果たして音楽とは耳から聴くだけのものなのだろうか?
この映画は無音であり、言語は手話である。耳の聞こえない聾者(ろう者)たちが自ら「音楽」を奏でるアート・ドキュメンタリーだ。楽器や音声は介さない。彼らは、自身の手、指、顔の表情から全身に至るまで、その肉体を余すことなく駆使しながら視覚的に「音楽」空間を創り出していく。出演者は国内外で活躍する舞踏家から、演技経験のない一般の聾者まで多彩な顔ぶれが集まる。彼らは各々に「音楽が視える」と語り、「魂から溢れ出る“気”のようなもの」から「音楽」を感じるという。手話言語を通じて日常的に熟達した彼らの身体表現は、「音楽とは?」という問いのさらに奥深く、人の内面から滲み出る内なる“何か”へと迫っていく――。
本作は既存の「音楽」の概念を崩し、聾者たちが無音の状態から創り出す「音楽」の映像化を試みた実験的映像詩(アート・ドキュメンタリー)である。監督は聾者の両親を持ち、自身も聾者である新鋭監督・牧原依里。そして、映画『私の名前は…』(監督:アニエスベー)に出演するなど、国内外で活躍する舞踏家・雫境(DAKEI)。聾のアイデンティティーを持つ二人の共同監督のもと、「音楽」と「生命」の新たな扉をひらく。(公式サイトより)
LISTEN リッスン 予告編
⇒公式サイト
渋谷アップリンクで映画を観るのは、おそらく移転後はじめてだろう。いつもトークショーやライヴイベントが開催される1Fではなく2Fに映画スペースがあった。隣ではジェームス・ブラウンのドキュメンタリー映画『Mr.ダイナマイト』が上映されており大盛況。『LISTEN』の方は15人くらいだが、そんなに広くないので気にならない。入場時に耳栓が配布された。座席がハンモックソファになっており座り心地がいい。上映時間になり、慌てて耳栓を付けようとしたら、最初は例によって予告編だった。特に興味を惹かれる作品も無く、少し眠気を感じたところで、いきなり『LISTEN』の文字。先ほど外した耳栓を再び丸め耳の穴に突っ込んだ瞬間、誰かが音量を大幅に絞ったような気がした。一気に無音に近い世界に迷い込む。サイレント映画なのに耳栓を付ける理由は、環境音も聴こえない聾者の感覚を疑似体験するためだと終ってから気付いた。聴覚を遮断すると視覚や嗅覚が敏感になると聞いたことがあるが、実際は眠気が勝利を収めたようだ。画面は美しく、出演者が誰だろうと思わず魅入ってしまう。踊りも素晴らしく、映像芸術の極意を見る想いがした。しかしそれは夢の世界と地続きで、気がつくと夢想の世界に遊んでいた。こういう場合はストーリーの無いことが幸いして、安心して再びドリームランドに旅立った。
LISTENリッスン 予告編 15秒バージョン その1
果たして登場した聾者が演じる踊りや身振りを音楽と呼んでいいのかどうかは判らないが、間違いなく言葉によらない抽象化された表現行為であり、(映画として記録されない限り)瞬間に消え去るパフォーミングアートであった。聾者の視覚が聴覚を兼ねているとしたら、目から入った刺激が脳の本来耳からの刺激を処理するべき部分で感受されているかもしれない。健常者を自称する筆者は同じ刺激を感じることはできない。それでも耳栓により有るものを無しにすることが出来て、別の感覚を体感することとなった。五感の互換性を確立するのは思いのほかハードルが高いのかも知れない。
LISTEN リッスン 予告編15秒バージョン その2
音の無い音楽と聞いて真っ先に思いつくのはジョン・ケージの「4分33秒」だろう。演奏しない行為の時間を"音楽"と言い張る反則技は反芸術至上主義者たちを魅了し幾多の模倣犯を生んだ。
有るものを無しにすることは、無いものを有ることにするよりも簡単だし、有るものを有る、無いものを無いと認めるよりも見栄えが良い。
無から有を生み出すのは創造だが、有を無にするのは破壊である。
あるべきものを無しにする行為はダダイズムの本質であり、無いものを有ると言うのは裸の王様に取り入る卑怯者である。
音の無い音楽を最後に聴いたのは地上10000メートルの飛行機の中だったかもしれない。
五感の感受性
陥穽の完成度
管制はご勘弁
頭の中で鳴り出した歌
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Keiji Haino - 03 Untitled
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