投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月18日(日)12時48分42秒
兵藤氏の発言に出てきた巻三十五の「北野参詣人政道雑談の事」(北野通夜物語)は、兵藤校注『太平記(四)』(岩波文庫、2015)で数えると合計38ページにも及ぶ、『太平記』全体の中でも屈指の長大かつ複合的なエピソードですね。
菅原道真を祀る北野天満宮で三人が語り合うという設定ですが、登場するのは「古へ関東の頭人、評定衆に連なりて、武家の世の治まりたりし事どもをさぞ偲ぶらんと覚えて、坂東声なるが、年の程六十余りなる遁世者」(p360)、「今朝廷に仕へながら、家貧しく身豊かならず、出仕なんどをもせず、徒らなるままにいつとなく学窓の雪に向かひて、外典の書に心をぞ慰むらんと覚えて、体なびやかに、色青ざめたる雲客」(同)、そして「何がしかの僧都、律師なんど云はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を挑げんと、稽古の扉を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く痩せたる法師」(同)です。
最初に「儒業の人かと覚しき雲客」(同)、即ち貧しい公家が、元弘以来三十年間も世が乱れているが、何故なのか、と問うと、鎌倉幕府の高官だったという坂東声の遁世者が、菅原道真を流罪にした醍醐帝が地獄で苦しむ話、明恵上人の北条泰時に対する助言と泰時の善政、出家後の北条時頼が全国を廻り、親族の横領に苦しむ地頭一族の尼を助ける話、そして青砥左衛門の廉直ぶり等を、合計19ページ分ほど語ります。
ついで「それがしも、今年の春まで南方に伺候して候ひしが、天下を覆されん事も、守文の道にも叶ふまじき程を至極見透かして」(p380)、遁世しようと京に戻ったという貧乏公家が7ページ分ほど語りますが、その大半が兵藤氏の採り上げた玄宗皇帝と「太史の官」の話です。
この公家が何故に「太史の官」を詳述したかというと、結局、南朝にはそうした立派な臣下も主君もいなかった、という苦い思い出を語るためで、兵藤氏の言う「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持」といったものは、少なくとも直接のテーマではないですね。
そして、三番目に「内典の学匠にてぞあらんと見えつる法師」(p386)が、「天下の乱をつらつら案ずるに、公家の御過ちとも、武家の僻事とも申し難し。ただ因果の感ずる所とこそ存じ候へ」(p386)として、目連尊者と釈尊のやり取りなどの話を11ページ分ほど語り、
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かようの仏説を以て思ふにも、臣君を褊〔さみ〕し、子父を殺すも、今生一世の悪にあらず。武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶも、皆過去の因果にこそ候ふらめ」と語りければ、三人ともに、からからと笑ひけるが、晨朝の鐘の鳴りければ、夜もすでに朱の瑞牆立ち出でて、おのが様々に帰りにけり。
これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑〔たの〕もしくこそ覚えけれ。
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という具合いに終わります(p396)。
さて、兵藤・呉座対談に戻ると、「太史の官」云々の兵藤氏の話に呉座氏は次のように応じます。(p36)
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呉座 結論が不明瞭な『北野通夜物語』が象徴するように、『太平記』作者の意図はつかみにくいですね。
もともとは、ある程度特定の構想、特定の立場に基づいて作ろうとしていたけれど、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱を含め、内乱に次ぐ内乱が起こる。現実が構想を追い越してしまい、どんどん混沌として複雑化していった。それゆえに、単一の視点で語ることができなくなってああいう形になったのか。それとも兵藤さんが今おっしゃったように、そもそも作者が現実に対して冷めた見方をしていて、南朝であろうと北朝であろうと、美化せずにすべて批判していくという視点を意図的に採用したのか。その辺はどうなのだろう、と思ったりします。
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まあ、確かに三人がそれぞれ個別エピソードを一方的に語っただけで、それらを受けて互いに議論する訳でもないですから、呉座氏の言われるように「結論が不明瞭」はその通りですね。
ただ、最初から最後まで明るい話題は一切なく、「臣君を褊し、子父を殺す」、「武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶ」といった殺伐としたエピソードの連続の後で、「三人ともに、からからと笑」って帰り、「これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑もしくこそ覚えけれ」と妙に明るく終わるのは面白いですね。
なお、旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」を運営していた頃、私は『増鏡』に登場する北条時頼廻国伝説に興味を抱き、いろいろと調べたことがあります。
その際、『太平記』の「北野通夜物語」では、北条時頼ばかりか北条貞時も廻国修業を行っていて、しかも貞時が救済した相手が「久我内大臣」となっているのに驚き、もしかしたらこのエピソードは『増鏡』と『太平記』の関係を解く鍵になっているのではなかろうか、などと妄想したことがあります。
当時、私は『太平記』の諸本の違いなどは全く意識しておらず、旧サイトに掲載したのは長谷川端氏校注・現代語訳の小学館『新編日本古典文学全集』だったのですが、これは底本が天正本ですね。
そこには、
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後の最勝恩寺貞時も、先縦を追つて、また修行し玉ひしに、その此久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ玉ひて、家領悉く収公せられ玉ひしかば、城南の茅宮に閑寂を耕してぞ隠居し玉ひける。貞時斗藪の次でにかの故宮の有様を見玉ひて、『何なる人の棲遅にてかあるらん』と事問ひ玉ふところ、諸大夫と覚しき人立ち出でて、しかじかとぞ答へける。
貞時具に尋ね聞きて、『御罪科さしたる事にても候はず。その上大家の一跡、この時断亡せん事勿体なく候ふ。など関東様へ御歎き候はぬやらん』と、この修行者申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ、この御所の御様昔びれて、かやうの事を申せば、「さる事やあるべき。我が身の咎なき由を関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家この時亡ぶとも、如何でか臣として君の非を挙げ奉るべき。力なし、時剋到来歎かぬところぞ」と仰せられ候ふ間、御家門の滅亡この時にて候ふ』と語りければ、修行者感涙を押へて立ち帰りにけり。
誰と云ふ事を知らざりしに、関東帰居の後、最前にこの事をありのままに執り申されしかば、仙洞大いに御恥あつて、久我の旧領悉く早速に還し付けられけり。さてこそこの修行者をば、貞時とは知られけれ。
http://web.archive.org/web/20150515190108/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-taiheiki-38-saimyoji.htm
という具合いに、久我家に極めて好意的な感動ストーリーが描かれていますが、岩波文庫版(西源院本)だと、そもそも北条貞時の廻国話自体が存在せず、従って「久我内大臣」も登場していません。
他の諸本ではどうなっているのか気になりますが、それが分かったところで、久我家寄りの感動ストーリーを誰が何時の時点で加えたのか、の解明までは難しそうですね。
兵藤氏の発言に出てきた巻三十五の「北野参詣人政道雑談の事」(北野通夜物語)は、兵藤校注『太平記(四)』(岩波文庫、2015)で数えると合計38ページにも及ぶ、『太平記』全体の中でも屈指の長大かつ複合的なエピソードですね。
菅原道真を祀る北野天満宮で三人が語り合うという設定ですが、登場するのは「古へ関東の頭人、評定衆に連なりて、武家の世の治まりたりし事どもをさぞ偲ぶらんと覚えて、坂東声なるが、年の程六十余りなる遁世者」(p360)、「今朝廷に仕へながら、家貧しく身豊かならず、出仕なんどをもせず、徒らなるままにいつとなく学窓の雪に向かひて、外典の書に心をぞ慰むらんと覚えて、体なびやかに、色青ざめたる雲客」(同)、そして「何がしかの僧都、律師なんど云はれて、門跡辺に伺候し、顕密の法燈を挑げんと、稽古の扉を閉ぢ、玉泉の流れに心を澄ますらんと覚えたるが、細く痩せたる法師」(同)です。
最初に「儒業の人かと覚しき雲客」(同)、即ち貧しい公家が、元弘以来三十年間も世が乱れているが、何故なのか、と問うと、鎌倉幕府の高官だったという坂東声の遁世者が、菅原道真を流罪にした醍醐帝が地獄で苦しむ話、明恵上人の北条泰時に対する助言と泰時の善政、出家後の北条時頼が全国を廻り、親族の横領に苦しむ地頭一族の尼を助ける話、そして青砥左衛門の廉直ぶり等を、合計19ページ分ほど語ります。
ついで「それがしも、今年の春まで南方に伺候して候ひしが、天下を覆されん事も、守文の道にも叶ふまじき程を至極見透かして」(p380)、遁世しようと京に戻ったという貧乏公家が7ページ分ほど語りますが、その大半が兵藤氏の採り上げた玄宗皇帝と「太史の官」の話です。
この公家が何故に「太史の官」を詳述したかというと、結局、南朝にはそうした立派な臣下も主君もいなかった、という苦い思い出を語るためで、兵藤氏の言う「史官意識」や「乱世の歴史を書き継ぐ矜持」といったものは、少なくとも直接のテーマではないですね。
そして、三番目に「内典の学匠にてぞあらんと見えつる法師」(p386)が、「天下の乱をつらつら案ずるに、公家の御過ちとも、武家の僻事とも申し難し。ただ因果の感ずる所とこそ存じ候へ」(p386)として、目連尊者と釈尊のやり取りなどの話を11ページ分ほど語り、
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かようの仏説を以て思ふにも、臣君を褊〔さみ〕し、子父を殺すも、今生一世の悪にあらず。武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶも、皆過去の因果にこそ候ふらめ」と語りければ、三人ともに、からからと笑ひけるが、晨朝の鐘の鳴りければ、夜もすでに朱の瑞牆立ち出でて、おのが様々に帰りにけり。
これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑〔たの〕もしくこそ覚えけれ。
-------
という具合いに終わります(p396)。
さて、兵藤・呉座対談に戻ると、「太史の官」云々の兵藤氏の話に呉座氏は次のように応じます。(p36)
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呉座 結論が不明瞭な『北野通夜物語』が象徴するように、『太平記』作者の意図はつかみにくいですね。
もともとは、ある程度特定の構想、特定の立場に基づいて作ろうとしていたけれど、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱を含め、内乱に次ぐ内乱が起こる。現実が構想を追い越してしまい、どんどん混沌として複雑化していった。それゆえに、単一の視点で語ることができなくなってああいう形になったのか。それとも兵藤さんが今おっしゃったように、そもそも作者が現実に対して冷めた見方をしていて、南朝であろうと北朝であろうと、美化せずにすべて批判していくという視点を意図的に採用したのか。その辺はどうなのだろう、と思ったりします。
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まあ、確かに三人がそれぞれ個別エピソードを一方的に語っただけで、それらを受けて互いに議論する訳でもないですから、呉座氏の言われるように「結論が不明瞭」はその通りですね。
ただ、最初から最後まで明るい話題は一切なく、「臣君を褊し、子父を殺す」、「武士は衣食に飽き、公家は餓死に及ぶ」といった殺伐としたエピソードの連続の後で、「三人ともに、からからと笑」って帰り、「これを以て案ずるに、かかる乱るる世もまた鎮まる事もやと、憑もしくこそ覚えけれ」と妙に明るく終わるのは面白いですね。
なお、旧サイト「後深草院二条─中世の最も知的で魅力的な悪女について」を運営していた頃、私は『増鏡』に登場する北条時頼廻国伝説に興味を抱き、いろいろと調べたことがあります。
その際、『太平記』の「北野通夜物語」では、北条時頼ばかりか北条貞時も廻国修業を行っていて、しかも貞時が救済した相手が「久我内大臣」となっているのに驚き、もしかしたらこのエピソードは『増鏡』と『太平記』の関係を解く鍵になっているのではなかろうか、などと妄想したことがあります。
当時、私は『太平記』の諸本の違いなどは全く意識しておらず、旧サイトに掲載したのは長谷川端氏校注・現代語訳の小学館『新編日本古典文学全集』だったのですが、これは底本が天正本ですね。
そこには、
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後の最勝恩寺貞時も、先縦を追つて、また修行し玉ひしに、その此久我内大臣、仙洞の叡慮に違ひ玉ひて、家領悉く収公せられ玉ひしかば、城南の茅宮に閑寂を耕してぞ隠居し玉ひける。貞時斗藪の次でにかの故宮の有様を見玉ひて、『何なる人の棲遅にてかあるらん』と事問ひ玉ふところ、諸大夫と覚しき人立ち出でて、しかじかとぞ答へける。
貞時具に尋ね聞きて、『御罪科さしたる事にても候はず。その上大家の一跡、この時断亡せん事勿体なく候ふ。など関東様へ御歎き候はぬやらん』と、この修行者申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ、この御所の御様昔びれて、かやうの事を申せば、「さる事やあるべき。我が身の咎なき由を関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家この時亡ぶとも、如何でか臣として君の非を挙げ奉るべき。力なし、時剋到来歎かぬところぞ」と仰せられ候ふ間、御家門の滅亡この時にて候ふ』と語りければ、修行者感涙を押へて立ち帰りにけり。
誰と云ふ事を知らざりしに、関東帰居の後、最前にこの事をありのままに執り申されしかば、仙洞大いに御恥あつて、久我の旧領悉く早速に還し付けられけり。さてこそこの修行者をば、貞時とは知られけれ。
http://web.archive.org/web/20150515190108/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-taiheiki-38-saimyoji.htm
という具合いに、久我家に極めて好意的な感動ストーリーが描かれていますが、岩波文庫版(西源院本)だと、そもそも北条貞時の廻国話自体が存在せず、従って「久我内大臣」も登場していません。
他の諸本ではどうなっているのか気になりますが、それが分かったところで、久我家寄りの感動ストーリーを誰が何時の時点で加えたのか、の解明までは難しそうですね。