投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月16日(金)11時06分14秒
小見出しの十二番目「語られる時代と成立時期の近さ」に入ります。
最初に呉座氏が『太平記』を『平家物語』と比較した上で、「叙述されている時期と本の成立時期がものすごく近接していることは、『太平記』の大きな特徴だと思います。それにもかかわらず、どうしてこんなにたくさんの諸本が生まれてしまったのでしょうか」と質問しますが、兵藤氏の回答は些か歯切れが悪いですね。(p33)
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兵藤 少し話が戻りますが、それはオーセンティック(真正)な原本、権威あるオリジナルが不在のまま、『太平記』の編纂事業は放棄された、未完のまま放置されたことに関係すると思います。なんらかの政治的理由で削除された巻二十二の欠が補訂されない、未完の草稿本のようなテクストが残された。テクストの真正性を担保するオリジナル(原本)が不在のまま、転写と改訂がくり返され、新たに生まれた本も互いに影響し合って新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた結果だと思います。
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兵藤氏は幕府の公的統制の下で「正史」としての「『太平記』の編纂事業」が、少なくとも途中までは遂行されたと考える訳ですが、これに対する呉座氏の重ねての質問はなかなか厳しいですね。
既に一部を紹介済みですが、改めて正確に引用します。(p34)
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呉座 なるほど。ではこの点はどうでしょうか。『太平記』のとくに後ろのほうで室町幕府二代将軍の足利義詮は讒言に惑わされやすい凡庸な人物として描かれています。幕府草創史としてきちんとしたものを作ろうとしたら、義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか。そのあたりの原因も、やはり編纂が完成しないままだったことにあるのでしょうか。
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この質問に対する兵藤氏の回答は、私には「正史」説の破綻を示しているように思われますが、対象を黒く塗ってからその黒さを批判するのは私の好むところではないので、丁寧に紹介したいと思います。(p34以下)
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兵藤 どうなんでしょう。さっきお話した成立の第三段階、「近代重ねて書き継げり」の「近代」は、足利義満の時代です。『難太平記』は、その「近代」の書き継ぎ時に「高名」の「入筆」要求が「数知らず」あったと伝えています。足利方の大名が「高名」の書き入れを要求したのは、さっきも言いましたように、『太平記』が幕府草創を語る史書と見なされたからです。
義満本人がどう考えていたかはともかく、『難太平記』も、『太平記』の改訂が義満の「御沙汰」に関わると認識しています。少なくとも今川了俊も含めた有力大名のあいだでは、『太平記』は幕府草創を語る公認の書と目されていた。またそんな方向で書き継ぎと改訂、「高名」の書き入れ要求も行われたわけです。しかしその方向で完成を目指すと、それまで書かれていた部分との矛盾が噴出してしまう。いったん噴出した矛盾は一人歩きして、さらに矛盾の傷口を広げてしまう。
足利義満の父義詮が、ある箇所では大変好意的に書かれたのに、別の箇所ではぼろくそに書かれたりする。そんな矛盾や分裂を取り繕うのが難しくなって、しだいに完成も期しがたくなる。そしてついに編纂作業そのものが放棄された。そんなところではないでしょうか。
たとえば、『太平記』の後半、巻二十七に「雲景未来記の事」という章段があります。天皇批判や三種の神器論を展開していて、『太平記』を考えるうえできわめて重要な章段です。後醍醐や後村上を批判する一方で、北朝の天皇も批判・揶揄してしまう。「雲景未来記の事」は、『太平記』という矛盾・分裂したテクストにあって、生まれるべくして生まれたような章段です。
先に言いましたが、『太平記』全四〇巻を通しで読める古本は、西源院本と玄玖本です。しかし玄玖本(神宮徴古館本)には「雲景未来記の事」がない。この点が私には大いに不満です。
一部の研究者は、巻二十七に「雲景未来記の事」のない玄玖本を古態とします。しかし高橋貞一や亀田純一郎は、「雲景未来記の事」を欠く本、つまり天皇批判のない本を後出本としていました。これも水掛け論になりますが、研究というのは多数決の問題ではないし、新しい研究者の説がつねに正しいとも言えません。たとえば、正成の兵庫下向などは、君側の奸に責任を転嫁している玄玖本は、やはり後出本文でしょう。
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うーむ。
たとえ途中までとはいえ、足利義満の時代に幕府の公的な統制の下で行われた「正史」としての「『太平記』の編纂事業」が、「足利義満の父義詮が、ある箇所では大変好意的に書かれたのに、別の箇所ではぼろくそに書かれたりする」ような、誰が見ても重大かつ明白な「矛盾や分裂を取り繕う」ことをしないまま放置され、結局「編纂作業そのものが放棄」されるような事態が本当にあり得たのでしょうか。
この説明は、兵藤氏の三段階説、「正史」説が、義詮の取り扱いに関して「矛盾が噴出してしま」い、そして「いったん噴出した矛盾は一人歩きして、さらに矛盾の傷口を広げてしまう」様相を示しているように見えます。
改めて兵藤氏の出世作『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)を読むと、兵藤氏の三段階説、「正史」説は『難太平記』に全面的に依存していて、特に『難太平記』に三か所出てくる「御沙汰」という表現が決め手になっていることが分かります。
『難太平記』が完全に信頼できる書物ならばよいのですが、有名な足利家時の遺書の話など、多くの歴史研究者が疑いの眼を向けている箇所もそれなりにあります。
また、『太平記』に関係する部分の解釈にしても、兵藤氏の解釈は深読みに過ぎるのではないか、という感じもします。
要するに私は、『難太平記』に依存した兵藤氏の三段階説、「正史」説は、砂上の楼閣とまでは言わないにしても、薄氷の上の議論ではなかろうか、と疑っている訳ですが、この点は改めて論じたいと思います。
なお、「一部の研究者は、巻二十七に「雲景未来記の事」のない玄玖本を古態とします」とありますが、この「一部の研究者」は具体的には小秋元段氏ですね。
「雲景未来記の事」は面白い章段なので、後で小秋元段氏の見解を踏まえて、詳しく論じたいと思います。
また、「正成の兵庫下向などは、君側の奸に責任を転嫁している玄玖本」云々とありますが、これは楠木正成に無謀な出陣を命じて戦死させた主体が、西源院本などでは後醍醐天皇であるのに対し、玄玖本では「君側の奸」坊門清忠とされ、後醍醐への直接の批判が避けられていることを言っています。
この点は小見出しの十一番目「流布本の問題点」で触れられていましたが、引用はしませんでした。
小見出しの十二番目「語られる時代と成立時期の近さ」に入ります。
最初に呉座氏が『太平記』を『平家物語』と比較した上で、「叙述されている時期と本の成立時期がものすごく近接していることは、『太平記』の大きな特徴だと思います。それにもかかわらず、どうしてこんなにたくさんの諸本が生まれてしまったのでしょうか」と質問しますが、兵藤氏の回答は些か歯切れが悪いですね。(p33)
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兵藤 少し話が戻りますが、それはオーセンティック(真正)な原本、権威あるオリジナルが不在のまま、『太平記』の編纂事業は放棄された、未完のまま放置されたことに関係すると思います。なんらかの政治的理由で削除された巻二十二の欠が補訂されない、未完の草稿本のようなテクストが残された。テクストの真正性を担保するオリジナル(原本)が不在のまま、転写と改訂がくり返され、新たに生まれた本も互いに影響し合って新しいテクストが作られる。そんな状態が二百年以上続いた結果だと思います。
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兵藤氏は幕府の公的統制の下で「正史」としての「『太平記』の編纂事業」が、少なくとも途中までは遂行されたと考える訳ですが、これに対する呉座氏の重ねての質問はなかなか厳しいですね。
既に一部を紹介済みですが、改めて正確に引用します。(p34)
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呉座 なるほど。ではこの点はどうでしょうか。『太平記』のとくに後ろのほうで室町幕府二代将軍の足利義詮は讒言に惑わされやすい凡庸な人物として描かれています。幕府草創史としてきちんとしたものを作ろうとしたら、義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか。そのあたりの原因も、やはり編纂が完成しないままだったことにあるのでしょうか。
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この質問に対する兵藤氏の回答は、私には「正史」説の破綻を示しているように思われますが、対象を黒く塗ってからその黒さを批判するのは私の好むところではないので、丁寧に紹介したいと思います。(p34以下)
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兵藤 どうなんでしょう。さっきお話した成立の第三段階、「近代重ねて書き継げり」の「近代」は、足利義満の時代です。『難太平記』は、その「近代」の書き継ぎ時に「高名」の「入筆」要求が「数知らず」あったと伝えています。足利方の大名が「高名」の書き入れを要求したのは、さっきも言いましたように、『太平記』が幕府草創を語る史書と見なされたからです。
義満本人がどう考えていたかはともかく、『難太平記』も、『太平記』の改訂が義満の「御沙汰」に関わると認識しています。少なくとも今川了俊も含めた有力大名のあいだでは、『太平記』は幕府草創を語る公認の書と目されていた。またそんな方向で書き継ぎと改訂、「高名」の書き入れ要求も行われたわけです。しかしその方向で完成を目指すと、それまで書かれていた部分との矛盾が噴出してしまう。いったん噴出した矛盾は一人歩きして、さらに矛盾の傷口を広げてしまう。
足利義満の父義詮が、ある箇所では大変好意的に書かれたのに、別の箇所ではぼろくそに書かれたりする。そんな矛盾や分裂を取り繕うのが難しくなって、しだいに完成も期しがたくなる。そしてついに編纂作業そのものが放棄された。そんなところではないでしょうか。
たとえば、『太平記』の後半、巻二十七に「雲景未来記の事」という章段があります。天皇批判や三種の神器論を展開していて、『太平記』を考えるうえできわめて重要な章段です。後醍醐や後村上を批判する一方で、北朝の天皇も批判・揶揄してしまう。「雲景未来記の事」は、『太平記』という矛盾・分裂したテクストにあって、生まれるべくして生まれたような章段です。
先に言いましたが、『太平記』全四〇巻を通しで読める古本は、西源院本と玄玖本です。しかし玄玖本(神宮徴古館本)には「雲景未来記の事」がない。この点が私には大いに不満です。
一部の研究者は、巻二十七に「雲景未来記の事」のない玄玖本を古態とします。しかし高橋貞一や亀田純一郎は、「雲景未来記の事」を欠く本、つまり天皇批判のない本を後出本としていました。これも水掛け論になりますが、研究というのは多数決の問題ではないし、新しい研究者の説がつねに正しいとも言えません。たとえば、正成の兵庫下向などは、君側の奸に責任を転嫁している玄玖本は、やはり後出本文でしょう。
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うーむ。
たとえ途中までとはいえ、足利義満の時代に幕府の公的な統制の下で行われた「正史」としての「『太平記』の編纂事業」が、「足利義満の父義詮が、ある箇所では大変好意的に書かれたのに、別の箇所ではぼろくそに書かれたりする」ような、誰が見ても重大かつ明白な「矛盾や分裂を取り繕う」ことをしないまま放置され、結局「編纂作業そのものが放棄」されるような事態が本当にあり得たのでしょうか。
この説明は、兵藤氏の三段階説、「正史」説が、義詮の取り扱いに関して「矛盾が噴出してしま」い、そして「いったん噴出した矛盾は一人歩きして、さらに矛盾の傷口を広げてしまう」様相を示しているように見えます。
改めて兵藤氏の出世作『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)を読むと、兵藤氏の三段階説、「正史」説は『難太平記』に全面的に依存していて、特に『難太平記』に三か所出てくる「御沙汰」という表現が決め手になっていることが分かります。
『難太平記』が完全に信頼できる書物ならばよいのですが、有名な足利家時の遺書の話など、多くの歴史研究者が疑いの眼を向けている箇所もそれなりにあります。
また、『太平記』に関係する部分の解釈にしても、兵藤氏の解釈は深読みに過ぎるのではないか、という感じもします。
要するに私は、『難太平記』に依存した兵藤氏の三段階説、「正史」説は、砂上の楼閣とまでは言わないにしても、薄氷の上の議論ではなかろうか、と疑っている訳ですが、この点は改めて論じたいと思います。
なお、「一部の研究者は、巻二十七に「雲景未来記の事」のない玄玖本を古態とします」とありますが、この「一部の研究者」は具体的には小秋元段氏ですね。
「雲景未来記の事」は面白い章段なので、後で小秋元段氏の見解を踏まえて、詳しく論じたいと思います。
また、「正成の兵庫下向などは、君側の奸に責任を転嫁している玄玖本」云々とありますが、これは楠木正成に無謀な出陣を命じて戦死させた主体が、西源院本などでは後醍醐天皇であるのに対し、玄玖本では「君側の奸」坊門清忠とされ、後醍醐への直接の批判が避けられていることを言っています。
この点は小見出しの十一番目「流布本の問題点」で触れられていましたが、引用はしませんでした。