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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「五寒」 生じて国家無し     

2025-05-21 01:32:54 | Weblog

                 


五寒」生じて国家無し と言われる現象 亡国の兆候

顕著になって現れる姿は、政治、宗教、法律によるものばかりではなく、民族そのものの経年劣化、あるいは循環の妙ともいえるものである。

分かり易くいえば、成功価値や幸福感の錯誤のようなものが人間と複合的社会の関係を考察する座標や、人そのものを観る「観人則」の亡失であるといってよい。

宰相、荀悦が憂いた偽、私、放、奢を表す「四患」もその例である。

以下「五寒」を照らして世俗の現象をみると、普段の情報知識とは異なる切り口でそり問題の本質が浮かび上がる。

つまり自身の置所を変えた新たな感覚による考察が浮かび上がることでもある。



政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀が漏れる ゆるむ

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。








女(ジョ) 厲(ライ・レイ)  なぜか国家の衰亡期には女性は烈しくなるという

平成19年(2007)幕開けは二つのバラバラ死体事件と恒例の政治家と金にまつわる話題が各種マスコミ媒体を賑わした。
格差社会、年金、憲法と鎮まりのない議論とかいう、言いたいことの争論が社会の耳目を集めているが、刑事ものの探偵宜しく枝葉末節な推論に大衆も口角泡を飛ばして参戦している。

まるで末世の騒々しさの様相である。忌まわしいことではあるが、これほど多種多様な犯罪が日夜行われると社会や国家の真の存在意義を問いたくもなる。

 政治課題として憲法改正、教育基本法改正、郵政民営化、道路公団改革など、それぞれ政治家、官僚、有識者、専門家といわれる人々が掲げる国民の為、国家百年の計などという大義が部分の埋め合わせ論となり、かつ人間の欲望が混迷の種となり、社会全体の風儀や人の情緒を喪失させ、総ての根幹であり政策の大前提である人心の安定と調和がとれない、いやその在り所さえ判らなくなってしまっているようだ。

 また、そのような切り口にある問題の掲示を、観念的、具体性がない、はたまた科学的根拠が希薄であると、問題解決の前提である人の「意識」や「直感」を生み出す俯瞰性や下座観、あるいは時の経過から推考する考察を遮断するために起きる先見性の欠如に加え、他との調和に欠かせない譲り、委ねることの前提となる「礼」と「分」を否定する争論に陥っていることも大きな因となっている。







つまり、「部分は全体を表さない」というハイゼンベルグの論を人間学的、社会的にも実証しているかのようです。簡単に云えば、選択したものに間違いがあれば、言い訳を生じ、イヤイヤ選択したものの失敗は文句を生む。それゆえ選択に伴う責任を回避して無関心を装う大衆が増え、自らが全体の一部分であるという存在すら希薄になる現象である。

これが愛という共通語によって最小限のパートを組む夫婦はどうだろう。
愛といっても財、家屋、地位、学校歴、美麗、はたまた自らの自己愛を充足させてくれる存在などあるが、ここでは一般形式を満たした夫婦を考えたい。
2005年、浮俗では既婚者の男が女を殺害する件数は一年間に80件、逆に女が男を殺すのは120件、つまり三日に一人は夫が妻や内縁に殺害されている。

理由はさまざまだが、総じて金、嫉妬、ではあるが、近頃ではプライドを汚されたという理由も多くなっている。殺害の仕方も焼殺、切り刻むバラバラ殺人、あるいは食事に混入した毒物など女性らしくも、いやそれもより巧妙になってきている。

 昔は独占欲から別れ間際の殺人だったが、近頃ではドメスティックバイオレンスでも離婚せず虎視眈々と復讐の機会を探るという陰湿な犯罪が増えている。
この他に幼児虐待から殺害、子供の親殺し、あるいは兄弟姉妹同士の殺害など枚挙がない。






あの大江戸八百八町といわれた江戸でも武士は二本差し、渡世人、用心棒はドスを懐に入れていたが、殺人事件は数えるほどしかない。なにしろ殺人があると半年ばかり街中の話題に耐えたとも言う。幕府開設当初8割の男子は独身だったせいもあるが、あのゴールドラッシュの西部劇を見るようで女性は大事にされていた。たまに長屋で祝儀があれば「内の女房は何々家の腰元さがり」「前は大店の女で・・」などと自慢さえしていた。いくら女性が少ないからといって、御手つきばかりではなかった筈だが、それも出自のブランドだった。

 厳然とある士農工商という役割区分は夫々のエリアに調和をもたらしただけではなく、個々の嫉妬、怨嗟など軋轢や混乱の因を吸収できる楽天さがあった。
 
 また無常観という諦観が、「分」の矜持に似て存在していた。それはお上の権威もさることながら、村八分に代表される陋習(掟、慣習)や、支配者や長(オサ)の学問や規範が今のように多様ではなく、ごく自然に受け入れられる人心の素地があった。

また各層を総覧する支配階級には儒教やそれと一体になった山鹿素行の武士道得、または地域の実利学である郷学、塾が庶民の身近にあったことが、よりその有効性を高めている。力や権威とはいうが、力が財、学校歴、資格、という名目唯物ではなく、強いものの忠恕や庶民の人情が、あの大岡裁きに見るように官民一如であったことも否めない事実だ。加えて共通理解の淵が可能な範囲にあったということだろう。







翻って民主と自由を掲げるシステムではあるが、これほど個々の人々が乖離することになるとは・・、いくら欲望のコントロールが効かず、かつ助長させる外的要因(宣伝、思想)があったにしても、これほど人の心の自制心が弱いものなのか・・、ときおり強権のささやきが欲しいものだと思うことがある。

あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵は武士の強権によって捕縛したもの(虞犯、無宿物)を、石川島の寄場に集め殖産(手に職をつける)事業を行い、忠恕(権のもつものの優しさ)を添えて訓導している。

夫婦においても、官民においても触れ合う距離感が掴めなくなっている。自己喪失という難解な問題を身近に相対する人なり組織にリンクするにも、対象との位置感覚の境がおぼろげになる分裂した自由意識は、自発的な制御の在りどころさえ喪失して、他からの強制なり意識を超えた驚愕でしか解決がつかなくなっているからだろう。鼠の集団入水や天変地異を想起するような考えが起きるのもそのためだ。






なかには北朝鮮に描く強健国家の強制規律や貧乏と思われる環境に、我国に蔓延する怠惰な民情に起因する人々を矯正体験させたらいいとの片言があるのもその意があるようだ。

半知半解な自由意識や、己を知らない人権意識はとてつもない負荷エネルギーとして社会の融解を助長させている。殊に消費資本という主義システムを甘受した国家は、すべからず欲望のコントロール如何によって人々は時の集積(歴史)を分断忌諱しつつ、主である自身を時空に浮遊させるようになる。

また消費資本の発するバーチャルなプロパガンダ(宣伝)は、人々の表層知識を充足させることはあっても、人間関係に必須な人情の養いになるであろう、思索、観照の鎮まりにみる情緒性を陳腐なものとして廃棄してしまう。

犯罪に置き換えれば信頼に値しない関係、それも自己の都合の上のことが原因で犯罪や腐敗を誘引していることが多いことに気付くのはそのためだろう。単に法に抵触するなどの類ではない、陋規(習慣性、掟)にある善悪区別の迷走であり、成文化された法や制度では到底解決できないステージにこの社会は足を踏み入れたのである。

これも習い事のようだが、似て非なる隣国の永い循環サイクルに基づいた警言に知恵を借りることにする。


以下次号

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大相撲は「清規」には馴染まない 08 10/19 あの頃

2025-05-12 01:22:16 | Weblog

清規(成文法)と陋規(掟、習慣等)についての放談だが


好奇心の誘導なのか、相撲が八百長論議で騒がしい。

゛そもそも゛になるが、いつから国技と呼ぶようになったのだろうか。
また、数多のスポーツと称されるものと同様に、歪なコンプライアンス、つまり成文法の机上に乗せられるようになったのだろうか。

「我国の・・・」と振りかざす相撲だが、農耕神事から豪族、大名のタニマチ興行となり、近代では競馬などに冠されるように天皇杯が下賜され、形式的には法人化され国家のお墨付きを戴いている団体だが、だからといって全てが清規(成文法)に属する問題ではないと考える。

他のスポーツでもそうだが、猛特訓やシゴキが趣を変えればリンチ(私刑)になり虐めになる。それも先輩後輩や段階序列に処をかえれば、いつ加害者になるか判らない問題でもある。それを清規に当てはめると被害者が発生し、たとえ猛特訓でも受益者たるものの技や精神の昂揚喚起から生ずる感謝、感動は瞬時に犯罪として切り替わってしまう。技芸の自発習得は怪我も弁当(食い扶持)も己の問題としてあることは納得した修練においてはあるべき姿である。

もし相撲がスポーツなら指導料と食事代は支払うべき受益者負担である。
社団法人、スポーツ、国技に当てはめると、今どきはつねに法が付きまとう。
また、法なり則の狭間で歴史的には幾度と無く存亡の危機に立たされているのも相撲の世界である。




            


以前は農耕の祭事、神事として執り行われたが、それも格闘者の常で、終いには死闘となることもあったため、殴る、蹴る、突くを禁令とした熊本の吉田家の相撲作法および、横綱免許状の下賜という礼法をガイドラインとして、その陋規(狭い範囲の掟、習慣)が相撲界を司るものであった。あくまで狭い「界」のことである。

文明開化は肥満体にフンドシはみっともない、文明人らしくないと裸体禁止令など、それこそ文明人らしからぬ阿諛迎合拙速な奇法を発令したが、それも智恵の伊藤博文の気転で天覧相撲を催して危機を回避している。つまりミカドの威光を活かしているのである。

標題に「大相撲・・」と記したが、明治以降相撲興行は神社仏閣の勧進に関わらず、見世物興行的に各地で行なわれ、地元の名士、タニマチ、などが勧進元となり盛んに行なわれたが、東京を中心とした相撲興行は「大相撲」として各地の衰退とともに統合され、税制優遇処置ゆえ法人化され、先の吉田家が司った横綱免許交付権も協会に委譲されている。

ここで気が付くのは法(清規)の庇護、監督下になったのはつい最近のことで、それまでは陋規の範疇にあったのである。

そうでなければタニマチや地元名士、あるいは興行を仕切る侠客衆が興行成功の為に夫々の持ち場を形成する地域の調和が、優遇はあっても窮屈な清規の騒論に振り回されない、つまり敢えて御上や政道の外に位置することで相撲を継続してきたのではないかと思える。


          



もし、これが古来の神事、祭事に還り宗教法人ならばその危惧は無いだろう。
たかだか建前成文法であり、だからこそ争論観客までもが登場するのだろう。
御布施の如何で地獄か冥土、ミュージアムのような伽藍を立て本堂では落語にコンサート、かといって宗教゛道゛はとは問われない。あくまで掟、習慣の世界なのである。戒名は幾ら、お経料など全国一律ではなく都合に合わせた夫々の決りと話し合いで談合する世界である。

野球とて興行である。その世界には清規には馴染まない陋規が存在する。
法を執行する警察にも独特な掟や習慣がある。

つまり言い尽くされていることだが、人情は国の法より重いのである
ちなみに明治初頭の裁判官は判決文の作成に苦慮した。初めての憲法であり、今のように判例が無いのである。承知のことだが憲法は権力者を制御することにある。
聖徳太子の十七条も、遅刻してはならない、無闇に賄賂を獲ってはならない、筆者の乱暴な言い方ではあるが、人間の尊厳を毀損するであろう官吏に向けた条項が並んでいる。

その後は幕府の発する法度は武家向けたもので、庶民は多くは読むことの出来ない御触書などだが、耳にするものは身近な大家、名主、医者の言葉伝えである掟、習慣の陋規であり、自家に口伝されている決め事、訓語などを連帯の調和として生活を営んでいる。



                


大相撲に戻るが、八百長とガチンコという妙な言葉が踊ってる。
八百長は談合と金銭のやり取り、ガチンコは真剣勝負、いまでは真面目力士の代名詞のようになっているが、坊主の経や神官の祝詞もそこのところは微妙であることを我国の情緒は悟っている。

どうも四角四面と曖昧さに振り分けられる性癖のようだが、いつか満州国の副総理張景恵の親戚がそのようなことを知らせてくれた。
「どうも日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ少しは丸くなるんだが・・」

逆に庶民は懐かしがってこう言っている。
「偽満州はよかった・・官吏は清廉で勤勉だ。ただ賄賂が下まで流れてこないので困ったが・・」

たしかに盲目的に四角四面になると道義心の薄くなった上司の言は惨劇に直結する。また狭い範囲の掟や習慣は相撲界ならずとも、人が集えば自然に作られる。
ただ、公権力といわれる部分、つまり警察、税、の面前権力や官吏、政治家にみる特殊な陋規は、清規(此処では恣意的に作られた法律)を屏風にして隠れた行為、あるいは 与野党八百長の類が大手を振ってまかり通っている現状をどう見たらいいのだろうか

とくに教職員や警察の食い扶持世襲は、陋規にある秘匿の掟が国家の清規さえも凌駕しつつ、教育、安全の美句を添えてバチルスのように増殖している。

大相撲への騒論と嗤いから何を導いたらいいのだろうか。
洋学で思い出したが、ドイツの物理学者ハイゼンベルグは、゛部分の算術的総和は全体を表さない゛と解いたと聴く。大相撲も世情の一部分である。

我々は事象を一面でなく多面的、枝葉末節ではなく根本的、しかも身近な日本人の変容を俯瞰して眺めたとき気がつく直感があるだろう。

曖昧だが、さもありなんと。

裸にマワシ、観衆に囲まれて相手を倒す、投げる、突き飛ばす、平手で顔面を叩く、そんな肉体的衝撃を試しに受けてみれば、腑に落ちることも有ろうかと思うのだ。

 

イメージはブラジル、オスニー・メロさんより

 

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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅴ 7 12,20

2025-05-10 17:04:11 | Weblog

ある日の大学講話

 

【鬼平犯科帳の頃】

歴史でいえば、このような時代がありました  じつは私は18歳からボランティアでBBSという少年のためのケースワークを行ってきました 問題になっている保護観察の子供たちです  そのとき過去にもこんな歴史がなかったかな、と考え江戸時代を調べました 鬼平犯科帳というテレビがありましたか゛あの頃です  

考え方では平和な時代でしたが、政治も驕り、それにつれて人々の生活も乱れていました いわゆる贅沢な時代でした 今みたいに、「いいんじゃなぃ」、という時代でした  

若者が集えば持ち物のや流行の話題で、当時はグッチだとかシャネルとかないけど、かんざしは何処どこの店、刀のつばは誰々の作、江戸は滅ぶべきして滅んだ、その兆候があったのです  犯罪は犯さないが昼間から遊びまわり、仕事に就かない人が増え、風紀も乱れました いまの新宿、渋谷のようでした 

 もちろん政治家や役所の汚職も甚だしいものがありました  警察官はどうしたか、岡引ですよね 今でもあるようですが貰い下げ、願い下げ フトといって小遣い稼ぎが横行していました  ボランティアですが、私が担当した子供たちには人間の真理がそこにありました 当時は本当に不幸にして犯罪を犯してしまった子供たちがいました  いまは幸せでつまらない人が犯罪を犯します  

当時、武士は権力がありましたから 片っ端から徒人、生徒の徒に人と書きますが、この人たちを石川島、いまヤンキースに行った松井選手のマンションのそばですが、そこに集めて殖産事業といって仕事を教えました フリーターに技術を教えたんです  

パラサイトではなく自分の職業を与えました  そのご小泉さんの構造改革ではありませんが、贅沢取締りや役人の綱紀粛正がおこなわれました  当時は武士の絶対権力です ですが贅沢に浮かれていた中での改革は大変難しいものでした  

 



【亡国の後、その亡国の意味を知る】

人間は怠惰に流れ、一度味を知ってしまうと社会の統制は取れず、段々と徳川幕府の力は衰えたのは皆さんも知っていますね  これが国だったらローマ、ギリシャの衰亡です

ある学者が、七つの海を支配したあの大英帝国の衰退したときの人々の生活は、温泉、グルメ、旅行 ファッションに向かっていたといいます  社会や国の衰退は軍事脅威や経済力ではなく、その国の人々の心の問題、いわゆる驕りから来るということです
余談ですが、政治に命を懸けるという候補者のポスターは、みんな笑っていますね、大変な時代なのに、なにかおかしくなっていますね
 
インドのサキールさんは亜細亜のキャンパスに一歩踏み入れたとき感じました  私たちの国ではお金がなく学校にいけない人がいる みんな勉強したいと願っている
みんなは勉強したくて試験を受けて亜細亜大学にきたのだが、授業中寝ていたり、歩きながらタバコを吸っている女の人がいる  これが僕らの考えていた日本だったのかと感想を述べていました 

政治ですが民主と自由でみんな言いたいことを言い合います 社会の連帯がつくれません アメリカでも大統領選挙は共和党と民主党が僅差ですね 台湾もそうです、ウクライナもそうでした、日本も強い政権はつくれなくなっています 

言いたいことより、言うべきことが大切ですね  この教室でも30人がまとまることは難しいとおもいます でも皆さんが一人の責任者、リーダーを作ろうと思えばできますね  この教室にいる目的を話し合えばいいんです 

 そもそも私たちはこの教室に何でいるのか、考えればいいんです  ですから自分は全体の一部分ですよ、30分の1なんですよ、と考えて譲りあったり、助け合ったり、補い合えば、すばらしいグループができます

日本人は調和の中に生きていました だから飛びぬけることができなかった  でもグループが危機的状況になったら、あるいは学校の授業の目的がなくなったら発言し、行動すべきです  あの明治維新がなかったら植民地になっていたかもしれません

日露戦争に負けていたら私も青い目だ  問題意識を持ったらみんなで考えて行動することが大切です、それが若者の力です  私の父親の時代は、人と変わったことや、行動をしてはいけないと教えられたようです せっかくの自由です 30分の1の言うべきことを言ってください

 

 松下政経塾

筆者も一時間正座で講話 一学年7名 塾生は辛そう


【異なることを恐れない学問】

いまでもこのような話を皆さんは聴いてくれますが、小さな地域に戻ると、あいつは変っている、難しい、と異端扱いされますよ でも私はうれしい激励と聴いています
その変わり者が、シンクタンクを考えています  アジアの意思という名称です

各界で活躍している変わり者が集まって日本とアジアの問題、世界の中のアジア、いろいろ視点がありますが、その一つに明治の頃の人々がアジアに残した業績、その中の一つに数百年間、西欧の植民地によって抑圧されたアジアの国々がどのように復興したのか 

 例えば中国の近代化のさきがけとなった辛亥革命の孫文や、その意志に賛同した多くの日本人青年の意思などは、これからのアジアに必要な普遍的な精神だとおもいます。 そのためにはその青年たちがどのような学問をしたのか、いろいろ役立つことがあります 

前回の授業はアジアの留学生でしたが、真剣な授業態度に感動しました  
そのときマレーシアの学生が感想を述べました キャンパスの通路を追いかけてきました あの「無財の力」の意味がよく分かりました  アジアには財がなくても微笑みや優しさがある 財がないからこそ残る心ですね

今日は多くの変わり者が聴講に来ています
一番後ろは通称 仙人です その前は金沢さん そして先ほどのサキール・カーンさんです それでは金沢さんに何かお話をしていただきます

ひとまず・・・

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人間考学「五寒」 生じて国家無し その四

2025-05-04 07:41:20 | Weblog

         文 佐藤慎一郎氏



「五寒」とは

《政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀(はかりごと)が漏れる 弛(ゆるむ)

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。


                

               孫文夫妻




[両性の調和]

娘、嫁、姑、姥、と変化する女性の表現文字は、男性から見ると、その積み重ねた経験の変化に、尊敬と慶び、あるいは慈愛にあふれた母性に感謝が込められています。
 
 言葉のニュアンスを論ずるものではありませんが、「女厲」にある女の烈しさと、母の剛さはその意味において大きな隔たりがあります。
「強さ」と「剛さ」、「烈しさ」と「激しさ」も同様に似て非なるものです。
 
 女性には元々、性における特質があります。 表現方法も男性とは違います。
 一つ一つの問題に互いの劣性、優性を争うものではありませんが、区別はあります。本来、両性は特性を際立たせながら互いに補い合う共生本能があり、役割認識があります。

 しかし、その時々の流行や、経済力、あるいは社会生活等の変化や衰退、はたまたは物質的発展とともに蓄積されるという精神的怠惰などは、男女の役割を反転させたり、両性の調和を崩し、単に、対立した権利、度が過ぎた享楽にその特性が浮き上がり、それぞれの生まれながら持つ優性が劣性に変化してしまいます。

男女に区別もあれば能力もさまざまでが、両性の優性が種類の違う自由と権利が交差、錯誤することによって優れた部分を劣化させることにもなります。

 多くの人は義務よりは権利の多くを主張します。
表現は異なりますが、人はそれぞれの範囲の中で権利の主張をしますが、自らが族を主張し、種を主張し、譲りあわなければどうでしょうか。
たとえば、不特定多数の利福を代表する議員が己の生活を主張したなら、「公」の意識は崩壊します。
子供が人権を掲げて大人と同様な享楽的な権利を唱えたら、道徳規範は必要ありません。
理屈では決められた役割ではないにしろ、暗黙の了解とか、当たり前の事、といわれている男性の責務の代表的な“戦地での戦闘”“社会での生産的役割”を一人の人間の自我として放棄したらどうなるでしょうか。

今までは考えもしなかった男性としての当然の責務が、妙な雰囲気のなかで逃避傾向にあるように感じられるのは拙者の思い過ごしでしょうか。


              

             満州での佐藤夫妻



[ 錯覚価値の露見]

或る碩学の格言に「六錯」と称して文明人が陥りやすい錯誤を述べています。

【奢シャ】
      (贅沢)を以て福(幸福)と爲ナ(考える)す。

【詐サ】
      (人を騙す)を以て智(賢い)と爲す。

【貪ドン】
      (むさぼり)を以て為す(行動力)ありと爲す。

【怯】
      (おびえ)を以て守(守り)ありと爲す。

【争ソウ】
      (あらそい)を以て氣(ちから)ありと爲す。

【嗔シン】
      (いかり)を以て威イ(人を従わせる力)ありと爲す。



また、こうも併記 されています。

肉体の欲望を神聖な行為と考え、堕落を文化と考え、流行を進歩と考え、道徳を反動と考え、闘争を正義と考え、とある。

  今流に言えば、自分を知らずして、なお且つ地位、名誉、財力、学歴といった無いよりはあった方がましぐらいの附属性価値にうつつをぬかす人々のようなものです。

しかし、このような錯覚価値も自分の秘奥な良心に問いかける心の余裕があれば、あるいは、眼前に現れる事柄に問題意識をもち、自己能力を認めようとする勇気があるなら、正しい価値に覚醒された新しい人生がおのずから浮かび上がります。
そのことは誰もが生まれながら持っている、すがすがしい精神への回帰であり、世俗の錯覚価値に放たれた“放心”の取り戻しでもあります。
赤子の免疫能力のように…         孟子「四端」参照


            
           竹内夫妻  妻は佐藤慎一郎氏姉


[弁(ワキマ)え]

俗話に「女に負けるものかと、馬鹿が言い」とか、「女三界に家なし」「カカア天下」などと様々な言葉があります。
男が威張っているのか、カラ威張りなのか、はたまたは遠吠えなのかは解りませんが、なるほど近ごろではそんな男が増えています。

 江戸の一時期は8割以上の成人男子が独身であったわけですが、平成の世でも60万人以上の男あまりの現象があります。
風俗としては男性の女性化、逆に、女性の男性化が言われます。
人工的に容姿を作り上げたりするものもありますが、男女の“それらしい”姿が希薄になって来ました。

  別に、断定的に男女かくあるべし、というものではありませんが、生活にはどう生きたらよいかの基本的スタイルが有るはずでもあるし、社会の表層に現れた部分を比較して「解放」や「優越性」を唱えたところで両性の劣性のみが目立ち、ときには権利の対立を起こし「優しさ」、「強さ」が、「軟弱」、「烈しさ」に変化します。
 
 現代ではそれぞれの性を忘れたかのように、様々な属性価値を求めて誘引されています。 例えば、「昔の女はこんな風ではなかった」「今の男はだらしがない」などと、いささか江戸の長屋談義になってしまうが、言葉に飾りがないなかにでも互いの性を憂うる気持ちが表れています。
こんな世相のひとこまも井戸端会議のように「カラッと」 しているとよいのだが、ちかごろの雰囲気はそうでもないらしい。 根本的には「自分」そのものが解らない事が多いようだ。
自分を解らないとは少々難解だが、自分を忘れていると考えた方がよいのかもしれない。 

 




 孔子の逸話にこんな話がある。
引っ越しのときに女房を忘れて行ったものがあるという話だが」

6ところが孔子は、「女房ぐらいならたいしたことはない、近ごろでは自分を忘れているものが多いようです 
 いかにも孔子らしい説話のたとえだが、現代では他人の存在がなければ比較する己もなく、自分を表現できない人生は生きていることそのものを半知半解している風にも見られる。

別段、人生哲学を高邁に述べる訳ではないが、人間は人間そのものとして生きる簡単な行為を分かりにくくして、際限のない欲望と、禽獣同様な部分に身を置いていることに気が付かない。
もっと分かりやすく言うならば「何のために生まれて来たのか」「自分は何をしようとしているのか」「誕生のとき親はどんな喜びがあったのだろうか」
いわゆる「我(われ)は何なのか」を考える余裕と真剣さが必要ではないだろうか。

 こんなときが無かっただろうか。
 喜怒哀楽が親兄弟、伴侶にも垣間見ることの不可能な秘奥なる心の奥底を考えるとき、或るときには絶対無垢な良心で、あるいは邪まな心で、はたまたどうしようもない本能の欲望などさまざまな葛藤が巡るときがある。

 どのように理解し解消しょうかと試行錯誤が始まる。
自分で消化できるうちはよいが、友人や適当と思われる知り合いに連絡を取り一時の“まぎれ”をとるのだが「弱みを見せられない」「他人に話されたら困る」などと余計な心配ごとを発生させてしまう。いわゆる相談事である。
妙に事己納得する風で、一事が万事「自己愛」から出発し本当の自分が分からない繰り返しである。


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「五寒」 生じて国家無し その二

2025-05-03 05:55:11 | Weblog

果たして我国の現状は・・・

五 寒

中国は漢代のころ、当時の識者は国家社会を衰亡させる要因に五つの兆候があると説いている。 

其の一
   「敬 重」ケイチョウ 敬われる人物がいなくなる

  敬う対象がなくなるのか、あるいは敬意の心そのものを無くしてしまうものなのか、閨閥、学閥、財力、名誉、地位など人格以前の属性価値の変化から生ずる無秩序な社会の一過性の現象とも考えられる。 いわゆる民心の混乱でもある。

其の二
   「謀 弛」謀(はかりごと)が 弛(ゆるむ

  大切な問題が筒抜けになる。相互信頼の欠如によって心の動揺が生まれ、公私の分別がつかなくなり我欲が際立つ社会構成になってしまう。 また国家の重要な問題が他国に漏洩したりして、国家の維持機能が軟弱になったりします。
 また、綱紀が弛むなど自己規制がなくなる状態である。

其の三
   「内 外」ナイガイ 内面の欠点を外部で補うようになる

  内政の失敗を、外敵を作り出すことにより国民の眼を外に向けさせたり、外国勢力の力を利用して内政を取りまとめたり、あるいは指導者が自己の錯覚した属性価値を高めるために外国要人との記念写真を国内向けに撮ったりすることなどは、指導者の必須の資質条件と何ら関係のないことである。いわゆる短い単位の歴史の流れにうごめく軽薄な民の組成ほかならない。

其の四
  「政 外」セイガイ 政治のピントが外れ
 
 政治の根本である「政綱」がないままの政策論議が政治家の仕事と錯覚してしまい、常に対策に翻弄されてしまう状態を生み出してしまう。   「政綱」 政治方針の根本や、 目的のない学問と同様に、“我、何を為すべきか”の根本もなく、本来あるべき歴史の真理、真実の探求もなく、単に時運に右顧左眄する政治を露呈してしまいます。 しかも人間のみにその政策の重点を置くあまり、地上の森羅万象を観察する秘奥な心眼を失い自然界との共生ができなくなり“天に唾する”状況を作り上げてしまう。
「 亡国になって初めて亡国を知る」とはこのようなことを言うのであろう。

其の五
 「女厲」(ジョレイ・ラン) 女が(烈)はげしくなる

 国家衰亡の五つある徴(しるし)のなかに“女性が烈しくなる”とある。 
暇に飽かして漢和辞典をひいてみると“女”という文字につらなる合字は数え切れないほどあるが、“男”のそれはなかなか見当たらない。

 薄学が一生懸命探しあてた一つが“嬲(なぶ)る”であった。男二人の間に女を挟んでいる“嬲る”は文字の意味そのものであろう。
“なぶる”は、いじめたり、からかったり、あれこれと苦しめたり、あるいは戯れるといった意味がある。

ところがもう一つの“なぶる”がある。 「嫐」である。
これは小生の辞書にはのってないが、ワープロ変換に記憶されているものである。 確かな意味は判明しないが“嬲る”における男女の役割が入れ替わったものだろうと想像する。近頃はその気配すらする。






 女偏のつく文字のおびただしい数は、それだけ重要な役割と責任がある“性”なのであろう事は疑う余地はない。とくに陽(男)と陰(女)の調和が生命を誕生(産む)するという神秘的な行為に対する感謝、崇拝が、かくも多様な文字を作り上げたと言っても過言ではない。

 このように両性扶助(調和)は人間界の繁栄と維持に欠くことができない条件ではあるが、歴史はその時々にその還元力を試したり、互いの必須条件を確かめるかのように愛憎の反復行為を両性に与えたりする。
太古の歴史の反復、循環の作用からすれば先入観と考えられることかもしれないが、役割の入れ替えと、心の棲み分けがそれである。

 古代の埴輪にある帯刀した女性、儒教における男女の役割、戦後の社会的生産分野への進出、教育分野での女性的価値観での影響力、政治の分野における女性特有の参加形態がそれである。
街中では到底歩けないような原色のスーツと、ここ一番の厚化粧をした議員が口角泡を飛ばして平和、平等、人権を屏風にして相手を批判、もしくは自身の意見を確認するかのような論を強弁することに本気で応じられるのだろうか。
現在の姿は、平和ゆえに一過性の現象とも考えられる。






 「女厲」は男性側から指して言っている訳ではない。調和の崩れが及ぼす影響が、いずれは女性自身の側に降り注ぐことを憂慮した、歴史からのささやかな啓示であることを考えてみたい。
 
 たかだか人間の考える範囲の問題だが、人間は平等であるという。しかし男女の区別は双方から見てもある。 肉体の構造は大きく違い、ときとしてその享受する歓びも、それぞれは真に理解することはかなわない。また憎しみも違えば行為も違う。

 こんな俗諺もある。「平ならぬもの、平すれば、平ならず
平ならず、とは不平と書く。平すれば、とは平等と書く。平ならず、とは不平である。つまり元々「元々は平らでないものを、平等にすれば、不平が出る」ということである。この隙間には、優劣個性とか特徴があり、また少々異なる平和や人権の意識がある。

 人間は何と遠回りして考えるのであろうか、あるいは誰に問いかけているのであろうか、人間の身体にも機能は均等だが利き腕、支え手がある、また戦禍や不慮の事故で機能を亡くしても補助や他からの扶助がある。不平、公平、平等を眼前にも意識にも総て存在するのが世の中である。これを得手勝手な嫉妬、恨み、に逆進する意識と、惻隠、感謝、学習に転化することでは、人の世の現象に多くの差異が生ずることとなる。

 だが人間同種として共有、共感することがあるからこそ、違いから生ずるさまざまな苦楽を認め、受け入れることの積み重ねを“愛情”という文字に写しとっているのである。

以下次号

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小学に観る 習慣学習と、その活学    其の一  07 12/17再

2025-04-29 01:26:56 | Weblog







無機質な教育を有機的な学問に
              (官制学校歴と真の学問歴)

亜細亜大学   教職専攻課程 226号
1st 12:30   2st 2:50


①有機的に教えるということ          ⑩成長に沿った学問
②自と分について               ⑪古典を尋ねる
③活き方を探す                ⑫ある警告
④満州崩壊と土壇場の学問           ⑬鬼平犯科帳の頃
⑤トヨタの小学の活用と継承          ⑭亡国の後、その亡国を知る
⑥吾を活かす青年               ⑮世代の調和と礼
⑦今に無い明治復興のカリキュラム       ⑯トヨタの合理と歴史の科学
⑧憲法は権力制御
⑨小学に観る習慣学習と躾


ゲストスピーチ
金沢明造       弁護士の堕落と学問
サキール・カーン   日本における大学というところ

村岡聡史       教学随聴記





寳田時雄 特別講義を終えて

今回はゲストとして金沢明造、サキール・カーン、村岡聡史の各氏を招請し、サキール・カーン氏には日本の学生への率直な感想を英語のスピーチで、金沢明造氏には裁判官、弁護士という司法にかかわる一部の人々の腐敗の醜態と、学問の意味についてそれぞれスピーチ願った。
また、村岡氏からは小学と大学が、官制学校の小学校、中学校と混同、錯誤してしまうのではないかとの、ヤラセ?質問が突然飛び出し、氏なりの学生への細やかな斟酌があった。

後日、女子学生から、小生のホームページ「請孫文再来」を見て興味を抱き、詳しい話を所望したいとの電話があり、いつでも、どこでも、何人でも、悦んで、と応答した

小生の体験で、研修会を開催した折、参加者が少ないことを憂いたところ、いつも柔和な老師は「一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」「国は一人をもって興り、一人を以って滅ぶ」と烈火のごとく喝破された。
まさにその時、その場における絶妙な教育であった  それ以来、独りでも真剣に聴講する学生の所望があれば、参ずるようにしている。

講義中はいつもそのことを念頭に駄弁を弄しているが、若者の清純なアタマに固陋で難論かと察するが、それゆえ古今東西の事例、あるいは拙い体験を駆使して彼らの紅心の的をめがけて奔走した。

ともあれ、たかだか人間が編み出し 、集積された論なりを踏襲するか、混ぜ合わせて自説、仮説を高邁にも論ずるのを学説としたり、また口舌を生業としているものが世の中に跳梁跋扈しているなかで、無学無名の学を提供することは、気と勇と情に委ねることもあるが、これを観念的駄論と称すむきもあろう。
それも昭和に生を享け、明治大正の息づかいにふれ、平成に現存するものの役割であろう。

ともあれ、無機質なキャンパスを、真に意味ある有機運動体にすべく、がんばるのみであった。それは、小生にとっても有意義な活学でもあり、師への回顧報恩でもある。

 

東京裁判インド選出判事 ラダ・ビノード・パル博士



【講話録 本文】


 もっと前のほうへ座ってください 後ろは眠りのスペースではないですよ(笑)  最近は自由に座らせると後ろのほうに座りますよ(小曽根) それは日本人のDNAみたいなものですね 考えることはヨーロピアン 本当は近くでディベートができればいいね 

実は小曽根先生は私の母校の地理の先生です 担任を持っていまして、時折、子供を近所のお寺に連れて行って住職にお話を伺ったり、ベー駒の話題から川口の鋳物工場の見学など行っていますが、ところが考えすぎる人で、生徒が心配でいろいろと私のところへ来てお話されるのですが、ほかの先生からはやりすぎだ、とか、変わっていると言われるような、いまどきはあまりいない熱心な先生です 

社会に入って役立つ勉強、社会にリンクする内容を行動で示しているんですね でもプロの先生からすると、余計なこと、と思われたりします 君たちも教職志望なら分かるとおもいますが、たしかに日本人的な教職組織のようですけど、どこかおかしいですね 私は教職の世界ではないので、言いたいこと、では無く、言うべきことをお話します 今日は3,4時限ですが、90分が2回計3時間ですが、皆さんと相互学習のつもりで勉強させていただきます 



《有機的に教えるということ》


いま、皆さんは教育の仕方を学んでいます ここでは教育から得た知識技術の活かし方、使い方を学びたいとおもいます 教育の仕方は色々あります それぞれに教授案もありますし、アンチョコというものも有りましたが、「覚えておけよ、試験に出るから」が、大多数でしょう 
何年経っても同じ教科書なら同じ教え方をしている これでは機械がやっても同じことです 教授案というのは時と人、あるいはそのときの情緒に合わせて作るのです もちろん真理は変りませんが、人間が行い人間に伝えるものですから、世代や状況によって活かすものが変化するのです 17年の亜細亜の生徒と去年、一昨年とは違うのです ある意味では教授案は真理どう伝えるかという先生各々の工夫なのです 小学校や中学校ではそれぞれ異なる教科書が使われます、また小曽根先生のように体験を添えたものもあります 教え方、伝達方法が色々ある訳です 

前回、この学校の講義はアジア諸国の留学生でした アジアの留学生には日本人から観た、あるいは世代の異なる目からアジアを語る 日本の善いところ、悪いところも語る 気をつけなさい、と注意もする 同じ地理でも導入が違う それがいつも同じなら寝ていたほうがいい つまらない、生徒それぞれの目を視て、雰囲気を観て場面を変えていく、これを応答辞令といいますが、これが無機質な授業を有機的に動かすことになります これはテクニックではないですよ 習慣づけられた人間の情緒の交歓です ここに感動感激が発生する場面があります あくまで教える側の人間性が前提です 

先ほどの応答辞令というのは教室の対応とは別に、たとえば君は何が興味あるのだろう、ということを瞬時に観察して そして応答すると目を輝かせますね 直感力を養うことが大切です  そのマニュアルは自然界に沿ったシステムを考えることで、意外と容易になることがあります

じつは、さっき君の席に座っていた生徒が階段を下りながら「恥ずかしかったですよ」というので、「何が、恥ずかしかった」じつは前の授業の中で人間の成長過程があったとき、「君、夢精があったろう、いつ頃だった」と尋ねたことだったでもね「正直言ってスッキリしましたよ」笑っていましたけれど 他の生徒に聞いたら「僕はなかったなぁ」というんです そういうことが無い子がいる、無くてもいい子がいる、君は真面目だからあったんだね、といったら「そうです、私も勉強になりました」 笑いながら別れました 

やはり一つの事柄を単に学術的に捕らえるか、過去の体験、皆さんは二十歳ぐらいですが、その共通したところを探しあうところに理解の淵、入り口があるんですね それが人間同士の理解の入り口を入りやすくすることでもあるんです
君たちは教職課程をとって、学校の先生になろうかなぁ、というところですね
成れる、なれないは別として、人を導くことは学校の先生でなくても教えることができます 

    


《自と分について》


そのためには学校の勉強は大事ですが、自分を知って欲しいということです  日本人は自

分といいます 英語ではアイ、マイ、とか言います 中国では我といいますが、自分という意味が無い 皆さん簡単に使っていますが大変な意味があります 自はオノズカラ、とかミズカラと読みます オノズカラは自然にということです 自然に歳をとる 自然に四季が訪れる ミズカラは自発的ですね 私はこうするとか、人間のなかに人為と無為が同居しているんです 人為は考えたり見たりすることができますが、無為自然は計算できない部分です こんなこともあるんだなぁ、と知ることも自分探しなのです


分ですが、これは何分の何ですね 教室に30人いたら僕は30分の1です みんなが集まって全体、つまり1になります ですから自分はどの位置かなぁ 背が低いかなぁ、走るのが速いかなぁ、さまざまな特徴があります、その特徴ある一人一人が補い合い、調和しあって全体になるわけです 社会も教室も一緒です あるときは僕が先生、あるときは君たちの誰かが先生になって教室を有機的にする




《活かしかたを探すこと》

 国も同じです 学問の究極は「ワレ、ナニビト、ゾ」といいまして、自分は何なんだろうということを探求することが学問です 特徴を探求すれば、科学、文学、体育、分派すれば色々あります 農業、工業、政治家、それも特徴の発揮で他に貢献します 一生掛けても解らない難しいことです 

たとえば、松尾芭蕉が追い求めてものが道端のぺんぺん草を観て開眼したという話もあります  文字からそれが解けることがあります  玆(クロ)という文字ですが、玄が二つです  この玄という奥深いものを求めていくと、玆になる  しっ黒ですね  玄のマタ玄といってどこまで行っても玆(黒)なのです それほど難しいものですが、前を探さなくても、すぐ後ろに在るといことですね  見えるものばかりではありませんね  後ろに大事なものが付いている、あるいは探していたものが自分自身の中にあることが気がつかない、ということがあるということです 

 
昔、お爺さん、お婆さんに聴いたことがある、あるいはそんな体験があったと思います  親はうるさいことばかり言っていたけど、あの言葉は忘れないな、と想うことがあります  またトラウマになっていると感じている人もいますね

逆に、新しい知識を、新しいものを取り入れているのが、今の状況ですが、却って煩雑になって混乱しています 振り向けば身近にあった、あるいは鎮まりをもって考えると自分自身の心の奥に在った、ということもあります ですから探求も前ばかり突き進むのではなく、命も考えも東洋的な考え方では循環している、と考えると容易に発見できるものです そこには感動や感激も湧き出てきます 

だから学問は知識技術を唯一、有用なものだと考えるのではなく、感動感激という心の躍動をつねに感ずる、ある意味では魂の継承が無ければ本当の学問とはいえません  また循環ですが、悪いことがあったら善いことの前兆かな、あるいは勝手な話ですが、夏には冬が恋しいし、冬は夏が恋しい、これは四季循環からくる習慣思考です

一つ古典ですが、中国では一番よい生き方は、水のように生きることだといいます
水は気体、固体にもなる 雲となり山に水を降らせ、小川となって中流では万物に潤いを与える また四角でも丸でも器に納まり、一生そこに留まることもあり、濁水は綺麗な水を受け入れ、きれいな水は泥水をも無条件で受け入れる そして大海に注いで船を浮かべ、いったん怒ると船を転覆させる、すごいですね  ここでいう水は人民、船は皇帝です いつでもひっくり返すよ、ということです  

あの「上善水の如し」という日本酒がありますが、これは老子の教えです ある意味では中国は儒教ではなく、道教ですね  支配、制御は儒教、実利、生活の工夫は道教です  よく、くだらない人間といいますが、水は上から下に、しかし人間は地位、名誉、お金、みんな上に昇りたがる 昔は馬鹿ほど上に昇りたがると言いましたが、これをクダラナイ人間というのです ちょっとコジツケかも知れませんが、当たっていますね 

 無いよりかは、幾らか有ったほうがマシくらいで、なんら人格を代表しないものを求めるのですね そこには争い、裏切り、など多くの問題を招きます 智は大偽を生ず、といって智を己を偽るために使い出すといっています 終いには欲望を制御できなくなる  これを制御するのが勉強の一つなんです 知識人の堕落は国をも滅ぼすことは数々の歴史に現れています

ここでも学んだものを、どのように活かすかが問題になります そのためには無機質な勉強を有機的に使わなくてはなりません 単位とって合格しても、それだけでは人生は落第するかもしれません もう一つ異なった視点が必要です  たとえは゛学問全体が10だとしたら官制学校の勉強は2か3ぐらいしか占めていません  大学校へ行ったからって一人前のパスポートがある、そんな問題ではない ある意味では儚さを覚えることもあるようです 

その一終わりい

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「人間考学」は無限空間での「心の標(しるべ)」である

2025-04-28 01:26:57 | Weblog




≪解題≫
【寳田氏の「人間考学」を含めて、その他の作品群を集積し、分類し、然るのち体系化することは可能である。作業としてはできる。しかしほとんど無意味だ。氏の思想と文章は一個の芸術だからである。氏のどの個々の作品の中にも全体が貫徹し、全体を観ればそれが個々の作品を写影している。

戦後、発展した複雑系の数学では、これを基本原理(フラクタル)になっているのだが、要するに芸術の芸術たる所以は人々に生き活きとした感動を与える事にあるのであって、体系化や分析をした途端、何かおかしなものになってしまう。「目黒の秋刀魚」になる恐れがある。読者に注意を喚起したい。

※「目黒のさんま」とは七輪で丸ごと焼いたさんまは美味いが、骨を取り頭と尻尾を取って身だけ献上しても丸ごとの焼きさんまの美味しさとは違うと殿様の面白噺である。】



宇宙はどこまで広がっているのだろう。空を見上げるときの疑問である。それは童心でもあり、既成の知を積み重ね、老成しても解くことのできない想像である。

よく空間に仮説を立てて、その中の森羅万象を説明しているが、そもそもその仮説に立てられた「空間」の境の状況は、あるいはその先はどのようになっているか、童心におもった『どこまで続いているのだろうか・・・?』という疑問には、この文明にして、この論理の整えた結果にしても、 だれも納得するハナシはない。未だ、ああ言えば、こう言う、世界のようだ。註釈①


≪註釈≫
古今東西、人間が追求してきた永遠のテーマである。最近の現代物理学(宇宙論)によれば、宇宙年齢は137億年である。これはハツブル法則から逆算されたものだが、実感はわかない。空間の広がりも然り、曖昧模糊としている。カントは「純粋理性批判」の中で、人間の先験的認識について論を展開しているが、我々が宇宙について考察することは暴挙なのかもしれない。


よく、解明されている宇宙の仕組みは10パーセントにも満たないという。
その10パーセントが物理学、自然科学と称してカリキュラムや試験の題になっているが、一過性の探求を事実として刷り込まれ、数値評価の種として食い扶持まで決定されたのでは堪らない。その評価さえ「仮説の修得」という、「仮の能力」の姿として、新説まで否定する権利などはないだろう。もちろん奇説、珍説もむげにはできない。たしかに学び舎では定説に随うことが生きるすべでもあるようだが、それが「仮説」で生きる者たちの絶対範囲のようだ。

ならば、茫洋な姿である宇宙を無限だろうが、有限だろうが、拡大した想像なり考察を縮めて、その人によっては異なる範囲の世界のどこかに一定な位置を標したらどうだろう
まずは東西南北、言い方はどちらの方角が先でもいい。その中にどの方角に変更したとしても、定(観則)点を決めてみる。あくまで己の感覚だ。註釈②


≪註釈≫
然りであるからこそ、どのような姿の標でも「定点を決めてみる、あくまでこの感覚だ」という発想が活きてくるし、非常な重要な意味をもってくるのだ











それは四方でも円周でも現在の時間を見回すことになる。地球の東西の文化や現実の金融情報もあろう。あるいは紛争もあれば、幸せな国もある。切り口はあろうがさまざまだ。

そこに天と地(上下)を加える。
地理上で言えば通常は極点になる。時間軸で言えば横は現実、縦は過去と未来の時間軸にもなるも、あるいは平面を回転させる軸にもなる。
もし、そっくり90度回転すれば、東西なり南北は縦軸になり、横の現実は極点と赤道は規則どおり交互に到来する。

この動作が不規則に交互に回転してきたらどうだろう。
己の座標はどうなるのだろう。また地球外を観照して不規則回転を認めたり、あるいはスパイラルに動く地球内の一点をみとめたら、どのように映るのだろうか。

人間に戻るが、よく推察、予想、など将来観がいわれる。あるいは過去の歴史の考察にある事績の解明、人間の変遷、地球環境の変化、それらは、たかだか人間の思索や観照の果てである。その堆積は「知」や「技」として、今代に現示され用いられている。註釈③



≪註釈≫
人間の思索や観照は影のようなものである。その堆積を無限に重ねても、おそらく真理に集束されることはないだろう。数量的、機械的な集積ではなく、全的、質的な転換(パラダイム)が必要となる。そこにこの存在意義がある。


また、そこには発する場所、つまり座標がある。己の存在位置だ。
これが無くてはどんな論にも貼り付ける膏薬のごとく、言を発し、書類は埋められるが、「本意は解からない」だろう。

あるものは学派や閥におき、男女老若もあろう。思想や生活環境、その慣れ親しんだ感性もあるだろう。能力的には直観力や身体能力もその考察に影響を及ぼすだろう。

ただ、先に述べた座標を考えると、時や状況によって変遷したり転化したりするのは座標ではない。あくまで、転覆や転化は外部なり外周でおきる現象である。

座標の意味からはおかしい言い方だか、ここで云う人間考学は「浮遊する座標」であるが、ヨットのようにバラスト(重し)がそこにはある。ゆえに定点で観る座標では上下水平、あるいはどのように転化しても、その視界なり観察が座標を基に行なわれる。
それは転覆しない、あるいは全体の部分という存在(自分)を見失なわないことでもある。
譬えはどうか、乗馬の呼吸のようなもので、バランスが悪ければ鞍上は常に尻を叩くようになる。この場合のバランスは膝の柔軟さと締める按配である。

しかし概念では一時でも、その瞬間の座標である。否定するものではない、それが生き物としての人間の姿と呼吸の合わせ方だからだ。

異性の好き嫌いが変わったり、食べ物の嗜好や思想の転換も、事実の倣いだからだ。
そこに生きている理由が在り、軋轢がエネルギーだからだ。

ここでいう「人間考学」だが、座標の置き様で良質のエネルギーとなり、世の融解と組成の繰り返しを平常な姿で観察できる「眺め」と「率先」、あるいは「拘泥」と「柔軟」を容易に判別する倣いの学として考えている。つまり縁の機会、運の到来という、合理的といわれる西洋学の整理検証に囚われた論理では到底と解くことのできない部分を、どのように受容するかとの考証でもある。註釈④



≪註釈≫
デカルト以来の機械的な近代合理主義は20世紀以後の量子力学の発展過程で、完全に行き詰まり、もはや我々が期待しているような、いや望みをかけられるような有効性を喪失している。たとえば生物化学の世界では、DNA内の染色体の数量や、その設計図まで解明されているが、だれが、いや何ものが設計を成したかについては全く何も解かっていない。つまり「生物とは何か」については全く何も解明されていないわけです。神の神たるゆえんは此処にあるように気がする。











前記した空間だが、狭いより広いに越したことはない。想像、推考の思考や行動の多面性でもあるからだ。ときにその茫洋さは絶対無限に逃避する向きもあろうが、ことさら物理学の数値探求や宗教に言う神ゴトに委ねるものではない。

宇宙観やその検証の発意は己に在る。意思を成文され研究本なり、仮説は己の言辞にある。それは己の心に宇宙を描くことから始まる。それを「智」と称している。はたまた夢か。
智は錯誤と正邪の切り口を提供する。論争となり、抗論、詭弁、が徐々に増幅され、人の利が絡めば戦争になる。それは智でなく、疑うべき狡知なのだ。註釈⑤



≪註釈≫
歴史的には科学の発展は西洋によるところが大きい。自由と平等の理念しかり。しかしながら狡知と背中合わせの理念でもあった。第一次世界大戦のベルサイユ会議で提案された「人種差別撤退」が西欧諸国において一蹴された事実がこれを如実に物語っている。


人間はその解決の為にまたもや「智」を用いる。「人間考学」の一面は、その解決を他の智を借用することではなく、己の内なる潜在する能力を探し出し、内なる心宮の、仮称「神」なり精霊に問うものだからだ。「神」は示す偏に申す。つまり「示す」行動と「申す」言辞は己のものだからだ。
だからといって宗教ではない。教義もければ、垂直系列もない。註釈⑥


≪註釈≫
私の解釈では氏の謂う「神」とは宇宙の意志であると思う。宇宙それ自体を一つの生命体として把握すれば、この一節は自然に、素直に氷解するはず。したがって当然に宗教ではないし,教義でもなければ、垂直系列でもない、という結論になるはず


それは内在する座標の探求と他との調和のために、あるいは空間における「自由自在の座標」の慣性を養い、他を活かし有効とする人間の「考学」だからだ。

よく時間は伸び縮みして空間はねじれると聴く。註釈⑦何れも定則は無いし、たかだか解明されてない空を宇宙空間(ここでは間(マ)を限定)と呼び、そのなかの米粒のような、あるいは近ごろいわれているナノ粒子の様な地球の時間を大宇宙に当てはめても無理があるのは誰でも承知だ。たとえ地球を周回する人口衛星に周回時間の誤差が数兆分の一あったとしても、大宇宙では数時間にもなる。これほど些細な誤差を云々する人間の知力の証明という代物でも、あるときは定説として、ときに、゛原則的には゛と、数百年にわたる論争を繰り広げたりする。



≪註釈≫
ちなみにアユンシュタインの A「特殊相対性理論」と B「一般相対性理論」を方程式で表現すると次のようになる。
(A) E=MC2(二乗)     (B)   時空の曲がり=物質とエネルギーの分布
(A)は原水爆を生み、(B)は最近の宇宙観測の結果、その有効性が疑問視されている。要するに理論を金科玉条にしたり、彼を神格化したりするのは危険と錯誤を冒すことになるのです。













子供の頃、おもちゃ屋でコマを売っていた。和ゴマも洋ゴマも紐で回転をつけてコマの縦軸を立たせるが、洋ゴマのそれは何処か地球を想像させた。勢いよく回れば軸は垂直に立ち、勢いがなくなればダッチロールして軸がぶれる。もし地球のコアを安定させる回転エネルギー(陽極、陰極)の磁力が衰えたら地球は妙な回転を起すだろうと子供ながら考えた。

太陽のエネルギーは磁力と光熱とは童心でも解かっていたが、これが永劫に衰えないとも限らない。もし衰えたら太陽に向かう傾斜の変化が気候の変化が起きるだろうと想像もした。あるいはコマの回転力がなくなると倒れてしまうのではないかと恐れもした。

ただ、永い時間を刻む地球の慣性と太陽の関係は、自分の生きている時間から比べればことのほか恐れることはないと、それからは考えもしなくなった。それは童心のコマ遊びの、かつ一瞬の疑問だったが、人の慣性と歪み、そして何事もコア(中心核)が一番安心できることではないかと想像した。
今になって考えれば、核は戻るところであり、安心であり、そこから眺める外の世界、つまり脚下でもあった。その足下の有るを知ることが学びの前提だったようだ。

あのアインシュタインから忌避された、いや無理解ゆえに遠ざけられたハイゼンベルグも物理学者の定義や範疇になれば,後世の数値好きに弄ばれる。死者に反論なしを承知の決めつけである。もし不確定要素である仮説を、後世の研究家が確証だと言いくるめても、ハイゼンベルグは「たしかに物理の世界は・・」というに違いない。註釈⑧



≪註釈≫
ハイゼンベルグはアユンシュタインと並ぶ物理学の天才で在り、量子力学の元祖でもあった。量子力学は現代物理学や宇宙論の基礎を原理的に支え、生産活動にも応用されている。(一例 TVブラウン管)
奇妙なことに素粒子の位置と運動量を同時に観測することはできない。素粒子の位置や運動があたかも観測者(人間)によって影響を受けてしまうという状況になっている、と解釈せざるを得ない訳です。素粒子の世界は深遠なる神の世界と限りなく接近しているということとも思える状況だ。
ハイゼンベルグの名言に「部分の算術的総和は必ずしも全体にならない」とあるが、これは彼が晩年に中国やインドにおける古代アジア思想の研究に没頭した所産でもあった。     

つまり、二千年以上の時空を経過した結果、古代のアジアの英知、哲学と現代物理学とが見事に符合、調和したということになる。ちなみに現代最先端物理学は真空エネルギーが真理として説かれているが、これは中国自然思想の哲人「老子」と見事に一致している。
「天下の万物は有より生じ、有は無より生ず」


それは人間考学にいう、それぞれの事情におかれている後世の定点観測が、己の位置表現なり、従前の論拠なりに拘っている、いやそうでなければ自己表現のある位置すらオボロゲニなる研究者によって行われているために起きる、゛その世界゛特有の表現だからだろう。

研究者といわれる類いは何処かに納得する処を自身の証として描いている。思索や観照とはそのようなものだからだ。つまり仮説は結論と同義なのである。なかには想像を立てて結論を導くというが、結論なり結果を不思議さや問題意識から、そもそも何々であるという仮説を立て、思考を逆戻りすると不思議さにたどり着く。その不思議を説明すれば論理は成り立つ、そのようなものだ。

畢竟、そんなことは研究者の高邁な理屈を添えなくても人は知っている。いや多くの人々といってもいいだろう。

人間考学はその「学」を超えて思考や想像の座標を柔軟にすることにある。註釈⑨
゛定点が無ければ説明がつかない゛、これは説明好きの世界である。かつ想像力の無い世界である。



≪註釈≫
この一節を真に理解する方法論を二つ提示したい。第一に氏のレベルの感性は(または体験的認識能力)を身につけること。第二に理屈好きの方は、複雑系の数学と数学(非線形幾何学)と現代物理学の基礎(または初歩)を学ぶことが早道かと進言する。









桂林の童


時間が伸び縮みしたり、空間が歪む、空間や無限界では至極当然な現象とみる。なぜなら敢えて空間の見方を代え、時間を恣意的に理解しようとする限定空間の住人には「仮置く」などもってのほかに他ならない。つまり、説明がつかないと多論を仮借するだろう。

だから争うのだ。

もともとたかだか人間の解き明かす能力はみな知っている。だた、少し多く知っているかだ。

それを不確定要素と行った途端、究極の誤差を生じる一過性の機器を駆使し、かつ間違いの多い人間の目と手足で観測して、間違いを言い募る、これこそ人間の動作と反射を考える相対的な科学ではないだろうか。

このバカバカしい反射と動作は、心と体の為せるものだか、ならば座標は物理学なのか。
今だかって解明されることの無い世界、あるいは途方に暮れる一刻、それは物の理(ことわり)を知る以前に、茫洋とした世界の到達を想像しなければ生きている意味もなさない。

定点、限界の実証をしたいなら、自らの及ばざる不確定を観るべきだろう。
外は内にある、内は外に有る。

「壺中、天あり」よく謂ったものだ。註釈⑩



≪註釈≫
氏の小論の最後の一節は見事な表現である。偶然か必然か定かではないが、この一節は道元の著した「正法眼蔵」の帰結と軌を一つにしている。
「仏道を習うことは自己を習うなり。自己を習うということは自己を忘れることなり。
自己を忘れれば,万法進みて自己を証するなり」

註釈②解題者の観を圧縮して表現すれば、「宇宙意志」だ。宇宙意志(神と精霊)は、己を含めて森羅万象を貫徹している。
以上

                 「解題」「註釈」  処士  村 岡 聡 史 



また逢うと 思う心を 標にて
               道なき世にも 出ずる旅かな    龍馬

またあふと おもふこころを しるべにて みちなきよにも いずるたびかな

      「読後感」  龍馬の詠み歌を想起して      大 塚 寿 昭







桂林


いゃはゃ、畏友御両人は小生の拙文に戯れた。
異なることを恐れない独立した意志を掲げる自称奇人達だが、稀な存在と幾分は任じている。

村岡氏は某大学を出て、しかも卒業後莫大な寄付をしたが、大学など行かなければ良かったと、拙者を観て嘆じている。浮浪者と語らい、その哲人たちとの交誼と、図書館を住み処のようにして無上の悦楽を糧として人生を紡いでいる。
まさに交互の糸の網目は精細で無地ながらさまざまな文様を魅せてくれる。

ほんの数分の刻を筆に託した小論てあり、錯誤をも問う拙意だが、瞬時に同感する慧眼には恐れさえ抱く。
つまり、何かに書かされているようだと観た、と。
小生には殊のほか苦手な分野を調和させる、解題、脚注に敬服する。

大塚氏はIBM入社。当時のBK Systemの統括とし指揮し、己の置き所を確認すべく退社、数年間の米国流浪、帰国後著書が脚光を浴び某省のCIO-補佐官(IT担当)として辣腕をふるい、なぜか官域の水を忌避して短期退職、その識見は「人生は喰いに生まれたのではない」と喝破して大丈夫たる人生を闊歩している。人呼んで平成の龍馬とも称されている。
まさに、龍馬の詠み歌にある「標(しるべ)」は、小論の意を龍馬に重ね合わせている。それは龍馬の事績を云々する学究の徒とは異なる人間龍馬の真意に添う氏の観察と矜持のようでもある。

童子心の投げた小池の波紋が、波動となり、躍動となり、大海の変動に相対する力となることを希求して拙い小論の戯れとしたい。

                筆者
                          


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小学に観る 習慣学習と、その活学 随聴記     7 12,24再

2025-04-23 10:16:32 | Weblog






寶田教学随聴記
          ≪その志、嗣ぐものあらんことを≫

国策研究会元評議委員  村岡聡史




亜細亜大学における寶田時雄氏の特別講義の内容それ自体について、私が独言(論評)を展開することは極めて難しい。何となれば「屋上屋を架す」の恐れがあるからです。
それゆえ本稿では「何故に寶田時雄という日本人離れした大型の人物が形成され、皆さんの教壇の前に立つに至ったか?」という視点から寶田教学の本質と学問の方法論に就いて随聴記を編んでみました。

実相観入して神髄を極めるところ、寶田教学の本質と学問の方法論は、佐藤一斎(註�)の次の言葉に尽きる。
 「学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以って有字の書を読む。故に字に曲し、通透することを得ず。当に心を以って無字の書を読むべし。乃ち洞して自得するところ有いん」


【言志四録】

問題はそこに至った寶田氏自身の学問上、教育上の形成過程にある。要諦は寶田氏が二人の歴史的人物と青年期に邂逅し、その薫陶を享け、これを自家薬籠中のものとして自らの人間形成に活かして現在に至っているということである。

一人は安岡正篤氏であり、その同友たちである。深沈重厚、精義入神たる昭和の碩学であり、戦前戦後にわたって要路にある人々に多くの影響を与えた教育者である。
また終戦の詔勅に朱筆を入れたことは、知る人ぞ知るエピソードでもあり、その学識の深奥は計り知れないものがある。寶田氏の説く、無名有力の奨めと郷学の作興は、官制学にはない人間学として安岡氏から直接、訓導され、その後の活動に顕示されている。

もう一人は、佐藤慎一郎氏である。明朗闊達、正言躬行たる昭和の国士であり、「拓大最後の教官」と評されていた。佐藤氏は辛亥革命を指導した孫文に終始帯同した山田良政、純三郎兄弟の甥に当たる方である。

満州某重大事件で開幕した昭和動乱の渦中、二十数年にわたる大陸生活の中で、山田兄弟同様に日中提携によるアジアの安寧を願い、これに全霊を傾け、献身した人物である。遺憾ながら、風雲に大是を定むることができなかったが、その驚嘆に値する行動の軌跡は、明治が生んだ「日本の快男児」の一人として歴史に刻印されている。
この佐藤氏の精神とその行動学は、永年にわたって行動をともにした寶田氏に継承され、脈々として生き続けている。

斯様にして、寶田氏には二十代の青年期から両巨星【註�】と接し、人物的にも学問的にも多大な影響を受け乍、自己陶冶に努めてきた。つまり、寶田氏にとって両巨星が高等教育の場であったわけです。それは音声と触覚によって自身を供にした修学であった。

無論、寶田氏の学問や人物形成の背景の一つに膨大な読書【註�】による研鑽があっただろうことは想像に難くないが、根本的には両巨星との邂逅を契機にした素行自得にあったと思われる。

そのような来歴によるのか、寶田氏の教学や文章は難解であると感ずる人々が財界から言論界に至る各界に少なからず存在する。このたびの特別講義を通して、皆さんの中にもそう感じる人が居るかもしれない。
然らば、同情を禁じえません。実は私自身もそう感じている一人であるからです。

またそのように映ることは、氏の思考環境を支える座標にある、「無名有力」という浮俗の一般人からすれば頑なな自制心として映る名利に対する恬淡な行動があります。

それは公私を問わず、市井の観察や透徹した歴史観、あるいは異民族との間に横たわる現実の難問においても縦横無尽な応答を可能にしていることです。
それは官制学にない人と自然が活かしあうことによって生ずる直感力が、学術的な論から出される無機質な内容を有機的に転化させる柔軟な発想の基になっています。
氏は有名という現示的欲望は人間そのものを無力にさせると言います。
また「異なること」を恐れてはいけない、とも説いています。







台北小学校の朝礼  生徒が運営する




然しながら、「ものは考え様」です。頭の表層で直ぐ理解できるようなコンビニ知識や、インフォメーション(情報誌)の類は、すぐ役立たなくなる、すぐ飽きてくる、応用が利かない、普遍性に乏しいという致命的欠陥を内包している、これは真理であります。
例えば、電車の時刻表、受験の参考書はスグ役立つという点では大変便利だが、これらが百年後に役立つとはどうしても思えない。

翻って寶田市の説く「小学」(註�)と「大学」(註�)は、その起源を遡及すれば中国春秋時代に至り、朱熹の大成した「朱子学」(註�)も、その基礎に「大学」が鎮座しているわけであります。人間の本性が根本的に変革されない限り、おそらく此の学問は百年後の二十二世紀社会においても十分通用するであろうと予見できます。

此処まで読まれて、賢明な皆さんは既にお気づきのことと思います。
要するに、学問とは時代を超え、民族を超え、一般的、普遍的に通用する原理原則や、真理を追究する学為であって、学歴と称する官制学校歴とは似て非なるものである、ということです。
そして、教育にもっとも大切なことは、教育に関わる人自身が知りえた学問成果(原理原則、真理)を、現実に可能な範囲で率先垂範することであります。確かに、他者(生徒、聴衆)への訓導や説教は、必要不可欠な課題ではあるが、第二義的な意味しかも持ち得ない。

言うは易く、行なうは難し。率先垂範は困難な課題ではあるが、教育者足らんと欲するものは、これに努めなければならない。「大学」が人を説く所以は、教育が聖職であるという所以でも在る訳です。

次にごく簡単でありますが、特別講義に出席された皆さんの感想文と、ゲスト二人のスピーチに対する印象を徒然なるままに筆にします。
寶田教学に関する皆さんの感想文【註�】は総て精読いたしました。
素朴ではあるが、生き生きとした率直かつ真摯な意思と心情が私の心胆に津々として伝わり、久しぶりに感激を覚えました。そして、皆さんの感想文を読みながら、私自身も学ぶことが多く、「教えることは学ぶこと」(教学一如)というテーゼ(定立)を改めて実感した次第です。
皆さんありがとう、心より感謝申し上げます。

また、ミスター・サキール・カーンと金沢明造氏のスピーチ、謹聴いたしました。即興とはいえ、短時間でテーマ(学問と教育)に適したトピックスを自己の体験(日本体験と法曹界の堕落)と結びつけ語られ、見事に要諦をスピーチに纏め上げました。私には百年河清を以ってしてもできない技量であり、お二人の手腕には本当に感心しました。

最後に、私の願望を一言述べて結びに代えたいとおもいます。
私は、寶田時雄氏と亜細亜大学の皆さんとの「対話と交流」が、近い将来、再び訪れんことを期待しています。何となれば、私の予感では是が日本人および日本の教育の現状に対して一石を投じることになる、と考えるからです。

確かに寶田氏と皆さんのコミュニケーションは、深刻な問題を抱えた日本の教育という巨大な社会現象に比肩すれば、微小な一石に過ぎないものかもしれない。然しながら、我々は次の佐藤一斎の言葉に鼓舞されて、前進できるのではないでしょうか。
   『一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂う勿れ 只、一灯を頼め』
                        【言志四録】

寶田氏と皆さんとのコミュニケーションが日本の教育における一灯たらん事を、延いては21世紀のアジア世界の万燈たらんことを希求します。
教える人、学ぶ人、その志、大学において嗣ぐものあらんことを。





1989 5 北京戒厳令時の小学校




【註�】
佐藤一斎 
江戸後期の儒学者 美濃岩村藩の家老の子
中山竹山に学び、朱子学を主としたが、後に陽明学に傾く。林家の塾長、昌平坂学問所教官。門下に渡辺崋山、佐久間象山など多数の人材を輩出。主著「言志四録」
        文献 井上正光全訳注 講談社学術文庫

【註�】
安岡正篤氏と佐藤慎一郎氏の人物や思想について、さらに精細を知りたい人は、寶田氏に問い合わせ願いたし。 ホームページ「郷学研修所」参照
文献 「運命を拓く」安岡正篤著 プレジデント社
   「佐藤慎一郎選集」佐藤慎一郎著 国際善隣協会
   ブログ「請孫文再来」寶田時雄著
   「荻窪酔譚」佐藤氏と寶田氏の師弟酔譚  郷学研修会編
   なお両氏は近しい交流関係がる。

【註�】
寶田氏の読書について想像を巡らしていたところ、南宋の黎靖徳が編纂した「朱子語録」の次の言葉を憶い出した。
『人が読書するのは、酒を飲むのに似ている。もしも、酒の好きな人であるなら、一杯飲み干せば、また一杯飲みたくなる。もしも嫌いであるなら、無理して一杯飲むと、もうそれでお終いだ』
多分、寶田氏は高級な美酒(古典の名著、現代の良書)を毎晩飲んでいるのでありましょう。老婆心ではありますが安い酒は身体や精神に悪い。

参考【朱子語類について】
1270年南宋の黎靖徳が朱熹とその門人との問答を部門別に集大成し、朱熹の思想、学問を体系化してた書。全140巻 鎌倉末期に日本に伝来した。
参照「朱子の自然学」 山田慶児著 岩波書店

【註�】小学について
12世紀末に成立。南宋の劉子澄が朱熹の指示で編纂。酒掃、応対、進退などの作法、嘉言、善行を古今の書から抜粋、収録し、中国小学(修身、道徳)の課目を示した書。内外二編 全六巻


【註�】大学について
春秋時代(紀元前五世紀)に成立。四書(大学、中庸、論語、孟子)の一つで、元々は五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の一つの礼記の一編であったが、朱子学が重視されて以来、盛行した。最高の学問の理念について、三綱領(明徳、臣民、止至善)と八条目(格物、致知、誠意、誠心、修身、斉家、治国、平天下)を立てて説く。 後代、南宋の朱子学に多くの思想的影響を与えた。

【註�】「朱子学について」
南宋の朱熹が春秋以来の「大学」の人間哲学(修己治人)と、北宋以来の理気世界観とに基づいて大成した宇宙論から人間学に至る儒学の壮大な体系。
明代、清代を通じて体系強化のパラダイム(ある時代を特徴付ける思考や認識方法の基礎的枠組み)としての役割を果たし、李氏朝鮮や江戸時代の日本にも多くの影響を及ぼした。

参考
小学、大学および朱子学の歴史的沿革は、大雑把に言えば南宋時代に成立した「小学」の源流は、春秋時代に成立した「大学」の徳目の一つである修身に遡ることができる。また、南宋の朱熹によって大成した「朱子学」も、その骨格となった源流は「大学」である。但し、朱子学の宇宙論は北宋の世界理念と朱熹の創意工夫によるところが大であった。
大学には説かれていないことに要注意。

要するに「小学」も「朱子学」も「大学」に遡るのである。「大学」が四書の一つに位置づけられている所以はそこにある。
朱熹と朱子学に関心のある方は次の基本文献を推薦する
  「人間の知的財産19 朱子」三浦国雄著 講談社

【註�】鳩首作業
学生たちの感想文の整理と検討があった。難解ではあったが真摯なコメントの中にも、抱腹絶倒する場面などに遭遇して疲れを癒す場面もあった。気がつくと終電間際、千葉から来訪した学友高野華門氏は慌てて出立、小生も学ばして頂いた次第。


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陸奥斗南の憧憬. 15. 11/23 あの頃

2025-04-20 15:44:09 | Weblog

 

陸奥湾を望む

八戸から青い森鉄道、途中、野辺地から大湊線に分かれて一路下北へ・・

 

この章を記したとき、女性自身 」の皇室担当記者松崎敏彌氏から「むつは秩父宮様のご縁で松平さんと行きました。市長さんも立派な方で此れからも期待できるところですね・・・・」と妙縁を教えて頂いた、その後、台湾同行した津軽の方々との再会と今夏のむつの再訪を期していた松崎さんは病の床から戻る事はなかった。そんな縁を抱いての津軽墓参の途に、ふとむつに想いを運んでみたくなった。

その日は偶然にも田名部神社の大祭だった。久々に見た郷の力つよくも雅な祭りだった。歴史ある郷の新たな期待、それは臨機応変、縦横無尽に繰り出す機略ある若い市長に委ねられていると聞く。

以下は昨年の備忘録だが・・・・・

 

               

      左 松崎さん   台湾亜東関係協会蔡秘書長    平田元空将

 

 

青森県津軽地方の行脚も当初の独行から多くの奇縁を生んだ。

ことさら、みちのくの一人旅や切羽詰まっての北帰行を洒落込んだものではない

それは多くの郷人との邂逅とともに、独りよがりかもしれないが彼の地への憧憬が膨らんだゆえに辿る途のようなものだった。

よく自分探しや、ときに訪れる自棄に近い逍遥なのか、それさえも確認するすべもないが、敢えて云えば己の感性と運がはこぶ、みずみずしい縁の愉しみだと思っている。

 津軽衆やその近在のオナゴに下北の陸奥のことを話すと「遠い」と一蹴される。

どこか「何も、よりによって・・」と云わんばかりの雰囲気がある。それともせっかく津軽に馴染んだ東京モンが下北半島のむつ市まで行くことないだろうとの節介だろうが、だからこそ「何かいいことが・・」と下心がはずむのも自然の欲目である。

            

                

 10月の中頃に風呂帰りの本屋で何気なく手に取った本が陸軍大将柴五郎に関する「ある明治人の記録」だった。あの「北京の五十五日」という名のハリウッドムービーで有名な清朝の義和団事件で目覚ましい活躍をした柴五郎だが、その沈着冷静さと勇猛果敢な士気は新政府を牛耳った薩長の無頼衆とは異なる、実直な武士(モノノフ)の貌があった。

偏屈なもの好きは人物に興味があった。どこで生まれ、どんな環境で、両親の教育は、どんな学修をしたのか、避けられない苦悩はどうだったのか、など興味がわいてくる。

 斗南藩、聞き慣れない名だが、無頼衆が仕切る新政府は、会津藩が涵養し矜持としていた武士の心根を、勤王の士であった藩主松平容保憎しで完膚なきまでの辱めをあたえ、領地に残るは農民もしくは商人として営みを変え、武士として生きるなら本州の北端陸奥に移封するという会津処分を行った。

藩主に随ったものは未だ見たこともない地を斗南と名付け、現在のむつ市に藩を立てた。新政府の条件は農業によって財政基盤を作れ、という厳命だったが、一万七千余名の会津武士にとっては、ことのほか過酷なものだった。

 

 

                 

 

                

だからと云って境遇や歴史の隘路を質しても始まらない。

武士の浸透学にある「言を要さない」涵養は、さし迫った状況に向かっても超克する気概が、特筆される会津武士の姿だった。

会津の市街地戦闘では屍を倒れた場に晒し、白虎隊の童子さえ埋葬して弔うことさえ許されず、小動物にさえむしばまれた。非戦闘員だった武士家族の高齢者や女子は自決し、操と矜持の穢れることを良とせず誇りを護った。それから比べれば、゛何のこれしき゛との意気はあふれていた。

時を違えて世俗に惑いや小欲を制することもままならない旅人にとって、たとえ会津、陸奥と別世界に繰りひろげられた人々のストーリーを、彼の地に伝わる微かなる残像に心耳を澄ますことは、知った、覚えた類の探索ではなく、添って動転するような臨場感に浸ることだった。それは現状のささいな憂慮や煩悶に光明を推考し、実直なる当時の日本人への回帰願望が芽生える端にもなることだった。

 それは、同時期の冷害に同じく苦しんだ津軽弘前において、嘆く人々に向かって恩師の縁者である菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」という気概と同じ明治人の薫りを感ずるとともに、政府の補助金に「弘前に餓死者はない、他に困っているところがあれはそちらに渡してください」と断る、他への忠恕と責任感は、もともと寒気烈しいところに生地として営みを持った人間の守るべき矜持のようみえたのだ。

くわえ、その甥であるの山田純三郎に孫文が慚愧の気持ちで発した「真の日本人がいなくなった」との言葉が、妙に斗南武士となった会津士魂に、民族を超えた維持すべき普遍な意志のように共鳴するのだ。

 「そこを観よう」という観察眼と直感力の養いは、混迷の将来に宿命観を集積する世俗のには、偏屈な変わり者の夢想とおもえるだろうが、その浸透学こそ必ずや利他に必須な修学だと多くの先覚者や碩学の促しがあったればこそ、ゆえに哀悼と感謝の独行であった。だから敏感だった。

 

 

                  

 

北辺の地だが、当時は地域情報も乏しく、あの松陰でさえ山口県の萩から青森県弘前を経て竜飛まで足を延ばしているが、行程も順調ではなく、秋深くなれば降雪で歩行もままならなかった。その季節の萩は雪も見ることもなく、路銀(懐金)も計算通りではなく、至るところで松陰の借金証文が発見されている。それは予想外の異郷への旅だった。

 征夷大将軍の田村麻呂も秋田との県境を閉ざす白神以北は足を踏み入れることはなかったほどの、当時は化外の地だった。斗南藩の在ったむつ市は旧南部藩、いまでも八戸までの新幹線の頃は、大湊線の中継地である野辺地以北は訪れる観光客も少ない。

 周知されているのは原燃の六ケ所村、恐山、マグロの大間くらいで、斗南藩の史跡などは見向きもされないのが実情だ。グルメと観光はあっても、思索と懐古、加えて教訓を得るなどは浮俗の変わり者の所業のようだ。

だが、普段は心地よいと感じている浮俗に浸る都会の巷で、その深層に潜在する俗(現世)の人の在り様に滞留している鵺(ぬえ)のように取り付くモノの発見には、前記したように、かけがいのない風土であるとの確信が不思議とあった。

また、そのモノなるものを覚えたら掃き祓うことができるような拙い感のようなものがあった。それは人の縁なのか、史蹟に佇むことによって感受することなのか判然としなかったが、それはいつもながらの奇縁を運ぶ良機に乗るしかなかった。

 

東京からの時程では新青森を経由して弘前までの刻を要すが、単線の大湊線の最後部から望む陸奥湾の青さと丈のさほど高くない雑木林を後にする鉄路の景色は、窓枠をつかんで座席に膝立ちする童のような気分だった。

どこでもそうだが少ない乗客はスマホに夢中になって景色など興味がない。六ヶ所村の巨大な風車を超えると横浜町という駅に着く。これもユネスコ村のような駅舎だが、地元出身のオナゴは「沿線では一番大きな駅」と自慢する。

終点は大湊、海上自衛隊の北の要衝で、釜臥山に隠れるように基地がある。降りたところは一つ前の下北駅、ホテルは陸奥グランドホテル。電話をすると迎えに来た。

 

 

                

旅程は、昼に着いてグランドホテル内にある斗南藩の資料室を訪ね、近在の史跡を周り、ひと風呂浴びて夜には弘前に行く予定だった。いゃ、陸奥湾越に津軽半島の夕日を眺める経路が望みだった。

知人に陸奥の先導師がいる。生地ゆえだが醇な愛郷心は聴く者を旅に誘う雰囲気がある。普通は、金も、時間もと、聴く満足だが、津軽に旅慣れると機会を窺うようになるのも不思議なものだ。

到着後、報告のため連絡を入れた。前もって親切な郷人の連絡先を預けて戴いたが突然で、旅程もあり、報告のつもりが、オウム返しで郷人から連絡が入った。

 待ち合わせはホテルロビー。もともと先導師の伝言なのだろう、史蹟後、墓地、郷の陶芸家太郎仁窯を周遊した。時間を見計らったつもりだったが、太郎仁氏の話と清涼な自然環境に時を忘れてしまった。すると面白いもので、案内の郷人に「繁華街は近いですか・・・?」と尋ねた。すると「何時に迎えに行ったらいいですか・・・・?」と。

自然に「うむ・・、七時」と応えた。もう弘前行はなくなった。

ホテルのオーナーは余程の粋な気分を持った郷の長なのだろう、まるで使命感を持って収集したかのような資料と、その縁を郷に生かそうとする気概がみえる資料室を設えてあった。

 小腹がすいたので食堂に入ったら、どぶろく、とメニュー札が目に入った。

蕎麦を肴にコップ酒ならぬ、ドブロクを呑みこんだ。しばらく宙を眺めた。それほど美味しかった。以前、弘前駅が再開発される前の居酒屋の亭主と馴染になった折、事前連絡を入れると、山に分け入って山菜を採ったり、マタギに話をつけてドブロクを手に入れてくれたが、そのドブロクはどんぶりに粥のようなもので、水分も少なくスプーンで呑むより、口の中で噛むような感触があった。そしてジワリと酔いが滲みる。

食堂のドブロクもそれに近いものがあった。「これは・・・」とおばさんに尋ねると、ここで少し提供する試飲みたいなもので、外には出していません。と優しく応えた。

こうなると、呑ん平は狡知が働く。金持ちを見つけた税吏や隠れて違反を執る警吏の狡知も嗤えぬほど、詐知が生まれる。「部屋で呑みたいのですが、二合瓶に二本ほどいいですか・・」とへりくだる。「いいですよ」応えは優しかった。

よく考えたら、弘前行も忘れ、案内の郷人には夜を尋ねたが、肝心のホテルチェックインもしていなかった。二合瓶二本を抱えてチェックイン、部屋の冷蔵庫に貴重品のごとく安置して、風呂場に向かう。人も物も縁はまず添って、乗ってみることだとの実感だ。

きっと藩主容保ほか会津藩士も、弘前師団や斗南に縁があった秩父宮殿下も、きっとこのドブロクの味を知っていただろうと、妙な己の詐知の贖罪を想いつつ、落葉の浮かぶ湯に身をひたすこそばゆさがあった。

 この辺りは、あの津軽金木の資本家の息子のような放蕩噺もなければ、石高をごまかして瀟洒な城苑を構築された形跡もない。物語は少ないが、だからこそ人間がリアルな形で遺されている直感があった。もちろん類に漏れず閉鎖した巨大なショッピングセンターもあったが、いまはその建物をそのまま使って役所になっている妙智がある。弘前の歓楽地鍛冶町に類する夜の姿もあるが、いまでも、町村合併でむつ市では400件程、居酒屋は陸奥湾と津軽海峡の幸が豊富で、しかも都会ずれしていないところが柔らかい。

 

                 釜臥山 連山は恐山

 

 

翌朝、吉報?があった。

案内の郷人が件の食堂に掛け合って、ドブロクをもう二本用立ててくれた。

伺うと、以前このホテルに勤めたことがあり、みな仲間内のようなものだということだった。くわえて駅まで送ってくれるという。

定刻までの間、駅舎の外で紫煙を愉しんだ。中年の女性も紛れ込んだ。

改札を抜け、ホームに並ぶと後ろのフェンス越しに郷人はいた。電車に乗り発車するまで、いや発車してしばらく遠ざかり、見えなくなるまでその場にいてくれた。

一番後ろに乗って車窓をみると、電車の下から二本の鉄路がトコロテンのように押し出されるよう見えた。そのトコロテンの押し出し口のような窓から惜しむより、また必ず来ますと、ペコペコ頭を下げる童のような男が自分だった。

久しぶりにみた、我が身を刻み遺したい斗南の憧憬だった。

 

                      松平容保公

 

きっと、東京に上る容保公も残る藩士も、悲哀より下北への憧憬があったのだろう。

その呼応がなければ、あの賢将の柴五郎の説明もつかない。

なにより、図らずも朝敵となり、会津を惨禍に貶めた討幕軍が、御旗として推戴した宮家の系である秩父宮殿下に入籍した世津子(節子)妃殿下は、いくら計略といっても会津の姫君であったことは、宮家の真の意志と忠恕ある寛容な心であることは疑いもない事実だ。

 

                      秩父宮御夫妻

 

しかも会津の残影としてあるだけでなく、斗南の地に兢々として心香を献じた殿下の残照として今でも史蹟は丁重に護持されていることでもわかる。

それは、過酷な地へ移封した新政府との融和ではなく、もともと矜持として会津士魂を支えた勤王の大御心への忠誠であり、それら応えた黙契の表れが斗南に顕在する証しだ

分るものが判ればいい、そんな深層の情緒に黙礼せざるを得ない良機の旅だった。

 

イメージは関係サイト・陸奥グランドホテル資料室より

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相撲も野球もプロという興行   2011 あの頃

2025-04-19 06:58:03 | Weblog


                       写真はデイリースポーツより

選手や力士に罪は無い


全国津々浦々の興行、イベントは未曾有の震災に配慮して中止や延期をしている。
街のスナックや居酒屋で予約されていた送別会や親睦会までキャンセルが多くなっている。
なかには、形式的な付き合い宴会に疑問を持っていた若者にとっては、ごく自然に受け入れられた。

時宜を得た選択という名目があったとしても、歳時の倣いになった酒会は考え直す風潮にある。形式的といえば冠婚葬祭が代表的なところだが、結婚は経済事情もあり地味婚が流行り、葬儀は家族葬、密葬と称して経費のかからない葬儀が多く見られるようになった

あのとき、陛下のご平癒を祷り歌舞音曲も控えた。地震災害や火山の噴火もそうだった。だだ、これも納得性の問題なのか、青少年の育成を冠としたスポーツや催しについては計画通り行なわれることが例外的に行なわれた。いや様子見と按配なのだろう。

中止といえば、相撲の八百長問題でも法律的に問題があることではないが、自主的懲罰として中止している。ことは、合わせる顔がない、ということだ。それと内なる掟や習慣と成文された法律条文とのすり合わせに苦悩して明確な説明が出来ないことでもあるが、大多数の大向うのというべき人々との阿吽の繋がりがあっても、取り付く智慧が湧かないことが解決を遅らせているようだ。
最後は堂々とした言論と態度の問題に帰結するようだが、時宜の人物が得られない悩ましい問題でもある。
それでも、ことは商業興行である。食い扶持からみて敢えて矮小化すれば、スナックや居酒屋の人寄せイベントのようなものだ。

その商業興行といえばサッカーも野球もある。
本場米国で曰く、ベースボールではない、日本の野球である。
相撲は化粧まわしと土俵に髷である。野球は球技場に運動着にバットとミットにボール。団体競技と個人技の違いはあるが、客から木戸銭を貰い運動を見せるのは同じだ。
あえて横文字や職域言葉を使わずとも同類である。

試合の差配が行事か審判の違いはあるが、人寄せ興行は同じようだ。近くで見るのは砂被りとバックネット裏のボックスシートと言い方は変わるが、ともに高価で貴重になっている。

ローマのコロシアムもそうだった。飽きてくると支配地から猛獣を連れてきて奴隷と闘わせた。相撲も野球も外人がいなければ成り立たなくなった。つまり目慣れ、目垢がつくまえに目新しい大男か青い目をした異民族を用いるのも似ている。
次はどんな嗜好なのか見当もつかないが、ともに大金を並べれば済むことであり、精神性や内容は周辺言論や売文に煽らせて、大きな箱を一杯にすることが興業主の主眼である。

野球について言えば内務官僚の正力松太郎氏が音頭を取った興業野球だが、宣伝媒体である読売、日本テレビが巨人軍、一昔前はマスコミ資本の大毎オリオンズ、産経スワローズ、中日ドラゴンズが煽り立て、西武、西鉄、国鉄、阪急、阪神が球場まで人を乗せた。映画の大映や東映もそこに並び、近頃では金貸しと保険のオリックス、新興IT企業も参列している。

八百長とはいわないが、仕掛けはある。捨て試合もある。打率を競っていれば分母である打席には立たずサボタージュする。観客は知っているから騒がない。知らないのは健全育成スポーツとなった野球に打ち込む子供たちである。高校野球になると薄々大人社会がわかるようになり、くじ引き就職や金で交換売り買いすることも耳目を集めたイベントとして商業マスコミが騒ぐが、慣れてくると異論は偏論として忌諱される。






              

             未だ木鶏に至らず  双葉山関


これが相撲界であったら一大抗争となる。かれらは欧米のアカデミックなスポーツ論や経営論は馴染まない。金銭トレードや星勘定で休んだり、捨て相撲などしたら八百長どころではないはずだ。裏では大男が気色ばんで争いになる、つまり死闘になる。
そこには金ではすまない意地と人情がある。昔は食減らしや異形ゆえ就職がままならなかった若者を我が子のように育て、部屋を継がせようと思ったら金に転んだのでは、世間様にも示しがつかない。

高校野球のように監督が食料費や運動費を貰って生徒を好みの球団に入れることがあったが、また、相撲取りのほうが純情さは残っている。
悪い風潮なのかスター選手が幾ら貰ったか、何処とどこを天秤に掛けているか、あるいは三百代言の腕はどうか、などマスコミが煽ると、すべての少年野球が、゛売り物になるまで゛と女郎屋の水揚げみたいになってしまっている。
彼等の世界には世間様がどんな意識を持つかとか、その風潮が至極当然のように慣れさせるためにスターを作りエキサイティングに騒ぎ立てることがまともな思考を忘却させることへの危惧を考えない。

たしかに3Sといって、スポーツ、セックス、サイレントを操縦できれば人々はまともな事を考えなくなり奴隷化するというが、そのためには普遍的ではない掟や習慣によって整えられていた世界を無意味なものとして、聞くだけで満足する説明責任を強要して継続習慣を破壊してしまうようだ。
なにも相撲を擁護するものではない。厳存していたものの見方の問題だ。

ともに人の平常時にはない競いや戦いを商業興行とする周辺は、゛まとも゛ではないキワモノの世界のようだ。

以前、西鉄ライオンズの黒い霧事件で疑いがあり永久追放された池永投手がいる。当時は国会でも民間組織の問題が取り上げられた。法人格だからではあろうが、あの頃から国家や国民、外交矜持などはマスコミ耳目を集めない硬モノの風潮があったのか、高位高官や政治家まで大人たちが生真面目風に八百長問題を論議した。反応したのは球団経営者である。即刻、疑わしいものは追放となった。

あるとき福岡の中洲にドーベルという店を経営していた池永氏を訪ねたことがある。
北九州の道縁の老師から追放解除という地元の声があるといわれたことが切っかけだったが、同じ道縁にコミッショナーだった川島広守の存在を思い出し、件の要望を伝えたとき感触があった。そこで池永氏を訪ねた。何分初対面なので老師の縁者だった稲尾和久氏にゴルフ場まで電話して往訪を連絡してもらった。
店のトイレには多くのファンが書き込んだ紙が壁一面に貼ってある。ときおり客に応じてボールにサインをしていた。

カウンター越しの会話だったが・・・
『何の用ですか・・』
連絡が届いていなかったようで、ことのほかぶっきら棒だった。
いきさつを話して・・・
「下関球場で若者に野球を教えていることを聴きましたが、野球はプロの興業野球だけではないですね」
一瞬、乗り出したようだった。
『楽しいですよ』
「あの件は興業野球の都合です。追放は狭い範囲の世界ですよ。野球が楽しくてしょうがない子供たちには関係ないことです」
聞き耳を立ててくれた。
『そうゆう話はあまり聴いたことが無いが、自分も子供の頃は野球しか見てなかった』
「子供が喜んで夢が見れるなら、追放はあの世界のことですよ」
当日か前日かは不明だが、ボックスに東尾氏と大橋巨泉氏が来たと記憶している。

一杯しか呑まない客だったが、エレベーターまで送ってもらって最後は互いに慇懃な挨拶をした。
子供の夢・・・・
その夢に蠢く大人たち・・・

選手会長の阪神新井選手は被災を我がことのように哀しみ,爽やかな涙をみせ「後は俺達が・・・」と、国民に語った。
その清新さは池永氏がみた下関球場の子供たちと同じだった。
゛男の子がいた゛そして倣うべき人物となって成長した野球少年がいた。

また、学ばせていただいた。

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佐藤慎一郎氏に観る 官房機密費という銭   2010 加筆再

2025-04-14 01:57:29 | Weblog

≪最近、以下の内容に極めて似た著作が出版された。濾過された情報の又聞きだが、実直な作者ゆえか、佐藤先生象の感受表現は改めて懐かく感じられた。もし先生にお会いして盃を交して著作にある記述を拝聴するならば、P44のような言動をするような風はないと認識するでしょう。

また「おれ・・・(俺)」は、申が上から押されて下部が曲がった姿、つまり男性シンボルが押し曲げられた、いわゆる男の機能はないと、「日本人は面白い呼称をする」と云われたことを笑い話として語られた。

残置された書類はすべて焼却を切望していましたが、書類現物があることは不思議なこと。残っていたとしても触れた御仁は師の切望を知らぬはずはない。

真実を追うことが学問だと認識するのは勝手だが、切望の意を曲解なり隠匿することそのものを利とするのなら、どこかの国の大量破壊兵器隠匿如何として徒に知の有利さを弄ぶ愚は、師の「人師」としての風儀を汚すことだろう。≫

   

 

本文゜ 《酔譚の了解録音を参考加筆しました》

マスコミの解説委員や政治部長が機密費からお小遣いを貰っていたと話題になっている。

彼等にとっては問題なのだろう。ウンともスンとも言えないし書けない。陸羯南が聞いたら何といおうか。いや天聴(天皇の耳に届く)ならこれ程の社会悪は無いだろう。お耳を煩わせることだ。

たかだか瓦版、モノ書きの類のことだが、まさに走狗に入るとはこのことだろう。

国家観のあるうちはいいが、食い扶持、遊興、餞別の類になっては国民の信頼は得られない。とはいっても、゛国民の信頼゛ほどいい加減のものはないという前提もある。
つまり、嫉妬と怨嗟の対象だからだ。

こうなると、゛さもしい゛゛卑しい゛争論が発生するが、落ち着きの無い言いっ放しが大部分だ。

モノ書きの倣いだが、見たことを系列化するのが彼の職業における正当性であり、証拠や前提とする動機をとりあえず接続詞を多用して取り纏め、購読料を払っている不特定多数に伝えことを職業としているが、はたして食い扶持といえるのだろうか。珍奇、高邁に飾られた紙面は作り、書く者を文化人や知識人と称して盛り立てる世間の納得性もここでは問題視される。

   

北京知人

 

日中国交前夜にマスコミが中国に入った。当時は香港からあとは鉄道だったが、香港からの旅費は中国政府持ち。視察と称する物見遊山は最終地北京に到着した。人民大会堂では周恩来首相の招宴があった。最後に風呂敷包みが届けられ「これを皆さんで・・」と告げられた。

中身は現金である。ブンヤどもは会議を開いた。どう処理したらいいか。国内の社内会議のような堂々巡りで埒が明かなかった。それでも彼等は大新聞の記者である。
そのとき毎日新聞の橘氏が毅然として考えることではない。貰うべきものではない」と言い放った。

このことは当時の荒木文部大臣がエピソードとして語ったものである。場所は反共右翼が建てたビルの落成式である。こうも言っている「近頃は反共を謳って中共から金を貰ってビルを建てたものがいる」と。 むろん某政党も政党本部のために当時の額で3億円貰っている。

佐藤慎一郎氏が台湾の学術研究団に招かれ日本人の学者や研究者と訪台したときのこと、帰りにお土産が渡された。現金だった。

佐藤氏は賄賂を潤滑剤、人情を贈ると考えている彼等の慣習的な行為を非難はしない

問題は日本人の教育者や知識人の姿である。日本人として招かれた学者や、その後の台湾派と呼ばれている知識人達が当然の如く、あるいはコッソリと懐を開く姿に愕然とした。




          


クリーンハンドの法則は汚れた手を洗わないで握手をすると自らも汚れるということだ。
そのご佐藤氏はその訪問団からスポイルされている。つまり仲間ではないということだ。
狭い範囲の掟や習慣は法律の世界に優先することもある。とくに人情を加味されれば受けずとも理解することもある。しかもその訪問団の中では唯一20年以上中国で生活している佐藤氏はその意味するところを熟知している。
だから日本人が日本人として具現する姿を知っている。

知を働かせて意味も無い対価を受け取る。まるで物を売って対価を受け取るのと同じように手を差し出す。これでは言論の前提となる本(もと)が無いということだ。

「物知りのバカは無学のバカより始末が悪い」

「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

あの満州崩壊のときの軍人、官吏、しかも、゛高級゛と冠する連中と同じ醜態が平和時の知識人外交に佐藤氏はみたのだ


格好付け、変わり者といわれようが佐藤氏は断固、断った。それは、孫文の側近として、戦後は国民党最高顧問として日中交誼に尽力した叔父山田純三郎の遺志でもあった。その原点は「真の日本人がいなくなった」という孫文の嘆息への頑なな回答でもあった

その中でも外国語を専門とする親台派で有名な新設大学学長N教授は机を開けて生徒にその収得金をこれ見よがしに見せて平然としていた。いまは通信社の役職になった生徒の秘述である。

そんなのが大陸非難、日本政府への政策提言などと、何をかいわんや、いや国賊的知識人である。果たして彼等は孫文が歎いた真の日本人の枯渇した姿の映し絵ではないかとも思える醜態である。あるいは田中派経世会の中国詣から置いてきぼりにされた他派閥や大言壮語した議員の台湾派としての口利きは、辛い台湾の立場を巧妙に操りながらも何の功も産むことは無かった。

そのさもしい連中は、児玉源太郎、後藤新平、明石元三郎、八田興一、六士の教育殉職者等の事績を踏みにじり、かつ功利的な国内派閥抗争を台湾人の目に晒し、みっともない小人政治家の姿として今なお現地では語り草となっている。

またそれらが台湾棄民、つまり気に食わないので国を棄て、蛍のように甘い水に籍を移動した騒がしい連中の日本に対する阿諛迎合の口舌に気分を高揚させている。
知識人の曲学阿世と政治家の国賊的態度は今もって「信」を元とするアジアの民衆から嘲笑され続けている


つまり、かれらは実態から遊離した空中戦に戯れているのである。
゛片腹が痛い゛まさに台湾問題は日本人にとって胸を張って大義を唱えられない状況であり、三国の反目や難渋に多くの煩いとなっている因の一端は日本人そのものにあるといってよい問題でもある。

それが機密費をも扱うのである。官吏に嘲られるのも一理ある。
働かずに貰う銭、それは等しく国民から徴収した汗の対価である。

知識人は口舌と文筆によって営みがある。商業出版の労働者としてその技芸や珍奇な論を高邁に飾り立てて著作料を生活の糧としている。

部数を気にして本屋のデコレーションまで口を挟み、通称「平積み」の多少と置き場所を気にする。そんなのに限って人を映しに義や愛をつづり、読者を架空な世界に誘惑する。また論争と称して騒がしい罵詈雑言を繰り広げる



         

       山内龍雄


筆者の周りにもそのような輩が出没するが、総じて照れくさいのか清貧を装い、場を変えて酒色に興じる小人作家も散見する。彼等も商業出版の社用経費の使い方に長けている。
ネタ元である政治家、治安官吏とのバーターは客である読者というより、不特定の国民に対する背任がごく自然に行なわれている。

日露戦勝の立役者である明石元三郎は膨大な機密費を使いロシア国内の社会構造の転換まで行なったが、余った資金は精細な支出記録を添えて返却している。
今どきの、貰ったものは使い切りとは違う当時の日本人の姿であり、その真剣さと集中力、普段の努力と愛国心は、国家ら俸給をいただく軍官吏として当然な姿であった。

佐藤氏も永年にわたって総理報告を送っていた。はじめは何のためか解らなかった。
或る時、管轄の官吏が訪ねてきて中国問題への意見具申の懇嘱があった
いつも赤坂の料理屋で普段食したことの無い料理が出て聴取が行なわれた。後でわかったことだが中国は佐藤氏、米国は某、ソ連は某とあくまで秘密報告だった。印刷はしないで手書きの聴取で7部作成する。

それが分かったのは安岡さんのと一緒にいたところに福田総理が入ってきて、
「やぁ、佐藤先生いつも貴重なご報告恐縮です」といわれ、はじめて総理が読むものだと理解した。
香港に渡り、海岸で待っていると棄民が泳いでくる。そして中国人でさえ日本人と判別できない流暢な北京語で聴取する。温かい食べ物を一緒に食べる。
軍報や国内向け人民日報を読み解き検証し、次を推考する。国内法規を翻訳する

それが総理もみる秘密報告となる。
或る時、「そろそろ歳なので他の人に・・・、高名な中国研究者もおるし・・・」

担当聴者はいう
いゃ、彼等は誰にでも理解できること、発表できることを言っている。中国人がこの問題をどう考えるかは推測でしかない。それでは政府の決断はできない。この問題は佐藤先生しかできない。世界の中のアジア、そして日中関係、かつ善隣関係への模索という前提が無ければ只の論文でしかない。それはその人たちの事情です」

それも日本及びアジアのためだ。だから渡航費と謝金だけしかいただかなかった。コレ(妻)は大変だった。拓大でも学長に教授を依頼されたとき二万円もらった。コレにこれでは生活ができないね・・といったら、烈火のごとく怒った。『あなたは学生が好きなんでしょう。そんなことで辞めたら学生は可哀想です。私はできますから続けてくださいと叱られてしまった。



              

             モト夫人


この報告書も日本のため、国のためと思っている。日本人の伯父がなんで孫文の側近として中国の革命に行ったのか。それは西洋に抑圧されたアジアの人々を救うためには、先ず中国を近代化して日本と提携しアジアを興す、その一点だけだ。コレ(妻)に金の問題ではないことを改めて教えてもらった」

外務省が機密費を流用し贅沢三昧した。大蔵省高官の銀行接待、官官接待、佐藤氏は「もう日本人はいなくなったのか」と筆者の面前で大粒の涙を流した。
何のために伯父達は頑張った(辛亥革命)のか・・・

困ったときの荻窪頼り

(荻窪団地に居住)中国国務院の高官や台湾高官も佐藤氏を頼って訪問する。池田、福田氏ら総理からの教授要請がある。しかも無名を貫き足跡をたどるも痕跡は少ない。
それを是として財貨や名位には目もくれない。だから異民族にも信頼があった。
なによりも熱意と人情があった。そして自身にあえて重責を課し厳しかった。

「先生、今日は出席者も少なく失礼しました」と筆者が恐縮すると、

「何をそんなことを気にしている。陽明は、゛独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず ゛といっている。一人でも真剣に聴くものが入れば人数の多少を拘らない。一人の人間によって社会は興きる。また一人によって滅ぶときもある。このような場を作る志はありがたい。また継続することだ。わたしはいつでも参りますよ」
物の多少に囚われない、真の自由を担保するのは己の精神だと。

機密費というあぶく銭は手をつける人間次第によって国家は滅ぶ。
あえて説明はいらぬことだ。

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「人間考学」 人の心の進む方向を知る 再

2025-04-08 16:32:20 | Weblog

 

それはコンビューターの2000年問題が起きる以前、今から27年前のことだった

純朴で稚拙な童のころに目にした西洋の章を想起した

その結果は民族固有の暦(カレンダー)を亡きものとして西洋歴に収斂される企てだと、後で知った。

人々の成功価値は数値による財貨に向けられ、そのグランドも降り注ぐ「情報」という案内(インフォメーション)に先導され、ハーメルンの笛吹の逸話や羊飼いの群れのように、笛や一頭の牧羊犬に従順となってきた。

掲げられた「民主と自由」によって人々は仮装した自由を疑いもなく受け入れ、嬉々として民族の連帯を解きつつも、個別から孤独への道に迷い込んた。

国家は融解し固有の情緒も崩壊した。戻るべき所もなく、唯一偶像視する財貨の欲望に狂騒し、為政者の執る政治すら無意味なものとした。

それは、気がつかないように、いや気がつくことさえ許さないほど思索は衰え、かつ徐々に浸透し、終には自己さえ亡失している。

まさに誘拐されたような世界が訪れたようだ。

そして、奴隷化の促しのように人々は群行群止して茫洋とした世界に誘い込まれている

だだ、幸いにもこの国には、感知と覚(さとり)を識る多くの人々に、微かだが情緒が残っていることに救いがある



       




 【戊 寅 の 独 り 言】  参考資料 1998年 戌寅年の新年に送付

いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。

人間の支配には武器や血の代償も要らない。情報によって欲望を徐々に膨らませ、羨望の渦に競そい起きる嫉妬と憎しみは、有りもしない自由や民主を叫び争いの渦に誘い込ませる。



「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、

われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだ

 

偽書とも言われるが、たどり着いた現代の人間変容の根源的起因ではないだろうか。

果たして数多の候補者の大言壮語するビジョン、政策とは何なのだろうか。
         
                            戊寅   睦月   吉日

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人間考学講話   ある隊士の所感、  2022/7 あの時

2025-03-31 18:48:16 | Weblog

 

 

数次にわたる空自幹部講話ですが、懇嘱を受けて教授案の作成に取り掛かります。

近隣のパワーバランス変化が危機感となり、特異な職掌ある隊員諸士の講話については技術や知識の類ではない内実が必要となります、

しかし、此の全体を包み込む言辞は、コネまわした付け焼刃で適わないことは当然のこととの受任でした。

この章は、講話後に送付された隊員の所感への、感じたままの応答です

よく、統御(組織マネージメントなど)には、人間の問題として「観人則」を伝えます。

今回、教場の一隅で虚ろに聴いていた隊士の所感は講者の人物そのものを観る洞察がありました。

洞察力とは、対象となるものの本質に潜在するものや、その奥底まで見透す醇なる観察眼です。

まさに驚愕し講者も学ばせていただいた所感でした。

数次にわたった講話で継続課題としたのは「統御」・縦横無尽、臨機応変を養う「機略」・それを有効せしめる「浸透学」・そして例とした「謀略」でした。

所感は、その課題を連結意識として、職掌各位の有効的連携、あるいは運用に必須な瞬時における直感力、想像力として感じていただいたと思います。

数百ある所感の内、特異な観点から自在に記され、かつ組織内統御の要点である「信」の在りようを彼なりの視点で考察している一部を紹介します。

 

下北 釜臥山 山頂レーダーサイト

 

所感  Y 隊員

無名にして有力、下座からの視点。こうした、下手をすると説教がましい話は、内容の如何や伝え方以上に、それを語ろうとする当人の佇まいや立ち振る舞いの次第に左右される。

増して、それを初見の人々を前に冒頭で語るとなれば、これは困難というよりも、話し手の側に何かある種の開き直りがなければ不可能であると思う。

つまり、伝えようであるとか、講義をぶってやろうとか、そうした思惑がある限り、そのことが雑念となり、無名にして有力という内容をたちまちのうちに空虚なものにしてしまうであろう。

武人は、その空虚こそを身に纏い、伝えるというより相手の内にあるものを励起することで、相通ずるものであろう。

それが仮に、予期された内容を伴わないとしても、人が互いに影響を与え、受けるということの本質は、相手をねじ伏せようとか、相手から評価を得ようであるとか、まして、人の目を気にし、周囲に阿ることで成るものではない。

先生は、私がこれまで20年ほど大学人として生き、転職後1年ほどを自衛官として経験してきたなかで目にした教養人や研究者、あるいは上官や指揮官とは異なり、何かそのような間というか雰囲気というかを、その良し悪しというよりも次元の別に自然と伸び縮みさせる方とお見受けしました。

俗っぽく言いますと、小さくたたけばそれなりに、大きくたたけば大きく響くというような、鐘か器かのような印象を持ったのです。

そしてお話の一つ一つがどうというよりも、私にすれば小学生の低学年くらいまでの、学校や剣道の先生に向き合った感覚が想起されました。素直に倣い信用できる対象であった大人に、久しぶりにお目にかかった、ということです。これは懐かしいということと、あまりにご無沙汰のことで、逆に新鮮なことでした。

わかったようなことを書きましたが、私は当初より部屋の一番後ろに隠れるように座り、お話の半分くらいはうとうととしておりました。前夜、些細なことで妻と喧嘩をし、一睡もできなかったこともありますが、結局のところ言行一致のないことは、開き直りでもなく私の本質であり、修行を要するところなのです。先生はそれもお気づきでしたでしょう。

 

  

 三沢基地

 

応答

江戸の小話で「女房に負けるものかとバカが言い」とありますが、バカは馬鹿ではなく「莫過」と理解した方が安全です。

「あんたバカと云ったでしょう」

いや、バカは馬鹿でなく、過ぎたるはなしといって、バカでかい、バカにできた女房、バカちから、それは愚かでないが、人より過ぎた、優れているという意味なんだ」と、利口者は応える。

貴官は再度ケンカして試してみたら如何か。野暮でなく粋な喧嘩ですが・・・

戯言は世の潤いといいますが、旧知の卜部皇太后御用係と小生の酔譚はこうだ。

昭和天皇が重篤のときビヤホールでのこと、「大変な時に外出を・・」

「いゃ、おそばにいても私は医者ではないので役立たないので・・・」

ホールには健啖家の入江侍従長も生前は泡友として愉しんでいた。

「入江さんもお亡くなりになって陛下も淋しかったのでは・・・」

「お亡くなりになったとき、陛下は『入江は食べ過ぎだったのか…』と下問された」

「お応えになったのですか」

「ええ、そのようです、と」

かの世界の実直な問答だが、一般なら病の種類を御聞きになるが、不謹慎と息巻くものもいないとは限らないが、これも同じ楽器を鳴らしている御方の音と拍子と間(ま)の妙のようだ。たしかに起因は健啖家つまり食べ過ぎでもある。

 

竜馬は勝と横井小楠に私淑している。西郷も勝から音の表現でドンがチンではないと印象を持っている。江戸会談のお膳立てをした山岡鉄周も駿府で西郷と会見、気概と腑に落ちる言辞に呑み込みの速い西郷も肝胆を察した。

ちなみに小楠を「おそろしい人物をみた」と述懐している。

 

小生も安岡正篤氏との初面で見抜かれた。「君は無名でいなさい、それは何よりも有力です」また、学び舎での向学を考えていたら、「大学(四書五経)という学問は有効だが、学び舎大学校は独学の補助、自分は学ぶべきものがないので始終図書館にいた」ー

 

たしか孔子も「学問は衣食ためではない」と説く。(欲心の自制)

佐藤首相も訪米間際に教えを請うていた。それは大統領との応答辞令だ。

今までは数分の挨拶だったが、終了間際に「大統領、わが国にも武士道があり西洋にも騎士道があります。真の勝者は敗者にあわれみ(憐憫の情)を持つことが真の騎士道かと存じます」

大国の大統領の、孤高ではあるが矜持見識如何を問うた。会談は長時間に及び、それを機を境に沖縄返還に進んだ指導者同士の共感であった。

それは、学び舎では、学び、知る由もなかった人物の慧眼(本質をみる)を観た応答辞令の妙だった。

まさに眼で見ることではなく、感じて観ることの促しでもあった。

安岡正篤氏から何度も諭されたことだが

真に頭の良いということは、直感力とそれを活かす情緒(情感)の有無だ

ちなみに「デモクラシー変じてデモクレージーの様相になって、落ち着きがなく騒がしくなってきた」と。

 

北部航空警戒管制団 三沢基地

 

そういえば、多芸の野田秀樹氏は東大医学部卒の映画監督、作家、評論家だが、

受験の要は「数学は解方パターンの丸暗記、受験は要領」と、生業はまさに感性操縦の妙手でもある。

小生も学び舎講義では、「教えるのではない、伝えるだけだ」「学校は落第してもよい、人生は落第しないでほしい」教職課程では、「先ずは生徒を好きでたまらないと思えば、気心は立っているだけでも通じるものだ」と、学び舎にあらぬことを伝えている。

 

マレーシアの留学生が「無財の力」について思ったことがあると、キャンバスを追いかけて来た。特別講義なので専任に遠慮したのだろう。

「私の国でも郊外に行くとお年寄りが微笑んで挨拶してくれる。まさにお金がなくても挨拶は人と人との力です。おばあちゃんから日本に行ったらそんな勉強できる先生がいるからと云われた意味が分かった」

眼が潤んだのはこちらの方だった。

きっと帰ったら偉くなって笑顔を失くさない国にしようね

それが精いっぱいの伝える言葉だった。

老生も若いつもりだが、独りくらいは居てもいいと、近ごろでは古木寒岩のように突っ立っている情況です。

          ※「古木寒岩」寒い岩肌に根を張っている古木の様相

 

応答の妙を感じざる所感ですね。ご賢察 恐縮です

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安岡正篤の「六然」と「官吏十戒」 08. 6/14. 再

2025-03-29 17:32:40 | Weblog


安岡正篤氏は数々の金言、人生マニュアルを遺している。
漢学古典を氏の曰く「活学」したものだが、「臨機応変」(機会のタイミング)
に、人を観察して言葉を発している。とくに歴史の位置づけへの考察力は、その時々の社会情勢を読み込んで大向うを唸らせる。

それは活躍の機会を発した頃に、時の内大臣牧野伸顕氏への大量の提言書簡にも観ることができる。

その論は「天子論及官吏論 」である。

戦後は数多の増幅されたエピソードによって、また一般庶民に不得意な漢籍のもつ簡潔性、かつ漢字一字のもつ膨大な情報量と多岐な意味を縦横に活用して各界要路に特異な発言をしている。

その中で「六然」がある。
隣国では養生訓の「五医」、国家の病弊を記した「四患」、共産党の四つの近代化「四化」など、数字を以って解りやすく取りまとめ周知する方法が伝統的にある。

「何々三原則」など外交上スローガンに使われるものもあるが、よく商店に「言,弐価なし」と看板が吊るされるが、゛掛け値い゛という意味だと思って買うと、次の人には値段をまける事がある。『なぜだ、弐価なしと書いてあるではないか』と文句を言うと、『弐価はないが、三価、四価はある』と、どこ吹く風。

数はその時々に変わる、なぜならそこには「人間」が介在するからだ。
西洋学、アカデミックに数字を捉えても、ゼロが「無し」でなく「無限大」として考える生き方から「六然」は考えるものだろう。

そこで碩学の「六然」から考えてみたい。

「然」は、゛そのようにしたら゛、゛考えたら゛、いいですよ、と安岡先生は考えています。確かに的を得ている漢字の組み立てです。和綴じの「孝経」を戴きましたが、「身体髪膚・・・毀傷せず」と有名な一章が在ります。これを「起床せず」と大書して寝転び、見る者を茶化したことがあります。確か、結婚前の奥さんを連れて帝大の学校祭に連れて行ったとき教室に生徒が全員寝転んでいたのでビックリした逸話があります。

これは職人の駄洒落のようなものですが、帝大の漢籍に長けた人物がやると、゛なるほど゛というエピソードになります。

例えば

【自ら処すること自然】
みずから(自発)おのずから(自然)を両在する「自(おのれ)」に問いかける
つまり、バランスである。 
 
【人に処すること同然】
観人則は地位、財などの属性を観ず、人格本性、つまり己を内観すると同様に他と処する 。変わらないこと。

【有事歴然】 
有るべくして、来るべくした縁の作用を振り返る 。 ハッキリしていること。

【無事祐然】
無事は他からの「祐(人助けの意」のお陰とみる。ゆったりしている。 

【得意鎮然】
得意があればその因を鎮まりを以って考える 。得意には、漫然することなく、自身を客観視する。

【失意悠然】
将来に希望を持って、柔軟に考える

以上は小生の「六然(りくぜん)」である

 

     

       岡本義雄(哲山)  

・・・政見(政治の方向は)金権 分限をわきまえず。巧言令色 舌禍甚だしく。 国会空転,罪、奈辺(何処)にあるのか

 

 

それぞれが己の欲の作用を制する、或いはそれを効あるように考える、「六然」は金言やマニュアルではなく、また「教わる」ことから、自己の特徴を発見して
自分なりの「学問」をすることを薦めている。  
先生は、人生の答えは自分で出すものだ、という。
ただ、その方向性と、そもそもあるべき姿を倣わせてくれた先輩でもある。その意味で「人に処すること同然」と記したものである。

然るに書斎で煙草も酒も同然だった。その方が悦しい縁が訪れるようだ。

皆さんも六然、七然、或いは「欲」や「戒」、「制」も考案して銘とし独悦すると愉しいかと。例えば「官吏十戒」などは時流に合うはずだ。
銘とするなり、律とするなり、それぞれ特徴に合わせて明記すると面白い。

    

   

 

 

ちなみに安岡氏が記す「六然」は以下の通りです

自ら処すること超然
 (物にとらわれない)
   
人に処すること藹然(あいぜん)
 (和やかに)
  
有事斬然(ざんぜん)
 (有る時は速やかに)
  
無事澄然(ちょうぜん)
 (心安らかに澄みきる)
  
得意澹然(たんぜん)
 (爽やかに、謙虚さをもって)
  
失意泰然(たいぜん)
 (堂々としている)

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安岡正篤氏は「六然」と掲げるが・・・

2025-03-29 17:29:07 | Weblog



碩学と謳われた安岡正篤氏は古典を引用した数々の格言を提示した。
多くは著作権などない中国の古典にある昔話や逸話からだが、それを応用する「活学」もその一つだ。
※碩学・・・学問が広く深い

超然、泰然に代表される「六然」も先に付く文字によって「然り」が感覚で解る容易な処世の自覚ではあるが、浮俗時世にはマニュアル格言として挨拶や上司の訓話に用いるにはホドよい引用だ。

語る方も聴く側も何となく納得するが、どのような姿を具体的に表すのかは不明のようだ。手とり足とりで隣国の古典(昔話)をひいて説明しても、もともと国柄、民癖も似て非なる地域ゆえ、ときに錯誤珍奇な受け取り方をしてしまうこともある。

ただ、明治以降のフランス革命の前段仕込み思想のようだった啓蒙思想によって、これも我が国の民癖である好奇心、阿諛迎合でカブレ取り入れた官制教育制度の数値評価に馴染まないジャンルであったためか、或いは昨今の高官、サラリーマン社長には学ぶ機会もカリキュラムもなかった故か、学ぶ「本(もと)」の無理解ゆえのアンチョコマニュアルにもなっているのが現状だ。

それらの人々は人格とは何ら関係の無い附属性価値、つまり虚構の人格を功利価値とする者たちのヒーローとなり、それに雲霞のごとく取り付く軽薄不逞の学徒として、より安岡氏の「然」を、意に反する曲解としている。それでも無教養なエリート主義にみる迎合追従には手っ取り早い唱句でもあるようだ。

数字評価を追い求めて混然とする社内において超然や、泰然は馴染まない。いくら己に言い聞かせても妙な格好付で終わってしまい、滑稽でもある。

また、いくら心の持ちようだとしても、かえって自己陶酔に見られ、「異なることを恐れない」と威を張っても疎外感が増すばかりだ。






佐藤慎一郎先生



それは決して冷やかしでもなければ、たとえ虚構でも名利を得た者に対する怨嗟でもない。
安岡氏や隣国事情に詳しい佐藤慎一郎との邂逅と、厳しい諭しに添った筆者の憂慮として「六然」に添付したいことがある。なぜなら先哲のつたえる古典の引用と活用が自己の陶冶に導くものでなければ、真の学問ではないと諭す両氏への倣いからだ。

日中両文化だけでなく、多くの格言には冠として数字がある。
とりあげた「六然」もそうだが、当ブログで再三引用する「四患」「五寒」、あるいは三位(さんみ)、名園の「六義園」、モーゼの「十戒」など、人々が唱和しやすい数で表している。
もちろん、数には意味があるが、安岡氏は他に「六中観」も説いている。





岡本義雄氏の「五醫」 心の病は医者いらず

「欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しさも感じない)」

「正座して躁を医す(正座すれば心の騒ぎを鎮められる)」

「酒を温めて鬱を医す(鬱は身体が冷えるため)」など。

 



その「六然」の六だが、天、地、東、西、南、北、を表している。つまり平面の東西南北と天地で立体となり、円を形成する。逆に四角四面は円でなく、「ろく(六)でない」という。
この六は「六然」を含み、全体感は「自然」である。つまり「自ずから然り」だ。
ゆえに、人の心のありようは東西南北天地の全面から発している。

「自ずから(自然に)」と、「自ら(みずから、自発的)」という両意をふくむ己の精神のコントロールを六つの姿として「六然」を説いていると考える。だが、「本」となるものは「おのずから、みずから」に表れる精神の置き様であり、その「自」を失くしては総てが「茫然」となる。

つまり、「六然」を総覧して有効せしめるには、「自分」の探究が求められ、その「分」は全体の一部分という存在であり、その意志なり感覚をなくしたら「自」もなく、六然の説く効も不明となる。


ここで革めて「六然」に「自然」を加えて「七然」、もしくは「心の七則」として自己活学を表したい。

師は、きっと苦笑いで好物の虎屋の羊羹とPeace缶を勧められるはずだ。

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