ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

堺を歩いたさかい3

2019年05月28日 21時13分50秒 | ウォーキング

そんな紹鴎のところから、
大道筋をこえて西の方に
入っていきますと大きな建物があります。



これが、
「さかい利晶の杜」という建物です。



4年前にできた施設で、
千利休と与謝野晶子を紹介する建物で、
それを通じて堺の文化面を
アピールしています。
では入館料を払って
中に入っていきましょう。



まず一階は利休に関する展示が中心ですね。
これが、先程書いた利休の師匠である紹鴎。
う~ん、髪型に共感を感じますねえ。



55歳でなくなっていますので
doironより年下なんですよ。

墓は先ほどの南宗寺にあります。
ほかにも利休に関する展示もあります。
これが、これが大坂城内にある
山里二畳敷きという茶室。



これは、本物が再現されていました。



それから二階は与謝野晶子ですねえ。



与謝野晶子とは、こういう人ですねえ。



「君、死に給うことなかれ」の
フレーズが一番有名です。

64歳まで生きたようですねえ。
そしてなんと彼女の命日というのが、
5月29日ですなわち明日なのです。

偶然!

しかしこの晶子と鉄幹の夫婦は
すごい夫婦ですねえ。
晶子は12人の子どもを産むと同時に
鉄幹は恋多き人でした。

歌とは別に、壮絶な夫婦生活を
送っていたようです。

まあここでこの堺の二人の
概要はわかりましたねえ。
その杜を出ると西側に、
千利休の屋敷跡があります。



井戸が残ってて、こういう石の



ボードに彼の一生の出来事が
要約されていました。



最後は信長の怒りに触れて
70歳で自刃したそうです。

ではここから中環をこえて
大道筋を北に向かって歩いていきましょう。



ここは広い歩道になっていますねえ。
その歩道の端っこのところに
与謝野晶子の生家跡がありました。



明治初期にここで生まれて
育ったそうです。



そしてその先で大道筋は
大小路通と交わります。



この通りは堺の語源である
国境の街を象徴する道路で、
旧来の堺市街となる環濠内の
概ね中央を北西から南東方向に
貫いています。

なのでその交差点には、
こんな石碑が立っています。



「泉摂両国 堺南北両荘の界 大小路」

と書かれています。
昔はここが和泉国と摂津国の
境界だったんですねえ。

明治4年に摂泉国境が
大和川に変更されるまで
そうだったそうです。

この道をまっすぐ東の方に行くと
堺東駅で西に行くと堺駅になっています。

まあいわゆる旧環濠集落の
中心道ですねえ。

武家、商人、外国人、地元民、
様々な人が行きかった場所です。

doironもしみじみと
横切っていきましょう。



そして左手にザビエル公園が見えてきました。

正式名は戎公園ですねえ。
以前長尾街道を歩いた時は
この公園がスタート地点でしたねえ。

では公園の中をちょっと
覗いていきましょう。
平日ですが、結構人が多くて
子ども連れの家族が遊んでいますねえ。



そしてこれが、「堺鉄砲の碑」です。

種子島から渡ってきた鉄砲を
堺金属産業が増産し、
世の中を変えていったのですねえ。

堺火縄銃保存会が当時の歴史の
栄華をたたえて建設した碑だそうです。



恵比寿神社の神宮寺として
建てられたこのお寺も、
今はもうこの公園内に
ひっそりと形跡が
残されているという感じですね。

じゃ、なぜここがザビエル公園
といわれているかというと、

室町時代にこのあたりに
フランシスコ・ザビエルを
自宅に招いて布教を助けた
日比谷了慶の自宅があったから、
そんな活動に加わった
ザビエルの名前を付けている
公園なんだそうです。

先日のブラタモリでも
言ってましたねえ。
このザビエルが、
堺は日本の中でも黄金などが
たくさんある日本人の金持ちが
住んでいるところだと
言葉を残しています。
だからこそ堺は自治環濠都市として
堀などで街を厳しく
守っていたんですねえ。

続く