ある日のこと白山の自宅書斎で碩学は紫煙をくゆらせて呟いた。
「デモクラシー変じてデモ・クレージーになると人物二流でしか議員になれない」
古典(昔の格言や栄枯盛衰の逸話)を活学することによって世の中の表れる関係性が幾らか解かるようになるが、単なる知った、覚えた類の数値評価や選別では本質は見えない。
もともと人が群れあう中では様々な現象が表れるが、単なる客観的評価や論理では事は動かないばかりか、問題発生に於いての解決はおぼつかない。
標記のデモ・クレージーだが、多くは欲望を誘引し虚栄や競争を促すものに安易に乗じ、かつ受益があると錯覚する人間によって起こされる姿だが、ことに一義的にマスコミや政治のせいにするが、自他循環からすれば、それは生きること、活かすこと、死ぬことを基とする人生観を亡失した自意識の内観に因を求めない限り問題すら見えてこない。
つまり、他に関するおびただしい情報や、本(もと)立って道を生ず、といわれる自己の認知や確認をスキップした単なる知の集積では何の役にも立たない。
よく、己を知らずして相談なり議論をすると、いつの間にか疑問に対する争論や抗論にもなってしまい、堂々巡りの理解はとどのつまり問題(疑問)の本質は己そのものを知らなかったことに生ずることが多いようだ。コンサルタント頼み、議員の官僚たのみ、占い過信、むやみな情報収集などは、自身の力足らずを他に委ねることに他ならない現象だ。
そもそもの政治なるものを語らず、政局なり選挙を政治と錯覚して口角泡を飛ばす庶民の居酒屋談義などはその好例だろう。
自他循環とは、自分と他が存在する社会を全体として、その全体の一部分という「分」が互いに干渉しあい、舐めあうように互いの特徴の優劣さを交互させる他人と己の関係を際限のない運動として繰り返す自己愛と他己愛の姿だ。あくまで優劣は自己の認識と他からの認識があり、時として変化するものだが、それぞれの関係はつねに補い合ったり反目しあったりして、定まった認識はなく時々の条件で是非も変化する。
その循環回転はスパイラルのように上下したりするが、前記した自己愛が優先すると循環バランスを崩してデモ(集団)が混乱してダッチロールを起こしたかのように収拾がつかなくなる。
とくに価値観の錯そうは同じ生活圏である家庭や友人関係、職場においても、あの時は、あの場合は、今と異なる環境などと人間の個体で解決できるものさえ法や内規に委ねるような組織内での個々の分裂を引き起こしている。
教育でもそもそも収斂化されて効ある学派が、異なることを除外排斥して派を構成するようになると、分派された専門域が全体から分裂して、かつ夫々の群れにリーターなりボスを推戴すると全体の用となる学問の意義さえ亡失してしまうようになる。また、全体を統御なり俯瞰視して構想を企図するゼネラリスト的多面的視野、あるいは各分野の関係性を習熟するような人物(リーダー)観の乏しい人ことも因をなすようだ。
世の中の集団化されたものとして、政党、役所、企業、宗教、あるいは国籍や男女の性別まで分派されたようにカテゴリーとして集団化されている。仮にその集団に「色・食・財」の本姓的欲望を添加した場合、具体的には多勢を恃んで待遇、便宜、優越性といった欲望を抑制できない状態が現れる。
それが競い、せめぎあい、排除したりすると世の中の現況になることも人々は気が付いている。
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