投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月 4日(日)12時09分5秒
小見出しの五番目「日野富子と阿野廉子像」に入ると、「きょうの対談のために、『応仁記』を読み返してみた」(p18)という兵藤氏が「『応仁記』の日野富子の話は、『太平記』の阿野廉子を模して作られた物語ではないか」という仮説を詳しく語った後、呉座氏の意見を求めますが、呉座氏は、
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呉座 なるほど。気づきませんでしたが、言われてみるとおっしゃる通りですね。『応仁記』の日野富子像は、おそらく阿野廉子を意識していると思います。
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ということであっさり兵藤説に賛成してしまって、この話題は兵藤氏にとっては些か拍子抜けであったのではないかと思わるほどあっけなく終わります。
ついで、小見出しの六番目「『太平記』の影響、テクストの多義性」に入ると、
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兵藤 『太平記』以後、『明徳記』や『応永記』などの軍記物がつくられ、『応仁記』がその掉尾を飾って以後は、おびただしい地方軍記の時代になります。これらの中央・地方の軍記類を見ると、文体はもちろん、故事成語や漢籍の引用も『太平記』に学んでいます。
一四世紀内乱は、『太平記』によって歴史認識の枠組みが作られてしまう。その延長で、一五世紀以後の多くの内乱の歴史<物語>も語られる。というか、内乱の当事者たちも、『太平記』の物語に無関心ではいられない。『太平記』で作られた枠組みが、以後の内乱の歴史を作っているというか。
呉座 本当にそうですよね。後期の軍記以降の基本的なフォーマット、様式になっていて、歴史の語り、軍記の文体の基準は『太平記』がつくった、とも言えます。
兵藤 水戸藩で作られた『大日本史』は、史料批判がしっかりしていて文献学的にも信頼できると、昔から評判が高いですね。でも、『大日本史』がもっとも力を入れた南北朝時代史の記述は、まったく『太平記』の枠組みに乗っています。
呉座 久米の『太平記』批判は『大日本史』批判です。
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といった具合いに『太平記』による「歴史認識の枠組み」の話が続きます。
呉座氏の「後期の軍記以降の基本的なフォーマット、様式になっていて、歴史の語り、軍記の文体の基準は『太平記』がつくった、とも言えます」との見解には私も基本的に賛成ですが、ただ、『太平記』の諧謔の精神は必ずしも後続の軍記類には承継されていないように感じます。
さて、この後、呉座氏が近世において『太平記』が大ベストセラーとなり、原典のみならず『参考太平記』などの注釈書、講釈・浄瑠璃・歌舞伎などでの派生的作品、更には「太平記の人間関係や設定に借りた作品」や「仮名草子『魚太平記』『草木太平記』などのパロディ作品(異類合戦物)」が夥しく出現したことに触れた後、次のようなやり取りとなります。(p20)
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なぜ『平家物語』と比して文学的な完成度が低いと言われる『太平記』が、軍記物語や歴史叙述の範型として後世に絶大な影響を及ぼしたのでしょうか。『平家』は仏教的無常観で構想が貫かれているのに対して、『太平記』は世界観も混沌とした印象です。仏教だけでなく儒教やほかの要素もいろいろと混ざって、よく訳のわからない様相を呈している。第一部、第二部、第三部でそれぞれテーマがずれている、だから段階的に成立したのではないか、という説を兵藤さんも主張しています。
兵藤 第二部や第三部が書き継がれる過程で、第一部にさかのぼって書き直されていますからね(「成立の三段階」については後述)。
呉座 はい。そのように雑然としたものが、なぜその後もずっと一つのモデルになり続けたのでしょうか。それはどうしてなのでしょうか? いかにも素人じみた疑問で恐縮ですが、長いあいだそのことが非常に不思議でした。
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この呉座氏の「いかにも素人じみた疑問」に対して、今まで全く淀むことなく『太平記』に関する深遠な蘊蓄を傾けてこられた兵藤氏が、いささか答えに窮する場面となります。
なお、『太平記』が本当に「『平家物語』と比して文学的な完成度が低い」のか、については、後で山口昌男の見解を紹介した上で検討を加える予定です。
小見出しの五番目「日野富子と阿野廉子像」に入ると、「きょうの対談のために、『応仁記』を読み返してみた」(p18)という兵藤氏が「『応仁記』の日野富子の話は、『太平記』の阿野廉子を模して作られた物語ではないか」という仮説を詳しく語った後、呉座氏の意見を求めますが、呉座氏は、
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呉座 なるほど。気づきませんでしたが、言われてみるとおっしゃる通りですね。『応仁記』の日野富子像は、おそらく阿野廉子を意識していると思います。
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ということであっさり兵藤説に賛成してしまって、この話題は兵藤氏にとっては些か拍子抜けであったのではないかと思わるほどあっけなく終わります。
ついで、小見出しの六番目「『太平記』の影響、テクストの多義性」に入ると、
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兵藤 『太平記』以後、『明徳記』や『応永記』などの軍記物がつくられ、『応仁記』がその掉尾を飾って以後は、おびただしい地方軍記の時代になります。これらの中央・地方の軍記類を見ると、文体はもちろん、故事成語や漢籍の引用も『太平記』に学んでいます。
一四世紀内乱は、『太平記』によって歴史認識の枠組みが作られてしまう。その延長で、一五世紀以後の多くの内乱の歴史<物語>も語られる。というか、内乱の当事者たちも、『太平記』の物語に無関心ではいられない。『太平記』で作られた枠組みが、以後の内乱の歴史を作っているというか。
呉座 本当にそうですよね。後期の軍記以降の基本的なフォーマット、様式になっていて、歴史の語り、軍記の文体の基準は『太平記』がつくった、とも言えます。
兵藤 水戸藩で作られた『大日本史』は、史料批判がしっかりしていて文献学的にも信頼できると、昔から評判が高いですね。でも、『大日本史』がもっとも力を入れた南北朝時代史の記述は、まったく『太平記』の枠組みに乗っています。
呉座 久米の『太平記』批判は『大日本史』批判です。
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といった具合いに『太平記』による「歴史認識の枠組み」の話が続きます。
呉座氏の「後期の軍記以降の基本的なフォーマット、様式になっていて、歴史の語り、軍記の文体の基準は『太平記』がつくった、とも言えます」との見解には私も基本的に賛成ですが、ただ、『太平記』の諧謔の精神は必ずしも後続の軍記類には承継されていないように感じます。
さて、この後、呉座氏が近世において『太平記』が大ベストセラーとなり、原典のみならず『参考太平記』などの注釈書、講釈・浄瑠璃・歌舞伎などでの派生的作品、更には「太平記の人間関係や設定に借りた作品」や「仮名草子『魚太平記』『草木太平記』などのパロディ作品(異類合戦物)」が夥しく出現したことに触れた後、次のようなやり取りとなります。(p20)
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なぜ『平家物語』と比して文学的な完成度が低いと言われる『太平記』が、軍記物語や歴史叙述の範型として後世に絶大な影響を及ぼしたのでしょうか。『平家』は仏教的無常観で構想が貫かれているのに対して、『太平記』は世界観も混沌とした印象です。仏教だけでなく儒教やほかの要素もいろいろと混ざって、よく訳のわからない様相を呈している。第一部、第二部、第三部でそれぞれテーマがずれている、だから段階的に成立したのではないか、という説を兵藤さんも主張しています。
兵藤 第二部や第三部が書き継がれる過程で、第一部にさかのぼって書き直されていますからね(「成立の三段階」については後述)。
呉座 はい。そのように雑然としたものが、なぜその後もずっと一つのモデルになり続けたのでしょうか。それはどうしてなのでしょうか? いかにも素人じみた疑問で恐縮ですが、長いあいだそのことが非常に不思議でした。
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この呉座氏の「いかにも素人じみた疑問」に対して、今まで全く淀むことなく『太平記』に関する深遠な蘊蓄を傾けてこられた兵藤氏が、いささか答えに窮する場面となります。
なお、『太平記』が本当に「『平家物語』と比して文学的な完成度が低い」のか、については、後で山口昌男の見解を紹介した上で検討を加える予定です。