ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

西国三十三所 本能寺から革堂へ

2019年07月27日 21時15分47秒 | ウォーキング

六角堂を出てさらに
北向いて歩いていきます。
こんな郵便局や



歴史博物館の古い建物を眺めながら、



姉小路通りを東向いて
進んでいきますと、
もう誰でもよく知っている
お寺に出てきます。

「本能寺」です。

あの織田信長が明智光秀に
襲撃され自刃したところとして有名です。
まああの時に火事で
燃え尽きてしまったり、
天明・元治の大火で焼失し、
昭和3年にこの地に移転して
再建されたお寺です。



かつては大量の朝鮮通信使を
迎えたお寺としても
有名な実績を残しています。

中に入ると、大きな樹木の下で
のんびりと休憩している人も
多くいましたね。



境内には「織田信長公御廟所」の
石碑もありましたねえ。



移転したので当時の本能寺の
変の頃の境内はどんなん
だったんでしょうねえ。

そんな境内を出て、
京都市役所の方へと
向かっていきましょう。

あ、いまは「ホテル本能寺」
なんかも建設しているんですねえ。



「敵は本能寺にあり」
といわれるなど、ちょっと暗い
イメージがあるのでしょうが、
でも歴史的には抜群の名前ですねえ。

そしてここが京都市役所です。



え~っと大学時代の知り合いが
ここで働いていましたねえ。
あ、もう定年かなあ。

その市役所の前では平和の旗を持った
高齢おじさんが演説をしていましたねえ。



世の中いろんな方がおられますなあ。
市役所の裏に回って進んでいきます。

ここは道の両脇に古美術や
古いお店が並ぶ寺町通です。



その歩道の端に面白い案内が
建っていました。
なんとここは「本因坊」発祥の
地なんだそうです。

ここにあった寂光寺の塔頭
「本因坊」に住んでいた僧侶の
「日海」は囲碁の名人だったそうです。
その後日海は「本因坊算砂」と改名し、
以後本因坊の名は世襲されてきましたが、
本因坊21世の秀哉が
本因坊の名は本当に囲碁の強い人が
名乗るべきだと、
日本棋院にその名を渡し、
昭和11年から「本因坊戦」
という選手権が始まったとされています。

いやあ結構歴史がある名なんですね。

調べたら、将棋の「名人」も
世襲制から変わっていった
という歴史があるそうです。

いやあ、勉強になりました。



そんな寺町通の先にあるのが
西国三十三所第19番の行願寺です。

ここは天台宗のお寺で、
開いたのは「行円」というそうです。
彼は僧になる前は狩人でした。
彼が雌鹿を射止めたときに、
その鹿が子をはらんでいて
小鹿が生まれたそうです。
そんな事件があったので、
彼は改心しその雌鹿の革の服を
着て修行をしたというので、
「革聖(かわひじり)」と言われ、
この寺は「革堂」と呼ばれるように
なったそうです。

ではお参りしていきましょう。



ここの香炉も独特な形ですねえ。
そしていつものように儀式をすませ、
お祈りしたら納経をしてもらいましょう。

これで三十三所のうち
20か所が終わりました。
少しずつですがたまって
いくものですねえ。

この革堂には今は見ることは
できませんがもうひとつ
特徴的な宝である、

幽霊絵馬があります。

おふみという女性が子守をしているときに、
この寺の御詠歌を歌い続けたそうです。
それで宗派が違うと怒った
雇い主がおふみを虐待し
殺してしまい土の中に埋めたそうです。

そのことを幽霊になって親に告げ、
掘り起こされたそうです。

そのおふみを描いた絵馬が
幽霊絵馬として今も
残っているそうです。

8月に毎年公開されるそうですが、
ネットに絵が出ていました。



手鏡はおふみの愛用の
ものだったそうです。

さあ、次は西国三十三所の
どこに行きましょうかあ。
また出かけたら報告します。
今日はこんな感じで歩きました



おしまい

ーーーーーーー

エックストレイルでの最後の
旅となった京都の三十三所めぐりでした。



車を引き払う前には
事故無くてありがとうねと
四輪にお酒をかけて感謝しておきましたよ。
また次の人のところで元気でね。


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