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『起請文の精神史』

2010-05-31 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 5月31日(月)23時22分49秒

>筆綾丸さん
>徳大寺
実基は本当に面白い人ですね。
三木氏の解説に出てくる牧健二ですが、1892年生まれなので、さすがに古すぎますね。
検索してみたら、野村朋弘さんのサイトに大師勧請起請文に関する解説がありました。

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大師勧請起請文に関する学説

佐藤弘夫…神文分析から見出される世界を「中世神仏のコスモロジー」と呼び、仏教的世界観に則った序列であることを指摘。「あの世の仏」=罸を与えない仏・「この世の神仏」=罸を下す神という構造があると主張。
千々和到…大師勧請起請文は比叡山のもの。中世の普遍的なものと捉えるには妥当ではないと指摘。

http://www.toride.com/~sansui/materials/kisyoumon.html

佐藤氏の『起請文の精神史 中世世界の神と仏』(選書メチエ、2006)を引っ張り出して少し読んでみましたが、見方が生真面目すぎる感じがします。
黒田日出男氏も起請文の決まり文句である「身の八万四千の毛穴毎に」といった表現を生真面目に受け止めて、「中世民衆の皮膚感覚と恐怖」というしみったれた論文を書かれていて(『境界の中世 象徴の中世』所収、初出は1982年)、もちろんそれが間違いというわけではないのですが、しかし、一方では中世にも起請文破りを何とも思わない人が大勢いたはずですね。
佐藤著の序章に出てくる厳成という僧侶は、応保二年(1162)に「今後飲酒の際に、もし一杯を越えて杯を重ねるようなことがあれば、王城鎮守八幡三所・賀茂上下・日吉山王七社・稲荷五所・祇園天神、ことに石山観音三十八所の罰を、三日もしくは七日の内に、厳成の身の毛穴ごとに受けてもかまわないことを誓約する」と書いたそうですが、仮に一度は真剣に誓ったところで、絶対にまた二杯以上飲んでいるに決まっています。
また、正中二年(1325)に「去る一四日に行われた華厳会に出仕するはずのところ、持病が起こって体にお灸を加える必要が生じ、そのため勤務できなくなってしまった。もし私が出仕を逃れるために身の不調をでっちあげたとすれば、日本国主天照大神をはじめ、六〇余州のありとあらゆる大小神祇、なかでも大仏・四天王・八幡三所・垂迹和光の部類眷属、とくに二月堂の生身観音菩薩の神罰・仏罰を、私聖尊の身に蒙っても異存はない」(p24)と誓った東大寺僧聖尊は、まず間違いなく「出仕を逃れるために身の不調をでっちあげた」のであって、虚偽の起請文を書いても平気な人ですね。たぶん。
戦国大名の時代、起請文破りは当たり前で、そんなものを信用する方が馬鹿だとせせら笑っていた人は大勢いたはずですが、起請文が作られた初期の段階から、適当に受け流していた人は結構いたと私は思います。
特に僧侶は胡散臭いですね。
荘重な起請文の文案を考えるのも僧侶であれば、起請文破りの正当化の屁理屈を考え出すのも僧侶ですから。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「大師勧請の起請」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5473
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