ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

京都東山周辺3

2019年05月11日 20時55分57秒 | ウォーキング

おいしいうどんとビールで





この世をへらっと伺ったら、
さあ今度は北向いて歩いて
いくことにしましょう。

今日はここから三条まで
歩いていく予定です。

東大路通から玉水町のあたりで
東山の方に少し入っていきましょう。



石畳の道の先に法観寺の
八坂の塔が見えています。
ああ、この道は京都感が満載ですね。



若いカップルは手をつないで
この坂道を上がるのがいいですねえ。

高齢者夫婦は「大丈夫か?」とか
相手を心配しながら
ゆるゆると歩きましょう。

実際はそのままこの八坂神社と
清水寺の間にある八坂の塔にはいきません。
途中から下川原通を
北上していきます。

右手を見ると、こんな石塀小路と
いうところがありますよ。
ちょっと中に入ってみましょう。



ここはなんと伝統的建造物群保存地域ですね。
あの竹富島や湯浅の町と同じです。
ただここは車も通れないほどの
狭い道が続いていますので、
静かな京の町並みが続いています。





こんな狭い道を遊んで通り抜けて、



また元の下川原通に出ていきます。

少し歩くと大谷祖廟の入り口に



差し掛かり、ここから
ねねの道なんかを見ていきます。

もともと高台寺道といわれていたのですが、
電線地中化工事を終え、
広い道幅いっぱいに
御影石を敷き詰めた
石畳の道に整備したことで、
京都らしい風情の景色と
その名が生まれました。

この地で19年の余生を送った、
秀吉の正室である北政所ねねに
ちなんで「ねねの道」といいます。

でもこの辺の住人は
ひっきりなくやってくる観光客で、
また別の意味では大変な生活ですねえ。

そしてやっとこの辺りから
doironは八坂神社へと
はいっていきます。



ここは四条通の東の突き当り
にある神社で、かつては祇園社
ともいわれていましたが、
明治元年の神仏分離令により
八坂神社と名前をかえた神社です。

そもそもは祇園の始まりとなる神社で、
この辺りで行われる祇園祭にも
強く関連しています。

歴史は古く、平忠盛や息子の清盛とも
深い関連を持った施設です。

今も、祇園と接し、様々な
人間模様の曼陀羅の中で
人々の信仰を集めています。

その境内の片隅にある美御前社の前には
美用水が流れ出ていますよ。



思わず足を止め美用水に
触ってみるミセスなのでした。



道はやがて丸山公園の横を通り、
浄土宗の総本山である



知恩院の前に差し掛かります。
行ってみれば、doiron家の
菩提寺の総本山ということになりますね。
中には入らないけど、
周りからしっかり手を合わせておきましょう。



そこから東大路通りに戻り、
その道を横切って三条の駅を
目指して帰りましょう。

着物を着て観光地を回る人々や
白人の観光客たち。
え?こんなところで写真を撮ってと
変に思ったりしますが、
意外にその目の付け所は新鮮で、
なあるほどと彼らの視点に
驚いたりしますねえ。

町の片隅にある小さな地蔵堂が
はっとするほど
観光スポットだったりします。



三条あたりには小さくて
こじんまりしたおいしそうな
お店が並んでいたりしますが、
この日はもうミセスと
たっぷりと東山周辺を観光したので
そのまま帰りましょう。

歩いたのはだいたい7キロぐらいでした。



帰りもいただいた切符で
帰ったのですが、ひとつだけ
三条の駅の近くにこんな
駅伝発祥の地の碑がありました。



大正6年に、この三条大橋をスタートし、



三日間で東京上野の
不忍池ゴールの大会が開催されたようです。



うひゃあ、果てしなく長い駅伝ですねえ。
松阪で駅のことを学び
ここでは駅伝です。
先日の大河ドラマ”いだてん”にも
この駅伝のことが出ていましたねえ。

それにしても現役のころそんな駅伝が
あったら出たかったやろなあ
とか思いながら、
京都春の散策おしまいです。


京都東山周辺2

2019年05月10日 21時09分39秒 | ウォーキング

いやあいいですねえ。
よくもまあこんな創造的な
絵をかき張りましたねえ。



こんなふすま絵を描く場所
というのはどんなところなんでしょうねえ。
こんな大きな絵をどんな風に
見ながら書いていったのでしょうねえ。
たいしたもんだよ、宗達君
と眺めておきました。

しばらくこんな絵の前でたたずみ、
ゆったりと時間を過ごしましたよ。
さあではまた歩き始めましょう。

ここには「平成の茶苑」
というところがあります。



この寺を作った栄西禅師は
宋の国からお茶の種子を
持ち帰られました。
ここの茶碑後方の茶園は
平成の茶園ですが
この茶をいつも抹茶にして
年一回備えるそうです。
これを平成の茶苑というそうですが、
新しい時代になったら
新しい茶苑を作ったりしないと
いけませんねえ。

令和の茶苑ってなんか
おいしそうな感じですねえ。

さあでは南側の勅使門から出て
東山方面へと歩いていきましょう。





この寺を出て道を南に行くと、
依然行った「六波羅蜜寺」の方へと
行きますが、今日はもうそちらには
寄らずに東の方へと向かっていきます。

こう歩いてどこへ行くかというと、
doironは六道の辻へと向かうのです。

地獄道、餓鬼道、畜生道、
修羅道、人道、天道の六種の
冥界の接点です。

墓地である鳥辺野へ向かう道で
この辺りで野辺の送りをしたことから、
この辺りがこの世とあの世の
接点といわれているところです。

六道珍皇寺というお寺の入り口に
この六道の辻の石が立っています。



ここは小野篁がその接点にある
井戸を使って、あの世とこの世を
行き来したところといわれています。

これがその「冥途通いの井戸」です。



貞子、おっさん版ですな。

そしてこの寺には迎え鐘
という鐘があります。

この鐘は、毎年盂蘭盆にあたって
精霊を迎えるためにならされています。
この鐘の音は、古来よりその音響が
十萬億土の冥土にまでとどくと信じられ、
亡者はそのひびきに応じて
この世に呼びよせられるんだ
といわれているのです。

昔、この鐘には逸話があって、
あるとき僧都が唐国に赴くにあたり、
この鐘を3年のあいだ地中に
埋めておくようにと寺僧に命じて
旅立ったが、留守を守る寺僧は
待ちきれず、1年半ばかりたって
掘り出して鐘をついたところ、
はるかに唐国にある僧都のところまで
聞こえたので、僧都は

「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、
その後は人手を要せずして
6時になると自然に鳴るものを、
惜しいことをしてくれた」
といって大変残念がった
といったそうです。

すごい大音量ですねえ。

こういうあちらの国まで
届く鐘は四天王寺にもあって、
我が家では年に一回鳴らしに行ってます。
義理母さんが、あの世まで
届くんやでえと常にいってたからです。

そんな六道珍皇寺は
今回の歩きのミセスの
目的地でもありました。
鐘は鳴らさなかったけどね。

所によってこういう宗教施設には
様々な逸話が残っていますねえ。
人の信心深さは思いもよらない
話を作ってしまいます。

さあそれでは時刻も正午です。

歩いているとおいしそうな
うどん屋がありましたので、



ここに入ることにしましょう。



いただいたのは、牛すじうどん。



うひゃあ、うまそうじゃないですか。
さらに六道の辻の近くですから、
doironもあの世と通じる
ビールもいただいて、
あの世とこの世を行き来しましょうかね。



最初はガラガラだったのに、
入ってしばらくすると、
大量の外国人が入ってきました。
注文はヌードルっていうのかなあ
とか聞いていましたが、
メニューを指差して指定していましたな。

続く。


京都東山周辺1

2019年05月09日 21時27分55秒 | ウォーキング

年の暮れに中学校の時の友達に
超久しぶりに会った。
そうもう40年以上ぶりだ。

待ち合わせで会ったときは、
お互い年を取ったなあ
と感じたものだが、
すぐに昔の友達付き合いにもどったなあ。

かれがプレゼントとしてくれたのが、
大阪⇔京都の電車の乗車券だ。

「これで初もうででも行っておいで」
といってくれたのだ。
でもねえ、その後にいろいろあったのと
ミセスの花粉症、首Dさんの事
とかあってなかなか行けずにおり、
期限が3月いっぱいまでの
券なので焦っていた。

だがまあ何とかミセスの都合もつけて、
3月末に京都へと
遊びに行くことができたのだ。

今回の目的は、
あの俵屋宗達の「風神雷神図」の
複製が見られる東山にある建仁寺だ。



本物は残念ながら京都国立博物館に
あるのですがね。

まあそんなのはそう
簡単には見れないもんね。
国宝だしね。

とりあえずは出どころのこの
お寺に行きましょう。

家からいただいた切符を持って、
ミセスとともにまずは
京橋に向かいます。
そこからまずは四条駅へと
向かっていきます。

駅から出たら四条通にでます。
そこが八坂神社の参道です。



東の方を見ればずっと向こうに
八坂神社の山門が見えます。

平坦な道が続いていって、
その山門を登る階段が
東山の入り口です。

南座を眺めながら歩いていると、
仲源寺に出ます。



ここはねえ「めやみ地蔵」
といわれています。



もともとは、
「鴨川を管理するための
“雨やみ地蔵”」だったんだそうです。
それがいつの間にか言葉の綾で
「めやみ地蔵」に変わったという説と、
仲の地蔵さんの目が
充血しているように見えるので、
世間の眼病を背負っているから
目にいいのだという
説の二つがあるそうです。



まあdoironも最近は、
ブログやお絵かきで目が
疲れることも多いので、
しっかりとお参りしておきましょう。
そしてその先にあったのが、
花見小路という通りです。



まあ行ってみれば祇園の
花街の通りですね。

その通りの入り口にあるのが、
いまも料理屋として活動されている
「一力」というお店です。



紅殻の壁に犬矢来があります。
一力茶屋といえば、
大石内蔵助が遊んだ
といわれる有名なお店です。



その横を今は奥にある
建仁寺を抜けて歩いていきます。



この辺りに来ると、
着物を着て刊行している人が
多いですねえ。

外国人も多いかな。

そしてこんな横の通りのところには、
舞子のいる「お茶屋」さんや
料理屋さんが多いそうです。



以前のブラタモリでも
紹介していましたねえ。



ここのお店には入り口に
「四条小橋」なんていう
橋脚が置かれていたりしていますよ。

昔からのお店かなあ。

多分一見さんお断りなんでしょうねえ。
そんなお店には多分一生
入ることはないでしょうて。

さあ、花見小路を200mほど行くと、
本日の目的地である「建仁寺」に到着です。



入っていきましょう。
あ、こんな看板が立っていますよ。



小泉淳作の「大双竜図」
公開中と書かれています。

この人はさほど古い人ではありません。
7年位前に亡くなるまで
活躍されていた日本画家です。

この人の書いた天井絵が見れるそうです。
それがこれ。



製作は北海道の廃校になった
体育館で2年かけて書き上げたそうです。

何も知らずにこの部屋に入ってきて、
上を見上げたらこんな
龍がいたりすると驚きやろねえ。

龍が「阿吽」になっています。

ここにはほかにも海北友松の
襖絵なんかもあります。



これ。なんかこの寺院は、
宗教的なことよりこんな
絵画で人々の心を
動かしているのかもしれませんね。

そして奥の方の部屋に入っていきますと、
ありましたよ。
あの俵屋宗達の風神雷神図のレプリカです。



この風神雷神図は
もともとは宗達が描いたもので、
光琳などにより複製画が
多く書かれています。

続く


9代目髭剃り導入

2019年05月08日 20時57分57秒 | 生活

最近どうも髭剃りの調子が悪かった。
ひげをそっていると、
突然充電が切れたりする。

まあ電池そのものの能力も
落ちているだろうが、
結構厄介な現象である。

急いでいるときにこんな現象が起こると、
ひげが半分そられないまま
出かけていくことになる。

以前、町会のお掃除会に
半分剃って出かけたのだが、
これが意外と誰にもばれなかったことはある。
いやあ、ばれてたのかもしれんなあ。
「あいつはひげをそり残してるぞ」
と後で噂になっていたかも。
いやあ連中だったら後でそんな話をせずに、
面と向かって本人に言うかなあ。

まあとにかく何も話題になったり
することはなかった。

充電は急速型なので、
掃除が終わったらちゃんと刈り取りました。

最近は、充電が弱くなってきたなあ
と思ったら、そうしていいのか
どうかわからないが、
頻繁に充電をしていた。

ところがねえ、最近はもう一つ
困ったことが起こり始めた。

満充電していても、
髭剃りが時々ひげを噛みこんだまま
泊まるのだ。
最近は髭剃り回数を減らしている、
ていうかもう面倒だなと思うことが多い。
祭りのときなんかは
剃刀を当てないようにとか言って
ずぼらをかましていたりしたのだが、
最近は面倒だということで、
ちょろちょろひげを生やしている。

まあミセスは
「ひげはやしてもええんとちがう」
とかいうのだが、
歩き友達やジム友たちには
「もっとしっかりせなあかんよ」
とか言って攻められたりする。

剃っても、伸ばしても
周りにいろいろ言われるのだ。

doironはというと、
なにもおしゃれでなんて言う気はない。
もしそうしてはやすんなら、
かえって手間をかけないと
いけないんだろう。
まあそういう手間はちょっと
ライフスタイルには合わないだろう。

ていうわけで、気が付いたら
ひげをきれいに剃るのだが、
その時に噛みこんだりするので大変だ。
これは痛いよ~。
一瞬ああ、これで地球が破滅するんだ
というような痛みが、
顎面で発生する。
伸びていることが多いから
なおさらなのかもしれないけどね。

これはどうもモーターの回転力が
弱くなったからなのかもしれないとみた。
なので、できるだけ細かくモータに
関する部分を掃除したり、
循環材を付けた綿棒で
整備したりしたのだが、
どうも改善がみられないのだ。

バッテリーの能力が落ちたのか、
あるいはモーターに不具合が
起きてきたのかどちらかだろう。

このブログでこの髭剃りを
いつ買ったのか調べてみると、
2007年の2月に、
doiron史上8代目の髭剃り
ということで勝っていたのだ。

もう12年以上前だね。

ああもうこんなに使ったのなら、
もうお役御免かな。
9代目の髭剃りを導入しなきゃと、
先日電気屋さんに購入に行ったのだ。

髭剃りは乾電池式から充電式、
2枚羽から3枚羽、
そして回転式と進化していき、
前回の姿になっていた。これ。



あの時は剃り残しなしを
売り文句にしていたのだ。

そして今回はこういうのを買った。



葉の形は前回と同じなのだが、
より肌への負担が少ない
というのが売り文句だそうだ。

まあ高齢になってくると、
顔のお肌も弱くなったり
いろいろと変化が現れるので、
これでいいではありませんか。
もうこれでキムタク状態は保てますね。

値段もまあまあ手ごろですしね。

早速購入し持って帰って
充電をして使ったら、
なかなか気持ちいいひげ剃りでしたね。
よかった、よかった。

ただねえ、あとで気づいたのですが、
今回の髭剃りには前の機械のような
もみあげ剃りが付いていないのです。
これはすっかり失念しておりました。



最近は自分で髪を切ったりして、
虎狩になったりもしているのですが、
もみあげはこの髭剃りで
きれいにしていたのです。
なので仕方ありません。
以前の髭剃りも
もみあげ用に残しておくしかありませんね。

こうしてdoironの髭剃りライフも
新たに始まります。

年はとっても、できるだけ
きれいにしておかなくてはねと
おじいさんは思っているわけです。


待ったか松阪5

2019年05月07日 20時37分39秒 | ウォーキング

展示物を眺めていると、
突然「ガチャン」と大きな音が鳴りました。

え~これは地震やあ。

と思ったら奥の事務室から
女の人が飛び出してきました。

え~僕が暴れたんじゃないよ~
と言おうと思ったら
「地震ですねえ」と
飛び出してこられました。

展示物も被害を受けて
いるわけではありませんしねえ。
と思っていたら、
ミセスからメールです。

「地震やで。海の近く歩いてないの?」

というものでした。

「ああ、山の上の展示館にいてるよ」
と言ったら残念そうに、
ではなく安心して答えてましたね。

緊急地震速報が入ったそうです。

余震に気を付けつつ、
展示物を眺めつつ、
こんな額縁なんかも
ちゃんとくっついてました。

松坂じゃ、震度2くらい
だったかもしれません。

心も体も震わせた記念館を出て、
城山を下りてゆきましょう。
次に行くのは「本居宣長の宮」
という神社です。



ここはまた少し山のように
なっていますので、
ふうふうと登っていきますと、
これが宮です。



祭神はもちろん彼ですねえ。



そしてそこにかかれている
平田篤胤は夢の中で
宣長に入門を許された
とした宣長没後の門人として
国学を学んだ人なのだ。

お邪魔していますと
お参りをして、次に
松坂神社へと行きましょう。



ここは八幡さまと稲荷さまを
主祭神とする神社です。
こちらが地域の神様を
守る神社ですねえ。



さあ、かなり回りましたねえ。

帰りも車でひらってもらう
となったら、急がないと
いけませんね。

飯を食う時間もなさそうです。

歩いていると、
こんな看板が目につきました。



ああここが梶井基次郎が
住んだ姉の家ですねえ。
この二階が彼の創作の場
だったんですねえ。



「城のある町にて」
青空文庫なんかで読めますから、
いちど検索して読んでみてください。
つくつくほうしの
鳴き声のくだりもありますよ。

ここから街の中を
どんどん進んでいきます。

大蔵省から銀行頭取となった
地域の名士「原田二郎」の
旧宅なんかも残って
のぞけるようになっています。



まあこの辺は城以外の
松阪の観光を少しでも
盛り上げていこう
という感じですねえ。



そこから駅前道をこえて
入っていったところが



「来迎寺」です。

ここは三井氏の菩提寺だったところです。
角大使なんかのお守りを
配布していますねえ。



そして、近くにあった樹敬寺には
あの本居宣長のお墓があったりしました。



さあこれでまあ、今回の歩きコースの
名所めぐりは終わりです。

時間も帰るのにちょうど
いいくらいですね。

駅の方まで戻っていきましょう。



本日歩いた距離は約8キロとなりました。

ここで電車の時間によっては
軽くご飯とかも考えたのですが、
ちょうど10分後に出る
電車がありましたので、
お弁当を買うことにしました。

駅の駅弁売り場に行くと、
さすがに松阪牛の弁当が
いくつかあります。

doironが買ったのは
「モー太郎弁当」です。



松坂名物、黒毛和牛のすき焼き弁当です。
これを帰りにひらってもらった
車の中で食べて帰ることにしましょう。

千里の駅に着くと、
ほぼ時間通りでうまく合流し、
さああとはもう帰るだけです。
友達もいい食事をしてきたようなので、
許しを得てここから昼食です。

車に乗りながら、
弁当つつきながら
帰宅って最高じゃないですかあ。
おまけにコンビニで
ビールまで買えました。

さあでは弁当を開けましょう。
ウヒャーこんな感じです。



しかも牛の形の弁当箱を開けると、



電子メロディで「故郷」の
音楽が流れます。
なんとまあ凝ってますねえ。



中身はというと、こんな感じ。
これはおいしい
すき焼きでしたねえ。

春の田んぼや、西名阪の山の
景色なんかを眺めながら、
遅い昼食を楽しんだのでした。

次回は5月にまた行くそうですから、
邪魔にならんかったら
その時もよろしくねえとお願いして、
40数年ぶりの松阪を
堪能してきたdoironなのでありました。

おしまい


待ったか松阪4

2019年05月06日 21時25分53秒 | ウォーキング

ここにはほかにも、
先程歩いたところにあった
商売人長谷川氏の商売の軌跡や、
梶原基次郎の作品
「城のある町にて」を
松阪に住む姉の家で一か月かけて
書いたことなど、
松阪市にかかわる展示が
結構ありました。

それから、松阪は木綿の栽培が盛んで、
それを藍で染めたものが
発達していました。
ジャパンブルーといわれた
藍の故郷でもあったのですね。



それから、これは昔の人の
様々な道具みたいな
展示でしたが、
ブラウン管テレビ、ミシン
たらい、洗濯板、こたつ
湯たんぽ、七輪、アース
ウヒャー、どれも
子供の時に触ったことのあるような
ものばかりだったのは、
少しショックでしたねえ。



そんな資料館を出たら、
今度は本居宣長記念館の方を
目指して城跡の中を進んで行きましょう。

城の入り口の方に少し戻って
また山の上の方に上がっていきます。
もともとこの松坂城は
四五百森(よいほのもり)という山に
城を築いたという平山城といわれています。
そこに立派な石垣を築き
城にしたものです。

松坂藩廃藩の後は紀州藩の城として
おかれてありました。
しかし1644年に台風で
倒壊したといわれています。

城の中の地形はいびつですが、
城跡のあったあたりはこうして
高台になっており、そこから
街の景色がよく見える構造に
なっていますねえ。



松阪市の人口は約16万人。



面積も広いのですが、
町の部分も結構発達しています。



二の丸跡あたりには
小さな売店もありましたねえ。



そんな城跡をのんびりと
歩きながらグルリンと
時計方向に回っていきますと
本居宣長記念館の方へと回っていきます。



ここにあるのが宣長の旧宅です。



本当は先ほど訪ねた
旧宅にあったものを
ここに移転させてきているのですね。



床の間の柱に掛鈴をつるして
いたので、別名「鈴屋」と
いわれていたそうです。



そこを出て少し歩くと、
あったのが立派な本居宣長記念館です。

まあここは松阪の中心の記念館です。
入っていきましょう。

そもそも本居宣長ってだれ?
という人も多いでしょうねえ。
名前はよく聞くのですが、
どんな人か知ってるかと言いますと、
お札の肖像画に使われた人・・・
ではありませんね。
残念ながら使われていません。
そうそう切手には使われていましたね。

でもまああまり実績を
知られた人ではありませんね。

記念館で調べていきましょう。

まずは彼の年表がありました。



72年生きて、なんと彼には
生まれた日からの日記があるそうです。

そうそうそういえば、doironにも
49歳からの日記というか
ブログがありますねえ。
最近は、ちょっと忘れていた
このブログの収集にかかっています。

5年間ぐらいを集めなければなりません。
一か月でA4サイズで
250枚くらい。
1年で3000枚。
5年で1万5000枚。
トータルで20万くらいですから、
もしかしたらそういう点では
本居宣長をこえているかも
しれませんなあ。へへ。

年表をよく見ると、
驚くべきことがひとつあります。
なんと彼は、11の元号を
生きていたのです。

昔の人は元号が短いから
そうだったかもしれませんね。

doironなんか今でやっと
3つの年号を生きただけやもんね。

その次にあったのが、
彼の地方での交流です。



実にいろんなところで
いろんな人たちにあってますねえ。

まあdoironもあちこち
歩いていますが、こんなに
人の交流があったわけではありません。

地元では濃いですけどね。

面白いのは富士山に登ったこと。
22歳だったそうです。
doironは28歳の時でしたねえ。
あの時に買った小物入れ袋を
今も使っています。

飛鳥なんかを探索したとも
書かれています。

こんな日本地図も掲げられています。



家の近辺をよく見ると、
堺や岸和田が書かれていましたねえ。
そんな展示を眺めていたその時でした・・・

続く。


待ったか松阪3

2019年05月05日 21時33分39秒 | ウォーキング

松阪のマンホールは
本居宣長が好きだった
駅鈴をデザインしたもの
なんだそうです。



じゃあさあ、駅鈴て何?
て思うでしょう。
駅で発車時にならす
サイレンみたいなもの?
というと違うんですねえ。
そもそも電車もない時代の話ですから、
そんな電車駅みたいなもの
ではありません。
駅とはもともとは宿場を意味する
宿駅というものです。
なので、最近はやりの「駅伝」の駅は
この宿場町を表しているんですね。

この鈴を鳴らす人は、
宿場の馬が使えたということで、
宿駅とはこの時代は
「うまや」と呼んでいたそうです。

そんな地元の本居宣長の趣味から
こういうデザインに
なっているんですねえ。

その本居宣長旧居から少し歩くと、
今度は旧長谷川邸がありました。



江戸にいち早く店を持った
松阪の商人の屋敷地と
建造物跡です。

さすがのここは豪商の町「松阪」です。

立派な住居地なんかが
残されているんですねえ。

そこから広い道に出て
前方の松阪市役所の建物を
目指して歩いていきますと、
こんなのぼりばたが立っていました。



そこには「マンホールカード」と
書かれてあるじゃないですかあ。
そこは、市役所の第3分館でした。

ははあ、駅鈴のことが書かれてある
マンホールのカードを
ここで配っているのか。
じゃあもらって帰りましょうと
中に入っていきました。

そのカードの配布場所は
すぐにわかります。
簡単なアンケートを書いて
一枚いただきました。

え~っと、駅鈴とはと書かれて
あるだろうとみてみますと、
あれ?さっきまで見ていた
マンホールとデザインが違うぞ。



担当の人に聞いてみますと、
このマンホールカードの
マンホールは決められた
ところに置いています。
というではないですか。

そのデザインというのが、
この分間の入り口のところに
置かれていたこれなんです。



ああ~松阪牛がメインなのか。

まあ、これだったらわかりやすいよねえ。
しかも牛の首には「駅鈴」も
かかっているしね。

松阪のマンホールのことは
これで完璧に支配しましたね。

では続きを歩きましょう。

松阪の市役所を横に見ながら、



歩いていくと、ここが城の大手門跡。
そう「松坂城」の正面玄関に
あたるところですね。



この城は今は国史跡になっており、
明治の時代から松阪公園として
地元の人に親しまれています。

大手門の先には大きな石垣が
目の前に迫っており、
かなりの急坂ですが
これを登っていきます。



ここが表門のところです。
この先、右は道が左右に分かれていますが、
まずは松阪歴史民俗資料館が
ありますので、そちらに行ってみましょう。

ここはかつて松阪市の図書館
だったのですが、新しい図書館が
別にできたので、その役割を終え、
資料館となったところです。



では入っていってみましょう。

中に入るとこんな看板が立っていました。



この看板の厚みのある
「壺屋紙」が名産品です。
そしてこの「萬能千里膏」の
看板は実はこの字を書いたのが、
池大雅といわれています。

あの蛸地蔵の寺の文字を
書いた人ですね。



そしてこの看板の字も
池大雅だそうですが、
面白い逸話があり、
この看板を書いてもらう
池大雅を待っていたところ、
若い店番が一人でおり、
そこへ通りがかりのうすぎたない人が
「わしが書いてやろう」と
すらすらと書いたそうだ。



それを聞いた店長が起こったものの、
この字もきれいなので
放置してたら、その通行人が
池大雅だったそうだ。

でもまあそういう経過があるので、
萬能千里膏のような
落款がないのだそうだ。

この人の作品の多くは、
重要文化財や国宝として
今も各地に残されていたりします。

ここにはほかにも、
こんな金鳥のみとり粉の
看板なんかもありました。

続く


待ったか松阪2

2019年05月04日 20時51分36秒 | ウォーキング

松阪の駅前から、
商店街を進んでいきます。

ああこんなお肉の店もありますねえ。
松阪肉も売っているようです。
ベルタウンと名付けられた
商店街をまっすぐ進んでいきます。

電柱には「牛銀」と
書かれたお店の看板が目立ちますね。



「和田金」と並んで



松阪の牛料理の店のひとつです。
何となく聞いたことがある
店の名ですねえ。

今日の歩きで近くを
通ったりするのかなあ。
まあ多分あっても、
中に入ってステーキ300gとか
絶対言わないけどね。

大きな交差点で右に曲がり、
よいほモールに入ってゆきます。

少し前方に、高齢者の独り歩きおっさんが
あちこちに興味あるものを
見つけては写真を撮る
というなんか身内のような人が
歩いていましたが、
ついに前方の肉料理屋に
吸い込まれるように入っていきました。

いいなあって感じですが、
doironは負けずに歩き続けましょう。

その先で、松坂城方面が見える



大きな交差点のところに
「豪商ポケットパーク」があります。



外には「参宮道」と「大手筋」と
書かれた道標が立っています。



さんぐう道は伊勢へと続いている
という道ですねえ。
大手筋は松坂城跡につながる道です。

建屋の中に入ると、
ボードや古い写真なんかも
飾られてました。

う~ん、doironが昔に電車に
乗ったのはこんな駅だったかなあ。



全く記憶がないですねえ。
これは脳梗塞の後遺症?
いやあ単なる加齢のお忘れでしょう。

その先には三井高利が生まれ
三井家発祥の地となったことも
書かれてありました。
松坂って結構豪商がいたんですねえ。



そこからさらにさんぐう道を
進んでいきますと、
松阪商人の館というのが
ありましたので、有料ですが
入ってみることにしました。



紙の商人で巨大な豪商だった人に
小津家という家がありました。
この館はその小津家の屋敷を
松阪市が買い、平成8年から
「商人の館」としてオープンしています。

入ってすぐのところに
「万両箱」というのが
展示されていましたよ。



「へえ~」と思いつつ見ていると
係のおっちゃんから声がかかりました。

「そんな箱が埋められてあったんやで」
と説明が始まります。
「ふ~ん。うちの家にはないなあ」
と返していると、当時の豪商の
番付表が出てきて、

「小津さんはここに書かれてあるんやあ」
と説明が始まりました。

店の屋号や昔の絵のここに
書かれてあるとか
まあいろいろと説明がありました。

先ほどの三井家といい、
すごい豪商だったんですねえ。
やはり松坂は伊勢にも近いし
船便も発達していましたから
商売としては、近江商人と
並んで伝えられました。

「近江泥棒、伊勢乞食」

といわれてたほどです。

そんな豪商の家の中の、
蔵や台所を見ながら
この係の人はかなり
丁寧に教えてくれました。

まあ客はdoironだけでしたから
暇だったのかな?
まあ一人で大阪からきて、
この辺を歩き回ってると聞いて、
「よう遊んでるんやなあ。それなら」と、
この係のおっちゃんの心にも
火がついたのかもしれませんねえ。

200円の入館料の元は
取ったかもしれませんね。

そこを出て、坂内川の大橋に来たら
そこを左折し、今度は本居宣長の
旧宅跡を目指していきましょう。
人生の大半を市井の学舎として
過ごした人です。

あ、ここに牛銀の本店が
ありますよ。食べていきますかあ
って、あかんあかん。
便乗して交通費浮かす旅で
これはやはりあきませんな。
パスしましょう。

本居宣長は
そもそもがさっきの豪商である
小津家の次男であり、
金銭的には恵まれた人だったのでしょう。

で、かれは鈴のコレクターで
駅鈴など珍しいものを所有しており、
自宅には「鈴屋」という
屋号もつけています。



ここがその本居宣長の旧居跡です。

ああ、これでやっとこの松阪の
マンふたがこういう模様だった
ことの説明がつきますねえ。



続く


待ったか松阪1

2019年05月03日 21時19分35秒 | ウォーキング

え~もう令和の時代なんですが
歩きはも少し平成の時代の歩きです。
勘弁してねえ~

ーーーーーーー

津、鈴鹿、桑名と
三重県内の市を歩いてきました。

そこまでの交通機関はというと、
ご存知のように友達の仕事の車で
送り迎えされて行ってきたのです。

これまであまり歩きに
なじんでいなかった地域。
そこを歩いてみると
やはりこの地域は海や川、
東海道、伊勢参りなどが
メインとなっていて
新しい感じですねえ。

近辺を歩くのと違った
楽しみがあったりします。

そんな三重にまた再度
送ってもらえる便ができたので、
出かけてみることにしました。

悪いねえ。
仕事の邪魔にならない?
「いやあ、ついでだから」と
あっさりと引き受けてくれる。
いやあ、ありがたい。

したがってこのツアーで
三重県は4回目となります。

今回は松阪まで行くことにしました。
この松阪には以前一度
行ったことがあるのです。
大台ケ原に登り、大杉谷を越え
桃の木小屋で1泊して
宮川からこの松阪まで
降りてきたのです。

あの多雨地帯で雨にそぼ濡れしながら
歩いた記憶があります。
ただし、もう40年以上前のことです。

とっても貴重な思い出なのに、
記憶が薄れてくるのは悲しいね。
できなかったけど
あの当時からブログをやっていたら
いい思い出が残っていたんだろうな。

そんな松阪を今回は
歩いてみることにしたのです。

待っていたかな松阪。

ところでこの「松阪」、
ワープロで打つと「松坂」と
表示される場合もありますし、
お城も松坂城といわれたりします。



これはなにか松阪のいわれと
関係するのかなと思ったら、
やはりそうでした。

松阪を開いた蒲生家が、
縁起の良い「松」の字を
用いるとともに秀吉の
大坂城の「坂」の字をとり
ここの地名を松坂としたそうです。

その後、明治元年に大坂が
大阪に変わったので、
それを受け明治22年に行政区域が
「町」になるときに、
松坂も同じように「松阪」になった
と言われています。

なのでまあ城跡とか明治22年以前の
遺跡には「松坂」の字が
ついていたりするんですねえ。

じゃ、そんな松阪のどこを
今回歩こうかと調べて見ましたら、
松阪市の健康福祉部が
ウォーキングマップを作っていました。

設定したコースはかなりの数に
なっているのですが
その①番にしている松坂城址コースを
歩いてみることにしました。

距離は5キロくらいとなっていますが、
脇道入ったりウロウロしていると
7~8キロくらいにはなるでしょう。

最近はどこもこんなコースを
作ったりして、ネットでの調査が
事前準備にも欠かせないものがあります。

さあそれではこのコースを
今回は歩いてみることにしましょう。

当日は、早朝から迎えに来てもらい、
その車に便乗します。

なかなかいい天気ですねえ。
車は阪和道から西名阪、
そして亀山あたりから
一般道を走って津へと向かいます。

4回目となるともう走りなれた道ですねえ。

いつもおろしてもらう
「千里」の駅に到着し、
友達の仕事成功を祈りつつ、
いったん電車に乗って
移動していきます。

ずっと近鉄で伊勢中川を越え、
松阪についたのはもう昼の12時でした。



おなかすき始めていますねえ。
でもねえ、今日は友達の仕事も
早く終わるので迎えに来て
もらえそうなので、
まずは頑張って歩きましょう。

松阪での時間は約3時間半です。
途中、松阪牛が激安で
食べれそうなところがあれば
寄っていくことにしましょう。



まあ、ないでしょうけど。

まずは松坂駅前の観光センターによって、

ネットで見ていた地図を
希望したら、ちゃんと出てきましたよ。

これ。



7つのコースが書かれています。

あ、松阪のキャラクターも
書かれています。

名前は「ちゃちゃも」。



お茶と牛の鳴き声が名前のもとになっています。

少しユニークですねえ。
初めて歩く松阪の町。
どんな感じか楽しみです。

続く


令和初のBBQ

2019年05月02日 21時20分03秒 | ウォーキング

今日は令和最初のBBQ大会でした。

場所は槇尾川の和泉大橋の下です。
前もそこでしたことがあったのですが、
その時は市民病院が
今みたいな近くにあったわけではないので、
今はどうなっているだろうと
事前に下見で行ったら、
そこでBBQをしている人たちは
結構いるようでした。
というのも、そんなごみが結構あったのです。

まあ場所的には悪い所には
なってなさそうですね。
ただねえ、これはちょっと
ごみの掃除など事前に現地の
片づけに行かないといけないなあ
という感じだったのです。

なので、町会の鍬を借りて、
前日に掃除に行きましたよ。

そうそう、ちょうどそのときに
ちょっと気になるニュースが
流れていたのです。

この現場付近で、な、なんと
マムシが現れたとね。
ジムのトレーナーが教えてくれました。

まあそのマムシは車にひかれて
亡くなっていたのですが、
川なので上流から流れてきたり
したんでしょうねえ。
市のホームページにも出ていたそうです。

早速doironはマングース
のような顔をして現地の掃除に
行ったのです。
え?狸みたいな顔やろって。
ああ、狸でもマムシの天敵です。
知りませんけど・・・。

蛇に注意しながら清掃活動です。



令和最初のBBQですから、
きれいにしないとねえ。
かいがいしく働くdoironだったのです。



あっちのごみをこっちにやったり、
端っこに寄せたりして
まあ何とか形になりましたかね。
あとは当日に何とかしましょう。

あ、蚊取り線香もいるかなあ。
用意しないとねえと言う感じでした。

そして前日。

朝からBBQ用のお肉も買いに行きました。
以前はイズミヤで買っていたのですが、
いまはオープンしたてで
混んでるだろうと判断し、
サティのお肉にしましたよ。

あとまあ、たれも買いましたし、
ソーセージや魚関係も買いました。

用意万端で全員集まり、
さあこれでいよいよBBQ開始です。

天気はというと、昨日までの雨とは
違ってまずまずのお天気。

1日のBBQはまず皆さんの
家族との一日があるだろうから、
2日にして正解でしたねえ。


え~メンバーのキレイどころです
男性は写っていません

新しい時代は、もう自分にとっては
人生後半の時代です。
なので食べきれないほど
食べることもないから、
まずまずの量でしたね。

高齢者にはぴったりでしたねえ。
令和最初のBBQ



平成最後のお寿司パーティもヤリーの、
エイでの平成最後の飲み会もヤリーの
と時代の変わり目を満喫したGWでした。

さあ、では明日からまた頑張って
歩いたり、絵をかいたり、
写真を撮ったりしましょう。

令和がいい年でありますようにと、
お願いしてお開きとなりました。