A Challenge To Fate

私の好きな一風変わった音楽を中心に徒然に綴ったページです。地下文化好きな方は見てやって下さいm(_ _)m  

サディ・サッズの思い出~「時の葬列」復活に捧ぐ

2012年05月02日 00時29分33秒 | ロッケンロール万歳!


先日4月30日、27年ぶりにシリーズ・ギグ「時の葬列」が開催された。このギグはオート・モッド主催で1980年代に日本のゴシック・パンク/ポジティヴ・パンク・ムーヴメントを象徴したイベントで、オート・モッドの他サディ・サッズ、マダム・エドワルダ、ソドム、G-シュミット(通称ゲーシュミ)、アレルギーなどのバンドが出演、当時のパンクやハードコア、アンダーグラウンドとは一線を画した独特の美意識と怪しく甘美なイメージで日本のロック界に異彩を放った。

私自身はキュアーやスージー&ザ・バンシーズ、エイリアン・セックス・フィーンドなどイギリスのポジパン系バンドは好きだったが、日本のその手のバンドには興味がなく時の葬列を観に行ったことは無い。ゲーシュミのメンバーが大学のサークルの同期だったので、学祭で彼らのライヴを観たくらいである。その頃の彼らは既にインディーズでレコードをリリースし宝島やDOLLなどの雑誌にも取り上げられており、凄いな~と羨望の眼差しでヴォーカルのSYOKO嬢を眺めたものである。

ゲーシュミ以外ではオート・モッドのジュネ氏が昔やっていたマリア023をマイナーで観たことと、サディ・サッズのライヴをブッキングしたことが唯一の接点だ。サディ・サッズのブッキング?何のことやらと思われるだろうが、それについて思い出話を書いておこう。

1982年に大学に入ってから吉祥寺のぎゃていというライヴハウスでバイトしていたことは何度か書いた。伝説の吉祥寺マイナー終焉後に行き場を失ったアングラ・ミュージシャンや表現者の溜まり場で、当時発行していた「GATTY通信」というミニコミには工藤冬里氏、竹田賢一氏、山崎春美氏、田中泯氏など現在も活躍するアングラ文化の代表格の方々の他有象無象の自称文化人が寄稿している。

バイトとはいっても完全にひとりで店を任される訳で、入場料を集め、ドリンクとつまみを出し、PA/照明の操作をし、演奏時間を守らせ(夜9時以降は音出し禁止とビルのオーナーから厳しく言われていた。毎回これが一番苦労した)、ギャラの精算をし、掃除をして帰るといった具合の何でも屋的な仕事だった。ノルマ制の意味も分からぬ若造にここまで責任を持たせるのだからいい加減な店だった。情報誌にライヴ・スケジュールを載せていたので出演希望のミュージシャンがやってくこともあった。

ある夜ライヴの終わった後、髪を染めた今で言えばイケメンの色白の少年がスミマセンとやってきた。「サディ・サッズというバンドをやっているんですが出演させてもらえませんか」と言う。デモテープを持ってきたかどうか覚えていないが、同じくらいの若造の私は偉そうに「いいですよ、いつにしましょうか」とスケジュール・ノートを出して空いてる日程に「サディーサッズ」と書き込んだ。自分にそこまでの権限があったのかどうかはっきりしないが、彼らをぎゃていにブッキングしたのは確かに私である。そのライヴを観たのも間違いないが、ぎゃていには場違いなロック・バンドだな、と思ったことしか覚えていない。

彼らのバイオを見ると1982年10月結成、とある。私がぎゃていを辞めたのは山崎春美氏の自殺未遂ギグがきっかけでそれが1982年9月1日である。となるとサッド氏がぎゃていを訪れたのはいつだったのか。どうも時間的に矛盾がある。たぶんサディ・サッズはもっと前に活動を始めており、もしかしたらぎゃていがデビュー・ライヴだったのかもしれない。どういう訳か知らないがそれを封印したいのではないか、と想像する。

[5/2追記:当時の私のバンドの録音カセットを見たら1983年10月にぎゃていに出演している。ということはそれまではバイトを続けていたということで、サディ・サッズの結成時期との矛盾は生じない。山崎氏のギグを観てアングラ界に嫌気がさしたと記憶しているが、バイトはその後1年間続けていたようです。失礼しました]

翌年から音楽雑誌で名前を見るようになり、時の葬列に参加、知名度を高め1985年にはインディーズとしては豪華極まりないカートンBOX入LPをリリースし話題になった。



彼らの音楽に興味を惹かれたことは殆ど無いが、青春時代の忘れられない思い出であることは確かだ。

懐かしき
甘美な響き
時の葬列

27年ぶりのイベントは当時そのままの黒装束+化粧のファンで満員の大盛況だったらしい。


コメント
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