、ギリシャもローマも大英帝国も、その没落時の大衆の指向は繁栄の享楽だった。そして、゛いつの間にか゛没落した。しかも、たとえ気が付いても損得が優先して、学びや直感力が行いとして活かせない、それも知識人の堕落として後世の歴史に刻まれる。それは、゛どうしたら、どうすれば゛に停滞して依頼心を増す「釜中の民」(釜に入れられて冷・温・熱・沸騰に慣らされて滅ぶ)の様相でもあろう。

 

   

  桂林

 

 

拙い講話を懇嘱されると、学びの端(はじめ)となる枕に、孟子の「四端」と、荀悦の「五寒」をお伝えして、現実社会との符合を考えていただけるよう提案する。

そして、゛いつの間にか゛流れになり、慣らされた感覚については、これも数百年前に作られたという、企ての文章を紹介する。

いまだに古代の思想や宗教を倣っている人類ですが、ときおり、釈迦やキリストが、もしも転生して、アレは訂正したい、といったらどうする、と戯言を言ったりする。

集団化のマクロメリット、部分をほじくる教育のミクロメリットは、たしかに信ずる者がいなくては成立しない。そこに高位と財貨などの名利がオマケに付くと、人はからっきしダラしなくなる。つまり、人格を何ら代表しない附属性価値の奴隷に進んで成り下がっているようだ。くわえて、無関心はそれを進捗させる衰亡エネルギーのようでもある。

 

       

 

 

そんな時代にスポットがあてられる、少子化と虐待というキーワードである。

貧乏人の子沢山とはなるほどだが、いずれ隣国も少子化になるのかもしれない。その喩えでいえば日本は逆に、心も身体も貧乏とケチになってきたが、そろそろ子沢山になるのだろうか。

 

いや、いまの仮想先進国の現状では、子育て、待遇、が、女性には満足できないといわれる環境ゆえ、幸せの収穫が、温泉・グルメ・旅行・イベントとなると、人と比較した不満足度が、ときに嫉妬や恨みになり、己の自由が毀損されると考えれば、その対象となる個体虐待が起こるのではないかと、妙な心配もある。

 

敗戦後、極東軍事裁判でインド選出判事、ラダ・ビノード・バル博士は、日本の青年男子と女性に提言を残している。それは数百年に亘って英国の植民地だったインドの変容を体験した言葉だった。それは「宣伝に気を付けてください」に要約されていた提言だった。

 

これから西洋的資本主義に翻弄される社会となり、大衆は消費者としてあらゆる心地よい宣伝に晒される。幸せは物質に置き換えられ、その競争は人間の連帯を解き、固有の情緒性は失われ、個々の自由にしても家庭内では、親兄弟、結婚すれば、夫や子供ですら、生産や勉強が数値に置き換えられ、成功価値や幸せの価値まで変質する。

それらの多くは企てられた他からの「宣伝」によって多くの人々は流動し、孤独感はますます進捗し、架空の連帯に組み込まれるということだ。

 

それを原因から探ってみれば、少子化も切り口の変わった考え方にもなるかもしれない。

同じ犬でも愛玩犬は生まれたとき、一生鎖につながれるとは思ってもいなかっただろう。故事では、羊は、羊飼いに従順な牧羊犬に吠えられ、群れとなって行先も判らず妄動する。

ときおり羊毛は刈られ、祭りには神の捧げものとして犠牲になる。美味い、まずいと勝手に食べるのは人間だ。羊に神はいるのか。西洋の神は応えない。

 

羊飼いは、政治家、金融資本に置き換えられこともあるが、経世家によれば、吠える従順な犬は官吏(税と警察)という喩えもある。妄動するグランドは狭い社会だが、狭くしか考えられないように、問題(課題)には数値に置き換えられる範囲の、決められた思考しか与えられない。

パンとサーカスを与えられれば、考えることを許さない、自由な羊がいることも知らされない。

それが「宣伝」だと、バル博士は要約している。

どうも、難儀なことだが、当世の姿を備忘として記さなければならないと考えた。

 

イメージは桂林の友人より  本文とは無関係です

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宰相として為すべき学問の特殊性 其の一   2009 7/19再々

2025-01-11 02:48:33 | Weblog

    「名山の元に名士在り」と謳われた岩木山 (陸(クガ)かつ南)作

古人は云う

内容はともかく、己の言葉の組み立てに安堵を覚え、人を欺いて雄弁家という

安倍晋三さん【再度の総理だが、当時に戻って考えてみたい】


平成19年8月27日 
安倍総理は参議院選挙惨敗後、早々と続投宣言をおこない、明日新しい内閣の布陣を発表するという。

独り鎮考するというが、以前と同様つねに被写体フレームに顔を出す家族ぐるみで飲み仲間の官房副長官の進言があると思われる。なぜなら官房副長官の選挙区では当初の組閣で安倍さんから唯一相談があったと吹聴しているからである。

あの時も総理は河口湖の別荘で独り組閣人事を練ったことになっていたが・・

若者二人は宰相の意義を真摯に熟慮したのだろうか。

老婆心ながら彼らの別世界にある、いや官制学校歴マニュアルには無い人間学から「相」の存在を考察してみたい。



     

               宰相 臣茂



【以下本文】

『相』について

『相』は木ヘンに目だが、木の上に目を置き遠くを見通せるといった意味で、政府機間でいう何々相は,歴史の必然性と方向を見通せる立場を表している。
つまり先見の明で表わされる「逆賭」の問題である。
アカデミックに合理を追求したり、歴史の必然と言っても、因果律といったように原因と結果について突き詰めた理屈を拾ったところで皆目,答えが出てくるとは思えない。

ところが碩学、南方熊楠いまどきの脳髄では曖昧な部分に棲み分けされている因を縁と関わりを持たせ「因縁」、所謂、「縁」の必然として随所にその探求を試みている。
熊楠は仏教にある曼荼羅の深遠な真理から確信に辿りついたというが、縁の遭遇といった意味ではこんな言葉もある。

「経師、遭い易く 人師、遇い難し」
経とは五経のように教本の解釈や知識,技術の類を講ずる先生はどこにでもいるが、感動や感激を添えて人間の師となる先生にはなかなかめぐり合わない。
それと同様に国家においても「相」を備えた人物の出現を待って久しい。

ならば現代の官制学の勉強という記誦方式において「相」となるべき人物の養成は図れるだろうかとなると難しくなってくる。
文頭における先見性といった一部分の解決には、集積データーや科学的根拠という説明材料を高尚な書物に著したり,前段で自己の領分に事例や仮設を貼り付けたところでどうにか様にはなるが、肉体的衝撃を伴う場面では、からきしだらしない姿を露呈してしまう。

とくに「相」は決断の責任や歴史の継承者としての任があるため、単なる知識,技術では納まらないものがある。
ならば『相』とはどのような人材なのか。
近代といわれる歴史の岐路であった明治初頭の人物養成について、貴重なエピソードがある。




               




筆者が貴重というのは、平成現代が抱える政治,経済,教育を論じる時,最も重要な構成要素である人間の所作にかかわる問題だからである。

官民を問わず、組織やシステムはその操作,構成の課程には全て人間の存在がある。
たとえば国家の構成は民族,領土、伝統の3要素といわれるが、おのずと(自然に)存在する領土,伝統とはべつに、民族は意志という己の探求如何でどのようにも変化できるものだ。
歴史は探求,欲求が及ぼす不調和を補う為に掟や法といった意志決定の客観性をつくりだし、また,尊敬や忠恕といったような全体の調和に欠かせない「礼」の自得としての習慣学習を促し,人物,人格といった自他の現存の上に立った『自尊』という誇りや矜持を教育といった場面で涵養を図っている。

明治初頭の学制においては。小学では冠に「尋常」をつけ、怖れず,騒がず、といった平常心の自得を習慣とし、将来の思春期の問題意識へて大学の自己を明らかにする(明徳)大前提の必須として,時には強制的に行っている。 
《ここでいう小学,大学は「校」だけではなく、古典にある「大学」の意を含んでのことである。》

そこには幼子であっても身を護り、身を委ねる対象としての尊敬される教師の姿があったことは言うまでもない。

また,その人物像は人生の折々に想起され、縁に触れ蘇えるものですが、同様に国民が『相』の理想像を描き,相親しむ人物像は知識,技術の習得だけではその範になり得ない。人間の人格,徳性を兼ね備えた『相』の出現は現代のカリキュラムには無い「人間学」的要素をもった学問が必要になってくる。  

 尚更のこと『相』の人材育成過程ともなれば、知識,技術,さらには一過性の暗記,点取り術では『相』の存在さえ、あの科学的、合理的とおもわれる説で覆い、その認知さえおぼろげになってしまうのが現状である。




               




立憲君主,議会制民主主義といっても、熟練した政治手腕を持つ人物如何によって、その興隆,衰亡の姿が刻まれることは歴史の証明するところである。
我が国の律令制度が定まり、各期の政治体制は公家,武士という身分社会のそれぞれ『相』によって政治が行われ,戦国の世でも頼朝,秀吉,家康らの武士の頭領も征夷大将軍に任ずるという勅令によって、いわばお墨付きによって拝任している。
近代国家のさきがけといわれる明治においても、万機公論が謳われるなか天皇の輔弼(ホヒツ)として宰相の存在があつた。

戦後、吉田総理は書の末尾に,「臣茂」と署名している。
勅令を発する天皇の側としては、どのような期待を『相』に抱くのか.あるいは『相』の習得すべき学問の内容とはどのようなものなのか、近代の歴史で天皇の発言が際立った明治期の例に考えてみたい。

以下次号

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隣国を悪しざまに罵る日本人の教養 2014 あの頃

2025-01-10 00:59:12 | Weblog

 

過去の拙い稿を改めて辿ってみたら、いまの世情に似たものがあった。

腹にイチモツ、背に荷物、歴史の拘りと内政の閉塞、こんな時には必ず外に騒ぎを起こし民の目転じる、政治の常套手段だ。

この情況が続けば経済や軍事の力加減で戦争になる。

なによりも、意図、実績、能力が整えば、後は機会だけだ。その機会だが、ベトナムのトンキン湾、日中の盧溝橋、満州の柳条湖、日米の真珠湾、その気があれば誘引や謀略は身近にある。

しかも地球の相対する文明からすれば、まさに「夷をもって、夷を征す」まさにアジアの戦いはアジア人同士の血によって贖う

一過性の利は一方の夷が得ても、大きな利益は相対する文明である。

植民地収奪の置き土産は、民族の分断統治だ。その種(タネ)は、財貨と思想(スローガン)と曖昧な境界地(係争地)だ。つまり偏在し色分けされた置き土産は欲望を喚起して、つねに同種同民族が争うようになっている。

争いのスイッチは当事者は持ってないが、目立ちたがりの政治家や偏狭な歴史観を抱く学者たちを儚い名利に誘えば、彼らは嬉々としてスイッチを入れてくれる。

紛争の切っ掛けはここか始まったが、大国の名のある財団で、境界地の小島を買う!と言えば必然的に争いのタネになる。

国内で唱えず、相対する異文化の大国に出向いた記者会見で、国内周知や了解も無く、大国の意図も深慮せず認知を得たかのような拙速な言動は、所有や損得理屈を超え、新たな頸木(くびき)を差し込んだよううにも観えた。名のある右系財団の看板舞台で大見栄を切ったわけだが、国内の腰を引いた為政者も始末に難儀して国営化を決めた。どちらもケツ持ちといわれる始末は大国任せだった。

法は知っていても、原典「灋」(ホウ)の哲理は見当たらない。争えば勝ち負けが生まれる。勝ち負けを見たくて争うのが目的ではない。

たかだか人間が現生価値から捻った成文法だが、線引きと契約の西洋、あるいは砂漠の自然環境下、砂嵐で線がなくなれば神が赦すと新たな線を引く、まさにトンチのようだが争いは起きにくい。

地政学的に離脱できない宿命には、怠惰もしくは争いの関係がある。

それも力の付き加減で一過性の勝敗は起きるが、それぞれに異文化のスポンサーが憑依のように加わると、のちのち混乱の種になる。俗な例えだが人間関係、とくに夫婦間の経年変化に似ている。犬も食わないという争いだが、敢えて遠くから食いにくる者もいる可笑しな世界だ。

 

むかし南の海は穏やかだった

 

 

<冬の旧稿>

なにも肉体的衝撃を恐れて融和しようというのではない。
いわんや、罵るべき行儀をわが国の内情に置き換えて遠慮すべきだというのではない。
かつ、国益だか私益なのか判然としない言論を承知で、物わかりよく見過ごせと言われても意に沿わないことだ。
相手がわかろうと解るまいと、いうべきことを言う」と、烈しい意志を発した横井小楠先生に倣うものではないが、どうも地政学的にも遁れることのできない環境に相対する側の変容に目くじらを立て、世情の流行りごとに相乗り反駁するかのような鎮護の国の言論とは思えない姿をみるのだ。

その変容は我が国が辿って来た事態でもあるし、あのころ熱狂した、たかだか努力すれば上下する富の数値化に邁進し、しかもその数値を国力評価と掲げたような紛い物の評価価値を背負わされたための変容でもある。ときにそれは夜郎自大となって近隣諸国を見下すこともあった。

ただ、人格や見識を問う以前に、行儀のない応答と無言の納得性がある棲み分けられた民族固有の、しかも他からみれば、たとえ野蛮で未開と云われようと、経年堆積された民族の宿りがあ。それを単なる近代的、文明的との観照で悪しざまに罵る姿がある。

一方、その言辞に表れる行儀の悪さと、器量、度量に表わされる相手の情緒への許容量に、わが同胞とはいえど首を傾げざるを得ないのである。

それとも、むかしは遅れている、自由がないと見下し安逸となっていた国が、急速に成長を遂げ、武力で威嚇するようになり、政治的批判を除ければ稀にみる自由度の高い国となり数値的にも大国としての威容を見せたことでの恐怖と羨望が、嫉妬となり、俗に「嫉妬は正義の言論を連れてやってくる」の譬えが沸き起こったかのような同胞知識人や世俗の風潮でもある。





弘前 忠霊塔


なにも金持ち喧嘩せずとの態度で看過せよというのではない。

軽薄な男女の言いがかりのように、然したる格や識の欠けた売文の輩や言論貴族の食い扶持行為は、ときに彼らが金科玉条のごとく用い、しかも数値偏差のみによって獲得した現在の位置を顧みず、西洋合理主義から見たアジアの茫洋観に自らははまり込んでいるようにも見えるのだ。

つまり、脳みそは官製の数値教育に洗われた無情緒、無教養の風を醸し、アジアの定理でありロングヒストリーを培ってきた容量ある諦観はない。つまり、眺める、行く末を読むような遠謀すら乏しくなっている。

要は諦めという境遇を断つ、あるいは宿命感から怠惰に陥るような思索環境から脱し、古人の言う自らが境地をつくる(立命)ことでなくては、まともな問題意識や政策への発想さえ生まれない。

人の織り成す歴史の実相を、食い扶持に堕した現性価値の批評に拘泥し、先ずもっての解決は他力や時間の経過に委ねる論調だが、それこそ曲学阿世の輩の阿諛迎合と揶揄される我が国のそれらしき知識人の学風といったよいだろう。

よく日本人は人目を気にするという。自民党でも内紛が起きればアメリカの政策に沿う有力者に近いほうが錦の御旗を立てる。

国民にも暗黙知だが、それは中国に対しても云い得ることだ。だから議員は高位高官に会うことを願い、握手することはあっても矜持を語り合うことはない。

阿諛迎合というべきか、曲学阿世とするかは分別さえ難しい群れだが、内を捨て外におもねる売国行為でもあろう。

知日派とか親日といわれる外国人にも弱い。煽てられればそれを引用して紙面に載せ、あるいは口舌の種にするのもその類だが、いっときのブランド狂いの女子と変わるところはない。

とくに相反する国の帰化人やカタカナ表記のバイリンガルの邦人の言なら魚群にまき餌のごとく飛びつく似非知識人が多くなった。なかには政権担当者までその言辞に振り回され国策を歪めている。








いつ頃からか、「謝ったら罪を認めた証拠」という理屈がまかり通った。

異文化では、転んだらどうして転んだか、誰かのせいではないか、と考えるらしい。冬の乾燥期に門前の落ち葉を掃いて打ち水をしたら、早朝に凍って滑った歩行者から訴えられてクリーニングの賠償金を請求されたこともあった。昔は道路を掃除をしていれば「お世話様」と通行人も声をかけた。

不特定多数の歩行者が通る道を清掃するよき習慣性だった。近ごろでは掃除するそばから空き缶や吸い殻が捨てられる。黙々と早朝から清掃する佳人は文句も言わない。だからと言ってその度に文句を言おうと門前に立っていてもギスギスした世間になる。

悪しざまに世情を憂いても善良な性根を汚すだけでつまらぬことだが、法に訴えても空しいこと。いや佳人には馴染まない。だからと言って黙っているのも悔しい、となったら衆を恃んで騒ぎ、よき連帯調和を崩すだけだ。

ゆえに黙々と門前を清掃するのだ。それが損だとか得だとか、大きくは国益を損すると騒いだところで、どこか内心の善意が毀損する。
いつか黙々とした行為を魅せる状態が来るだろうと期待するのだ。

人は見過ごされがちな過去の残像を、ふとした瞬間に想起することがある。

あの時、陛下は「普段は目立つこともなく置かれている立場だが、何かの時に想い起される存在であればいい」との意味ある言葉を語った。

人の想起と喚起、継続とはそのようなものだし、魅せる行為とはそのようなものだろう。それは日本人のみの徳目ではなく、普遍な情緒だ。

「言わなければ負けだ、損だ」という敢えて離反をそそのかす意趣は見当たらない。

それを、゛戦争に負けたから我慢していたが、あれは言われることではない゛と、悪しざまに反論する短絡さは、より卑小さをみせるだけだ。金持ち、大国、軍事力、組織力が言辞の威力なら、正邪の判別は秤の均衡も取れなくなる。どどのつまりは戦争だ。

たとえ行儀の悪い隣人でも処し方には工夫もある。また陛下のように忠恕の器量や度量もあろう。
つまり、勝ち負けのない言い争いは、自身の有利さと負い目の自問にあるようだ。

標記の多くは歴史問題だ。姿からいえば戦争に負けて頭を下げていたが、少しづつ頭をもたげてきたら、言いがかりをつけられた様なことへの反発だが、なにも下げていたのではない、だだ、稼ぎに夢中で回りが目に入らなかっただけなのだ。言論とて先ずは食い扶持が肝心だ。だがその按配がつかず、ホドもなかった。

それが「衣食足りて礼節をしる」まではいかなくても、繁栄するにしたがって民族の明け透けな欲望が地球の表皮を闊歩し始めただけなのだ。

つまり、加減さえ判らなくなった 小商人、政治屋、売文の徒、上下こもごも野暮になったのだ。

過去に経緯(いきさつ)のあった民族の高揚感が相まって、双方騒ぐのも当然だろう。

さて、繁栄と威力が交代したような状況だが、このような時代が過去に有ったか・・・・

悪しざまに罵しることを、民族の善き行為や姿として歴史に記したか・・・・

まさに、現下の情況は攻守の立場が逆転している。歴史上、攻めたものが、守りに汲々としている。

あの時もインドの賢人の言葉で心が救われた。

熱狂と偏見が過ぎ去り、女神が秤の均衡を保ったとき、賞罰の置くところを変えるだろう。」

やはり、今は鎮まりを得て、双方は内なる欲心の省きをする、良い意味での機会ではないだろうか。

 

  

山田純三郎 孫文      蒋介石  山田

 

 蒋介石

歴史は現代に要求する。

蒋介石は、日本と中国が戦い、どちらが負けてもアジアは復興しない。それは革命の領袖孫文の意志であり辛亥革命で挺身した日本人同志の共通な願いだった。そして、日本軍への不抵抗宣言まで出している。

その孫文は、日本とシナ(孫文当時の呼称)は提携してアジアを興し,西洋とも協調して世界の安寧を希求した。しかし高邁になった軍部と西洋の企図は、巧妙にも孫文の経綸を終始妨げた。

そんな大経綸を唱える人物も枯渇したのだろうか。      

 

 

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小沢さんと石原さんは何を観るのか  12 5/10 あの頃

2025-01-09 01:03:42 | Weblog




一方はオリンピック招致の助力を皇太子殿下のIOC(国際オリンピック委員会)出席を請い、それに対して宮内庁は皇太子の職務に馴染まないとして丁重な断りを表明したところ、
「宮内庁の役人ごときが・・」と乱暴に言い放った。

もう一方は、中国の次期指導者候補であった習近平氏の来日に際して天皇陛下への謁見を内規(面会予定の事前申し入れ期間)に照らして困惑したコメントを発表した宮内庁職員を石原氏同様に「役人ごとき・・」と言い放っていた。
たしかに皇太子妃の縁戚が外務省のドンなのか、宮内庁人事も外務と警察にうまく棲み分けられ、かつ硬直した官吏の四角四面の対応とみるが、翼賛マスコミは逡巡したかのような記事を書いている。

逡巡とはどちらも非難することもなく、否、できなく、しかも双方ともに記事タネとしてことのほか衆目の集める対象のためか強い論調は書けないようだ。
まして一面ネタにしてもおかしくないくらいな問題でもあるが、反論不可と斟酌される大内山の奥ではなく、表作業である宮内庁職員である官吏に向けられた雑言であるところが両氏の忖度だとしたら、なかなかの役者だ。

一方はオリンピックというスポーツイベントへの前のめりに近い行動であり、候補国も大統領や王族もその開催地決定に言葉と行動で協力しているので、我が国も皇太子を殿下を担ぎ出そうと考えたのではあろうが、どうも落ち着きがない拙速な動きである。

しかも、その言葉や行動の部分ではなく、立場の姿として諫言する側近は見当たらなかった。それも捻じれのようなもので、民族の誇りや維(歴史的意志)を謳う石原氏と、皇族の活用における皇室の御用掛である宮内庁の慎重なる決定に雑言を述べる不敬とも思える態度に、護持を唱える人々は、何ら反応はしなかった。

その石原氏が最近の産経のコラムで陛下の震災地巡行に深い敬意を表している。

全国津々浦々に棲み分けられた国民は総理大臣の被災地視察に際しての現地の刺々しい反応と、それに比した陛下の醇なる応答に、立場はともかく同じ人間でもこうも違うのか、あるいは騒乱に似た選挙によって有権者から選ばれた総理は、教育的にも行為の在りようにおいても、その「人成り」を考えさせられた機会であった。

それは、国民がその権利を負託するために選んだ議員と、生まれながら推戴されることを宿命となっている陛下の「人成り」への教育と習慣の違いへの不思議観でもあった

 

佐藤慎一郎講話

語るは正座 聴くはアグラ ?? 満州にて

 

両人は似たような反発をしているが、ことのほか睦みあうことはない。とくに中国との対応だ。小沢氏は妙に迎合する。旧来の日本人の応答にはないくらいの姿だが、彼の国にはそれが形式的にも合う応接態度だが、どこまで深い座標があるかが問題になってくるだろう。

そのことが明確になれば有権者の安心感も加味されるだろう。安心感といえば戦後共産党が伸張したことがあった。多くの国民は共産主義も知らず、いつの間にか労働者として解放という美しい言葉にいっときは賛同したが、あの「天皇制打倒」という激しいスローガンを聴いた途端、潮が引くように熱気は冷めた。

大阪市長の橋下氏が首相を国民投票にすると提言すると、小沢氏は天皇制(元首)との関係に疑問を呈した。それは前に述べた疑問や習近平氏応接時の雑言とは異なる、事と次第の分別が読みとれる。

その意味では都庁に陣取って阿諛迎合の官吏に囲まれた石原氏と、小沢氏の深慮は別物のようにも見える。ただ言葉と行動に「つよさ」をみる両氏に共通していることは毀誉褒貶が激しいことだろう。多弁の石原、寡黙な小沢と評されるが、多弁は相手を明け透けに罵倒し、寡黙は筋と正論を発する。どちらも通にうける人気者だが浮俗にありがちな゛何か裏がある゛とも思われている。

三面だが、小沢氏は建設利権に疑いがあると。石原氏は後援者から森伊蔵の箱(丁度一千万入る)を息子と二つ貰つたという記事が躍ったが、騒がれ方には雲泥の差があり調べたものもいない。元々なかったものでも警視庁を管轄する都行政ではマスコミの扱いが格段に違う。また、副知事には警視庁OBが納まっているが、昔は経世会派閥から法務大臣、国家公安委員会が定石だった。ともあれ転ばぬ先の杖だが、李下に冠を正さずとはよく言ったものだ。

ともあれ「そうゆうもんだ」の世界のようで、善悪の秤を権謀術策を繰る当事者に当てはめるのは、棲み分けられた職分に異なる切り口で言い募る野暮なヤジ馬のようで苦い気分がする。












ただ、被災地の陛下のお姿に改めて意を甦えさせられた多くの人々は、その関係する部類の話題にことのほか敏感になっている。それは仮にも選挙によって権利を付与した形になっている議員、都知事であっても、「維」を曲げさせないという人々の潜在する意志だ。


たしかに大内山の周辺皇族にもいろいろ難儀な問題がある。加えて「維」を継続するための種々の争論も起きているが、人々と陛下のつながりは、それらを超越した連帯があるようだ。

戊辰の戦いは錦旗によって趨勢は決まった。いくら武力をもっても越えられない事を彼らは知っていた。利用したのではなく、活用したのだろう。

民主という主義は構成システムとしては普遍的にも聞こえるが、いかに危ういものかも人々は知っている。あの天安門の若者も唱えたのは民主ではなく、「官倒」だ。
権力をほしいままにして社会を支配し蓄財に励む高官を倒すというスローガンだった。
臨場の雰囲気もそうだった。彼ら若者は「民」のまとまりの無さ、目的の欠如、を歴史の栄枯盛衰からその民癖を読み取っている。

ヨーロッパ、アメリカ、あるいは民主主義と自由主義を移植した国々は押し並べて選挙はイーブンに近く、政権成立しても足の引っ張り合いが多い。
まとまるすべは、対外戦争への危機喚起か税の分配だ。

果たして、我が国はどうだろうか。
まとまりのない政治、食い扶持に堕した教育、借金財政での扶養従属、それらは部分を検証し追及するものでもなく、すべからく人間の問題、つまり人格、人物と称される「信」を基にした人情の慎みが大前提の問題として浮上している。また、供与を受ける側にも節度と貪りを抑える意識の涵養が必要だろう。

これは四角い白い紙に答えを入れれば数値が判定してくれる官制の教育にはない。
政治家や親子でも覚醒は難しい

だからこそ、民族は劣る癖を隠すようにその倣いの対象とする存在が人々には必要なのだ
あの民情をもつ中国にも孔孟を始めとする古典があり、ときおりお出まし願う活かし方もある。どんな時でも「オー・マイ・ゴット」と叫んだり、呟いたりする人々もいる。






武蔵嵐山  農士学校







地球の表皮に棲み分けられ、複雑な要因を以て国家を形成するなかで、人々は動物種の群れのように「長(おさ)」を推戴している。それは連帯と調和の象徴として立場を構成している。また、長は群れを毀損されないように先見察知を全能の象徴として行動を体現している。

そのなかで一番大切なことは豊かさや防衛だけではなく、群れの「種」を護り、そのためには人間であれば人心(じんしん)の衰えを察知し、その尊厳を毀損する自制なき欲望に深慮することを主なる心を寄せている。
長(おさ)の側近となるものは群れの食い扶持とそれを妨げる外敵の排除を具体化するが、それを登覧する長は、食い扶持が贅沢になり、そのために競い、争い、欺く、また、勤労の意欲を衰えさせる外来の過度の便利性、譲ることを失くした礼の衰えや、公意を亡失した政治家や官吏など、人心に潜在する善なる情の微かなりを根本的観察として厳しく存在している。


標題に登場した小沢氏、石原氏だが、分別された役割のなかで精励され、かつ特筆した言辞と存在によって功ある人物とみるが、浮俗の駄論に巻き込まれ、長の忠恕が歪められないようにお願いしたい。

「・・・ごとき」、国民も煩いとしてやまやまだが、存在の有意義を幾らかでも認知しているゆえか、長に倣って声を発することはない。
人々の尊厳を毀損する存在、それは聖徳太子がわざわざ十七条を起草してまで憂慮した偽装権力の一群だ。そのなかには政治家と教育者、宗教家も入っている。

これらの「ごとき」を正してこそ両人の価値と存在がある。

倣うべきは、「世の厄災は、祷りが及ばなかった」と頭を深くした陛下のお姿だ。

分別ある役割を任じて、長を補佐してほしい。要諦は「人心」の衰えをどう観るかだ。

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対談録「荻窪酔譚」 抜粋其の五 10 2/14

2025-01-07 15:43:02 | Weblog

            モト夫人


見ると難解でしょうが、章を追って読んでみてください。何かが腑に落ちます。



第一宵 五坐 其一刻

S : 三 (参) と云うのは生命誕生のしるし。 男性は何歩威張っても子供を産め無い。 女
性は何歩威張っても独りでは子供を創れ無い。 神様だけでも駄目、 三つ一緒で生
命が誕生する。 中国の皇帝は 〝一皇后三婦人九嬪二十七世婦八十一御妻〟 を貰
う。 総数で百二十一人 (そして総て、奇数であり参の剰除である)。

T : 〝世婦 (セイフ)〟 って、〝婦人 (夫人?)〟 の 〝フ〟 は?

M : 側妾を貰うの?

S : 三は生命の源。 亀の甲羅に焼け火箸を当てて八卦を判断する (亀甲占式)。 桃の
節句、〝桃〟 は厄除け、女性の陰部を顕わしている (印度仏教を起源とする考え
方)。 老は背を曲げて杖を点いた格好。 〝ヒ〟 を省いて 〝子〟 が支えるのが、
【孝】ですよ、と昨日も老人会で云った。

T : 〝天・地・人〟 の違いは無く、一貫すると?

S : 天地人を一貫して合わせると 〝王様〟 に為る。 畝々した流れに杯を浮かべ自分
の前に来たら其の杯に詩を詠む、此れは三月三日に行われた (桃雛節祭としてでは
無いが奈良・平安期にも旧暦の宮中行事として行われた/追儺の儀後の慶事として)。

T : 王 義之の《曲水の宴》! きざしの 〝兆〟 が木で 〝桃〟。

S : 三月三日、川に入って心体を洗って 〝禊〟 をするの。

T : 日本でも古来より俗に 〝桃色遊戯〟、好色に遣いますね。 (其うする事に拠って)
逃げ払われるものは?

S : 〝厄〟 が逃げ (去) るの。

T : 交合して三月三日に逃げる、いけ無いね (笑)。 知ら無いですよね、雛祭りの日 (桃
の節句) に (本当は) 是う謂う意味が有るなんて。

S : 此う云う噺、爺ちゃん婆ちゃんは悦んで聴くの (笑)。


T : 我々だって悦んで聴きますよ (笑)。 此う云う説明が出来る様に為ったのは中国体
験ですか? 庶民の学問と皇帝の学問て区別が無い訳ですよね。

S : 黒板が無いから、画いて持って行ったのです。

T : 今度此処の老人会で学んだら、うちの方の老人会で話そうかなぁ。

S : 僕は中国の事しか識ら無い。 日本の事は全然解らん。 「僕も皇帝に成りたかった
なぁ、だけれども (今は) 独りの女房 (ですら) 持て余して在るよ」、と云うと笑わ
れてねぇ (笑)。

T : うちにも皇后 (女帝?) が一人棲ます (笑)。 〝妾〟 と云う字は出て来ませんね。
是は飽くまでも正当な女性ですか?

S : 曾うです。 時代に拠って名称は異為るのだけれども必ず貰う。






関係資料より転載




T : 我々は儒教で堅苦しく考えているけれども、中国は我々とは似て非なるもので、
向こうは性に対して平らかですね。 此う云う噺だと、安岡先生だって此う為って
(グッと噛り付く様に) 聴くだろうね (笑)。

S : 親孝行の 〝孝〟、〝ヒ〟 を取って 〝子〟 が支えている訳です。 結婚以来、両
親が死ぬ迄の十数年、コレは給与の三分の一をずっと僕の両親に送っていた。

M : だって、お父さん (佐藤先生) が働いてお金を持って来てくれるから (笑)。

T : 其の言葉、最近出無いの? お父さん、働き悪い、て (笑)。

S :『毎日新聞』に掲ていたのだけれども、今は親の面倒を見るの四人に一人も在無い。
「何の為に勉強をするのか」
と謂う問いに
「金の為」が日本は世界第一位 、「社会貢献の為」が世界最低。

T : 漢和辞典等を調べると語源等の説明は有るけれども、活きた漢字の使い方は出て
来無い。 日本では完全に記号に為っている。







              

    熱海での講義
          85歳で熱海の新幹線階段を駆け上がる元気がありました




S : 師友会の会合で
「孔子様、孔子三世、妻を追い出す」
と云ったら皆吃驚して在た。
彼が説いたのは愛情 〝仁〟 でしょう。僕はコレを追い出して在無いから、孔子様
拠りも偉い (笑)。 孔子の言葉は確かに偉いけれども、或れでは中国 (の本質) は解
ら無いよ。

T : 中国大好き人間が在て、(本当に) 何でも好き。 自分が (持って在) 無いと何でも
受け容れてしまう。 だけれども下手に教えると、斜めに世の中を観る惧れが有る。
先生の説かれた聖徳太子の 「和を以って貴しとせよ」ですが、或れは夫婦の和合の
話しでしょう?

S : 老人会で 「何でも政府に嗚呼して欲しい、此うして欲しい、と謂っては駄目だよ」、
と云った。 主体は自分だよ。

T : 日本人は 〝血〟 を尊びますが、中国には有りますか?

S : 矢っ張り有るのでしょうね。

T : 鄧小平や毛 沢東の親戚と云えば尊ばれるかも識れ無いが、逆に溥儀・溥傑の様に
忌み嫌われるケースも有るでしょうね。 最近の日本の様に、身分制の無いお蔭で
妙に俗世の価値に傾く事も有るし、中国の様に 〝善い人なら善い人〟 と観る方が
自然で、もっと真面に世の中を観られる。

S : 中国は大自然の流れから離れ無い。 例えば
「満州国が滅んでも、一姓の滅亡に過ぎ無い、俺達には関係が無い」
と謂って全く以って慌て無い。 八月十五日の玉音放送を聴いて、僕はベソを掻いて役所で掃除をして在ただけ。 中国人は皆、青天白日旗をポケットから出して在た。 半年前もから、日本が負けたなら之を点てるって準備をして在たらしい。 ベソを掻いて在るのは僕独りだけ。
「何故泣くの? お前には関係が無いでは無いか」、と中国人に笑われた。

T : 今の内に五星紅旗を作っておいた方が (笑)。

S : 偉いものだよ、全く以って実に淡々として在る。

T : 或る意味では、其れは力強さですね。

S : 大自然から離れ無い。 悪く云えば 〝食・艶・財〟 のみ。 中華民国も中共も要ら
無い。

T : 大した肚だと思ったのはチンギス・ハーンです。 色目・漢等、嗚呼云う侵略された
人達を平気で使う。 耶律楚材も其の典型でしょう。 久さん何かは満州でしょう。
懐が深いと謂うか、日本では考えられ無い。









           

在日朝鮮の方と・・・、このあと恐るおそる「スナックというところへ・・」

初めてのスナックと満州の歌を・・・『これは愉しい』との感想




S : 日本人は如何ですか。 毎日、新聞を見るのが厭に為る。 賄賂・人殺し、如何する
のかな、此れ。

T : 惧いのは、何時の間にか (危惧する感覚が) 麻痺する事です。

S : 外部から緊張を与えられて活きて行くしか無いか。

T : 其の国の運勢を診た時、今の日本は八方塞がりですね。

S : 食糧 (生産自給力) は無いし石油も無いし、終わってしまう。

T : 今、米屋に米等有りませんよ。

M : うちのお米は如何しているの?

S : 新潟の庄内平野の米を送ってくれるの、其のお蔭。

T : 今、アメリカのお米が輸入されているでしょう。 今日、天丼を食べたら矢っ張り
少し違うね。 満州のお米は美味しかったですが?

S : 王道楽土で日本だけが米を喰って、満州人は喰え無かった。

T : 誰かが謂って在たな
「佐藤さんは本当に変わった人だ」、って。
「俺が戦後佐藤の家に行ったら、青森県人がゴロゴロと居候して在た」
と話していましたね。

S : ご飯だけは喰わせるから、と通知を出した。 其れは皆中国人のお蔭です。

T : 満州へ行っていた当時、上海の山田さんとは全く交流が無かったのですか?

S : 上海へ行った伯父の記録を採ってある。 広東にも行って孫文の息子の孫科とも会
って色々としました。









            

   桂林郊外




T : 溥傑さん、亡く為りましたね。 日本に好意を持っていましたが。

S : 嵯峨公爵の娘が嫁いでいたが。

T : 溥儀さんの周りに宦官は在たのですか?

S : 在た。 子供の時に宦官と遊ばされ、ふぐりを弄ばれて壊れてしまった。

T : 其う云えば、本当にか弱い感じですね。

S : 女を雇って壊す方法も有る。

T : 宦官て、勃起はするけれども子種は創れ無い、と云う事ですか?

S : 珠は必ず採られた。 一番の方法は竿を幾許か残す。

T : 為る程。

S : 棗の実、之を女性の陰部で濡らす。 皇帝は是を朝必ず食べる、此れ宦官の仕事。
皇帝の身体を20~30人の若い女に舐めさせると、彼女達は本当に白痴みたいに為る
らしい。

T : 鄧小平小が若返りの為に、同じ血液型の若い女の子の血を輸血するとか。

S : 男の欲するものを女が持っているからと謂う簡単な論理です。

T : 儒教の中で其ンな噺は全く出ては来無い。 道教・房中術・仙道術等、本来は其う謂
う事を理解し無いと、中国は理解出来無い。

S : 宦官から僕が訊いた噺、かなり詳しいのだけれども文字には成ら無い (と云うより
も出来無い)。

T : でも、其う謂う勉強は楽しいですね。 所謂、精力増強。 何しろ精力が無いとね。
(自分の) 肝臓が悪ければ (健康な他者の) 肝臓を喰うとか。

S : 全く簡単な論理だ。

T : 出来れば人間のが善い。

S : 一番困るのは、日本語と中国語がゴチャ混ぜな事だ。 中国語だけでなら信じてく
れる。 終戦後、追い駆けられた中で急いでいて日本語を混ぜて書いたから、嘘を
書いたと思われた。 (文書は) 十分の一だけ持って来て、残りは向こうへ置いて来
た。

T : 本当の庶民の考え方、此れが基本ですね。

S : 七名の宦官から訊いてね。 全部在れば素晴らしい記録に為るのだけれども、留置
場から奉天へ強制送還されたから何も持て無い。

T : 其う云う基本が解ら無いと、怖さも善さも何も解ら無いですね。 日本人は同化さ
せられ易いから惧いです。

S : 僕の命を救けてくれたのは全部中国人。 7・8年前のお礼をする為に、吉林の田
舎から新京迄3~4日も掛けて、卵20~30個も持って捜し廻ってくれた。 其のお
蔭で僕等は飯が喰えた。

T : 3~4日だと数百キロ程でしょう。

S : だから中国人の善さとは日本人が考えているものとは違う。 孔子様が此う謂った
から、此うでは無いの。 日本人も善い処は在るとは思うのだけれども。 牢屋に入
っていた時、僕だけには差し入れがある。

M : 牢屋に入って在る時の態度が善かったからよ。

S : 三・四百名も囚人達が在た中で、僕独りだけが特別扱いだった。 賄賂一つ遣った
訳では無い。 機嫌を摂った事も無い。 満州一の悪党と新聞は伝う、其れでも差し
入れは僕独りだけ。

M : 普段から中国人との付き合いが有ったから。

T : 監獄に入ると勅任官でもうろたえますよね。 僕等もうろたえますよ。 矢っ張り
余りにも外の世界を観無い善い生活をしているのですよ。






                 

   左佐藤 右山田



S : 最後は伯父さんのお蔭で救かった。

T : 矢っ張り本当の勇気が無いと出来ませんよ。

S : 忙しくて忙しくて、僕独りで皆の世話をするのだ。

T : 矢っ張り其れは理屈では無い。 或の人が来ると楽しくて仕方が無い、と云う雰囲
気って在りますよ。

S : 大連の小学校で一緒に先生をして在た人が、国民党の外事課長さん。 十何年振り
に会って 「逃げなさい」、と。 僕はお断りした。
「あんたに迷惑を掛けるし留置場に在る日本人を残して僕だけが返る事は出来無い」、と云って。



国法か人情か。 人情は国法に勝る。

T : 其う云うお譚を訊くと、其う云うものが仄かにでも在れば。 矢っ張り好きだから、
無言で判る訳でしょうし。

S : お世話に為った此の人、中国に在る筈なのだが。 恐らく、もう生きてはいらっし
ゃらないと思うのだけれども。



T : 五月頃。 拓本を採ったのが出来たので、国府記念館に寄附をしようかと想い、台
湾へ行ったついでに大連へ行きますから、其の噺もね。

S : 大連へ行きますか。

T : 苗さんの奥さんは大連出身なので、写真等渡そうと想って。 張 学良は苗さんの
奥さんとの交流は無いのだそうだけれども、奥さんの
「或の人 (張 学良) はお坊ちゃんだからねぇ」
と謂うと真実味が有りますよ。 苗さんの娘は中共の会社に勤めていますね。 でも苗さんは普通のアパートに住んで居ます。

S : 苗さんをアレすると、蒋 介石の事を暴露されるからでしょう。

T : 苗さん位なら、もっとずっと凄い家に住んでいても善いのだとは思うのだけれど
も。

S : 苗さん、 仲々良い言葉を謂っているよ。
「三木には観切りを着けた・田中 角栄と云う奴は一角の繁栄しか判らん奴だ・大平にはオオッピラに御免だ・中曽根には根が有るとは思えん・今の日本には日本人が在無い、日本人の在無い日本など日本では無い」と僕に謂った。

是の言葉、活きているよ。 台湾へ行くと本当に温かく迎えてくれる。 中共とは全く違う。













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最初の一声・・・その覚悟    08/1再

2025-01-04 08:22:46 | Weblog

゛義理と人情とやせ我慢゛それもホドが肝心だょ (一区五番も組銀座 竹本談)


西洋は合理主義といわれているが、その事そのものが主義と括るのは如何なものだろうか。
たしかに整理したり、分別したりするには理に合うものが必要だろうが、そこには理無し(無理)を生ずることも忘れてはなるまい。

今どきは自らの意見や思惑の説明に、いとも合理的ともおもえるロジックを構成し、しかも大義の美名まで添えて人々を言下に置くものもいるが、大よそ時の変化と言下に置かれた人々の情緒などの予測を誤るのが常のようだ。

その意味では筆者も、自らの言動にすら慙愧に耐えられないような事態に遭遇するときがある。つまり今ばやりの「KY」(空気が読めない)状態ではあるが、部分の合理と全体の合理、あるいは特定対象の合理と不特定への合理とでも言おうか、はたまたた他と異質のせいか、世俗とは似合わない自己を覚えることがある。

さて、゛生きているうちが華゛とはいうが、ならば自らの生命を絶つような自発的行動について、個別特定の長命願望や高邁な生命倫理に逆らう如く、不特定に献ずる生命の合理を、精神、あるいは魂ともいえる行動で無理と思われたことを有理に転換した当時35歳のルーマニア人を想起したい。

それは「人殺し」という声から始まった。
当時、ルーマニアは共和制のもとチャウシェスク大統領の圧政が続いていた。外に目を転じるとソビエトの弱体とともに巻き起こった民主化の波は、その影響下にあった東欧諸国に伝播し、その波動は東方中国の天安門の民主化運動に広がりをみせていた。

「人殺し」と一声を上げたのはブカレスト生まれのニカ・レオン(当時35)、職業はエンジニアである。
その日は独裁国家お決まりの官製支持集会が共和国広場で行なわれていた。見逃せばいつもの事であり、一時の出来事として過ぎ去るものだった。

ところが彼はその集会で大統領演説のさなか、「人殺しチャウシェスク打倒・・」と叫んだのである。我国でも卒業式に起立しなかったり、国会で下劣な野次を飛ばしても殺されることはない安心はある、それより食い扶持の心配のない連中の所業でもあることは言うまでもない。

しかし彼は思いつきでもなかった。
その日、職場から妻に「サヨナラ」と覚悟の電話をした。それは殺されることを確信していたためだ。だが何としてもこの国を変えなくてはならないとの一念だった。呼び集められた多くの群集は共和国広場を埋め、大統領宮殿のバルコニーには側近に護られた大統領夫妻が演説を始めた。それはよくあることだった。独裁者の長口舌は似た国の通例だが、12月の21日といえばルーマニアはまさに極寒である。年老いた大統領はいつにも増して演説に口ごもることが多かった。

そのとき彼は見逃さなかった。いや彼にとっては世に別れを告げた一瞬だった。
そして、その一声は広場に響き渡った。その瞬間、圧政に有りがちなことだか、゛おれじゃない゛゛逃げろ゛困惑した群集はざわめき、広場はそこから離れようとした群衆によって大混乱した。この時のニュース映像は世界中に流れた。しかし大統領がバルコニー上で戸惑っている姿と群衆がバラバラに動き出した映像では、何が起こったのか理解することが出来なかった。

彼は友人には内緒で伝えていた。しかしその光景は彼の勇気を賞賛するより、彼と家庭がどうなるか、そのほうが心配だった。それは突破した人間の達成感とは別の彼を取り巻く人々の憂慮だった。
問題意識は様々な姿がある。それは求める目標にもよるが、大まかには「自」と「他」の何れかに座標の有無を置くかの問題だろう。

とくに期と機を選択し、自らの能力と我欲を超越したとき、想像できない行動と結果を見ることがある。
天安門の若者然り、あるいは我国の歴史にも多くの義挙を見るように、不特定に献ずる行為は容易にその問題の障害を越えることが可能なようだ。

よく、゛自身の頭のハエもおえないくせに゛と聞くが、ハエを追っかけることに終始する人生も滑稽なことだ。自らの外部に映る問題に合理的な監察と客観性は必要だが、要はその先が肝心なことだろう。

学問の姿にも「知って教えず、学んで行なわず」とある。それも我欲にある肉体的衝撃を恐れる、あるいは回避する為の高邁な理屈も生命護持にともなう通り言葉だが、どこかせちがらい儚さを覚えるのは何だろうか。

政治家も「国民の生命財産を守る」という。
はたして、その生命と財産は何に活かされることなのか。
どうも文明人に安住する我々は、バーバリズム(野蛮性)にある対象とするものに対する素朴で純情な部分まで亡失してしまったようだ

官制学の合理からすれば野暮な理屈かもしれないが、ここは大らかに、清々しく虚構の恐怖心から突破する為に「ばかやろう」と吾が身に叫びたい心境だ。

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人間考学  ある任侠の逍遥備忘として

2025-01-03 00:38:36 | Weblog

「逍遥」自由で気ままな,何ら束縛されない歩み

 

その世界では雲の上の方といわれている人物である。

趣味は読書、それも小説の類でなく、内外の栄枯盛衰にみる人間のあり様など、難解な古典を丹念に精読している。反社とか暴力団と呼ばれる立場だが、市井の下座からみる観察は鋭敏だ。

ときおり当局(警察)の上級職が訪れるが、傾聴して聴き入っている。足が速く国体にも出た。本当は体育の先生になりたかった。

そんな任侠といわれる人物の回顧でもある。

     

任侠の旅した津軽


平成26年5月

憚りながら一言、つれづれ心に思っていることを述べる
齢七十五になったが、いまだ童心のごとく、あの郷里の山野を駆け巡った初心(ウブ)な心が甦る。くわえて、世間を四角四面に渡る人生となった滑稽さをも感ずるのである。
家庭も顧みず、律義で人の世話焼きに没頭していた厳しい親父、それを文句も言わず黙々と随う母の姿に、不埒にも面白くない人生だと東京で放蕩した自分があった。あの頃の両親の気持ちを少しばかり分かるようになった。

想うにつけ、果たして己の人生に真に追い求めるものがあったのか、このごろ思いめぐらして刻を費やすことが多くなった。以前は、そんなことを考えるのは丸くなった、ヤっこくなったと、己を責めたものだ。

もとより器量をはかる生業ゆえ、駆け出しだった頃の、余裕なく己を締め付ける四角四面な生き方が倣いの性となっていたために、気が付かなかった、見えなかったことが、幾ばくか気が付く機会があったためでもある。
それは異なる人や環境への理解や許す意味での許容量、つまり器量の大きさもあるが、器の広さや柔軟性でもあるようだ。

別段、いまの稼業に怨嗟を抱くこともないが、逆に任侠を自認する生きざまに関する心配事がある。
肩で風を切り、口角泡を飛ばし、ときに自分勝手な理屈を大義だと言いつのり、妙な片意地を突っ張ってきた内省もある。
妙な老婆心から生まれた稚拙な先見なのか、巷間さわがれている治安当局による暴力団呼称と社会生活上の締め付けを、逆説的になぜ歴史的に存在し、ときに賞賛さえ得たのか、そしてホドのある共生が可能だったのか、一旦、現行法の世界を離れて考える機会が増えてきた。

それは稼業に関する一部学者の評論にある応援的考えや、治安組織に利するのみの御用論者とは異なるものだ。人の世界で種々の縁におきる禍に肉体的衝撃を体感し、かつ親から戴いた身体を毀損することを、狭い範囲のこの世界の掟として甘受してきた今だから考え、言えることでもあろう。

それは、次々に集積される法の運用の多くが、まるで敏感な触法のように、しかも四角四面な執行において、もともと世間の柵を超えた埒外の若者が投網にかかった雑魚のように拘束され、かつ生活圏さえ脅かされている現状をみて、手前勝手な稼業社会の都合、不都合を超えるような、社会や国家への憂慮のようなものだった。
それはカタギ衆にとっても管理社会に象徴されるように、規制や合理的管理という風潮に、徐々に生活すら型にはめられた中での与えられた自由に陥っているように感ずるのだ。



ひとくぐりに暴力団と呼称された組織集団が悪なら、なぜ禁止令を出さないのだろうか。大海なら生き方もあろうが、生まれも育ちも日本の枠内で、まるで釣堀の囲い魚のような状況では、不謹慎ながら釣り客の戯れなっているような状況である。いっそのこと水を干して堀を消毒でもしたらどうか。

税は公平を、治安は正義を顕わす。しかし、人間社会の矛盾と不具合な構造は、法の下に平等という謳いが、単なる智慧のない成文(書き物)の下僕になっているように見えるからだ。
「平ならぬものを,平すれば、平ならず」との説があるが、もともと平らでない特徴を持つ人間社会で、公平や平等や人権を謳って、やみくもに平らにしようとすれば、必ず不平や軋(きし)みが出てくる。

恥ずかしいことだが、世間に迷惑をかけたヤクザの一部に、法の埒外を勝手に振る舞っていたものが歳をとって食えなくなった途端、生活保護受給のために仲間から抜けたいと来る者がいる。迷惑かけた親や世間のために世界を替えて働きたいというなら、赤飯を炊いて送り出すのが責任あるものの務めだが、近ごろは辛抱がきかなくなった。




満洲馬賊の頭目


中国の歴史には政治が悪かったせいか、多くの任侠の徒が活躍した逸話がある。郷村には長(おさ)がいた。それは役人でもなければ、村長でもない、土壇場で頼りになる人物だ。
何かをしたからといって財貨を要求することもなく、若いころは暴れん坊で殺人までしたものが、人生に目覚め、命がけで人のために貢献し、しかも決して名を求めることもなく,威を誇ることもなかった。

そんな人物に若者は憧れ、そんな人になりたいと思った。だが、その人物は徒党を組むこともなく、まるで隠れるように生活していた。その後の梁山泊や群雄もその気風の流れだったが、彼らは任侠とよばれ、義に生きることに敏感な侠気をもっていた。もちろん法制度も整わぬ時代でもあったが、何よりも人情は国法より重いという考えだった。

権力に対しても、物納もするし命令も聞く、だから俺たちの生活に邪魔をしないでくれという、一種の人情を基とした超国家的考えだった。権力の都合に飼い慣らされることもなく、あるいは幾度となく交代する権力者にも順応する知恵や狡猾さとも思える工夫も身についた。

国家の法は当たり前な規範だが、それぞれの運用には違いもある。とくに人の問題としての役人の狡猾のもみえる考えと、職域の伸長は食い扶持とその担保などの確保のように映ることもある。総じて権力を屏風にした恣意的運用と課徴金の増大が問題になっている。

法治社会には、運用する側と遵守する側に分けられるようだが、その成文法規(清規)という名目で支えられないものに掟や習慣(陋規)がある。清規の執行者は官吏だ。陋規は職分の親方、稼業の親分、郷の長(おさ)、野球でいえば監督、相撲部屋の親方などだが、この二つの規(のり)は不可分だからこそ維持できる社会がある。不可侵と考えてもいい。表も裏もそれがなければ存在しない、それは相互補完の役割がある
もちろん殺人、詐欺、などは清規の範囲だが、昔は陋規で裁いていた。
だから親分や監督は公平さを維持するために己の身を整え、昔はつねに学んでいた。




双葉山



たとえば大相撲の八百長だが、昔は五穀豊穣の神事で話し合いのもとに勝敗を決めていた。だから勝ちを誇り敗者を嘲ることはなく、逆に敗者は勝者を讃え、負けを悔やむことはなかった。勝者の資格は忠恕と惻隠の情だ。
日露、大東亜の戦いの終結はそのような心を持つ人間の志業だった。
ステッセルと乃木、天皇とマッカーサー、戦いの後の態度が国民を救い,誇りを護った。

野球でも最終試合に首位打者が決まると判れば打席とヒットの割り算で選手は欠場することがある。あるいは時間切れを図って牛歩野球をするが、野球も相撲も今の理屈では八百長だ。
もちろん裏では賭博も絡んでいるが、裏の博徒は違法でも表の行為は違法ではない。つまり野球も相撲も独特な掟と習慣で成り立っている。逆に役人が運営したら野暮で面白くない見世物になってしまうだろう。阿吽と書き物の違いで、住む世界が違うのだ。

アメリカではグランドで喧嘩が始まると、ベンチに残っていてはペナルティーが掛けられる。全員抗争の奨励だが、さすがにバットでは殴らない。
敢えて法律を当てはめて食いつくのは規制を意図して天下りを作るだけだ。相撲は治安組織で、野球は検察が通り相場だ。

昔の地方興行は勧進元がいた。警備、切符販売、物品納入、運営などだが、いまはイベント会社が行っている。遊戯店などは最たるものだ。あのころは国民の射幸心を煽ると一台二万円が限度だったが、今では自殺の原因にもなっているほどの博打性があり、いまだに法の適用は博打場ではなく遊戯店だ。国民は誰が支配しているか分っている。
これは排除されたから言うのではない。

たしかに法外な利益を上げ、贅沢三昧した稼業もいるし、国民の批判を受けたこともある。また若い衆の躾を疎かにして堅気衆に迷惑をかけたことも忸怩たる思いだが、だから憚りながら考えることだが、譬えて、角を矯めて牛を殺すようにもみえるのだ。稼業の思い上がりとの批判を承知での実感だ。
「角を矯めて牛を殺す」
《曲がった牛の角をまっすぐにするために叩いたり引っぱったりすると、牛は弱って死んでしまうことから、わずかな欠点を直そうとして、かえって全体をだめにしてしまうことをいう。
「矯める」とは、矯正する。曲がったものをまっすぐにするという意味》検索翻訳より

なぜなら国家の権力が恣意的に運用されると、国民はなすすべもなく、しかも法の二面性は些細なことでも社会生活にも降りかかる(適応)危険性がある。安全のために交通規制を厳しくすれば、一方では歓迎され、他方では車を手放す高齢者が増えてくる。今となってはひかれ者の小唄のようだが、社会の埒外である不良が増えれば、法はより煩雑になる。稼業組織の縄張り管轄の維持と使命感は、それをコントロールしてきた自負がある

青少年の非行にも一声かけたり、叱るお節介がいなくなったら彼らは暴走する。ときおり社会を煩わす稼業組織の人間だが、制裁の掟は清規と異なる方法で処置することもある。つまり相撲や興行野球、あるいは政党政治の掟や習慣と類似している。
違うところは公職者や畏敬の対象であり、法に誓いを立て、担保として高給をいただく人間たちだが、実力者(親分)に忸怩たる気持ちで意志を曲げられる議員もいる。公私の分別もなく裏献金が横行するのが、立場上、似て非なるものだ。




警視庁 川路大警視



余談だが、むかしは医者、政治家、お巡りさん、学校の先生は、郷の尊敬を集める人たちだった。いまどきは皆、怨嗟の対象だ。稼業とて郷の相談相手でありもめごとの仲裁役だった。これでは子供が目標として倣う人間ではない。
半端な人間は、外車、仕立てのよいスーツ、学歴、大きな家などに憧れるが、
今は、嘲笑の対象でしかない。なぜなら、附属のものは体裁がいいが、人間が尊敬の対象ではないからだ。



単純な比較に非礼もあるが、陛下は贅沢もしなければ偉くなろうと思ってもいない。考えることは下々の国民のことだ。東北の人たちも、膝を折り、頭(こうべ)を傾け激励する陛下のお姿に、どれほど癒され、勇気づけられたか。

あのお姿を見ると、些細ないさかいごとに片意地をはる任侠といわれる稼業も、どこか侘しくなる時がある。見倣うべき人格だとおもっている。それは畏敬すべき権威の忠恕だが、一方の政治権力は近ごろとみに変質している。これも人の問題だが、法の運用が無味乾燥しているようにもみえる。

あの鬼平といわれた長谷川平蔵が活躍したころ、今でいえば法には触れないが日かなブラついている徒人(ずにん)といわれる連中を石川島の殖産所(仕事を教える)に入れて石組みなどの仕事を教えていた。いまどきの生活保護を貰ってパチンコ行ったり、ニートと呼ばれる人間たちを強制力を以て、それこそ矯正していたが、平蔵はときおり訪れて激励している。権力のササヤキだ。これは単なる懲罰とは違うが社会への気遣いがあった。しかも今と比べてとてつもない力を持った火盗改めという特別組織だ。

浮俗に「これがしたくて生きている・・」と歌がある。
たしかに子供心に強いものが目立つし、゛もてた゛。ひと頃のモテ囃しだ。
そうなりたくて喧嘩が強くなりたい、度胸をつけたいと、いまでは懐かしい児戯を思いめぐらした。当時は郷でも大学に進学できるものも少なく、男子も女子も、一度は東京に憧れ、夢にも見た。上京すれば田舎モンとみられたくなく、小遣いを握って繁華街に出た。彼女の一人もできるし,カッコいい兄さんにも声を掛けられた。いっときのカブレだが、なぜか、あの頃は居心地が良かった。

あとは人情と意気地と、落ちぶれたくない人生だった。まともな勉強もしなかった。だだ、ものごとの是非は故郷の両親が手本だった。恥をかくな、人をいじめるな、女は大事にしろ、世話になったら恩を返せ、不器用だったが稼業世界にはそれがあった。だから自分に負けたくないので半端には生きられなかった。それが格好のよい生き方だった。

懐に硬い道具を抱いて一目散に飛んでいったこともある。後先も何もなかった。疑似縁は男社会の華だった。上下左右に縁を張り巡らして、身動き取れなくなったこともあった。またそれで道も通りやすくもなった。小径から大通りに入ったようなものだ。それは裏稼業が表の社会に這い出してきた頃だが、その多くは表社会の要求でもあった。

だが、あれで稼業の感覚が変わってきた。掟や習慣を曲げるのも金、すべてが贅沢に向かった。それが世間で辛抱強く生きるカタギ衆から離れていくことだった。加えて、欲望の増長が治安当局から目をかられることだった。

また、いまだから分るが、警察組織も過激派向けの警備重視から、民生警察に移行したころだった。バブルに浮かれ、遊惰にまみれた人たちの経済犯罪が多くなり、国際基準の提唱から新たな社会規範ができた。暴走族、少年犯罪が多くなったのもこの頃だが、稼業人は時代の変化を読み取ることも乏しく、旧態依然の組織運営がまかり通り、徐々に時代に取り残されるようになった。
「痛い思いをしなければ解らない」というが、「我が身をツネって人の痛さを知る」ことも少なかった。だから、社会の情況に沿った組織改革や人材の活かし方が解りかけてきた。







立ち止まって考えると、人生は複雑怪奇と自分では分かったように思っていたが、人並みに国の将来を考えると稼業社会もうっとうしくなることもあった。それは諦めや怠惰ではない。もう一度足元を見つめることへの促しの気持ちが始まったことだ。

いま想うに、稼業社会は縁の巡りと運だった。とくに人の縁は実親の言う通りだった。
それは、男も女も云えることだが、これだけはアカデミックな理屈では届かない妙味のある面白さだった。だだ、世間から見れば狭い世界だった。いつも客観的に見ようと心掛けているが、一方では粋だが、見方が替われば野暮でみっともない生きざまのようにも見えた。それで毀損した掌を眺め、鉄格子から見る四季の移ろいは独悦の天国であり、ときに望郷と悲哀の複雑さでもあった。



親父は役や金で転ぶなと始終言っていた。さもしく、卑しくなるな、ということだろう。釜の蓋の開け具合が乏しいときは、悪徳のへの誘惑があった。トラック一杯の現金を持って、半端な成金になって故郷でいい格好したいとも考えたりもしたことがあった。子分を大勢抱えて一人前の稼業人になりたいと夢を見た。

だが、いくら裏稼業でも人をだまし、足元をすくい、子分を苦しめても、生れついた性分なのか、なかなか様にはならないことを知っていた。つまらぬ我欲のためか、妙なことで似合わんことも考えるが、それが用になっていることも気が付いた。

いさかいの交渉駆け引きに行くが、不思議と大きくならなく済んでいる。もちろん相手もそれなりの人物だが、手前勝手な我欲がなければ不思議と肚も落ち着くようだ。興隆期と違い、誰も大きくしようとは思っていない。意地だ、メンツだといっても現実の威力には抗せないと理解する利口さは昔と違う。

それを世間並みの常識だと言われてもシャレにもならないが、そんな姿を見せる方が今の若い者にはいい学びだ。ただ、同じ利功でも、小利口に生きることは自分を小さくすることだと思っている。

組織は兵力と財力も大きな要件だが、それをカサに着ている組織は長続きしない。人が育たないからだ。「寄らば、大樹の陰」と、大きな組織に入るが、艦隊行動は遅い船に合わせるものだ。その遅い船を大事にしなくてはいけない。空中戦やミサイルでは占領はできない。とくに人情が乏しくなった世代は、下剋上も耳にする世界になった。三越の岡田社長の解任だと思えばいいが、稼業があれをやったら、落とす方も辞めた方がいい。

これからは調和と連帯を仕切る威力が必要だ。威力は粗暴と堅気はみるが、やはり中心はぶれない座標を持った人間への尊敬だ。まともな年期が入れば右顧左眄せず、目線は定まり,愚痴はこぼさず、力に迎合しない沈着冷静な人物になる。

それはどんな職業にも当てはまるものだ。とくに稼業は人の裏を見ることに長けている。ときおり女々しい見方をする愚か者もいるが、そんな人間に限って、風向きを見て揉み手ですり寄る小者だ。稼業の矜持もない。

もともと、稼業社会はヤクザとか任侠と呼ばれることがあるが、裏稼業は本来、成文法の刑法や民法の埒外にあるものだ。ことさら荒げて反抗するものではない。成文法(清規)は必要とあれば立法し、今は当局でさえ判らないくらいに煩雑に堆積されている。明治以降から積み重ねられた有効な法は弁護士、裁判官でも運用になじまなくなっている。だから判例に随うことが多い。

たしかに多くなった複雑な法は必要なくなったら廃止すればいいが、なかなかしない。物が整理できなくてゴミ屋敷のようになると、逆に外を装うようになる。元のフビライの宰相は「一利を興すは、一害を除くにしかず」と政治の大事な点を説いている。これができないのは見栄と形式主義だ。

若い者が外車に乗れば女も派手な美人を探す、泊はラブホテルでは洒落にならないし、ブランドの財布に小銭しかなくガソリンをケチっては飽きられる。
外車を売って軽自動車か電車に乗ればいい。それでも良いという女なら介護まで付き合うはずだ。もちろん独り住まいの生活保護もいらないし、孤独死も少なくなる。
これが組織や国家ならなおさらだ。ヤクザがいなくなって、交通法規を守る運転者がいれば警察人員は少なくてもいい。親子孝行が増えれば介護予算も少なくて済む。役人も少なくなる。

だだ、みな都合があるのだ。あちらが無くなれば、こちらが増える。
妙な言い分のようだが、無駄をなくして使いようの知恵だ。
別に、お目こぼしは要らんが、使いようだ。









近代刑法ができた明治期は判例も少なく、人格、情緒豊かな裁判官は「情理に基づいて・・」と判決を下している。とくに平等、自由、民主が入ってきたころは、教育も人格より知識や技術が重用され、明治天皇さえ憂慮していた。つまり法は知っていても、知識は覚えていても、人物を尊敬し見倣うような、知識や法の前提となる人間の問題が置き忘れてしまった。
稼業社会にいて口はばったいようだが、内情は同じだ。

まさに秦の宰相だった商咉が云った「殺を以て、殺を制す」だが、人殺しを総て殺せば、殺人者はいなくなるということだが、真の任侠は隠れた義人として、その業に続くものが多かった。白黒ではなく、白黒を超える人の世界だからだ。

とくに数値で人間を比較選別する教育は、胆力、見識を基とした使命感、責任感を枯渇させるが、稼業も政治も金と軍事力、員数の多寡でしか見られなくなってしまった。

よく、おかしくなったのは戦後のマッカーサーの企てだというが、唯々諾々と従った当時のエリートの姿をみてもドイツの対応とは大きく異なる。昨今の原発被害に取り組む政治家や東電の役員と比べ、作業員の命がけの使命感と責任力は、エリート教育の失敗を表していると外国人記者の多くの感想だ。日本人の好奇心と迎合心は特徴とは言うが、官にみせる姿と共に今も変わっていない。

智慧がないから随うことで怠惰になり、規律も緩む。智慧は狭い範囲の我欲(小欲)では生まれない。社会構造に意味ある行動、一部分でもいいから不特定多数の支えになる考えがなければ智慧(ちえ)は浮かばない。

交渉事でも対面のメンツを言い争ってもまとまらない。同じ社会の土俵に立って、これが何のための逡巡なのか、互いの背景を支える多くの人たちのために意を合わせることがなければ、事は進まない。

不思議ともめごと相手とは筋を通しつつも心では通じ合うものだ。なかには昵懇(じっこん)になるものもいる。それには裁きは他人につけられるものではなく、自分を裁いてから望むものだからだ。責任は人のせいだけでは纏(まとま)るものではない。あのステッセルと乃木さんのようなものだ。

その明治だが、警察は川路大警視、軍は西郷隆盛、児玉源太郎、秋山真之など綺羅星のように今でも語り続けられている。学校も行けなかった水兵は、航海術、砲術、万国航海法を学び、世界一のバルチック艦隊を撃破している。動いている船に弾を当てる技術だ。陸軍の立見尚文は極寒の黒構台の戦いを指揮、兵はあの八甲田雪中行軍の青森の師団だ。秋山好古もいた。もし敗れていれば、いまどき流行りの金髪の青い目の日本人になっていただろう。

二本差し、まげ、下駄、草鞋(ぞうり)が、明治維新から三十数年で国難を超えた。みな学歴はないが、集中力と好奇心、そして愛郷の使命感が充実していた。その後の数値選別と学歴など装いの立身出世の風潮は、あの敗戦を誘引した。

義侠心は野暮となり、親の諭しは古臭いと耳も傾けなくなった。みな人間の気概の問題だ。
組織が乱れるのは、司令官の我欲だ。上を見たい、名を残したい、財が欲しい、それを続けたい、それがために出処進退の機会を逃す者もいる。








児玉源太郎は陸軍次官で総理候補だった。しかし、2階級降りて参謀総長となり現地に飛び、周到な準備をして、成果は乃木に任せている。だから将兵は命懸けでついてきたのだ。妾連れで現地に赴任した某南方司令官とはわけが違う。

しかも死因は病死となっているが、あまりの色欲に、部下に殴り殺されたのが真相だ。部下もしっかりしている。軍法裁判になるような諫言行動は、ジャングルで屍をさらした兵士への哀悼だ。その義侠心が行動させたのだ。まさに任侠の姿だ。

ここで思うのは、稼業入りした若い者でも、学歴がなくても、金もなくても、車も無くても、親がいなくても、目的を作り、使命感と、責任感があればどんなことでもできるということだ。知能指数が30の男が死刑判決を受けて執行までの収容中に当用漢字を覚え、和歌を習い、新聞投稿して賞をもらっている。

つまり、集中力と緊張感だが、拘置所は最も適所であり、生きる希望と能力の発見は楽しい時間だったはずだ。勧めるわけではではないが、疎外感、孤独感こそ、学びの場なのだ。なにも官製の学校に入って点数に目くじら立てることではない。幸せ感は与えられるものと、与えるものがある。小欲は騙したり威圧したりして強引に奪うものもある。

感謝されて自然に財を得るものもある。しかし、この幸せ感は半分だ。気がついたら人が何と言おうと陰で援ける。つまり、「尽くして欲せず、施して求めず」だ。これなら褒められることに照れがある稼業人の得意とするお節介だ。暗いうちに人の家の前を雪かきするもいいだろう、店で困るような客をそっと表に出して理を説くこともあるだろう。

あの震災で多くの若衆が寝食もそこそこに、トラックに備品を満載して、我先にと現地に突っ走ったとき、何を感じ、世間は言葉にも出せないが感謝を感じた。

何を言われてもいい、理由は何でもいい、皆で行った行動は充実感と満足があったはずだ。ありがとうという言葉も褒美もないが、だから自由にしたいことができた。却って、立派だ、見直したと云われる方が照れくさいし似合わない。
前に書いた中国の任侠といわれた無頼の徒も、皆そうだった。









震災復興も手順や書式や予算や待遇の形式で、どれほど多く被災者が困惑しているだろうか。いまでもそれが原因で停滞していることもある。もともと無頼といわれる稼業だが、それは、あの児玉の突破力と頓智に似ていないだろうか。

内地では女郎屋通いが好きで借金はこしらえる。通行人が「児玉将軍は、たいしたものだ」と立ち話していれば、着流しの児玉は面白がって近づき「そんなに、たいしたものか」と、身分を明かさず噂話に紛れ込む面白い庶民性と頓智がある。
だから、数万の将兵を死地に赴かせるような畏敬(いけい)の姿があった。

畏敬「おそれ敬う」

世間では嫌われ者といわれ、刑務所通いも慣れっこな若者が、あの震災土壇場で見せた目を見はる義行は、善行とはこんな簡単な事なのか、こんなことで人は悦び、笑って仲間になるのか学んだはずだ。
実は児玉もそうだった。化外の地といわれた台湾で多くの義行をした。まさに現地の人たちは任侠の再来と映った。疫病を治癒し、匪賊を順化させ、東洋一のダムを作り豊饒の大地を作った。それは内地では風采の上がらない変わり者の後藤新平を招き、すべてを任せている


遊び人で苦労人の児玉は人を観る目があった。その後、後藤を満州鉄道の総裁に登用して満州を一大経済圏としてその基礎を作らせている。学歴や金に目がくらんで後藤を登用したのではない。後藤も台湾着任後、多くの不良な日本人役人を日本に追い返して、名もなく若く活発で、現地の人のために働く役人を呼び寄せて台湾人の信用と協力を得ている。

児玉は戦争が終わると間もなくして亡くなった。あの児玉がいなければ戦争は負けていた。つまり日本はロシアになっていた。女は強姦、男は奴隷が当時の戦争だった。児玉は今どきの政治家が言う「生命と財産」ではなく、その生命と財産が護られたら、どのように活かすのかを考える人物だった。

生命財産というから軍備が必要となる。それを生かして立派な国民をつくることが真の平和の基だと考えていた。つまり権力の正しい使い方と、権力を信頼する国民との関係だ。



中央 山縣有朋 右 児玉源太郎 大山巌





児玉が亡くなって遺徳をしのんだ後藤らが神社をつくろうと計画した。
しかし、なかなか資金が集まらない。台湾人にも声を掛けた。すると建設資金の7割近くが台湾からの資金として集まった。つまり、今では植民地としての歴史がある台湾だが、たとえ異民族でも児玉以下後藤や若い官吏の行った善政は現地の人の心に残ったのだ。

江の島の児玉神社は立派なものだが、いまは訪れることも少ない。残念なことだが、それが今の日本人だ。
それが、あの震災に寄せられた多くの義援金の心だ。九州くらいの地域から、三度の食事を一度にしたり、子供の小遣いを減らし送金した資金が、民間拠出して世界でも群を抜いている結果だ。(200億)


歴史もこのようにして学べば身体に浸透してくる。頭では動けないが身体は覚えるものだ。邪まな日本人の歴史、泥棒も詐欺師も、喧嘩で人を殺めるものもいる、しかし切り口を変えれば人の人生の流転と同じで、人は悪にも善にも転化する。

喝あげが得意な少年は若者に、「かわいそうなことは、するな!」と、説教するようになる、これも転化だ。保険金詐欺が老境の父の車椅子を押すようになる。殺人者が僧侶になって不殺生を説く、暴走族が教師になる、それが転化であり、流転だ。つまり激流が田畑を潤し大海にそそぐ、その流れの変化だ。

そのきっかけを作るのが、齢を重ねた自分の役目になった。どうせなるなら慕われる稼業人になることだ。それには小欲の成功より、大欲という大きな人生観と許容量を持った稼業人になって若衆の手本になることだ。
つまり、真の器量人、度量人になると、一人前の行儀も自然につく


金もない、車もない、女もない、頼れる親もない、それで荒れるのは勝手だが,ドブに屍をさらすより、爽やかな青空を眺めて任侠の道を広げるべきだろう。
任侠はヤクザではない。言霊(コトダマ)のことだが、口に出す言葉が悪ければそのようになる。

自分は任侠だ、と云っていれば立派な任侠になる。ヤクザだといえば一応、ヤクザになるが、小欲だけでは愚連隊だ。本来は任侠ヤクザだろうが、含む意味は「尽くしても欲しがらない、施しても要求しない、善は陰で行い、邪まなものを正し、世間にも通る人の道を真剣に求める」これが本意だが、食えるか食えないかで止まるなら考えるべきだ。


譬(たと)えていえば、環境の変化でコメがとれなくなれば、食うために転作をする。いつの間にか本作になる。これが知恵ある生活なのだ。何百年の農家でも放射能が来れば転地せざるを得ない。また身体的にも農家が合わない人もいる。つまりうぶ声をあげて農業になることを考えたものではなく、すべて縁の為せるものだ。









意地を張って煙突掃除や唐傘をやっても、煙突がなくなり、唐傘をささなくなれば生業は成り立たない。だから、大学出や農家の長男、漁師、役人出身でも稼業になることがあるのだ。
ある古老の鳶頭が「木遣りと梯子(はしご)と彫り物ができなければ一人前とは言わなかったが、近ごろはマイクの前で挨拶できるものが幅を利かせている」と嘆く。
いわんや、喧嘩が強く、気も荒い、ペテンも利いて度胸もある、ヤクザ稼業はそんな群れだったが、いまはソロバンと口の巧さと、お上手だと昔の稼業は同じように嘆いていた。

とりとめない、しかも身の程知らずの憚り話だが、今は人生を反復、反省、つまり顧みることが大切なことだ。縁ある人たちに役立つことは、新しい世界を見回して、より切り口の違う学びが必要だと痛感している。しょせん、トドのつまりは、と吾身を責めることもあったが、いまだ新規の器は多くの容量を詰め込む許容がある。

それはガキころに故郷で眺めた磐梯山の大きさに似て、鎮まりの中、爽やかな気分を想いださせてくれる。世話になった縁者に自分らしい姿を残したいと思っている。齢を重ねると老婆心も出てきて、いらぬ心労も招くようだが、心の転化の面白さは縁ある皆さまのお蔭かと、緊張しつつも愉しんで学ばせてもらっている。


イメージは関連サイトより一部転載

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