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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

中国人は中国人に戻り(還り)、日本はアジアに戻れば(還る) その一

2025-07-18 12:49:02 | Weblog

       佐藤慎一郎先生

 

孫文は側近の山田に、「真の日本人がいなくなった」と呟いた。

その山田の甥、佐藤慎一郎は敗戦まで二十年以上も中国社会で生き、その体験を通じて、戦後は中国問題の泰斗として要路に提言や気骨ある諫言をした人物である。

 

その佐藤氏と筆者の応談は音声記録「荻窪酔譚」として残されている。

いつもは荻窪団地の三階の居間で御夫婦とご一緒の酔譚だが、悩み,大笑、ときに不覚にも二人して落涙することもあった。

「これもある」と、長押に設えた棚から降ろしたり、背後の書棚から引き出したり、それでも「ほかの方がご覧になるから」と遠慮すると、数日して依頼文を添えて送付していただく。

 

すべて音声応談に関することだが、講話依頼の課題に逡巡すると、その音声を聞くたびに、無学な恥知らずを回想している。

昨日のこと、アジアの「そもそもの姿」を考えたく、繰り返し酔譚を聞いた。

そのなかに「中国人は中国人に戻る。日本はアジアに戻る」それは、孫文と山田のことを聴いていた時だった。

 

筆者はすぐ応じた。「孫文は山田さんに、真の日本人がいなくなったといっていましたね。それは台湾に革命資金の援助を当時の民生長官後藤さんに頼みに行った時のことでしたね」

 

「後藤(新平)さんは菊池九郎から大きな影響をうけた。叔父もその関係で一緒に行ったが、後藤さんの対応に孫文もまいってしまったと、叔父が言っていた」

  • 菊池九郎・・・代議士、初代弘前市長、東奥日報、東奥義塾創立 

 

「・・真の日本人。異民族に畏敬されるような日本人、日本人の命題ですね」

 

中国人は中国人に戻る(還る)。日本はアジアに戻る(還る)」

言いたいこと、書きたいこと、様々だが、そもそも「言うべきこと」は、なかなか聴くことはない。この「・・・戻る」ことも稀な論だが、市井に生きて中国なるものを体感した佐藤氏ならではの至言でもある。

 

    

          山田純三郎 佐藤慎一郎 故郷弘前

 

以下、荻窪酔譚 抜粋

 S…無佐藤慎一郎先生 T・・・筆者

 

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。 国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〈 もしも ~ならば、 〉を遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。

T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。

S : 勅任官が留置場で僕に 「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。全く情け無いよ。

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した侍従元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、

    「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒の彼らが国家指導の任に堪え得るで或ろうか……

と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。(暗記)

T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が

お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、 と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

 「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。

  其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ「はい、解りました」と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

分かりましたと云えば先生が悦ぶと・・・

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、多寡が人間のやる事だ、と。

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。

 

      

             弘前城公園

 

T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんです。

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟  どち等で判断しますかね?

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種類の人間は) 考えられ無いよ。

中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

T : 自然の三欲 〝食・艶(異性)・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、公の席は公文書だからだ。

 

        

            津軽の学び舎 悠心居

 

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王荊山さんの?

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。

T : 平山が横流しを

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、露軍が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった

T : 高級将校がですか?

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで 「如何したのだ?」と訊いたら

 「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」と訊いてやっと解った。

僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」と謂う事も判った。

兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら   「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。

 もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は

私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、と ほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て 「この野郎、殴り殺してやる」物凄い剣幕だった。

 

      

     王荊山の娘と孫(戴麗華) 佐藤先生

 

T : 処で、或の平山 (其の時は日本人会会長) ですが、日本の女性を売ったのですか、差し出したのですか?  金で。

S : 金を貰ったのか如何なのかは判ら無い。 終戦翌年の五月十九日、新京のホウラク劇場で平山主催の日ソ友好大会があり二十日に五百人の女性を出したらしい。 カジ園さんの噺に拠れば五百六十二人だ。 何にしても、出したのは確かだ。

T : 其の後、(彼女達の) 消息は何も無いのですか、現在向こうから残留日本人婦人 (孤児) が来ていますよね?

S : 善い意味で、残っては在無い。

T : 要するに、日本人に罪が在る訳ですね。 満州関係の援護の人で、誰独りも手を差し伸べては在無いですね。

 

       

           側近山田と孫文            革命の同志蒋介石と山田

 

章を変えて

S : 本当に悲惨だった……。 結局、計画を長引かせる程、賄賂が多く得れる。 誰から貰ったのかは判ら無いが、田村は其の金で妾を拵えたよ (苦笑)。

T : 三井からでしょう。

S : 誰から金を貰ったかは判ら無い、三井かどうか ――― 。 山田 純三郎も僕も貰った事に為っているかもしれ無い。 桂公使 (戦犯容疑者) が山田 純三郎の処へ行って玄関で土下座して「救けて下さい、私が誤魔化しました

(蒋介石は満州国の日本国内の土地、資財の処理を革命の先輩山田に懇請していた)

と、伯父にはっきりと謂った。 カンオン会が香港から留学生九十七名連れて来て、相模女子大学に入れる積りで松平 キトや山口 重二が奔走したけれども、金の見通しが着かず結局、武蔵境の日本経済短期大学 (現・亜細亜大学) に入れる事に為って、其の経費は善隣協会が三千万円出すと云う約束で其処に入った。

 

以上、抜粋

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日中の縒(よ)りを戻す

2025-07-15 15:55:03 | Weblog
 
2010年の掲載
 
縒りを戻す・・・
もとの関係に戻すことである。
 
外交や数値にある軍事力を恐れたり、経済力を歓迎したりする一過性の問題をおいて、もとに戻すことである。
 
それは自身を知るために内観することに似て、絞り出す苦渋の念、爽やかな童の心、相互扶助の感謝、煩いとなった遠因、色々あるだろう。
 
いまは尖閣、環境汚染、軍拡、資源があり、我国も対米追従、政治の朝令暮改、などあげつらい争論となりその種は尽きないようだが、一旦、現世利益を擱いて日中問題を内観したらどうだろうかと考えてみたい。
 
よく、舅、小姑、姑など家族関係の中にある。
援けてもらったり、煩わしい関係になったり、厄介な問題を発生させることがある。
国家であれば、思想圏、経済圏 色別圏などに分けられた囲いで優劣を競っていたが、いまは色別に棲み分けられた場所で必然的に発生した宗教が、いちばん鮮明な分別となっているようだ。思想圏であれば一時は社会主義、資本主義と大別していたが、喰う為には思想は二の次になり、志操さえなくしてしまった。
 
それは経済圏でもいえることで計画統制経済、自由主義経済と選別されているが、日本も満州では商工省の若手官僚と軍官吏によって計画統制経済を試みて大きな成果を得ている。
戦後の成長経済もその試行をもととして大きな成果を挙げている。そこに付随するのが思想統制だが、食い扶持と繁栄国家の看板がそれさえも吸収して大きな成果を挙げ、別物の煩いや憂いを発生させた。
 
これも老子やエントロピーの法則をなぞれば高峰の成長の谷には、環境汚染、犯罪、虞犯などが堆積して、海浜埋め立て地のように地盤は軟弱になっている。
よく経済の基礎的条件が云々されるが、社会の基礎的条件である情緒性の枯渇、人情薄弱、連帯の分離など、成長そのものが蜃気楼のようにみえるようになる。つまり虚ろになる。
 
人は安逸に流れる、というが、文化の模倣もその一つだろう。
とくに経済繁栄において眩しいくらいに輝いていたアメリカの影響は異文化に多くの影響を与えた。それは負けたことのない、敵わない国への倣いのようなものだった。
それは力のある国の文化模倣として至極当然なことだった。
ただ、倣ううちはよかったが、習わせる意図が圧倒的パワーを用いて積極さを増したとき、哀しくも、淋しくも、あるいは倣うことの疑問が湧き出してきた。
アメリカについては自由主義経済圏の一群への影響だが、それが虚構な情報の発信と管理という自由への疑義として憂いに似た関係に陥っているのが現在だろう。
 
 
 
 
 
 
さて、中国だが、あの田中総理が周恩来総理に「これほど色々な民族が大勢集まっている社会をまとめるには大変なことだ。便宜共産主義も理解できる・・・」
まさに民族下座と歴史俯瞰を含んだ正鵠をえた応答である。
 
筆者は時おり人前で駄弁を弄すことがある。ある大学でのこと・・
「漢民族の恐れは地政学的に侵入は北方である。元、清もそうだった。戦後間もなくはソ連だった。その看板は共産主義、中国の歴史にはない主義という代物だった。中国民衆に合うかどうかは分らないが、まず北方の強国に擦り寄った。敵の敵は味方だった。
 
蒋介石の子息、後の中華民国総統になった経国氏や敵方共産党の周恩来もモスクワに留学している。そして学んだが異質で合わないことも知っていた。
ただ、砂の民と称されまとまりのない人々を集約するには都合のいい主義だった。
掲げる理想は中華の「大同思想」に似ていた。それも孔孟と同じ実利のないハナシの類だということも分っていた。ただ曲がりなりにも民衆という群れを統制するには共産のスローガンは夢を与えることができた。そして解放という言葉を添えた。
 
 
 
 
佐藤慎一郎氏
 
 
佐藤慎一郎氏も香港で毛沢東の先生に会っているが、マルクスやレーニンの論文は知ってはいたが、熟知してはいなかった。歴代皇帝や袁世凱、孫文でさえ特有な民癖をまとめ国家として成さしめるために、選択として専制を思い描いている。
安寧や太平にある人々の営みを理想として、自然な自由を認知はしても人が群れになったときの混沌は国家として成さしめない苦汁があった。
 
もともと権力を奪い民衆を搾取して栄華を意図するものではないが、民衆にある「力」に対する考え方と、その「力」をもつ長(おさ)を天上(神)として具象化し、推戴する機能の形式を慣習として、社会生活の陋規にある掟、習慣、人情を人の繋ぎとしている国柄を認めた上で共産という主義を色付けしたのだ。
 
ことさら、毛沢東をはじめとする政治家や外に現れた現象を共産党に包むと理解不能になるのは、それを理解しない人たちの知得習性でもあろう。
 
彼等は日本人の民癖も熟知している。その中の良なるものがあっても棲み分けられた大地では、到底生きていけないことも知っている。
米国の力に依存したり、経済では中国の労働力やその量に食指を動かす阿諛迎合性は、似合わない文化を入れて消化不良を起こしている人々の心の問題を、あの光明と憧れた明治の日本人を観照して嘆かわしく感じているはずだ。
 
砂の民は共産党という囲いなり、自制をうっとうしいと思っているが、その必要性も理解している。
また、自由を超えて色、食、財という本性が放埓になると「力」が異なった結果を導くことも分っている。
ただ流れが止まらないのである。その無尽な欲望が猛威を振るったら他民族との軋轢を起こすことも分っているが、政治もそれを制御するすべを失いつつある。その砂の嵐は異民族のひだににも入り込み、人間の欲望を喚起して同化の誘いを起こしている。
 
゛あんたの言うことは聞く、税金も払う、でも俺達の自由を邪魔しないでくれ゛
それが砂の民の心根でもあり、すべてが実利の世界なのだ。
 
 
 
 
CHINAを狙う列強
 
 
あの清朝が衰え外国の草刈場となり、同じアジアの日本もあの頃の日本人と異質の顔をして同調してきた。
国は欧米の利権によって分断し、香港、マカオがもどってきたのはつい最近のことだ。
皆、奴隷のような生活だった。貴族は白人だった。紫禁城の財物は盗まれオークションに懸けられたり異国の博物館に収められた。
 
しかし、砂の民はそのことに怒ることはない。怒るのは政治看板という面子を持っている人たちだけだ。旗を掲げて実利を得ている人たちのことだ。
 
佐藤慎一郎氏の体験だが
満州の新京で日本が負けた日に城内に入ったら青天白日旗がひるがえっていた。朝の朝礼は満州国旗だった。どうしたんだ、と聴くと、「いや、張学良のときは少しは続くかと思って良い生地で作った。旗は五つある。日章旗、満州国旗、青天白日旗、共産党、ロシアの国旗だ。どこが来てもいいように準備している。もちろん隠してあるが、騒ぎが収まれば旗が変わるだけで俺達の生活は変わらない」、易旗の知恵である。
いつも、面従腹背でないと生きられないのも砂の民だ。
 
そこの官僚も低頭しているが、ともあれ金をもってこいだという。
交通切符も税官吏の徴税も似たようなものだが、冥土の銭を棺に入れ終生実利に生き、その銭も「人情を贈る」という砂の民の拠り所は、狭い範囲の人情と財貨なのだ。
また、人の生き死にでも諦観がある。
 
満州の昔話だが・・・
売春宿やアヘン窟でのこと、死も近づいて息も絶え絶えになると道の真ん中に運び、人々は遠巻きに眺めている。息絶えた途端に我先にと近づき衣服を剥ぎ取る。生きている内はしない。これも倣いだ。なぜ道路の真ん中なのか、朝方自分の家の前にあると片付けなくてはならない。だから早く起きて他人の家の前や道路の真ん中に置く。
 
あの「万人坑」が問題になったことがある、それは日本人軍の仕業だということになったが、人が死ぬと放り込んだ坑だ。乞食、売春婦さまざまだ。
 
人情を贈るという賄賂だが、日本の接待と同じでわざと負けて官吏や親方にあげる。
宮中では、あの浅野と吉良の忠臣蔵の発端となった儀礼規則の教授にも賄賂が必要だった。
 
禁ずるところ利を生ず」禁止する法律を作れば、いくらでも罰金は増大する
道路でも標識が多くなったり法が無闇に作られると日本では罰金増収、かれらは賄賂だ。だから宦官の募集では母が陰茎切りを奨励してまで応募している。
 
皇帝は国のすべてのものが自分の所有だから賄賂は取らない。諸国からの貢物は皇帝の前に並べられるが、一番目立つところに置くには宦官に賄賂が必要となる。便宜供与だ。
 
官公物や事業の入札で官吏に最低価格を聞き出す日本も同じだが、現物ではなく時を変えての天下りや親族の便宜は同じだ。勲章待ちの卑しさもそれを助長させるようだ。
 
わかりやすくは、宦官は任官し昇進すれば多くの財を得る。それは一族郎党が潤うことになる。「一官は九族に繁栄する」、つまり科挙に合格して官吏になれば取り巻きは潤うのである。これは「公」の精神ではなく、あくまで「私」である。
 
日本の場合は「公」の用人である公僕が法にもとづいて普遍性を謳い、罰は金を代償に公金として国庫にいれ、民間では考えられない便宜と高給と生涯安定を得る。
 
あの朱容毅首相は「殺せ!」と汚職官吏を死刑にしているが、まず日本は死刑にならない。
秦の宰相商鞅は「殺を以て、殺を制す」と、(※殺人者を殺せば、殺人はなくなる)
そして皆でかばい逃げ切って生涯賃金を担保する。かれらの秤は議員の権能ではない、落ちればただの人であり、生涯賃金は官僚より少ないと嘲る。
 
有名大学にいって安定職である公務員を目指す母親に似て、オトコ(男根)を切り取った宦官のように財貨と安定に邁進するのだ。国が滅ぶのは明らかだ。
今の日本は、解っていても対応力のなくなったあの頃の清朝のようなものだ。
 
以上が佐藤氏の体験を酔談したものだが、最近ではオリンピックと万博についてネガティブな論調をみることがある。
砂の民の行儀の悪さがよく取り上げられるが、その通りだが、そう非難することだろうか。
あえて部分を取り上げることに片腹が痛い気分もするのは筆者だけだろうか。
 
遅れている、共産だからと侮っていたアジアの一国が、「力」において同等に近づいたとき批判や恐怖を分けもわからずに、゛あげつらう゛だけで理解の淵に届くのだろうか。
 
いや、曲がりなりにも西欧の植民地の頃、野蛮で未開と蔑まされた砂の民が、複雑な要因で構成する国家の歴史経過と将来を俯瞰したとき、はたして日本人の内なる矜持に照らして、あげつらうことなのか、己を内観すると、゛にがいおもい゛が湧いてくる
 
あえてオリンピック開催にオメデトウといいたい。
国家の面子や経緯はどうであれ、よく頑張った、あの時代は大変だった、と伝えることが砂の民に贈るアジア同胞の言葉ではないか。
 
現世利益を、゛ひとまず ゛措くつもりはない。あるいは問題となっているさまざまな軋轢やそこから生ずる現象に背を向けるものではない。
ここでは、歴史を回顧して人が織り成した集積からその切り口を探りたいと考えている。
 
 
 
 
戦勝後 203高地より旅順港
 
 
あの日露戦争も、欧米の圧力を受けていた彼等にとっては、なぜアジア解放戦争といわなかったのか、と提起される。本当に先の大戦をアジアの開放に立ち上がったならそうすべきだと。
 
清朝末の義和団事件では、各国公館のなかで日本の武官の活躍に欧米は目を見張った。彼らにとって芝五郎の勇猛さと機転は、称賛とはうらはらに日本の将来に危険性さえ抱く出来事だった。ロンドンタイムズのモリソン記者は、称賛しつつも南下政策によって既存の中国利権侵食を企てるロシアに憂慮し、新興国日本の力をもって対峙させようと図り、タイムズてイギリス世論を誘導して日英同盟を締結。日本は一等国と肩を並べたと大英帝国との同盟に歓喜した。
これはいくら理屈を並べても中国を除外した欧米の企図であり、国外伸長を国家の発展とした当時の日本の政策に合致したものでもあった。
 
「日露戦争でなくアジア解放戦争としたら・・」
だが戦闘地域は今の中国、目的は中国の領土利権。
普段は政治にまつわることは語らない中国の青年が真剣に唱えることに鎮考せざるをえない。
 
 
青森県むつ市 当時会津処分の斗南藩
 
 
勝ったのは己の手柄、負ければ他人のせい、との風潮だが、満州の古老も日本の官吏の癖、つまり「官癖」について伝えている。
満州は「偽満州」といわれるが、一方、あの頃はよかったと。
古老は「日本のお巡りさんは厳しかったが、窓を開けていても泥棒がいなかった。いまは皆、鉄格子が付いている。人を信用しなくなった
 
ただ官癖については厳しい。
「まだソ連が満州に入ってきていないとき、国境に集結したと軍はいち早く知った。翌日、数100キロ離れた新京では、目の前の官舎(高級軍人、高級官僚)は家族ともども逃走して一人もいなくなった。賄賂も取らず厳しかったが最後は逃げた。電話線を三箇所も切って。残ったのは楽土として呼び集められた内地からの日本人だ。可哀想だった。はじめてあのような日本人官吏の醜態をみた。そうでないと思っていたが・・」
 
それは、人の所作を観る民族と、肩書きや地位を人の量りの基準とする民族の問題意識の違いだ。
役人や官警はあくどいことをする、との前提で賄賂を用意する人たちと、お巡りさんと、医者と先生は尊敬されると思っていたあの時代の交誼はメリハリがあった。そして違いを認め合い補い合った。いまは金の欲望に同化し、食は飽食となり、性は淫靡になった。
しかし、異質といわれようとその本性には「理(ことわり)」がある砂の民である。その欲が行き着くところも知っている。
 
一方、建前は彼の国の孔孟に習って形式はあるが、「理」を知らないで欲望に同化している民族、どちらのほうが行き着く先を(※)逆賭しているのだろうか。  (※)将来起こりうることを想定して、いま手を打つ
 
新京の魔窟「大観園」の首領は「日本人は早く負けて日本に帰ったほうがいい、それでなくては日本そのものが無くなってしまう」と。つまり色と食と財貨の三欲への誘引だ。貪ったら際限のない欲望となり衰亡する、つまり当時の日本人には免疫がないと観ていた。日本及び日本人を知り尽くしている
 
「日本と戦争をしたら、どちらも不幸になる。日本が無くなっても中国が駄目になる」
蒋介石の不抵抗は孫文の意志に沿ったものだった。その孫文の信頼した国は日本であり、日本人なのだ。あくまで当時のことだ。
そして孫文は側近の山田に「真の日本人がいなくなった」と歎いている。
あの頃は複雑な縒りはまだなかった。
 
どうだろうか、真の日本人とはどういう人物なのか、鎮護の国といわれるその郷で考えてみたいとおもうのだが・・・。
 
鎮まりを護ると冠する日本および日本人が、強国の傭兵となり相手をあげつらうだけで解決するはずもない。
 
まして処し難き「内なる賊」が跳梁跋扈する社会において、鎮まりを以て足元を見ることさえできなくなったのだろうか。
 
 
 
 
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人間考学から観た、宰相が「なめられてたまるか」と吠えること

2025-07-10 20:36:04 | Weblog

       




将来から過去を振り返ると、さまざまな面で、あの言葉が歴史の分岐点だったのかと・・・


この場合は、軽く見られた反論の「なめる」ではなく、辛酸を嘗める(辛苦を味わう)であろうと思いたいが、あの熱狂は土壇場で我を失くす前意であろう。きっとハルノートを突き付けられた軍人の様態のようにも想像する。
※ 逸話だが、米側の提案に日本は「対案」を提出、それを日本の役人のように「反対提案」と受け取ったという説がある


 


熱狂と偏見が過ぎ去った時、この言葉の意味するところ、かなわない強者に面前対応したら、吐いた言葉は飲み込まなくてはならなくなるのは必然である。
選挙公約でさえ守らなくてもよいと国会で公言した石破君のこと、いくら選挙中に歓心を買う捨て台詞であっても、口は禍では済まされない狂言である。

国民は狡猾な権力者である内なる賊にむけて戦う姿に淡い期待を持っていた。瞬間変身するのではなく、そのとき政治を操る腹話術師に向かって発したなら、このような政治騒乱にはならなかったろうと、いまさらながら政外(政治のピントが偏る)を嘆いている。


     
   房総の浜

歴史の特異点(小事だがきっかけとなった転換点、事件)

歴史には特異点がある。想定もなく次に来る禍には、あの時が端緒だった、まさかあの発言が塗炭の惨禍を招くとは思わなかった、まさに想定外の言葉なり事件でもある。


以下、参考として少々長文ですが、宰相のあるべき思考とその表現についてご賢察いただきたい。また、棺に蓋われた故安倍元宰相を想起して歴史の特異点を鎮考いただければ、常人が発することのない「嘗められてたまるか」の言葉にも深い考察ができるのではないかと考える。


① 青年 中岡艮一の短刀 (起) 起承転結

 大正十年(1921) 11/4 大阪毎日号外。「原首相、東京駅で暴漢に刺され絶命」翌朝の見出し、「狂刀、心臓をえぐる。犯人は十九歳の鉄道員(大塚駅)中岡良一」
 ちなみに、中岡艮一の出自はそれほど低くはない。彼の父は土佐山之内容堂家の藩士中岡精で、伯父中岡正は維新の志士で、故板垣伯の先輩である・この暗殺事件が中岡艮一の単独犯七日、あるいはまた、なにか複雑で大きな政治的背景をもった犯行なのか(黒幕説)、近代史の専門家でも諸説あり、現在でも不明である。
 いずれにしても、大正期の大政治家原敬は頓死してしまった。
事件当日、原首相の周囲には警視庁、政官界の随員など三十人がいたが、あっという間の出来事であり、気付いたときには既に瀕死の状態であった。(凶行後15分死亡)
 当時の原敬(南部藩)は内外で期待された大政治家であった。彼は伊藤博文が結成した政友会を藩閥、官閥などの人材を取り込み、結党以来最大、最強の党にまで発展させた。
 その剛腕というべき政治手腕(マキャベリスト)の一方で、議会制民主主義にも深い理解を示し、多くの国民から平民首相として歓迎されていた。(デモクラット) その原敬が無名の青年の「短刀一本」で頓死してしまった。


   
原 敬

英紙デイリーメール(大正10 1/4) は書いた
≪原氏の死によって氏の堅実な勢力がワシントン会議の上に影響する日本の不運を悲しまなければならぬ。原氏は内政に外交に偉大な抱負、経綸をやり遂げる不僥不屈な精神をもった偉大な政治家であった。
 たまたまシベリア、山東等の問題で非難を受けたが、これは人格云々するものではない。氏の死は日本、否、世界にとっても悲痛な事件であるとともに、世界平和の世界的運動の上に、日本の公平な態度を了解させ、また外国に日本の地位を了解させるために努力し、日本の地位の向上に力を尽くした公明な人である≫ 
 英紙の論調は元老山県の伸吟(うめき)になって現れる。


➁元老、山県有朋の呻吟 (承)
 政友会と元老山県の連絡役として水面下で活動していた松本剛吉(後の貴族院議員)は、事件を知ってすぐに山県邸に急行した。山県は八十五歳の病体を横たえていた。以下は松本と山県の会話である。
M 閣下、原首相が東京駅で暗殺されました
Y 何・・・、原が殺られた・・・、本当か。
M はい、犯人は大塚駅の若い駅員とのこと。
山県は呻(うめく)くようにして
Y 原が殺られては・・、原がやられては・、日本はタマッタものではない。
そう言って呻吟した。(参照 松岡剛吉政治日誌 岩波1959)


 問題は『タマッタものではない』のスケールの大きさである。単に「国益のマイナス」レベルではないのか、「国家の崩壊」レベルなのか、という問題である。
 前者ならば、人為的な政策で対応可能であるが、後者ならば、人為的な政策では対応することは極めて難しい。最悪の場合、歴史の自動律的な巨大な慣性に押しつぶされ、国家崩壊への坂道に転落していくことになる。
 元老山県の伸吟はどちらを意味するものなのか。結論からすれば後者である。それは山県の更なる呻吟(うめき)に耳を傾けたい。

Y 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・
 (再び) 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・


   
     高杉晋作

 何度も伸吟(うめき)を繰り返している。元老山県をして、うなされるように。この呻吟を吐かせる根本は何なのか、と自問自答したとき、結論は一つ、山県は「明治国家の崩壊」を予感(予知)したわけです。

 幕末維新の動乱を辛くも生き残り、下関戦争、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦等々、幾山河の修羅場を経験し、国際社会のパワーポリティクスと明治憲法体制の構造的欠陥をも冷厳に認識していた山県である。世俗の老人から聴こえる呻吟とは同列に論ずることは絶対にできない。
 
以下は、元老山県の真理と予感を我流に分析してみた。
〈松陰先生以下の名前の連呼は、幕末維新以来心血を注いで営々と建設してきた明治国家が、この暗殺事件を契機に崩壊の過程を歩み始め、自分〈山県〉には、もはやその歩みを押し止めるエネルギーはない。だから、連呼した方々に祐けを求めたい、これが理由ではないだろうか。

 もう一つは、みなで建設してきた明治国家が早晩崩壊していくだろう運命に対して、無力な己の境遇に「申し訳ない」という謝罪の意味。

第三に、山県は次世代の人材に対しても危機感を持っていたと思う。
つまり、明治の第二世代〈官製学校エリート〉にあっては、知識の量は増えたが、それを内外の大局的見地から政策に活用するべき、智慧と勇気と経験が欠けているというクールな認識がある。その有為なる人物の問題に関する危機感が呻吟として現れた。

第四に、以上の三点と「明治憲法体制」の構造的欠陥が結合すると、国家は物理現象のように自動律的に崩壊の過程を進んでいく


 ➂ 長官 山本五十六の手紙

 山県の没後、二十年の歳月が過ぎた。
 その間、明治国家は内憂外患の諸問題を継続的に受けていた。内に於いては関東大震災、昭和恐慌、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、外においては満州事変、日中戦争、日米通商航海条約破棄、ハルノート等々。
 それは内憂の政治的要因、外患の経済的、軍事的要因など、明治以降の外征的政策と前記した国家構成上の構造的問題が一挙に出てきたような時代の流れでもあった。

 とくに外憂の要因を惹起する国内の政治的抗争を誘引するような軍事的(人事、陸海の歴史的軋轢)など、多くは明治創生期に勃興した軍事を中心にした国力伸長を期すという政治構造が内憂の大きな部分を占めていたようだ。その行動形態は民生、経済、政治がバランスを欠くこととなった。
 つまり、国家統御の弛緩(人事、組織のゆるみ)は弱点として外患を誘引する問題ともなった。


 結局、昭和十六年十二月一日の御前会議で、米英に対する開戦を決定することに結び付いた。要因の切り口はさまざまだが、ここでも各界の要路における人材、つまり用となる人物登用の問題として、山県の伸吟に現れているのだ。
 満鉄調査部、総力戦研究所などの部署では、正確な資料分析(総合国力の比較)の結果、日米開戦不可論を提言(山本五十六等)していたが、もはや歴史の運動量が万事を決していた時点では、諸組織,諸個人の抵抗力(抑止力)では止めることは不可能な状態だった。
 以下、それを象徴する「山本長官の手紙」に着目して歴史を学んでみたい。

 日米開戦の二カ月前、山本五十六(長岡藩士高野貞吉の六男)が海軍の無二の親友、堀悌吉(当時は予備校)に宛てた遺書とも思える手紙がある。以下要約する。
昭和十六年十月十一日
一 留守宅の件、適当にご指導を乞う
二 大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。・・・これが天なり。
 命なりとは、情けなき次第なるも、いまさら誰が善い、悪いといったところで始まらぬ話なり。


     




三 個人としての意見は正確に正反対の意志を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。これを命というものか。
山本個人としては、三国同盟に反対し、日米開戦にも猛反対してきたが、歴史の巨歩が万年を決した今となっては、日米開戦に突進せざるを得ないと、海軍の一員として山本長官の覚悟と決意を語っている。この手紙は、組織(規律)と個人(良心)との関係を考察する上でも貴重で深刻な史料となっている。


Ⅳ 安岡正篤氏(48才) (結)
 更に四年の歳月が流れた昭和二十年八月十五日、大日本帝国(明治国家)は崩壊(滅亡)した。国内の大都市は空襲で焼け野原となり、広島・長崎には十五日の正午、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を流し、国民の日本の敗戦と、終戦を知った。


     



 その三日前の十二日、大東亜省顧問の安岡正篤氏は、迫水書記官長が内閣嘱託の川田瑞穂氏の起草依頼した草稿に朱筆(監修修正・加筆)を入れている。
「万世の為に太平を開(拓)かんと欲す」(拓)は筆者挿入
この言葉、敗戦後の日本の政策(経済重視・軽武装)を見事に象徴した表現ではないだろうか。このように元老山県の伸吟は、敗戦を経て四半世紀(25年)の時空を経て、顕現したわけです。
 寳田の備忘録では、安岡氏は敗戦間際、旧知の哲人(岡本義雄)に漢詩を贈っている。それは大東亜省の顧問であり、文京区白山の町会長でもあった安岡宅に早朝訪問時のことだ。

「先生、先生は偉い人だと聞いた。毎日の空襲で国民はもがき苦しみ亡くなっている。軍は聖戦だと騒いでいるが、このままだと日本および日本人が滅亡してしまう。・・・」
安岡は大東亜省の迎車を四十分も待たせて、側近には『来客中!』と告げ、岡本の烈言を聴いている。
数日して秘書から一幅の漢詩が届けられた。


漢詩簡訳
 春の朝、夢を破って空襲警報が鳴る
 殺到する敵機は雲のように空を覆っている
 炎はすべてのものを焼き尽くしているが、嘆くことではない。
塵のような害あるものを掃って、滞留した忌まわしい風を除くだろう

 傍線は、明治以降伸長し、ときに増長し、組織的には立身出世を企図した上層部エリートで構成する組織の止め処もない増殖は、国家の暗雲として天皇の権威すら毀損するようになった。
 これを、国家の暗雲として、いかんともしがたい内患として安岡氏は観ていた。
その憂慮の根底は天皇を象徴とした多くの国民の安寧だ。
 また、邦人が支え、醸成し永続した国柄の護持への危機感だった。
 漢詩では、「君、歎ずることはない」とある。劫火同然(焼き尽くすことによって暗雲は祓われ、新世界が訪れるという激励の漢詩でもある。
 終戦の詔勅に挿入した、万世・・は、「世が続く限り平和であることを願う」意味は、まさにこの継続した意志によるものだ。と、寳田先生は記している。


 


 満州派遣軍 記念写真 前列左二人目 山県


Ⅳ 歴史の特異点
 要するに、山県が憂いたように、駅員、中岡艮一(こういち)の短刀一突きで(歴史の特異点)を契機として、事後、明治国家は崩壊したことになる。
「そんなバカな・・」と思う方は大勢いると思う。
では、私も聴いてみたい。セルビアの一青年の短銃一発によってオーストラリア皇太子が暗殺され、これを契機に第一次大戦まで発展し、人類に未曾有の不幸をもたらした訳です。
 これは歴史的事実であり、世界史の教科書にも記載され、ほとんど常識化されています。

 ルーマニアの独裁者チャウシェスクも集会に集まった群衆の一人の青年が「バカヤロウ」と発声したことで群衆はおののき、混乱して、終には栄華を誇った独裁政権はなんなく崩壊しています。
 事後はさまざまな観点から原因を研究されていますが、貧困、軍の膨張、他国との軋轢、国内の政治事情など様々ですが、もしそこに沸点、飽和点、があるとすれば、一刀、一発、一声は、現状崩壊、覚醒、更新の端緒として、また研究者には歴史の特異点(分岐点。キーポイント)として、かつ切り口は様々だが問題意識をもった人間の行為として記されるものです。


 第一次大戦に至る因果関係は諸説あり、専門家の間でも紛糾しますが未だに確たる定説がない。つまりよくわからない訳です。結局、歴史学(人文科学)岳からのブローチでは、自ずから限界があり、納得のいく合理的説明ができない訳です。やはり、社会科学、自然科学の成果を取り込み「腑に落ちる」説明に努める必要があると思います。

 つまり「思考の三原則」に順って、根本的、多面的、に思考し、もって歴史の特異点として回想することだと思います。
以上は「歴史の特異点」に接近するための一般的、描象的な方法論を説明したものですが、より客観的、実際的な方法論として、二つの処方箋を提示したい。


①  まず第一に、或る小さな事件が発生したら、それは、もしかすると「歴史の特異点」かもしれない、と直観を働かせることだ。元老山県のように「人間考学」を学ぶ意義はここにも存在している。
 敷衍(ふえん)すれば、「人間考学」は、単に記号(文字)の順列、組み合わせを表現しているのではなく、直感(カント流にいえば先験的認識)を前提にした直観(絶えざる学修、経験による後天的認識)を働かせることを主題としている訳である。
 つまり、「実相観入して神髄を極める」ことである。


➁ 現代数学の一分野である「複雑系数学」(フラクタル理論=自己相似、ベキ乗数の理論、バタフライ効果など)の基礎概念について理解を深め、それを「歴史の分析」活用してみることである。
たとえば、ヒットラーのモスクワ侵攻(失敗)をナポレオンの同様な侵攻と比較考察しても、(失敗要因として双方、極寒には勝てなかった)これはフランクタル(自己相似)の関係にあると考察することである。一駅員の中岡良一の短刀とセルビアの青年の一撃も然り。

 このように複雑系の数学を活用することによって、歴史を多面的、根本的、将来的に分析し、現代の現象に活かすことが大切なことである。
 以上のように論考しくると、何となく「腑に落ちる」ような気がしますが、実は現実には厄介な問題が水面下には存在しています。

「歴史の特異点」において、発生は偶然の産物であり(必然性はない)、それが「歴史の特異点であるか否か」を認識できるのは、元老山県有朋のように、ごく一部の例外を除いて事後的に結果を知っている未来の人であって、渦中のほとんどの人は「歴史の特異点」を認識することは適わないという事実である。

 このように論を進めていくと、「慧眼の士」は、「なんだ、結局、理解にならない説明をしているだけではないか。それは要するにトートロジー(同義反復)じゃないの?」と思うでありましょう。であるならば。とりあえず「然り」と応えざるを得ない。(認識論理の限界)


 ここで皆さんに質問したい。曹洞宗の開祖である道元の「不立文字」(文字によらない)と、「正法眼蔵」(仏教哲学の書物)の関係は如何かと。
 その解答(回答にあらず)のヒントは、「人間考学」のなかに存在している。
 認識の論理(合理的思考のプロセス)と実在の論理(正反一如)とを比較考察してください。そして繰り返しになりますが、直感と直観の大切さを理解ください。


筆者の抄「人間考学とは」
 碩学といわれた安岡正篤氏も、「真に頭の良いと云ことは、直感力の鋭敏な読み解き」と言っています。
 その意味では、地に伏し、天に舞うような俯瞰力(眺め意識)をもって事象を考察することを勧めたい。
 また、前記した「逆賭」(将来起きることを推考して現在、手を打つ)だが、難儀な労を費やす論理の整合性を求める前に、東西の学風にある同義的研究を対峙することではなく、南方熊楠が希求した東西の融合を通して、異なるものの調和を図るような寛容な人間(人物)陶冶こそ、人間考学の理解活学と目指す万物への貢献かと考えています。

 その上での理解の方策として、東西の学風を用とすれば、各々の説家(研究者、批評家)も大局的見地で協働が適うはずです。
 山県氏でいえば、土佐藩主山内容堂の見方として、幕末維新の騒動は、多くは無頼の徒の行動だったと感じていました。維新後は名利衣冠を恣(ほしいまま)にして、政官軍の上位に納まり曲がりなりにも国なるものを操ってきた。


 その経過は、当初、出身郷(藩・地域)の競争をエネルギーとしてきたが、少し落ち着くと軍閥、官閥を蟻塚のように作り、威勢を誇り、なかには功名争いをするものまで出てきた。胸章や褒章で身を飾り、職位が名利食い扶持の具になってきた。
その中で名利に恬淡で剛毅な鉄舟に縁をもち、維新功臣から除外された旧南部藩から原敬が台頭してきた。

 似たように児玉源太郎の慧眼もあり台湾民生長官として功績のあった後藤新平も岩手水沢出身の、官界の異端児(変わり者)だった。愛媛松山の秋山真之も然り、みな不特定多数(国内外を問わず)の利他に邁進し、人情にも普遍な日本人だった。
その気概は、我が身の虚飾を忌避して、物に執着せず(拘らない)、名利に恬淡な人物だった。老成した山県が有用とみたのはその至誠ある人物だった。

武を誇り,威を振りかざし、竜眼(天皇)の袖に隠れて権力を壟断する明治の拙い残滓は危機を誘引し惨劇を異民族にも演じた。
 また、それが明治創生期にカブレたようにフランスから借用した教育制度の成れの果てでもあった。とくに数値選別では測れない、本来有能な人物を見出すすべのない教育制度は、戦後の官域に残滓として残り、現在でも同様な患いを滞留させている。


 山県の危惧は自身の成功体験が時を経て、善悪、賞罰の見方を転換させる状況が生まれてきたことを表している。それは西郷が「こんな国にするつもりはなかった」と言ったという事にも通じます。

 つまり、勝者の奢りから安逸になり、組織の規律は弛緩し、模範とする人物は亡くなり、増長することによって自制するものもなく、終には自堕落となって、白人種の植民地経営を模倣し、大義を弄して異民族の地に富を求めるたが、老境に入り、かつ死後のいくすえを思案する精神的境地に至ったことで、人物の真贋や無私の観察ができるようになったと思います。
 そのとき、掃きだめの鶴のようにオーラを発していたのが原敬だったのです。


 山本権兵衛海相は、地方司令官の東郷平八郎を連合艦隊司令に登用した理由は、「運が良い」と観たからでした。その運の良さは、部下にも恵まれました。参謀の秋山真之ですが、これも緻密な作戦を立てますが、最後は「天祐」(天の祐け)と述懐しています。


  
   児玉源太郎

 児玉は国家の危機に二階級降格までして日露戦争の参謀長として心血を注ぎましたが、司令官は愚鈍とも思える大山巌でした。それが東郷や大山の涵養した国家に有効な「観人則」(人を観る価値観、座標)だったのです。
 思考の多様は、意図すれば目くらましになる。あるいは目を転じさせる興味があれば人間は、深く、落ち着いた思索を疎かにしてしまう。

 それは、他があって自己が存在するという「自分(全体の一部分)」の確立を妨げ、連帯の分離、コロニーからの離脱、排斥、といった茫洋としたところでの夢遊な自己認識しかできなくなってくる危険性をはらんでいる。
清末の哲人、梁巨川は「人が人でなくなって、どうして国が、国と云えるのか」と。

 その「人」とは、どのような人間をみて感じ、察するのか。
いまどきの人格とは何ら係わりのない附属性価値でいう、地位、財力、経歴、学校歴(学歴ではなく)を人間判別の具にしたのでは見えてきません。 
今は、食い扶持保全のために高学歴エリートが、その知を、我が身を護るための用として虚言大偽を弄し、文を改竄し、責任回避します。
≪文章は経国の大業にして,不朽の盛事なり≫
 これは山県でなくとも「タマッタものでない」と思うところです。


 いかがですか、人間考学は、あなたの内心を怖がらずに開け、無駄なものは省き、器を大きくしたところで素直に事象を観察することです。
老境の域にならなくとも、童の頃に戻れば醇な心は還ります。
 それで眼前の事象を眺め。考察することです。
「人間考学」は、思索や観照の前提として、まず自らに浸透しなくてはならないことへの促しです。それは「本(もと)立って、道生ず」まずは、その内心に本を探り(己を知る)、特徴に合わせて伸ばし、道を拓くことです。


 その道の歩みも、やたら巧言を語らずに、体験を糧に内心に留まった考察を反芻(はんすう、繰り返し練る)して、利他のために発するのです。
 口耳四寸の学といいますが、口と耳の距離は四寸くらいですが、聴いた、見た、知った、覚えた、この簡単なことを身体すら巡らすことなく口から発することは「話」言べんに舌ですが、「語」りは、「吾」を「言」うです。


 つまり梁巨川氏も言うとおり、吾のわからないもの、知ろうとしないものは、彼の云う意味での「人」ではないのでしょう。
その「人」を考える、人の織り成す現象の行く末を想像する、それが「人間考学」命名の由縁でもあります。


「天に唾する」「覆水盆にかえらず」「吐いたツバを飲む」いろいろな伝承された言葉ですが、「なめられたらたまるか」は宰相の言葉です。国民には舐められ」交渉のカウンターパートのトランプ大統領には「嘗められ」それがあの言葉だとしたら、国民は舐められています。

あの東日本被災の折、陛下は避難者に膝を折って目線を合わせて激励した。その後、仮に国民大多数が投票した選挙で選出された総理大臣が真新しい作業着で訪れると「なにをいまさら」と罵声すら浴びた。
陛下は国民選挙で選ばれた立場でなくとも、迎える人たちは涙さえ流していた。

つまり、経済や防衛の多寡を比較することは国民の努力数値だが、真の国力は社会の深層に在る国民の情緒性だということを知った。
かつ、その素心が陛下が表す忠恕心と融合することで、政治権力より重く有効な存在としての感受は、復興の糧としても内心に浸透している。

現在でも総理は皇居に参内して国情の現況を奏上されているはず。
たとえ辛苦を嘗めたとしても、他国との厚誼に馴染まない、いや日本人の土壇場の矜持として無作法な言葉を他国に公言する総理として、推戴する国民のみならず、形式的であっても認証される天皇として心を重くされているに相違ない。

救いがあるのは、有権者の代表ではあるが、国家の深層を支える統帥者ではないことだろう。



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師弟の淡い交わりと烈行 08/2再

2025-07-09 19:41:59 | Weblog


老人の名は岡本義雄という。

 奈良の石屋の大店に生まれたが、両親とは死別、兄弟も無く、遺された財産(店、営業権、工場)とともに親戚に預けられる。

 

       

岡本義男氏     

先ずは子守だった。まだ明け切らぬうちに起きて鞴(ふいご)作業である。石工に使う鉄製道具を手入れする火おこしである。

 あるときかまどの傍にお金が落ちていた。子供ながら大金である。岡本は訳もわからず、いや辛苦ゆえの「マ」なのか少し離れた目印になる石の下に隠した。
 毎朝、ふいご番をするたびに石の下を覗いていた。何か安心と不安が入り混じったという。

或る日、いつものように覗いたら隠してあったお金が無くなっていた。
 そのとき、ホットしたという。そしてこれからは自分を欺かないことを誓った。その隠している苦しみは自身を不安にさせ、あるいは悪心に慣れさせてしまう一種の怠惰を感じたという。

己を欺かない、それが人生の指標ともなった童の体験だった。

 預けられた先は、岡本の実家の財を得たことによって裕福な生活があった。
 学年が上と、下に挟まれるように岡本は生活した。
 雨が降れば先に授業を抜け出して傘を取りに帰宅し、親戚の子のために傘をもって学校に戻った。弁当も届けた。帰れば幼子を背に負って子守である。食事は二番席、残り物しかなかった。そして、冷たかった。

 

        

    子守っ子  イメージ


岡本とて強靭ではない。子守の順路は決まっていた。いつも小高い丘に登って生まれた家を眺め、親を懐かしみ、そして声を出さずに泣いた。背ではすやすやと眠る幼子の温もりが親の膝に抱かれたときと同じ暖かさだった。そして朝の釜焚きがやってくると、まだ明けきらぬ暗闇の中、今焚いた火の明かりを頼りに教科書を読んだ。

 筆者は岡本の好物であったキンミヤ焼酎の紙パックを傾けながら、息を殺して聴くのが倣いになった。きっと安岡氏もそうだったのだろう。

 面前で漢詩を詠みスラスラと筆を運ぶ岡本にも驚愕した。
 「なぜ?・・」と下世話にも尋ねた。

 岡本らしい答えだった。
 「東京に出てきて生活も落ち着いた或る日のこと、みすぼらしい男がウロウロしていた。狭い家だったが招き入れて話を聴いた。すると心地いいんだ。その男は漢籍に詳しく、しかも至誠の塊のように見えた。それで泊まっていたが、自分も離れがたくなった。それから何年もいた。亡くなってから古本屋に行ったらその男の分厚い本が貴重本の棚に並べてあった。そんなことを聞きもしないし、男も話さなかった。

だが、その間、その男から教えてもらったお陰で、身についた。自己流だったが、男はいつもそれでいい、それでいい、と焼酎を飲んでいたょ・・
 ついぞ、男の名前を聞くことを忘れていた、いや聞く必要も無かった」

 以前にも記したが60数回の転居中、白山に住んでいた頃、当時の町会長だった安岡氏の下を尋ねている。
 「先生! 先生は偉い人だと聴いているが、いま国は聖戦といいつつ多くの国民が死んでいる。勝つと判れば我慢もしよう。しかし多くの住民が家を焼かれ、死んでゆく。どうにかならないのですか・・・」

 

       

 

 

当時、安岡氏は大東亜省の顧問をしていた。
 早朝、迎えの車が待っているところへ岡本の突然の訪問だ。
 いかし安岡は「来客中!」と迎車を制して、岡本の話を出掛けに40分あまり費やしている。

 後日、岡本の家に安岡の秘書が持参したものは一幅の漢詩だった。
 ゛春宵、夢を破って空襲を報ず゛から始まる安岡の答えだった。
 訳すと
 ゛殺到する敵機は雲のようだ゛
 ゛一面を焼き尽くす炎が上がるが、君、歎くことはない゛
 ゛塵や芥のようなものを掃って、忌まわしい気が、これで絶えるだろう゛

 【敵の攻撃は激烈だ、しかし、歎いてばかりではいけない。これを招いてしまった日本にも、その忌まわしいものがあった。それは変質した日本人に向けられるものでもある。この炎はそれを祓うものでもある。そしてその後、忌まわしい気は絶えるだろう】

 初対面の岡本の至誠に疑いすらなく、反戦、あるいは見ようによっては財閥,軍官吏の堕落や腐敗から生じた欲望のコントロールの欠如が多くの国民を途端の苦しみに陥らせたと、心底考えていた。そのような漢詩である。しかも縁の薄い岡本にその真意を託しているのである。

 また、それを汲み取る共通の意志と、敢えて淡くも緊張した両氏の「間(マ)」は人物の交誼と応答の妙を教えてくれる。

 

       

    毎朝のように届けていただいた    紙は広告チラシの裏面

 

     

 


幼少の「ふいご」と「子守」、そして放浪の男を招き入れた人情は、ことを処するときの烈行の座標となる「義の薫り」とともに、両氏に合まみえ、戯れた若輩の筆者にも懐かしい遺訓として己を走らせているようでもある。

 試されている、辿り着くところに待っていてくれる、そんな明治の人たちだ。

 

 

コメント (1)
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麻生氏はあの時「さもしい」と賢察した。いまは騒がしく、かつ卑しくなっている  10 6/19 再

2025-07-07 01:32:23 | Weblog




以前、大相撲は清規(成文法)に馴染まないと書いた。
つまり、おなじ社会の、同次元のことだが、ここでは狭い特殊社会の特別な人たちの同様には扱われない考え方と行いだと考えるのである。

法人として優遇を受け公器としての役割が必要とはいうが、人が違えば公器等は看板の類であり、大義を謳うメディアにとっては何でも言い募る絶好なターゲットでもある。

人の棲みわけられた世で、これが無くなれば清河百年を待つ、つまり元通りになるには百年三代かかるというものがある。

仕草では「食三代」があるが、各々の家庭の味覚もあるが、食べ方、ここでは喰い方もある。これは作法だが民族が異なれば違うというような屁理屈ではなく、ことに色、食、財に関することは我国の人の所作に基づく問題でもある。

昨今の就職活動(就活)や婚活の重要な部分を占めるであろう共通の行動範囲における、゛なじまない゛ところでもある。
昔の職人は早起き、早飯、早糞が先達から教えられた。修行僧は音を立てずにタクワンを食べた。江戸では豪快に音を立てて蕎麦を啜った。それらは棲み分けられた職域、生活圏においては、゛しきたり゛゛格好゛として、あるいは掟として狭い範囲の調和を保っていた。

いや、「分」の明確化ともいえることだった。そしてそれらの個別の域には口を挟まなかった。

それが近頃では税制優遇や体裁ステータスなのか財団とか社団なども法に括られ、誰でもタックスペイヤー(納税者)の権利とばかり、さまざまな切り口で苦言を挟むようになった。







神奈川県野島 伊藤博文別邸 明治憲法がつくられた




掲げられる前提は「法治国家」という代物ではあるが、その法を扱い時には走狗に入るのも法関係者の常である。それらが全て法に触れるということで刑罰に随ったら社会は成り立たない。わずらわしい問題ではあるが他を論じ、ホドを超えると必然的に行き詰るのもこの手の問題である。

この民族らしいものとして和芸がある。昨今は和風カルチャーとして誰にでも参加できる「道」を謳ったものなどは奥義の伝承と称して必ず「料」と、゛お気持ち゛が添えられる。

隣国中国すら笑えない話だが、賄賂を贈ることを「人情を贈る」という。
西欧にはチップがあり、我国には、゛お手間゛゛心付け゛゛小遣い゛゛お気持ち゛がある。




               

     日露戦争出征 あの時は護るべきものが国家だった




翻って公機関にはどのようなものが有るかといえば、検察庁には調査活動費(調活費)というキャリアの裏金で辞任した高官もいた。警察庁はズバリ裏金がある。しかも部下に偽領収をつくらせるパワハラもまかり通るが、生涯賃金の保全のために正義も公徳心も捨て去る、つまり狡務員、公無員が多く存在する。そこには協力すれば仲間、協力しなければ敵の峻別が暗黙として存在する。

看板は架け替えたが財務省のノーパンしゃぶしゃぶは総じて東大をはじめとするキャリアが金貸しである銀行や、体裁のいい博打場証券会社におねだりした遊戯である。
これはまずいと思ったか金融庁を分離したが元の木阿弥状態である。

労働貴族といわれた組合幹部も国労は衣換え、教職員は組合費で遊興に走る。
表に表れるだけでも、゛さもしい゛゛卑しい゛姿は、福利、教育にそぐわない群れであることがわかる。





                 

       このときは負けた   対中降伏文書署名




これらは法治国家の棲み分けられた部分の掟や習慣によって支えられているものだが、その法務官吏もそれに当たることがある。

法務省本庁のある部屋は労働組合の看板が大書されているが、出先機関の誠実な所長の言葉にその苦渋が述べられていた。
「以前、待遇改善といえば職務対象とする少年なり退所者に関する職員の労働環境などが大義として交渉に謳われた。またそのようにして改善すると次の要求が出てくる。
そのころから外部の篤志家や対象者が出入りする庁舎の廊下に組合のポスターが貼られるようになった。
そして要求はすすみ、自分達の待遇、つまり優遇が言われるようになった。そこには代表者が居り要求はエスカレートして、内部でも組合に参加しない職員の電話にも出ないくらい先鋭的になった。その電話は少年や退所者からも掛けられてくる電話である。
はたして公務員としての要求の分別はなんだろうか。当惑した」

裁判所でも公判期間中に担当裁判官が突然変わった。何故、代わったのか。
丁度、公証人役場の空きができたからだという。
キャリアは用心棒弁護士もあるが下級審(下級といまでもいう)の裁判官は世情に疎いこともさることながら、なかなか天下りも無いため、空きが出たら直ぐ行かなければ食い扶持保全できないことらしい。






                

            塾では鎮まりがあったが・・・ 松下政経塾




以上、このようにあげつらえば世の中は名目上の法治である。また法は知っている人間と使える人間の天下のような世の中である。
よく子供の頃に「法の傍をウロウロする奴はろくでもない人間だ」と古老に呟かれた。
いまでも生きている庶民の銘だ。

上げ列ねたような公器に生息する群れは悪党にもならない「愚か者」の群れであり、その群れにいそいそと安定職として送り出す母親も愚か者だろう。

世は悪党によって衰え、愚か者によって滅ぶ

では、なぜ愚か者が増殖したのか。

冒頭に記した清規(成文法)ではなく、陋規にいう「掟」「習慣(慣習)」の欠如である。

陋規は厳しくもあり、たおやかで優しくもある。それは公器はもとより、人間の自制のなり自省の問題であり、これを融解させるのは恣意的に利用される自由と民主につらなる啓蒙的思考に飾られた平等と人権など、知ってはいても深い意味を伴わない思索や観照の崩壊が大きな要因をなしている。

翻って、悪いと思っても必ず意が向く行為のなかに遊びがある。
博打、買春、昔は、゛いたずら゛だった。胴元も楼主も弁えていた。
借用書には今どきの担保などない。そもそもいたずらな遊びには馴染まない。
ただ゛「返せないときは満座の前でお笑いください」とあった。
恥をかきたくないものは借りなければ、゛いたずら゛もしなかった。

ある侠客だか、「なぜその稼業に・・」と問うたところ
「オンナと酒と博打が駄目ならこんな稼業に入らない」

その意味では公器に蠢く群れも何ら変わりが無い。

゛国民の生命財産をまもり・・゛と街中を大声を出して徘徊する候補者が稼業への就職活動にもみえるのも、そのせいだろうか。

博打の目を読めない政治家の運と風頼みは、東西外来の胴元にかすりとられるのは当然なこと。

それゆえ、その道を極めるのは「極道」と称するのもうなずける。





              
 
               双葉山    関係サイトより





あの大相撲にも極道がいなくなって久しい。
名横綱双葉山は連勝をストップされたとき「いまだ、木鶏に至らず」と旅行中の安岡氏に打電している。

それは如何に静と動を交差に鎮まりのある落ち着きが必要であるかを示している。
晋作は「動くこと雷電の如し」と詠んだ。双葉山は木彫りの鶏の動ぜず沈着さを悟った。

騒ぐな、競うな、怯むな、落ち着け、
明治の小学は「尋常」と冠し、平常心を躾として肉体化した。全てそこから始まった。

相撲も選挙もそのように眺め、人の所作を学び、省く鏡とすべき、いまはその良機だ。

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武人が自らに「尊敬」を請う時代なのか

2025-06-23 16:53:20 | Weblog
 極東軍事裁判 インド選出判事 ラダ・ビノード・バル博士

『時が熱狂と偏見が過ぎ去り、女神が秤の均衡を保った暁には、賞罰のおく処をかえるだろう』簡訳


 あのアメリカ、ソ連、今の中国など世界を相手に、お祖父さん、お祖母さんたちが戦って、白いコメなど口にすることもなかった時代があったことを知らない世代が多くなり、かつ軍人が現業公務員となった今どき流行りのAI合成映像と思いたいが、友人から元陸上自衛隊員佐藤正久議員の国会発言動画が送付されてきた。



厚木 マッカーサー

それは戦後間もなくGHQの意向に沿いつつ、いかに旧態の状況から脱却して新憲法のもと戦争放棄、武装組織の解体を謳いつつも、世界情勢の変化に新たな軍事組織編成の促しに苦慮していた時期の吉田茂総理の言葉の「間違い!」との発言であった。

今でも総理が統括する内閣で防衛部分を司る防衛省の行政職現業職員、制服組といわれる自衛隊員退職者が問う最高指揮官ヘの指摘である。
それは多くの隊員のあるべき姿への願望や、当然そうあるべきだと隊員もそのように願っているという、国民代表の議員に向かっての発言のようだった。

戦勝国の強大な軍隊の占領下において、敗戦した国家の指導者とすれば、頭を低くして嵐の通り過ぎるのを忍耐強く待つ時期でもあったと察する。

かといって軍組織が跋扈し、継続した国家の「維」を棄損しかねなかった戦前の状況を繰り返すことのないよう、吉田氏なりの慎重な言葉を新編成の自衛隊員に述べている。それは憲法下において継子扱いのような組織への、矛盾した現況を共に、伏して協働しようとする最高指揮官としての、声を潜めた覚悟のような言葉だった。

旧軍なら考えられないような部下への低姿勢だが、激戦下では大元帥には誤った戦況を伝え、現地の詳細を把握せず机上で指揮をする参謀、陸海の予算確保争い、錯誤のある情報伝達、改めることを良しとしない陋規(狭い範囲の掟や習慣)など、吉田氏にとっては繰り返してはならないことへの憂慮か心中にはあったろう。その意味では二つ意味が浮かぶ状況だった。


 国際貢献

令和の現況は、近隣諸国の動向に応じ、戦勝国の要求があったと思われる防衛予算の増大、戦勝国米軍の指揮に沿った配置と共通装備品の購入、経験したこともない莫大な資金の運用でも、冗費、受注先からの便宜供与や天下りなど、吉田氏が憂慮したもう一つの心配の種が増殖している。
それは政治でもコントロールできない吉田氏が想像したような状況の出現だ。

吉田茂は自衛隊創設時、隊員に「控え目であることを耐えてほしい」と。
しかし、陸上自衛隊出身の佐藤正久議員は、「これは間違っている・・。尊敬されるべき立場だ」と、自衛隊、海上保安官、消防士、公安警察など現業組織をあげて発言している。
なぜ、自衛隊のほかを羅列したのか、それなら行政現業職と発すれば立場を共通なものとして国民の理解に分別はつく。
 わかりやすくは肉体的衝撃が想定される公務員の職場には相応の待遇をと、国民代表者である議員に請うべきだ。

あえて元自衛官が語らずとも国民は承知しているが、議員を通して元自衛官が国民に向けて「自衛隊ほ連呼した公務信は尊敬されるべきだ」と大言すれば、昨今の議員の金にまつわる不祥事、毎日のように多発する警察官の犯罪行為、教員による破廉恥な事件に、あきらめにも近い怨嗟の思いを持つ国民の耳に、果たしてどのように届くのか、生命財産の守護、安全安心を声高に謳う議員なら判らぬはずはない

仲間の国会議員なら聴いてくれる拍手もするだろう、また感動するものもいるだろうが、市井の賢者は、あの時のたどった道と,苦い想念がはたらくだろう。 何よりも大内山のご心痛はいかばかりかと拝察する

片腹が痛い四角四面な建前ではあるが、先ずは部下が直属の上官を信頼する環境を醸成し、上官や司令官は国民の代表者である最高司令官たる内閣総理大臣を信頼し、尊敬に値するであろうとする立場を護持し、その命令に生死をかけて精励しなくてはならない。それが自衛官の誓詞の所以であり、自衛官応援隊長を自認する国会議員として、佐藤氏の後背組織へ向かっての厳言でなくてはならない。それでこそ不特定多数の安寧を護持する貴員の国民に対する誓詞ではないだろうか。




被災地で膝を折りねぎらいのお言葉を・・

尊敬なるものは各々国民の内心にもともと存することではなく、慎重に観察しながら湧きいずるものでなくてはならない。とくに旧軍の禍福の逸話や国民の体感に観る、防人、武人、軍人と呼び名は変化しつつ、かつ変容する姿を心中に留め置きながら、現代の行政職自衛官の様態を「尊敬するべき」あるいは見倣うベキ人間像として、慎重に遠望している(眺める)いるのが、世上の実態ではないだろうか。

これは、政党政派や思想信条を内包する難儀な煩問ではなく、無関心、ことなかれの浮俗の様相に、ふだんの生活では語られることもない死生の臨場を直視することで共感を生み、たとえ模擬環境でも想像し察することへの促しが必要なことだろう。

地球の表皮では休むことなく軍事紛争が続いている。想像はいつ何時でもできることだ。怯え,恐れ、破壊、殺戮は、他山の石ではないはず。
※「匹夫に責あり(ひっぷにせきあり」、防衛を職掌とする自衛官のみならず、国民にもその責はある  ※ 国の興亡の責任は等しく国民にもある
まさに言辞を「控える」意味は、自衛隊だけでなく、国民にもいえることなのだ。

それではその尊敬に値する立場の自衛官は、その「尊敬」されることを求めているのだろうか

命を懸ける職域だから尊敬に値するなら、代議士も「皆様のために粉骨砕身、死ぬ気で国民の生命。財産を守ります」と、そして、「どうか国会に送り出してください」と哀願し、誰彼もなく低頭し、土下座までしている。その反面、選挙ポスターの多くは、白い歯を晒して何故か、微笑んでいる。

近ごろは、出身組織および家族縁者、あるいは天下りOBの関連企業からの資金援助なり支持で、めでたく議員に当選した諸氏の多くは、出身組織の組織的内の煩悶を隠しつつも、組織を背景に威をふりかざす夜郎自大のように野暮な姿を晒すようだ。

よく「錯学」として、怯えを守りとして、暴を勇としたり、詐言、詭弁を智があるとする風潮がある。国家の衰亡期には表れる姿だと碩学安岡正篤氏は故事引いて警鐘している。

 安岡正篤氏


むかしのことだが、地域には尊敬される人たちが身近に存在していた。
当時は自称労働者教員ではなく恩師といわれた先生、医師、駐在所のお巡りさんなど、結婚式や町の催しにも来賓で招かれる存在だった。しかし現代はそれらの職域に庶民の怨嗟が渦巻いている。

職域には信頼をもととした尊敬なるものがあったが、多くは形式的な立場や職業ではなく人物そのものに観ていた。だが組織の論理なのか、法なり仕組みなどに埋没し、本来の関係性を希薄な状態に変化してきた。

それまでの、医は仁術、教育は魂の継承、人情は国法より重し、といったことが固陋なこととして忌避されるようになると、本来あった人物像に倣う(人物目標)意識は希薄になり、いまは謙譲や尊敬といった意味さえ失われ、職域でも事なかれ、ヒラメ、下克上さえ惹起するような浮俗となっている

防衛なるものを考えるに、軍事力、経済力など数値で国力を測り、他国と比較しているが、多くは努力すれば数値は上がる範囲ではある。本来の国力は社会の深層にある人々の情緒性と協調の姿であろう。この欠落は社会をいつの間にか衰えさせ、人心すら微かになってしまう。まさに防衛の後背を支える基本的部分の亡失だ。

佐藤氏が「尊敬すべき・・」の本筋に援用する、海上保安庁は国土交通省、消防は総務省、自治体、公安警察は警察庁、自衛隊もそうだがすべて内閣総理大臣指揮監督下における行政職職員だ。

戦前は陸海の軍組織と、参謀本部をもつ形式だが、天皇の統帥のもと政治とは離れ、大元帥(天皇)指揮下の軍隊だった。
つまり今流にいえば行政職役人ではなく、異を唱えれば天皇の大権を用いて統帥権干犯などと、軍組織にかかわれないような状態だった。それゆえ独自の気風と高い矜持を涵養する武人もいたが、なかには官位褒章も軍服を埋め尽くすように勲章や記章を貼り付け、つねに常在戦場の気概なのか、平時でも軍服,長靴、日本刀で巷を闊歩していた。当時は軽便な「尊敬」ではなく、国民から「畏敬」されるべき武人も少なからず存在した

 
露天商           朝鮮戦争


陸海は養成機関をもち成績の良いものの多くは職業軍人、今でいえばキャリア軍人で、戦前は神のような存在として好待遇で経歴を重ねていた。
その頃の教育は旧制、戦後は新制と変わってきたが、その端境期に大学にも変化があったという。食事中は騒がしくなり、マナーも緩み、校歌さえも古臭いと歌わなくなった。

それ前までは、食事の所作、長幼を弁えた言葉の分別、家庭を含めて様々な成文(条文を文章化)、不文(習慣化された掟や習慣)を問わず道徳律を基とした教養を修めた学域、職域での独自の矜持があった。

上司、組織も能力だけでなく、浸透した人格を人間の在りようとして、軍でいえば職業軍人として顕示される「容、像、体」を部下の倣いとし、錯覚した人物観は土壇場において不明な行動を推考するような、人物眼、つまり人を観る、量るような、知識、技術など習得以前に修めるべき人格、識見を涵養する前提があった。

当時は教養や見識を活かす「胆識・胆力」も人物を測る目安であった。
あの官界でも偏屈で大風呂敷とみられていた後藤新平だが、児玉源太郎は台湾民生長官に抜擢している。医官らしく先ずは防疫と生活の順化として、その前提は現地人、本省人、日本人の特性をみて協働と調和を施策の前提として、住民には既得権に増長した植民地官僚の怠惰な職務態度を改めるべく、高官、官吏1000人近く罷免している。


後藤新平  児玉源太郎


日本からは無名だか気概を以て台湾を再興できる若手の技官、官吏、警察官を招集して、発展の基礎を作っている。
人を観て、人を育て(特徴を伸ばし)、その人物に資材を委ねれば、超数的(机上の期待以上の)成果を上げることができると、八田与一、新渡戸稲造などを現地人を含め多くの人材を育てている。

この「人を観て」が重要だが、いま時の人格を何ら代表しない附属性価値である地位、名誉、財力、学校歴(学歴ではない)では後藤を登用しなかった。
元はといえば智将と謳われた児玉源太郎の人物を観る目の秀逸さだが、要は現代人が狂騒している前記の附属性価値になんら人間の生きること、活かす意味を感じていないのだ。

まして名を売り、称賛されることを避け、小欲(目前の些細な我欲・ヤリタイこと)を滅して、大欲(私ではなく公の意識、行うベキこと)に生きる道を軍人の至上の命題としている。
役人、軍人の多くは、何よりも昇官を生涯の価値としているが、裏返せば、その所以は平時ではなく、戦時に前線で生死を超えて死闘を繰り広げる兵の存在ゆえのこと

シナ派遣軍 若杉参謀こと、三笠宮殿下

「若杉参謀の訓示」 
(某組織での講話所感に応答した筆者の拙文抜粋)

・・・外形的にはそうですが、内面では生身の隊員諸士の問題意識や疑問など、矛盾の要因を知りつつも、遊惰にも映る浮俗の声や無関心、ことなかれ、あるいはヒラメと称する諸部門の様相など、理解が混沌として整理もつかず、まして気風は何となく分かっていても、自己に落とし込めば、職掌任務さえ自縛するかのようなハラスメント、内規や法の適応の煩雑さなど、知っていても言葉に出ない、学んでも行えないような環境認識が滞留することもあります。そして次は下剋上の招来です。

ものは考えようです。貴官は内心の自由は担保しています。加えて内包している自己への問いに潜む矛盾や、誰もが葛藤さえしている適わぬ自己能力や適応の計測など、集合体では明らかにできない内心の吐露は、秘かな共感となり新たな結合を誘引する心情の理解となることもあります

夫々、組織においては上意,中意、下意の立場や意見もありますが、あくまで職掌上の問題だけでなく、辿る経験での思いは同じです。

歴史上の例ですが、日中戦の泥沼化で難渋していた頃、派遣軍の若杉参謀
が将兵を集めて問いました。「日中戦の泥沼化の原因を端的に記すように
援蒋ルート問題・・・、兵站の不足・・・、さまざまでしたが若杉参謀は納得しません。
ここに的確な答えがある。沢井中尉読みなさい
中尉は怯むことなく「日本軍が真の日本人に戻ることです」と読み上げた。
参謀は発した「略奪暴行をはたらいて、なにが皇軍か。何か聖戦か。」と。
陛下の軍隊と掲げながら、陛下に御心に沿った軍隊なら、異民族の地においてこのような行為はできないはずであり、民間人に恨みを持たれるような軍に成果は望めないと。

参謀が外したあと副官は部隊幹部にこう話した。
まあ、その、今回のことは、その・・無かったことにするので・・」と蓋をするかのように若杉参謀の行為を無視した。事なかれ、ヒラメ、隠蔽、軍事エリートは異郷においても戦火に逃げ惑う無辜の民のことを無視し、国内向けの戦績評価にとらわれていたのです。

参謀が司令官に指示して集合させたり、訓導することは組織上、ありえないことだが、若杉参謀は仮名の軍職で、「若杉」は三笠宮殿下の御印で、止む止まれぬ行動でした。

この時も当初は現地居留日本人保護と経済権益、つまり「日本人の生命と財産を護ることを目的」として掲げた一つの戦争でした。しかしその行為は沢井中尉が喝破した「真の日本人」とは異なる土壇場の姿でした。
異民族に普遍な人情(譲り合う忠恕の心)、王道でなく覇道に陥った武力集団を若杉参謀は戒めたのです。

ちなみに佐藤隊員が指揮統率した国連援助部隊は、現地の異民族の苦難に応える畏敬の存在として今なお語り継がれる偉業です。それは国なる存在を超えて、今後起き得るだろう如何なる恩讐にも復た良縁の興り得る行動として、かつ、内には民族の足跡として後世に刻まれることでした。




あの日本海海戦で世界的な名声を得た東郷平八郎は、明治神宮参拝を日々の倣いとしていた。参道に歩を進めるその印象は、まるで敗軍の将のように、うつむいて足も重いようだったと記述されている。それは何ら恩讐もない日露の若者たちが大勢亡くなってしまったことへの哀悼だった。乃木希典も戦地となった朝鮮の子供に「生まれ育ったところで外国の戦闘が行われることは忍びない・・」と涙ながらに童の頭を撫でていたという。




秋山真之


海軍参謀、秋山真之は戦闘中のデッキで、「これで抑圧された植民地アジアの民が再興できる・・」と日本が魁となった海戦の趨勢をえがいていたと、心友の山田純三郎は回顧している。
その山田も「国愛すれば国賊」の章で、秋山さんは戦勝で狂乱し褒章を期待する軍人の群れを避け、孫文の中国近代化革命の援助に奔走したため、秋山将軍は精神がおかしくなったといわれていたと記している。


【秋山真之氏について】
(某組織での筆者講話資料抜粋)

秋山真之 (日露戦争時の連合艦隊参謀、日本海海戦の立役者)

受講訓話

教官から話を聞くことは啓発の端緒にはなっても、知識が増えるだけで諸君の知識が増えることにはならない。

戦史を研究し、自分で考え、さらに考え直して得たことこそ諸君のものとなる。たとえ読み取り方を間違っても、100回の講座を聞くより勝る。

そして、学生の書いた答えが自分の考えと違っていても、論理が通っていて、一説を為しているとすればそれ相当の高い点数を与えた。

もし教官が自分の思い通りでなければ高い点数を与えないというやり方をすれば、学生は教官に従うだけになって自分で考えなくなる。
その様では、いざ実戦で自分の考えで判断し、適切な処置をすることができなくなってしまう。
  
≪真之の戦争不滅論講義≫

「生存競争は弱肉強食ある.そして奪い合い、報復する」

「戦争は好むべきものではないが、憎むべきではない」

「大国といえども戦いを好む国は危うい。平和といえど、戦いを忘れた国は亡びる」

「戦争を嫌悪して人為的に根絶しようとして、かえってこれに倍する惨害に陥ることを悟らない国も、必要以上に武力を使って、手に入れたものより、失ったものが多い国も哀れむべきだ。」

そして要諦は「天地人」と説く。
  • いかなる天候、いかなる機会、いかなる作戦
  • いかなる地点をとり、いかなる地点を与えてはならない。
➂ 人の和が重要。いかなる統率のもと、いかなる軍を配置し、いかにして将官の命令を徹底するか、これが人である。

母からの手紙と兄の名刺
もし後顧の憂いあり、足手まといの家族のために出征軍人として覚悟が鈍るようであれば、自分は自決する

この母の手紙と写真、そして
「這回(このたび)の役(戦争)、一家全滅するとも恨みなし

と書いた兄好古の名刺と一緒に軍装の内ポケットに入れていた。

まさに後藤田官房長官が中曽根総理に諫言した「戦地に隊員を出して、もし戦争になったら、国民に覚悟はありますか・?」と。

国内事情を俯瞰し、まさに戦争の実態をを知るもの気概ある忠告でであった。

(以上講話資料」

※ 講話の終わりに「防大でも修得した内容とは思いますが・・」と加えた。



  山田純三郎   孫文


兄好古(秋山)も、中央に留まって軍人としての栄耀栄華を望まず、故郷松山に戻って中学校の校長になって生徒を慈しんでいる。西郷も郷の村長になっている。

破壊、殺人で栄誉を得て名を立てても、襟にバッチを飾って「国家のため、皆さんのため」「尊敬しろ」と土下座、低頭、あるいは空威張りするような醜態は当時の武人の倣いではなかった。

日露の大戦は秋山真之が揮毫もしている天祐のような勝利だったが、喉元過ぎればの様相で、陸大、海大出身者でも平時になれば組織の慣性なのか、事なかれ、ヒラメ(上司迎合)が蔓延り、怠惰、堕落の道筋をたどるように、下剋上に進んだ

戦果の数値主義、現場を知らない机上指揮、もちろん他の介入を許さない戦闘集団特有の秘密主義は、当然のごとく文書改ざん、隠蔽、廃棄が行われ、聖戦、皇軍の美名を掲げ、竜眼(天皇権威)の袖に隠れて、後の甚大な戦禍を誘引している

敗戦の報では、各地の軍事施設、霞が関の官庁街では戦争遂行の関係資料が燃やされた。その光景は空襲でもあったと思われるくらい、全国津々浦々の官庁、村役場でも行われたが、占領軍のみならず国民にも見られてはならない証拠物なのだろう。

「文は経国の大業、不朽の盛事なり」

まさに、守ろうとした日本国の経国の歴史の証拠物を平然と棄損したのである。
エリートのこの国家的犯罪の習性は、最近も等しく国民は知ることとなった

武士は耐える、忍ぶことを規範とし、矜持でもあった。
命のやり取りでさえ「尋常に勝負せよ」と、平常心で戦うことを旨とした。
目前の見も知らなった相手であり、恨みもない者の命を絶つ行為でも互いを謙譲したのである。

また、守るべき対象への謙譲を美徳とし、尽くしても欲するような下品を恥とした。何よりも褒められたり、崇めたてられることを避け、隠れた徳行(陰徳)を当然な行為として自らの小欲を抑制し、律することを旨とした。
まして、自ら「尊敬すべき」とは大声で唱えることもなく、近親縁者もそれに倣って控えることを近親の陋規(ロウキ 狭い範囲、隠れた掟や習慣)としていた。

たしかに人を沢山殺め、破壊すれば英雄の世界である。あなた方の為とはあるが、その行為の当事者は先に書いた英傑のように、また「天祐」(天のたすけ)と書す秋山真之の心情を察するに、敵味方なく国のために、靖んじて吾身を献ずる尊い精神こそ護持すべき戦(いくさ)の所以なのではないだろうか。

明治天皇ご崩御に ご夫妻で殉職 乃木大将

控えることは間違い、尊敬すべきだ」という。

音感は理解できるが、日本人として、武人として残置すべきは、大声で唱える待遇や尊敬の念の哀願ではないような気がする。
まして、国権の一翼にあるものは、公意を以って、守るべき民への忠恕の具現した姿ではないだろうか。


旅順203高地  江の島 児玉神社


軍(人間)が変容する特異点

ペルシャ湾派遣に揺れたとき、後藤田官房長官の総理への諫言は「国民にその覚悟はありますか」だった。

逆に、国民の代表とする議員に「尊敬」を請う組織の実情を知らぬはずがないと察するが、その支持母体とする防衛組織に後藤田氏のように諫言すべきことは皆無なのか問うてみたい

官業、民業の峻別と倫理観、組織の統御、募兵の現状と世相の実像など、内実をすれば誇れるものが乏しくなった構成員の所作だが、それは複雑な要因を以て構成されている国なるものにある、官民問わず数多の組織や構成員の状況を俯瞰すれば、まさに「外の敵、破るに易し、内の賊、破るに難し」(王陽明)の様相です。

戦前、成績優秀な人間は軍を志願するものが多かった。もちろん帝大進学も選択されたが志望は立身出世の風潮もあったが、国に仕え安定的生活担保という当時の国内事情も理由としてあった。

※(現在でも多額の奨学金に苦しむ学生に対して、返済肩代わりによって軍隊志願を勧める某国軍当局者も存在する)

当時の状況は軍事を以て国威を伸長し海外にも飛躍する政策の方向性であり、生産を高め市場を拡大するための国内外の平準化を企図し、くわえて将来の人口増大の懸念もあり国内では賄いきれない状況でもあった。

あの中国革命の孫文と桂太郎が東京駅の喫煙室での会話でもそのことが現れている。孫文は桂に問う『今後、このまま人口が増大したら日本はどうなりますか?・・・、その生きる道は満州です。どうか日本の手でパラダイスを築いてほしい・・・、でもシャッポ(帽子)は中国人です。そしてロシアの南下を防いでほしい・・・、機会が許せば、日本とシナは国境を撤廃してでも協力して、抑圧(西欧植民地)されたアジアを再び興しましょう』と述べ、二人は黙って立ち上がり固い握手をしている。

その内容をその後の姿にトレースすると、袁世凱に突き付けた二十一か条外務省の小池、現役を退いた秋山真之らが撰文した日中盟約がある。署名は孫文、陳基美、日本側は満鉄理事の犬塚信太郎、山田純三郎だが、まさに袁世凱にあてた後の条約案の下敷きのように似ている。

その後の満州事変、清朝皇帝溥儀復位、満州国成立、の道筋は孫文の大経綸を復唱しているような行動だった。五族協和を掲げたパラダイス、国内の経済官僚による集中統制経済(重厚長大といわれる基幹産業の育成を端緒にした成長)は、わずか十年で目覚ましい繁栄をしている。

前提には、異民族に普遍に経綸、地政学、人間学、を活かして縦横無尽、臨機応変な「機略」、時節の変化によって敵と称される存在になった民族なり思想政治体制でも、再び恩讐を超えて良縁が再復するであろうとする遠大な歴史観、何よりも異民族に普遍な人情を厚誼の端とした深い識見と胆力が当局者(軍官僚、行政官吏、経済人、市井の賢者)には有ったようだ。



陸上自衛隊 災害復興

その意味では大欲だが、その欲が変質すると名利衣冠や権益欲、既得権が狭い範囲の「小欲」になると、競い、争い、詐術となり、やすやすと謀略に乗ずる状態に陥ってしまった。
しかも、国策として送り出した開拓民をソ満国境に入植させ、崩壊土壇場では国境まで数百キロに来たとの報が入ると、国境内数百キロ内側にあった首都新京の関東軍宿舎の高級軍人、勅任官らは夜陰に紛れ電話線を切って遁走している。本来は開拓民、満州国民を先頭に立って守るべき高級軍人、官僚、勅任官(天皇認証官)である。
彼らはこれを転進と称しているが、いち早く日本に帰って戦後も政治家、官僚、知事になり、経済界に入ったものは自衛隊装備品の受注で政官を巻き込む汚職事件を起こしている。

特攻隊など勇敢な青年の逸話もあるが、いまだ高校生の青少年世代を生きて帰れぬ死地に、後から続くと送り出し、組織が・・、上司の命令だから・・、時代が・・・、と戦後、幾たび聞いた武備を脱ぎ捨てた群れの姿である。

歴史の事実として、土壇場で高級官僚、高級軍人が逃げた歴史がある。

戦後、現地の古老たちは「ニセ満州はよかった」と回顧する。だが、すべてではないが、当時は尊敬されていた軍人の土壇場の姿を、あれは日本人ではない、おれ達と一緒に頑張った日本かわいそうだった。

「ニセ満州は、はじめは良かった、多くは歓迎した。しばらくすると長くは続かないだろと思ったので、いくつか用意していた旗を準備した。日本が負けた朝は満州国旗、昼になったら張学良の国民党旗を町中に掲げた。張学良の時は、少しは長く続くだろうと丈夫な生地で作ってあったのでそれを使った。それと満州国旗、日本国旗、ソ連国旗、共産党国旗を用意して、いつ変わっても良いように準備しているよ」
満州国総理,張景恵は「日本人は四角四面でよくない。一二度戦争に負ければ角が取れて丸くなるだろう」と語る。

旧軍のエリート養成は陸軍大学、海軍大学、官吏、医官は帝大が担った。
現代の自衛官の将官養成は防衛大学だが、隊員の充足率同様、卒業しても任官を忌避する学生が増えているという。事情は多岐にわたるが軍事組織の集団意識や、任官しても防大という区別意識、あるいはそれをアリ塚としての人事考査の環境、緊迫度を増す内外状況など、当然のこととはいえ、大学志願即自衛官への道程が、頭で理解しても腑に落ちない、つまり任官前提となる学び舎において解決不能に陥っているのではないかと感ずることがある。

大学の道、明徳」要は自らの特徴を知り、存在目的(生きる、活かす意義)を明らかにする学び舎である。
防大は陸、海、空の違いはあれ、短期的に様々な部隊職掌を歴任し、狭い門だが将官、幕僚長などに昇官して、受注先の役職に再雇用されることもある。もちろん国立や有名大学の将官も多数存在するが、大多数は防大出身者で占められている。

なかには官僚独特の箔付けなのか海外の大学(多くは米国)に短期留学してなにがしかの資格を得て、帰国後将官になる隊員もいる。
問題になるのは、彼らの組織観である。
たしかに国家公務員として法に庇護され、生活の糧も保証され、平時ゆえ人生も安易に考えれば会社員の如く、生涯賃金すら容易にはじき出すことができる。しかし、それも平時平和ゆえの前提だ。





それゆえ普通大学の志願とは異質な見解をもち、ことに問題があれば意識の立て方すら異なる状況がある。ある外部講話の質疑で元気な隊員が、「わが自衛隊の最大の特徴は、一度も戦闘を経験したことが無いことです、そのなかでも、われわれ幹部自衛官は精強な自衛官となるべく、日々訓練に励んでいるところであります・・

陸、海、戦後新設された航空自衛隊はどことなく風のとおりがよい気風を持っている。いろいろ質問がある中で彼らの抱く課題に一定の枠があるように感じて「君は防大出身ですか」と尋ねると、おおよそ一定の傾向があることに気が付いた。それでは一般大学の学び舎体験者に聴くと、やはり防大出身者と異なる問題提起があった。
そのうち,尋ねなくても防大と一般の区別は分かるようになった。
心配になったのは、人数的には防大は少ないが、それゆえ意識しなくても蟻塚ができてしまうのではないかと。

環境をみて想定する課題として、「統御」(組織コントロール、人の問題)、機略」(縦横無尽、臨機応変)、「浸透学」(成すべき意味、行動を肉体的にも浸透する学び)、「謀略」(はかりごとを知ることで安易に乗じない、情報選択)を基本課題とした。

それは、入隊時の誓詞を実際の現場において部下を育て、生死に係る指揮命令を大小問わず行う立場に立って、いかに優劣を数値選別し、職位に就いたところで、はたして土壇場の実践力はあるのか、まだ体験もない有事戦闘に協働は適うのか煩悶する課題でもあった。

それは文科省の共通課題を解くために、共通し慣性となった思考回路では解けない、あるいは成文では正解だが、行動を想定すると腑に落ちない、新たな曲解への迷路が出現したかのような曇天模様のようであった。

外部の切り口ではあるが、これを爽やかな晴天にして、臨機応変、縦横無尽に意識を働かせ、職掌に活かすには別の切り口が必要になった、いや自分が考えて気が付いただけでも良い体験だった。
上官が迷ったり、ことなかれ、上の意向を過剰に探るヒラメでは、いずれ反抗ないし下剋上になるのは歴史に記されている進捗の姿だが、迷わぬ上官の存在は、ときに生死を想定して協働する部下の信頼する存在であり、相互の謙譲意識の醸成にもなるだろう。



石原莞爾直筆綴り 弘前市養生会


何を観て、誰を想定して、尊敬する意味さえなくなったようだが、起業成功者や芸能人を対象することもしかり、多くは憧れから嫉妬、正論らしきものを引率して反感に転化しかねない世情でもある。

組織でも上司の威風さえコンプライアンスに触ると、身を隠し低頭までする上職もいる。まして少子化と人材難、職場を得ても直ぐに辞めるが、転職するわけでもない。良し悪しではないが、それが現下の国情なのだ。

だが、その中でも光明がある。某省の地方事務官で違法とも思える改ざん指示を、一人で負わされ諌死した方の公務員としての至言である。
わたくしの雇用主は日本国民であり、そのために仕事ができることを光栄に思っています」内心の誓いは議員の説く自衛官の誓詞だけではないようだ。

同僚は視て見ぬふり、当然の如く苦境に寄り添うものもなく、自死しても弔問すら微か、息潜む国民は手をこまねき、中央のエリートと称する幹部は組織自体の葬送なのか沈黙を貫き、一般職員は鎮座したような上級官僚を護り抜くことに狡知を絞った。
土壇場では満州崩壊時の醜態と何ら変わりはない。


一例だが、議員の足下には是正に難儀な内なる賊(個々の内心の小欲)が変容した価値が数多遊弋しています。
国政に携わるものは、まさに脚下照顧こそ国家の大綱である「維」を正す道筋だが、いまは知る由もない

【故事にみる衰亡の姿】
しかし組織の煩いは「小人に利に集い、利薄ければ散ず」すべて功利です。
学びは「小人の学、利に進む」公人さえ利殖の学びにすすみます。
成功目的の変容は「上下交々に利を獲(と)れば、国、危うし
つまり「下は上に倣う」です。 
亡国の後、その亡国を知る」 今まさに亡国前夜の宴のようです。
これらはすべて錯覚価値の収奪にいそしむ人間の所作にでる姿です。



弘前市禅林 忠霊塔


故事に「五寒」があります。
二千数百年前の荀子の「衰亡の徴」から、後漢の荀悦の政治、官吏の堕落「四患」、そして「五寒」が表れると亡国です。亡国の前兆は人心が微かになり、享楽、糜爛、偏狭となります。いつの間にか誘引されるように国家を覆うのです。
これは占いの類でなく、かつ隣国故事の個別習学ではありません。歴史の史記に表れた人間社会の姿と、経国の客観的記述を連結し、いつの間にか陥る道程を明らかにしたものです

「五寒」は最後にたどり着く亡国の結果です

《政 外》(せいがい)  政治(政策)のピントが外れる。 

《内 外》(ないがい)  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》(けいちょう)  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》(ぼうち)  謀(はかりごと)が漏れる ゆるむ

《女 厲》(れい) 女性が烈しくなる。荒々しくなる。


  桂林

ゆえに為政者は「相」(宰相)として先が見通せなくなる状況です。それは「逆賭」(将来起きることを想定して、手を打つこと)が、目先の煩い事に拘泥することです。首相,省相の「」とは、高い木の上に目を置き、過去、現在、将来を俯瞰して為政する役割のことです。

 高位に存在するものは、忠恕の心で、慈しむ謙譲の精神をもち、つねに自己を抑制し、ときに省くことです。それは下座観を養い、つねに全体に支えられている自らの分(自分)を銘として、決して褒められたり、尊敬されること、まして尊敬を請うようなことは自戒すべきことであり、武人なら、ときに士気を弛めるような歓心には、迷惑被るような剛毅を涵養すべきです。

ある組織では、上職が訓辞を垂れれば肩をたたく仕草で、肩章の星の数を侮っています。つまり、内実のない肩飾りと揶揄する状況です。
滲むように露呈する姿は国民とて人間組織の常なる姿として眺めてもいます。
 一部の高官OBはうそぶく。生活は生涯安定、担保は国家、勤務は減点評価でも余程のことがなければ退職はないと。まさに内(内心)なる賊だ。

翻って戦乱の地アフガニスタンで偉人と讃えられ、不慮の銃撃で命を落とした中村哲医師がいる。縁者の友人は云う。
 世上の安定職といわれる医師でありながら、銃では病も治せない、国も平定しない、先ずは食料自給を援けなくてはならないと、現地人と一緒に荒野を肥沃な大地に勤しんだ。重機を操り、土砂を担ぎ、ともに汗をかいた住民を称えた。長大な水路は完成し、緑の農地に変わった。
 ブラジルでも不毛の大地で土の香りを嗅ぎ、口に入れて舌で味わった土地は豊饒の農地に変わった。

 彼らはの行動端緒は異民族に普遍な人情と、誰に指示されることもない真の自由を現地の住民とは協働で知ったことだ。生命財産を賭して世俗価値である官位褒賞をも忌避するような気概は、まさに現代の真のモノノフ(武士)のようでもある。

標題で思うことは、平時に兵を養う難しさは山本大将も案じていたが、。戦後八十年の平時、先の憂慮が再復するかのような様相です。



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「女厲」は社会を劣化させる 16 4/8. 再

2025-06-19 00:39:41 | Weblog

               秩父

 大いに両性の炎上を請う


 「女厲」は五寒に記す、政外、内外、敬重、謀弛と同時に表れる相互作用だが、女性が荒々しく烈しくなる現象だ

この兆候が表れると社会は崩壊し、国家はなすすべもなく崩壊する。それは生産や軍事力という数値評価の多寡で競うものではなく、真の国力と云うべき人間の深層に存する情緒が五寒に記すそれぞれの問題の顕在化によって毀損され、数値の繁栄が砂上の楼閣のようになる危険性があることである。

なぜなら、数値の多寡を競い、成功価値や幸福感を追求するなかで、個々の成功や幸せが行き着くところにある「全体の毀損」が、まるでエントロピーの法則のようにその高低差を激しくなればなるほど、閉塞感や戸惑い、不安などの精神的社会基盤が歪み、回復力を失くすことになってしまう憂慮だ。

昨今は、格差社会といわれ、一過性でもある、情報、収入、などが、その一過性の人生価値によって、より激しさを増している。そこに付随するように「五寒」も顕著に表れている。

安易な生活感によって、考えることは難しく、観照することは関心もなく、問題意識すらない人々は、その境遇すら人任せにする傾向が多くなった。まるで羊飼いに飼われた犬に追い立てられるように、群れは流行り事や、政府の刺激に群行群止している

 

 

  台北市老人住宅 松崎敏彌氏と

第五次になる中華民国台湾の施設訪問が3/15から行われた。

施設は台北や高雄の高齢者住宅と小学校の朝礼、少年観護署(矯正施設)などだが、それぞれ数次にわたる継続訪問である。

 

この章に関係することだが、台北の高齢化施設での女性には、いつものこと応答や仕草など、便利性や情報に囲まれ、文化的と云われる世俗に生きる我が身に照らすと、ことのほか至らぬことに気が付くことがある。

 

ものごし、笑顔、言葉の選択、応答、すべてに日本の生活域では見かけられない情景がある。なかには台湾高等女学校や、あの映画KAMOで有名になった嘉義農林野球部出身者もいたが、みな応答辞令に優れている。懐古趣味に留まるものではないが、改めて日本語の教養的な使い方、心の沈潜した部分の表現、さらに異国ならではの一期一会の遠望するような眼差しなど、不謹慎にも抱きしめたくなるような老境の潤いがある。

 

 高雄市老人住宅 カラオケ室

 

それと云うのも、訪台直前にネットや国会を騒がせた日本女性の意見表現に、どこか裏悲しさを感じたこともあり、早くあの方々に会って、゛そもそも゛を取り戻したい気持ちがあった。

なにも大戦を前後しての価値評価を云々する野暮なことではなく、心地よい人々の「和」や「間(ま)」が、たとえ異郷においても、瞬時に連帯や調和による親和心を作ることのできる応答と観照の妙を浸透させる、人間の真の力を感受するために、己の敏感性を研ぎ澄ます体験への期待だった。それは、邦家では乏しくなった日々新たな発見でもあった。

 

その我が国の情勢だが、多くの女性の賛同を得て政府さえガブリつく文句があった。

 

何なんだよ、日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ、私、活躍出来ねーじゃねーか。

保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

 

世上、いくら欲張りでも都合のよいことばかりで思い通りにはいかないことは子供でも知っている。現状を認知して内容を熟慮しても、ヤクザや不良弁護士や利権代議士、はたまた扇動家が「いい話」や大義を言ってきても、世間は眉唾で聞き流すものだ。

いわんや方策としてもこの手の言葉を用いる人間が、浮俗の風でまかり間違って政権を取り、認証官(大臣)にでもなったら、陛下は平然として信任状をお渡しになるだろうか

しかも、男女平等を謳う世で、義務はともかく人の権利を唱える、ここでは女性に、嘲り、罵声を浴びせられて、ごもっともと語るオノコも情けない。

゛いつのまにか゛それが複合的に社会の隅々に表れるのが五寒にある「女厲(じょれい)」なのだ。

 

制度や待遇を考慮しても、わがナデシコの言は烈しくなった

これではまとまるものも、まとまらない。だが選挙目当てもあるが政府は瞬時に五兆円もの対策費を計上予定とのこと。これも選挙次第でウヤムヤニなってしまうのだが、どこか情けない気分だ。いわんや課題(批判)に対する応え(対策)だとするなら、対策のみで政策すら出せなくなった為政者との出来レースの芝居かと思えるほどの、タイミングの良い、゛さもしくも卑しい゛役者がそろっている。

 

              秩父

 

当ブログで記す、陋規の習慣と掟を倣い、自省や模範とすることがなくなっては、いくら法を積層しても意味がないと考えるが、この陋規(狭い範囲の掟や習慣)には、前記した台湾の高齢者の「ものごし、笑顔、言葉の選択、応答」あるいは、「整理、整頓、清潔」などトヨタでも5Sと称されることの習慣化、あるいは食事態度、姿勢、礼儀などが大きな部分を占めるが、件の女性は、野暮で古臭い、人権、平等を掲げて反論、いや争論でもするような威圧姿勢がある。

思春期を過ぎて大学生になり社会人になってからでは間に合わなくなることがある。

それは付け焼刃のような人間の矯正と、役に立たない知学である

 

人間を粗製乱造する教育産業の変容を進歩的成長とする風潮と相まって、その評価とする数値的選別が、なんら社会生活なり国家組織の形成に効あるものではなく、かえって屋上屋のような法の積層や内規(コンプライアンス等)を作らなければ、人間がその世界(組織なり)用と成さない現状がある。

 

近ごろは、職掌責任ある上司でさえ言葉を控え、いたずらに逡巡する傾向があるようだ。

なかには真性の病いでもなく、単なる我慢が利かないストレスという流行り語や、それを病気項目に当てはめた「うつ病」が多いようだが、言葉を失くし、動きを失くすと、それらに括られ、しかも数値に追いまくられ人情薄弱になった環境から逃避するように病を盾にすることもあるようだ。まともな病をもって苦しんでいる人はその偽病に嘆いている。

 

体裁のよい憑りつき病のようだが、これに「さもしさ」も「むさぼり」が感染したら、生活習慣病となるのは必至。点ける薬はないが、体質改善と精神の覚醒は肉体的衝撃がことのほか効く。人の弛緩や堕落は、それによって構成される社会なるもの、国家なるものも同様に弛緩し堕落する。

まさに、「何だよ、日本」、敢えて云われなくても、その姿で国民は察している。

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いま、陛下は何処(いずこ)に   あの時もコメはなくなった  15 7/27 改稿

2025-06-11 15:24:18 | Weblog

2016年掲載 旧題 あの頃に倣う 移風は、陛下の「威」と「忠恕」しか解決はない   

「移風」・・・忌まわしい雰囲気を祓い、新しい気風を起こす

 

あの時もコメは欠乏した。

原因は多くのコメを将軍をはじめとする高位な武士が住む江戸に送り、関西は食べるコメが欠乏した。

昔から幕府(政府)の行うべきことは,治山、治水、食料充足が主たる政策であった。

近代社会において主食となるコメが2倍の価格となり、不足するような四角四面な対策しかとれない政府とは・・・・

その時、一人の善良な下級役人が義憤に感じて動き、庶民のために法を超えて天皇も動いた。



天明・天保、あの頃も天変地異は多発して人心は乱れた

だだ、民の窮状を直視し、禁中並諸法度を越えた英知で人心を整えた賢帝や国母がいた。

それは民の依頼心や皇位の謀でもない醇なる忠恕心だった。

真の学を作興し、ややもすると慣性に緩む宮中を整え、世に公徳心を喚起した。

その威の力は、経年劣化に堕した幕府(政府)の軟弱さを露呈させ、民の離反を招いた

国風に新たな清涼感を抱かせるには、物や便法ではなく、縦軸である維を新たにする忠恕の心であった。

それが大御心に応ずる民(大御宝)の強固な国なるものの紐帯なのだろう。








以前、日本の道徳的移風は王政(道)復古でなくては、との考えを記したことがある。
文字解釈での多論はあるだろうが、「移風」は現状の民情なり、その方向性や価値観から導く政治なり経済、そして教育の雰囲気や流れを好転させることだ。

以前の章では道徳的移風については王政復古と書いたが、時代錯誤と非難かつ嘲笑された。王政の何処が、と切り取り反論をされても納得するものもなく、かといって天皇に政治権力を委ねるものでもなく、だだ、現状の政治形態にある権力者に慎みがなくなったとき王政の由縁となる「王道」に取り付く島をみるのだ。

己の薄弱さと人生すら完結できそうもない庶世の民として、天皇の姿に何を描くかはそれぞれだが、不特定多数の人々に対する人間の姿として垣間見る行動は、世俗にまみえる処士として、どう見ても近づくことのできない異次元の姿として映るのだ。

たとえ、土佐の賢候山内容堂が無頼の衆と切り捨てた薩長が大義を取り繕うために内裏から世俗にお出まし願い、歴史にもない軍服を着せたこともあるが、また古今の歴史に利用されかつ権力の形式的装飾に用いられたとしても、平成の御世における天皇の大御心を体現する姿は、まさに王道の心をみる観がある。それは忠恕心だともいう。

それを伝統だというのは容易いが、人間はそれができると思うだけでも意味がある。
また、教育においても単に数値選別されて望みの職掌を得た位上人でさえ、及びもしない観念や、庶民から見ても驚愕とも思える所作にも、処世で当然考えるであろう、小欲とは異次元の大業に向かう超克した心情が読み取れる。






昭和天皇


ときに、昨今の選良の態度や輔弼としての宰相と官吏の姿を見ると、どうしても大御心を忖度した行動が読み取れない。処世の人々からすれば一種の軽さを感ずるのだ。
いくら民主や法治と謳われても、そこには収まらない安堵と鎮まりがある。

以前、少し不敬な依頼心を抱いたことがある。
皇室の奥の語り部として重用された卜部亮吾氏(侍従、皇太后御用係)が良子皇太后のお付きで葉山の御用邸に赴くとの連絡があった。筆者とは洒脱な関係だったので「サッポロのビールを差し入れします」とお伝えしたところ、「ビールは輸送でゆすられると、しばらく間をおかなければなりませんね」と氏らしい洒脱な応えがあった。氏は銀座七丁目のライオンビヤホールでの泡友仲間ゆえのビール薀蓄だった。

ところで皇太后様はお元気ですか」と問うたら「お変わりありませんかの方がいいですね」と返された。

浜辺を散歩なされますか」と聴くと「補助を必要としますが」とのこと。

「ならば、皇后陛下がお手を添えれば今どきの家族それを見習い、それが周知されれば政府の扶養費支出も抑えられます。なによりも国民のムーブメント(運動)となれば、国柄も変わりますね」これが少々不敬な願望だった。

妃殿下ご自身で養育すれば、ベビーカーはどこの製品、衣類はどこの店,帽子はどこのブランド、と世の婦女子は騒がしかった。そこで世俗では嫁が義母の車椅子を押している微笑ましい姿を見倣ったら保護費も抑えられ、家族のきずなも強くなるとトンチまがいに考えた拙意だった。

陛下を活用することを過度にタブー視する向きもあります。もちろん政治にコミットすることも問題となります。

でも、御姿、しぐさ、お気持ち、といった人間が学ぶ対象として活かすことは陛下の意にも沿うものだと思います。

よしんば弛緩した政治家や官吏に対して

「政治は目立たない処を慎重に探り、つねに不特定多数の安寧を心掛けるよう」

と、お言葉を発したら、処世の人々は縁に依って来る苦難や煩悶にたいしても、自己における時と縁の巡り合わせだとして為政者に反目しなくなるはずです。

国民が真摯に政治に応ずれば、権力を運用する政治家や官吏も覚醒するはずです。それは国情の雰囲気を変えることにもなります」






卜部皇太后御用掛  小会にて 

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1


それは縁あって日本に棲む人々の心の中に描いている長(おさ)としての立場を認知している世代が存在する間にしか効力がないことです。

次世の御代が変われば威も徳も薄れるだけでなく、認知すら軽薄な関心しか持てなくなるかもしれません。

欧米のような私生活のスキャンダルやファミリーへの愛着はあっても、畏敬の存在ではなくなることもあります」

動物でも群れの長(おさ)を失うと羊飼いに連れられ、犬に追い立てられる羊のようになります。

郷や国の防衛とて、武器道具を揃え、財を駆使しても人々が連帯を失くしたら、防衛力は弱くなります。

なかには「小人は財に殉ず」のごとく、危機を察知したら責任回避するものも出てきます。

また、間諜も現れます。その内なる反省は70年前に体験しました。」

筆者がせめてもの皇室の「奥」に職掌を持つ卜部氏に対して答えを必要としない呟きごとであった。毎年のごとく節期の激励文をいただき、小会(郷学研修会)の道学に添い、天聴(天皇の知るところ)に達しているかのように至誠ほとばしる督励清言は、あえて意を表すことに逡巡すらなかった。また不遜にも卜部氏を通じて、゛あの御方ならわかっていただける゛、そんな下座からの気持ちだった。

そんな想いも世俗に晒せば、「自由と民主の時代に・・・・」との誹りもある。
その自由と民主の仮借がさまざまな分野に善くない影響を与えているから問題なのだ。

どうも表現が今風でなく稚拙らしい。仮にも定説なるものとアカデミックな論拠を書き連ねれば、いくらか数値選別エリートの反駁にも贖えるのだろうが、そこまでの知能力も耐力もない。いや、関わりになると問題がより複雑になってしまう危惧もある。







  義士 大塩平八郎


江戸、天保の頃、飢饉が襲った。江戸の役職や御家人は強引にも地方から米の上納を図った。江戸御府内という体面もあったが、物が動けば利を生ずるように、お決まりの御用商人と担当、責任官吏の賂も問題だった。私塾洗心洞を主宰し、かつ奉行所与力職にあった大塩平八郎は道学の士を募って豪商の打ち壊しを義行した。

令和のコメ不足に比べると   

減反をすすめる政治政策  国内は不足だが海外輸出は伸びている不思議

 

以下ウィキペディア転載

≪前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。≫

 


中央 安岡正明講頭  右 卜部皇太后御用係  於 郷学研修会

 

それ以前の天明の飢饉には一つの出来事があった。
庶民は、幕府は頼りにならないと京の天皇に直訴した。天皇の忠恕心に委ねたのだ。

光格天皇は窮状を知り即座に備蓄米を供出を幕府に問うた。率先して動いたのは後桜町上皇だった。

いっときは一日に三万人の庶民が御所に集まり、周囲約一千メーター余りを周る「御所千回周り」を行なった。

御所の周囲を流れる溝を掃除して清水を流し、上皇は数万個の果実を配った。他の宮家はお茶などをふるまった。

そのお姿は、その後代の孝明、明治とつづく天皇の現示的イメージとして、大政奉還、討幕維新と流れる時世を暗示する天皇の仁を添えた賢明な行動だった。






後桜町上皇



元々は民生の政治は幕府専権である。天皇が備蓄米の供出を関白をとおして京都所司代に命令を伝えることは禁中並公家諸法度に触れることであり、大問題になることだった。

その後、大塩の決起があった。天保は仁孝天皇だった。天皇は天明の件を一例として関白は京都所司代に対して救済策をご下問している。ここでも江戸の幹部用人の無策が露呈している。

江戸幕府ができてから朝廷が幕府に物申したのも初めてだが、しかも天皇をはじめとする上皇や公家の積極的救済は、たとえ「禁中並公家諸法度」という制約があったとしても、民を救済することに何ら幕府に遠慮することなく、怯むことのない皇道(すめらぎの仁道)を顕示する叡智と剛毅がある。



 

平成天皇が鑑とした光格天皇




そもそも存在する立場の役割として、民もその姿を認知し、かつ深層の情緒に溶け込んだ姿は普段の民生には隠れた存在だ。施政は幕府専権であり責任ある為政者だ。勤労の果実は年貢として徴税する。

しかし、一旦事が起こっても何ら問題意識もなく、埒外な政策しか執れないようでは、民は天皇の威と忠恕心にすがるしかないと、当時の民は考えた。そこに意が向くことは当然であり、今でもそれは威能は有し、行動は可能だ。なぜなら民の存在を大御宝(オオミタカラ)と称し、その民の良心の発露である「人情」無くして国法は機能しないからだ。制度はともあれ深層の国力である人間の情緒性は、政治機能とは別の意味で、直接的黙契の関係が厳然としてあるようだ。

幕府用人とて慣習とはいえ綱紀の緩みに対する問題意識すらなく腐敗堕落して、迫りくる欧米列強の植民地を企図する勢力との対応にすら窮するようになった。

現状追認、後回し、事なかれ、責任逃避、そして下剋上。

それは平成の御世に再来した現状とあまりにも類似した集団官吏の姿ではないだろうか。

しかも、その甦りなのか縁の再復なのか、天皇の姿が明らかに変わってきた。いや、変わったのは市井の人々の覚醒と蘇りへの愛顧なのかもしれない。








震災地への巡行、戦災慰霊の旅、津々浦々の市井の人々との交流、そして再び惨禍の兆候を察知したような言辞と国民への配慮は、あの大塩の抱いた正義と忠恕による人心の安定を共に願い祈る、皇祖仁孝天皇の宗旨(皇宗)に沿う、意識の伝承のようにも映る御姿でもある。

世俗は家族を基とした内外の社会生活に煩いを多くみるようになった。生産や消費、そして成功価値の変化や人生到達への茫洋さなどが混在して将来すら計れなくなっている。それらは苦情やモンスターと称される表現でしか表れる姿ではなくなっている。

当時の大塩とてそのような世情の姿に決起したのではないが、掴みどころのない浮俗ともおもえる時節に、問題意識を描く諸士は少なくはない。さりとて、゛どうしたら゛と暗中を模索するのみだ。





上賀茂


そこで筆者は今上陛下の発する大御心に沿うことを提案する。それは真似る、倣うことでもある。

応答辞令、仕草、言辞、様々だが、先ずは慎重に意志を読み取るべく鎮まりのある行動をすべきだろう。だからと言って崇拝主義やファン気質になることもない。姿を見せて膝を折り語りかけるだけで我が身の変化を感じられることの不思議さを我が身に問いかければよいことだ。宰相が百万言を弄しても届くことのない我が身の是非の感覚を探ることだ。

それが、普段は感じられることでなくてもよいが、何かあった時に想い起していただきたい存在でありたいとの応えに対する市井人のほどよい立場だろう。そして即位の宣誓に「憲法を遵守して・・」と、厳明した言葉を公務に嘱する人々に最も理解してほしい。

民主主義を仮借した政治なるものが、運用者たる為政者によって暫し混迷している時世に、国民は、゛あの御方ならわかってくれる゛それを護ることに何の衒いもない国民は多いと思う。

だからこそ形式的認証であっても、その受任者たる輔弼(政官)を教化して欲しいと、またもや依頼の心が興るのは自然の姿ではないだろうか。今ならまだ間に合うと思うのだが・・


一部、参考資料は関係サイトより転載。イメージも一部同様に転載しています

浮世はなれした切り口ですが、ご感想はコメント欄にいただければ幸いです。

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山田純三郎の仲介による、幻の毛沢東、蒋介石会談

2025-06-08 16:02:36 | Weblog

           末長節 頭山満 佐藤慎一郎


                 http://sunasia.exblog.jp/7292498/



滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 
大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は青天白日旗を降ろせという。ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。
 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は今の福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。


  「桃李」   桃李もの言わず、下おのずから路を成す。
  人も徳が高ければ自然と人々が集まって付き従う(講談社編)

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東条英機と積善の宿  あの頃

2025-06-06 16:21:44 | Weblog



上毛の湯宿は伊香保、草津など全国的に名高いものが多い。その中でも上野ノ国 四万温泉には古くからの旅館が軒を並べ、今でも都心からの湯治客を多く招いている。
病気の回復治療や、近在の軽井沢より以前に拓けた避暑地として、政経人、文人などが、清流を渡る風によせて一刻の思索と風雅を愉しんでいた。

病は気からというが、地中の陰気を含留する温泉と地上の陽気が、山間に寄り添う大小の木々の間をわたる爽やかな風に調和して浮俗の邪気をとき放してくれる

奥まったところに積善館という宿がある。宿の名前からして、さぞ創建者の教養は素晴らしいものであった事だろうと想像する。

善を積むことは、不特定な利他への貢献に加え、子孫に大きな恩恵を遺すことは我国の道徳的規範の徳行として、戦前の教養には欠くことのできないものであった。

゛善とは何なのか゛などと、文字の前提理解で留まってしまうような、いまどきの教養とは異なり、諮りごとなど微塵もない自然界の小宿だからこそできる積善の作業だったに違いないと察するのである。

本館上手の山荘には贅を凝らした部屋が並んでいる。贅といっても華美ではない。
積雪が豊富なせいか屋根は亜鉛葺きで軒も長めに突き出ている。
部屋は書院と床の間が大きくとられ、角部屋の回りには畳廊下を隔てて雪見障子が二方を囲んでいる。
欄間は銘木の透かし彫り唐模様、玄関の上がり間と居室には直径三尺ほどの円窓に竹が組み込んである。

この部屋の独り客人となったのだが、聞くところによると開戦時の総理大臣東条英機氏や後藤新平の常部屋だったという。

先晩、お孫さんの由布子さんと英機氏を話題にしたばかりなので妙縁を感じざるを得ない。どうも寝られそうもない。あの戦争の開始と終結を拙文に記したばかりであることと、某新聞社の依頼で出版の勧めが現在あるのも手伝っているからだ。
帰郷後は専門家との対談も予定に入っている。

なんという巡り合わせなのか、しかも独りで静寂のなか清流の音だけが耳に伝わる
あの当時の日本に倣って、いまの日本を取り巻く暗雲と、その行く末を考えてみたい。

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煙草の話 「格好よく吸うべし」  12 1/28 あの頃

2025-06-04 23:37:43 | Weblog




ベンガルこども新聞 「キシロチェトロ」1月号転載 日本特集




ちかごろタバコといえば健康が問題になっています
また、タバコが嫌いな人、好きな人など感情の問題もあります
するとタバコを吸う人は悪い人、吸わない人は良い人と、人の心は移ってきます
ところが、世界中からタバコは無くならず、かえって人の好みに合わせてたくさんの種類が作られ、その税金は国の金庫を潤しています

日本ではタバコを「煙の草」と書きます  英語でもsmoking、煙です 🚬 シガレット
むかしはタバコにも色々な文化があり、戦争に行く兵士や労働者のポケットにも必ずといってよいほどタバコとマッチがありました。米兵はラッキーストライクにコークです。

家ではお祖父さんが煙管(キセル)でタバコを吸っていました。それはタバコが休息の合図であり、仲間と楽しむものだったのです。
少ないときには一本を分け与える友情もありました

映画ではスターが格好良く吸っていました。美味しそうに吸う女優は素晴らしい演技だとほめられました。それは生活であり、普通の動作だったのです。
マナーもありました。煙は人に向けない、車の中で吸わない、投げ捨てない、それを守らないと一人前の大人として認められませんでした
それは生活に溶け込んだ人々のマナーの交流でした

売ることも、止めることも、すべてがキャンペーンという宣伝です。
でも、そこに人の交流を支えたり、補ったり、認め合ったりするためのツールも必要です

そんな小さな楽しみだからこそ、互いを認め合うマナーが大切なのでしょう


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「人間考学」より 自己憲章のすすめ (再掲載)10/6

2025-05-28 01:36:27 | Weblog

「歴史は人から人への精神の流れ」東京工大 芳賀教授 産経正論欄より


「人間考学」

たかだか人間の問題である。

また、そう考えることが此処でいう「人間考学」の端緒でもある





聴き慣れないことだろうが筆者の奨めである。

とくに「伸ばす」「省く」を目標として掲げ習慣化することへの薦めである。

たとえば理想とすべき人物の座右を借用するもよし、感度とオンが馴染むと造語するもよし、それを自己流に、しかも能力の足らないところの目標でもよし、気の付くところへ掲げる薦めである。

よく心に銘記すればいいとはいうが、さしずめ携帯の待ちうけ画面に芸能人やペットを添付するように人生針路として活用したらどうだろう

安岡正篤氏の「六然訓」を借用して掲げる方もあるが、難しいことを簡易に自分勝手に解釈するより、「あがるな落ち着け」「怯むな」「競うな」「あげつらうな」のような、゛多くの不 ゛や、「無視しない」「深く考える」「知ったら教える」「学んだら行なう」といった、゛多くの善 ゛を多不、多善として銘記したらいい。

あるいは「無名かつ有力」「頭がいいことは直観力」など軌道修正に効果ある文言もいいだろう。


後藤新平は「自治三訣](ジチサンケツ)を自らのに課した


 人のお世話にならぬよう

 人のお世話するよう

 そして報いを求めぬよう


岡本哲人は

「尽くして欲せず、施して求めず」
    (安岡氏は「受けず」と添削)
また、「貪らざること宝と為す」


何ごとも対価にするような風潮に警鐘を鳴らしている。






               






誕生の頃、命名した半紙を貼り付けて期待を託した。近頃では格言カレンダーをトイレに掲げている宅もある。受験には必勝、合格、学業成就などと机の前に親が大書して貼り付けている。

さまざまな願目願望が溢れているが、なんとなく一過性で、回顧すると我欲のオンパレードで、、゛それからどうする゛゛どうなった゛と考えると何ともやりきれない。

よく「夢はなんだ」と問われるが、「恥ずかしくて口に出せない」と応えることにしている。
夢はそうゆうものだと考えているが、夢想も空想も「夢」には到底とどかない代物だ。
つまり想っているうちが夢だからだ。

筆者のような小人が考える憲章は、その想っていることの習慣性を銘としている。

夢想耐用に沿って、到底たどり着けないような、あるいは童心のような無限の夢を抱くようにしている。茶席の年初めの床の間の書は「夢」である。誰かが死の床で「夢のまた夢」と呟いたという。

死ぬまでもち続ける夢を探している。つまり自身に課すことに他ならない。
「己は何処から来て、何処へ行く、そして何者なのか」
ゴーギャンや毛沢東の言にもある。

自由は担保するためにさまざまな行為を課す。民主は己が主であることの継続を課す。

民主、自由が謳われる囲いの中で、バナナの叩き売りの如く「裏も表もバナナ」に誘われ、ひと房多いか少ないかに惑わされ、巧妙な口上に夢中する。これも夢だ。
いま世情は叩き売りの売り場確保で忙しい。

憲章は自身そのものが解りやすくするために銘とするものだ。

ひとは先ず自身に嘘をつく。実像に耐えられないのだ。
目覚ましのスヌーズのようなもので、まず己に負ける。
酒や異性や仕事の理由にして人生そのものをスヌーズしている。
起床するつもりの目覚ましも反抗はしないが、いつも反省という返りがある。

それが「オレだけではない」「誰かがやる」「別にいいんじゃん」の慣性に陥らないよう、かつ反省の悔しさを味合うことの無いよう、ささやかな自己憲章起草の薦めなのである。

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安岡正篤氏も驚嘆した佐藤慎一郎という人物 再

2025-05-27 01:43:59 | Weblog

杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。

さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスに思い出を乗せたことだろう 

文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

「第宅器物その奇を用せず。有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり」

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間学の存在を認識する。

いわゆる自ずから然りという(自然)と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を自らが解き明かす(自明)という吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙でおぼろげになることも屡だった

 交談は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の姿であった。

もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを観ることはない。

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デモ・クレージーと人物を得ない議会 再々掲載

2025-05-24 01:53:17 | Weblog

                                                       

 

 

ある日のこと白山の自宅書斎で碩学は紫煙をくゆらせて呟いた。

デモクラシー変じてデモ・クレージーになると人物二流でしか議員になれない

 

古典(昔の格言や栄枯盛衰の逸話)を活学することによって世の中の表れる関係性が幾らか解かるようになるが、単なる知った、覚えた類の数値評価や選別では本質は見えない。

もともと人が群れあう中では様々な現象が表れるが、単なる客観的評価や論理では事は動かないばかりか、問題発生に於いての解決はおぼつかない。

 

標記のデモ・クレージーだが、多くは欲望を誘引し虚栄や競争を促すものに安易に乗じ、かつ受益があると錯覚する人間によって起こされる姿だが、ことに一義的にマスコミや政治のせいにするが、自他循環からすれば、それは生きること、活かすこと、死ぬことを基とする人生観を亡失した自意識の内観に因を求めない限り問題すら見えてこない。

つまり、他に関するおびただしい情報や、本(もと)立って道を生ず、といわれる自己の認知や確認をスキップした単なる知の集積では何の役にも立たない。

 

よく、己を知らずして相談なり議論をすると、いつの間にか疑問に対する争論や抗論にもなってしまい、堂々巡りの理解はとどのつまり問題(疑問)の本質は己そのものを知らなかったことに生ずることが多いようだ。コンサルタント頼み、議員の官僚たのみ、占い過信、むやみな情報収集などは、自身の力足らずを他に委ねることに他ならない現象だ。

 

そもそもの政治なるものを語らず、政局なり選挙を政治と錯覚して口角泡を飛ばす庶民の居酒屋談義などはその好例だろう。

 

自他循環とは、自分と他が存在する社会を全体として、その全体の一部分という「分」が互いに干渉しあい、舐めあうように互いの特徴の優劣さを交互させる他人と己の関係を際限のない運動として繰り返す自己愛と他己愛の姿だ。あくまで優劣は自己の認識と他からの認識があり、時として変化するものだが、それぞれの関係はつねに補い合ったり反目しあったりして、定まった認識はなく時々の条件で是非も変化する。

その循環回転はスパイラルのように上下したりするが、前記した自己愛が優先すると循環バランスを崩してデモ(集団)が混乱してダッチロールを起こしたかのように収拾がつかなくなる

 

とくに価値観の錯そうは同じ生活圏である家庭や友人関係、職場においても、あの時は、あの場合は、今と異なる環境などと人間の個体で解決できるものさえ法や内規に委ねるような組織内での個々の分裂を引き起こしている。

教育でもそもそも収斂化されて効ある学派が、異なることを除外排斥して派を構成するようになると、分派された専門域が全体から分裂して、かつ夫々の群れにリーターなりボスを推戴すると全体の用となる学問の意義さえ亡失してしまうようになる。また、全体を統御なり俯瞰視して構想を企図するゼネラリスト的多面的視野、あるいは各分野の関係性を習熟するような人物(リーダー)観の乏しい人ことも因をなすようだ。

 

世の中の集団化されたものとして、政党、役所、企業、宗教、あるいは国籍や男女の性別まで分派されたようにカテゴリーとして集団化されている。仮にその集団に「色・食・財」の本姓的欲望を添加した場合、具体的には多勢を恃んで待遇、便宜、優越性といった欲望を抑制できない状態が現れる。

それが競い、せめぎあい、排除したりすると世の中の現況になることも人々は気が付いている。

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「五寒」 生じて国家無し     

2025-05-21 01:32:54 | Weblog

                 


五寒」生じて国家無し と言われる現象 亡国の兆候

顕著になって現れる姿は、政治、宗教、法律によるものばかりではなく、民族そのものの経年劣化、あるいは循環の妙ともいえるものである。

分かり易くいえば、成功価値や幸福感の錯誤のようなものが人間と複合的社会の関係を考察する座標や、人そのものを観る「観人則」の亡失であるといってよい。

宰相、荀悦が憂いた偽、私、放、奢を表す「四患」もその例である。

以下「五寒」を照らして世俗の現象をみると、普段の情報知識とは異なる切り口でそり問題の本質が浮かび上がる。

つまり自身の置所を変えた新たな感覚による考察が浮かび上がることでもある。



政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀が漏れる ゆるむ

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。








女(ジョ) 厲(ライ・レイ)  なぜか国家の衰亡期には女性は烈しくなるという

平成19年(2007)幕開けは二つのバラバラ死体事件と恒例の政治家と金にまつわる話題が各種マスコミ媒体を賑わした。
格差社会、年金、憲法と鎮まりのない議論とかいう、言いたいことの争論が社会の耳目を集めているが、刑事ものの探偵宜しく枝葉末節な推論に大衆も口角泡を飛ばして参戦している。

まるで末世の騒々しさの様相である。忌まわしいことではあるが、これほど多種多様な犯罪が日夜行われると社会や国家の真の存在意義を問いたくもなる。

 政治課題として憲法改正、教育基本法改正、郵政民営化、道路公団改革など、それぞれ政治家、官僚、有識者、専門家といわれる人々が掲げる国民の為、国家百年の計などという大義が部分の埋め合わせ論となり、かつ人間の欲望が混迷の種となり、社会全体の風儀や人の情緒を喪失させ、総ての根幹であり政策の大前提である人心の安定と調和がとれない、いやその在り所さえ判らなくなってしまっているようだ。

 また、そのような切り口にある問題の掲示を、観念的、具体性がない、はたまた科学的根拠が希薄であると、問題解決の前提である人の「意識」や「直感」を生み出す俯瞰性や下座観、あるいは時の経過から推考する考察を遮断するために起きる先見性の欠如に加え、他との調和に欠かせない譲り、委ねることの前提となる「礼」と「分」を否定する争論に陥っていることも大きな因となっている。







つまり、「部分は全体を表さない」というハイゼンベルグの論を人間学的、社会的にも実証しているかのようです。簡単に云えば、選択したものに間違いがあれば、言い訳を生じ、イヤイヤ選択したものの失敗は文句を生む。それゆえ選択に伴う責任を回避して無関心を装う大衆が増え、自らが全体の一部分であるという存在すら希薄になる現象である。

これが愛という共通語によって最小限のパートを組む夫婦はどうだろう。
愛といっても財、家屋、地位、学校歴、美麗、はたまた自らの自己愛を充足させてくれる存在などあるが、ここでは一般形式を満たした夫婦を考えたい。
2005年、浮俗では既婚者の男が女を殺害する件数は一年間に80件、逆に女が男を殺すのは120件、つまり三日に一人は夫が妻や内縁に殺害されている。

理由はさまざまだが、総じて金、嫉妬、ではあるが、近頃ではプライドを汚されたという理由も多くなっている。殺害の仕方も焼殺、切り刻むバラバラ殺人、あるいは食事に混入した毒物など女性らしくも、いやそれもより巧妙になってきている。

 昔は独占欲から別れ間際の殺人だったが、近頃ではドメスティックバイオレンスでも離婚せず虎視眈々と復讐の機会を探るという陰湿な犯罪が増えている。
この他に幼児虐待から殺害、子供の親殺し、あるいは兄弟姉妹同士の殺害など枚挙がない。






あの大江戸八百八町といわれた江戸でも武士は二本差し、渡世人、用心棒はドスを懐に入れていたが、殺人事件は数えるほどしかない。なにしろ殺人があると半年ばかり街中の話題に耐えたとも言う。幕府開設当初8割の男子は独身だったせいもあるが、あのゴールドラッシュの西部劇を見るようで女性は大事にされていた。たまに長屋で祝儀があれば「内の女房は何々家の腰元さがり」「前は大店の女で・・」などと自慢さえしていた。いくら女性が少ないからといって、御手つきばかりではなかった筈だが、それも出自のブランドだった。

 厳然とある士農工商という役割区分は夫々のエリアに調和をもたらしただけではなく、個々の嫉妬、怨嗟など軋轢や混乱の因を吸収できる楽天さがあった。
 
 また無常観という諦観が、「分」の矜持に似て存在していた。それはお上の権威もさることながら、村八分に代表される陋習(掟、慣習)や、支配者や長(オサ)の学問や規範が今のように多様ではなく、ごく自然に受け入れられる人心の素地があった。

また各層を総覧する支配階級には儒教やそれと一体になった山鹿素行の武士道得、または地域の実利学である郷学、塾が庶民の身近にあったことが、よりその有効性を高めている。力や権威とはいうが、力が財、学校歴、資格、という名目唯物ではなく、強いものの忠恕や庶民の人情が、あの大岡裁きに見るように官民一如であったことも否めない事実だ。加えて共通理解の淵が可能な範囲にあったということだろう。







翻って民主と自由を掲げるシステムではあるが、これほど個々の人々が乖離することになるとは・・、いくら欲望のコントロールが効かず、かつ助長させる外的要因(宣伝、思想)があったにしても、これほど人の心の自制心が弱いものなのか・・、ときおり強権のささやきが欲しいものだと思うことがある。

あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵は武士の強権によって捕縛したもの(虞犯、無宿物)を、石川島の寄場に集め殖産(手に職をつける)事業を行い、忠恕(権のもつものの優しさ)を添えて訓導している。

夫婦においても、官民においても触れ合う距離感が掴めなくなっている。自己喪失という難解な問題を身近に相対する人なり組織にリンクするにも、対象との位置感覚の境がおぼろげになる分裂した自由意識は、自発的な制御の在りどころさえ喪失して、他からの強制なり意識を超えた驚愕でしか解決がつかなくなっているからだろう。鼠の集団入水や天変地異を想起するような考えが起きるのもそのためだ。






なかには北朝鮮に描く強健国家の強制規律や貧乏と思われる環境に、我国に蔓延する怠惰な民情に起因する人々を矯正体験させたらいいとの片言があるのもその意があるようだ。

半知半解な自由意識や、己を知らない人権意識はとてつもない負荷エネルギーとして社会の融解を助長させている。殊に消費資本という主義システムを甘受した国家は、すべからず欲望のコントロール如何によって人々は時の集積(歴史)を分断忌諱しつつ、主である自身を時空に浮遊させるようになる。

また消費資本の発するバーチャルなプロパガンダ(宣伝)は、人々の表層知識を充足させることはあっても、人間関係に必須な人情の養いになるであろう、思索、観照の鎮まりにみる情緒性を陳腐なものとして廃棄してしまう。

犯罪に置き換えれば信頼に値しない関係、それも自己の都合の上のことが原因で犯罪や腐敗を誘引していることが多いことに気付くのはそのためだろう。単に法に抵触するなどの類ではない、陋規(習慣性、掟)にある善悪区別の迷走であり、成文化された法や制度では到底解決できないステージにこの社会は足を踏み入れたのである。

これも習い事のようだが、似て非なる隣国の永い循環サイクルに基づいた警言に知恵を借りることにする。


以下次号

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