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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その15)

2020-10-23 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月23日(金)12時58分46秒

呉座氏の「『太平記』が単純に、後醍醐の物語や源平交替の物語のような形できれいにまとまっていたら、もしかしたらここまでの影響を後代に与えなかったかもしれませんね」という発言に対し、兵藤氏は次のように応答します。(p38)

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兵藤 『太平記』は、複数の異質な成立段階を抱えこんでいますから、テクストは重層的・多義的で、さまざまな読みを許容してしまう。『平家物語』でしたら、テキスト【ママ】の一義的な読みを前提とした「平家物語史観」という言葉は、条件付きでしたら成り立ちます。しかし、複数の史観が輻輳・混在している『太平記』では、一義的な読みが成り立たない。一つの史観でくくるのは無理ですね。
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うーむ。
結局、兵藤説の核心は成立に関する三段階説ですが、呉座氏も小見出しの九番目、「『太平記』成立の三段階」の冒頭で、

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呉座 最近の国文学界では、「『太平記』は室町幕府の正史」という兵藤さんの説に対する批判も出ていますが、円観(恵鎮)・玄恵─小島法師といった関与者(知識人─語り手)の重層性(身分差)が、『太平記』の重層性・多様性を形作ったという点が兵藤説の核心であると私は思っています。要するに、「あやしき民」、卑賤の物語僧が関わったことで、源平交替史観といった大きな枠組みに収まりきらない語りが生まれる。兵藤さんが重視しているのは「室町幕府の正史」うんぬんではなく、むしろそこから逸脱している部分ですよね。そして、そうした逸脱は『太平記』が段階的に成立したこととも関連がある。現存史料では決着のつかない問題だと思いますが、『太平記』の成立が段階的だ、ということと作者の問題について、改めてお考えを聞かせていただけますか。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3cef9693be40e9a4ec751aedf869b236

と言われていて、他の発言を見ても、三段階説には納得されているようですね。
さて、私は兵藤説の弱点のひとつは作者像の分析が弱いことではないかと思っています。
兵藤氏は妙に身分の低い芸能者の役割を強調されますが、素直に『太平記』の文章を見れば、作者が極めて高度な教育を受けた相当の教養の持ち主であることは明らかだと思います。
呉座氏も「「あやしき民」、卑賤の物語僧が関わったことで、源平交替史観といった大きな枠組みに収まりきらない語りが生まれる」などと兵藤説を高く評価されますが、高度な教育を受けていない階層の人が本当に『太平記』の本文に関与できたのか。
成立当初の『太平記』は、書物としてよりも、むしろ聴衆を前にしての語り物として世に広まったので、「卑賤の物語僧」が『太平記』を語る際にそれなりの改変をしたようなことはあったのでしょうが、それはあくまで付随的な役割であり、『太平記』の本文自体は高度の教育を受けた知識人が担ったものと考えるのが自然です。
具体的には「北野参詣人政道雑談の事」(北野通夜物語)に登場する三人、即ち「古へ関東の頭人、評定衆に連なりて、武家の世の治まりたりし事どもをさぞ偲ぶらんと覚えて、坂東声なるが、年の程六十余りなる遁世者」、「今朝廷に仕へながら、家貧しく身豊かならず、出仕なんどをもせず、徒らなるままにいつとなく学窓の雪に向かひて、外典の書に心をぞ慰むらんと覚えて、体なびやかに、色青ざめたる雲客」、そして「何がしかの僧都、律師なんど云はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を挑げんと、稽古の扉を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く痩せたる法師」といった人々ですね。
この三人は、若干の戯画化を伴ってはいるものの、『太平記』作者の実像を相当に反映しているのではないかと思われます。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その11)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e382ccb38bc7e16008d8636e6ab9f26f

また、兵藤説に従えば、『太平記』は恵鎮が直義に「原太平記」を持参した1340年代から、応永九年(1402)に書かれた『難太平記』が言うところの「近代」、即ち兵藤説によれば南北朝の合一(1392)以降の足利義満の全盛時代まで延々書き継がれたことになるので、作者は二世代では足らず、おそらく三世代になったはずであり、作者像はいっそう複雑化しますね。
南北朝期は激動の時代なので、それだけの世代差があれば文体や記事内容にも相応の違いが出そうですが、兵藤説は永遠の「不可知論」、「水掛け論」なので、現在存在する古本系の諸本から世代間の差違を見分けることも実際上不可能です。
ま、それは兵藤説に従えば、という「条件付き」の話ですが、古本系の巻三十二に相当する巻だけが伝わる永和本の存在を考えると、永和本が書写された永和三年(1377)二月の時点で四十巻全て完成していた、『難太平記』に言う切り継ぎは完成後の僅かな変更だけ、と想定することもそれほど不自然ではありません。
そう考えれば『太平記』作者の世代はギリギリ一世代で済み、作者像もずいぶんシンプルになりそうですね。

兵藤裕己氏「『太平記』の本文〔テクスト〕」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/08cde34f6467b40fc5afb2c868f48b53

そして、このようにシンプルに考えれば、兵藤氏のように「乱世の歴史を書き継ぐ『太平記』作者たち」の「史官意識というか、乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」といった、『太平記』の本文からは導き出せない過剰な想像も不要となります。
この「史官意識」云々は兵藤・呉座対談の中でも特別に変な感じがする部分ですが、読み返してみたところ、兵藤氏は、

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 その作者たち──具体的にどんな人たちをイメージしたらよいか、わたしにもまだよく分かりませんが、作者たちの共有した歴史家としての矜持のようなものが、乱世の歴史をともかくも書き継ぐという、一見不毛ともみえるモチベーションを支えたのでしょう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644

などと言われていて、作者像の弱さは認めておられるのですね。
コメント
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