投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月17日(土)12時18分50秒
小見出しの十三番目、「『太平記』の作者の「史官」意識」に入ります。
前回投稿で紹介した兵藤氏の発言、「雲景未来記の事」以下は呉座氏の質問をはぐらかしているように見えますが、呉座氏の追及は、表現は穏やかであるものの更に続きます。(p35)
-------
呉座 『難太平記』に出てくる「宮方(南朝)深重の者」という記述の解釈については様々な議論がありますが、『太平記』が必ずしも南朝寄りとは言えないことは共通理解だと思います。少なくとも今残っている『太平記』のテクストを見ると、結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります(笑)。すべてを批判しているという意味で公正中立と言えるかもしれません。ともあれ、そういう書きぶりが、特定の視点に立っている感じを与えません。南朝も駄目、北朝も駄目、幕府も駄目、みんな駄目、という評価になっていることをどう捉えたらいいのでしょうか。
-------
兵藤氏の三段階説、幕府「正史」説は全面的に『難太平記』に依拠していますが、『太平記』をごく素直に読む限り、確かに呉座氏の言われるように「特定の視点に立っている感じを与え」ない訳で、これは兵藤説への本質的な批判ですね。
ただ、呉座氏の「結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります」という感想には若干の疑問があって、私の見るところ、『太平記』には仏教勢力、特に叡山などの旧仏教に対する批判的姿勢は見られないのではないかと思います。
『太平記』では禅宗は厳しく批判されていて、夢窓疎石などを軽侮する記述も相当ありますが、個々の僧侶や僧兵集団の行動はともかく、旧仏教そのものを批判する姿勢はないのではないか、そしてそれは何故なのか。
素直な答えは、作者が旧仏教側に属する人間だ、ということになりそうですが、この点は後で論じたいと思います。
さて、呉座氏の問いをきっかけとする二人の応答をもう少し紹介します。(p35以下)
-------
兵藤 『太平記』の終盤、巻三十五に「北野参詣人政道雑談の事」という章段があります。終わりの見えない乱世に関して、たまたま北野天満宮に来合せた三人の隠者たちが論評しあう。異国・本朝の先例話を雑談(物語)しながら時勢批判しますが、一般に「北野通夜物語」として知られています。
呉座 『太平記』の思想を象徴する章とされていますね。
兵藤 そこで語られる先例話の一つに、唐の玄宗皇帝に仕えた太史の官の話があります。太史の官は、皇帝に仕えてその行状を記録する史官の長です。玄宗は、即位してまもなく自分の兄寧王の妃となるはずだった楊貴妃を奪います。その事実をありのままに記した太史の官は、首をはねられます。
すると、魯の国から別の儒者がやって来て後任の太史の官になります。その人物も玄宗の不義をありのままに書いたので車裂きの刑となります。するとまた、同じ魯の国から──魯は孔子の出身地です──太史の官を継ぐ儒者がやって来ます。そして同じく不義・不正の事実を記したため、さすがの玄宗も自分の非を悟ったという話です。
乱世の歴史を書き継ぐ『太平記』作者たちは、この太史の官の先例話を知っていたわけです。この話は、作者たちの史官意識というか、乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなものを語っているでしょう。
政界のどんな実力者だろうと、仁木や畠山、斯波は批判されるし、細川も批判される。有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じても、歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持は維持される。『太平記』の後半、第三部では、源平交替とか源氏嫡流の「国争い」といった構想の枠組みは失われます。でも、その作者たち──具体的にどんな人たちをイメージしたらよいか、わたしにもまだよく分かりませんが、作者たちの共有した歴史家としての矜持のようなものが、乱世の歴史をともかくも書き継ぐという、一見不毛ともみえるモチベーションを支えたのでしょう。
-------
うーむ。
正直、兵藤氏の言われることは私には全部が全部、何から何まで頓珍漢に思われます。
呉座氏は「『太平記』が必ずしも南朝寄りとは言えないことは共通理解だ」と言われますが、それより更に多くの、おそらく全ての研究者が賛成する「共通理解」として、『太平記』に極めて誇張が多いことが挙げられます。
数字だけ見ても、せいぜい数百人くらいの軍勢が千人はおろか、万人ぐらいに膨れ上がっている例が山ほどありますが、こうした適当さ、話を面白くするためだったらいくら誇張してもかまわない、という『太平記』作者のいい加減さは、「太史の官」の、たとえ首を刎ねられようとも「事実をありのままに記」すのだ、正確な史実を後世に残すのだ、という姿勢とほんの少しでも重なるところがあるのでしょうか。
数字だけでなく、『太平記』には笑い話、奇想天外・荒唐無稽な怨霊譚など、「史官意識」の欠片も窺うことのできない虚実入り乱れたエピソードが溢れていますが、そこに「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」が本当にあるのでしょうか。
「政界のどんな実力者だろうと、仁木や畠山、斯波は批判されるし、細川も批判される」のはその通りですが、それは『太平記』の作者たちが権力者に殺されるのを覚悟で、決死の思いで歴史の真実を記したからではなく、逆に誰を批判しようと、別に殺されることもない環境にいたことを示すと考える方が自然です。
少なくとも小嶋法師は別に殺されることもなく人生を全うしていますし、他に『太平記』の作者やその周辺で殺害されたような人の話も聞きません。
また、「有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じても、歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持は維持される」というのは極めて奇妙で、私には兵藤氏の論理がさっぱり理解できません。
いったい、そのような態度のどこに「史官意識」があるのか。
『難太平記』が述べるように「有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じ」るという事実が本当にあったのならば、それは『太平記』の作者に「史官意識」もなければ「歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持」もないことを示していると考える方が素直です。
兵藤氏の主張はあまりに莫迦げており、まだまだ言い足りませんが、長くなったので、いったん切ります。
小見出しの十三番目、「『太平記』の作者の「史官」意識」に入ります。
前回投稿で紹介した兵藤氏の発言、「雲景未来記の事」以下は呉座氏の質問をはぐらかしているように見えますが、呉座氏の追及は、表現は穏やかであるものの更に続きます。(p35)
-------
呉座 『難太平記』に出てくる「宮方(南朝)深重の者」という記述の解釈については様々な議論がありますが、『太平記』が必ずしも南朝寄りとは言えないことは共通理解だと思います。少なくとも今残っている『太平記』のテクストを見ると、結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります(笑)。すべてを批判しているという意味で公正中立と言えるかもしれません。ともあれ、そういう書きぶりが、特定の視点に立っている感じを与えません。南朝も駄目、北朝も駄目、幕府も駄目、みんな駄目、という評価になっていることをどう捉えたらいいのでしょうか。
-------
兵藤氏の三段階説、幕府「正史」説は全面的に『難太平記』に依拠していますが、『太平記』をごく素直に読む限り、確かに呉座氏の言われるように「特定の視点に立っている感じを与え」ない訳で、これは兵藤説への本質的な批判ですね。
ただ、呉座氏の「結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります」という感想には若干の疑問があって、私の見るところ、『太平記』には仏教勢力、特に叡山などの旧仏教に対する批判的姿勢は見られないのではないかと思います。
『太平記』では禅宗は厳しく批判されていて、夢窓疎石などを軽侮する記述も相当ありますが、個々の僧侶や僧兵集団の行動はともかく、旧仏教そのものを批判する姿勢はないのではないか、そしてそれは何故なのか。
素直な答えは、作者が旧仏教側に属する人間だ、ということになりそうですが、この点は後で論じたいと思います。
さて、呉座氏の問いをきっかけとする二人の応答をもう少し紹介します。(p35以下)
-------
兵藤 『太平記』の終盤、巻三十五に「北野参詣人政道雑談の事」という章段があります。終わりの見えない乱世に関して、たまたま北野天満宮に来合せた三人の隠者たちが論評しあう。異国・本朝の先例話を雑談(物語)しながら時勢批判しますが、一般に「北野通夜物語」として知られています。
呉座 『太平記』の思想を象徴する章とされていますね。
兵藤 そこで語られる先例話の一つに、唐の玄宗皇帝に仕えた太史の官の話があります。太史の官は、皇帝に仕えてその行状を記録する史官の長です。玄宗は、即位してまもなく自分の兄寧王の妃となるはずだった楊貴妃を奪います。その事実をありのままに記した太史の官は、首をはねられます。
すると、魯の国から別の儒者がやって来て後任の太史の官になります。その人物も玄宗の不義をありのままに書いたので車裂きの刑となります。するとまた、同じ魯の国から──魯は孔子の出身地です──太史の官を継ぐ儒者がやって来ます。そして同じく不義・不正の事実を記したため、さすがの玄宗も自分の非を悟ったという話です。
乱世の歴史を書き継ぐ『太平記』作者たちは、この太史の官の先例話を知っていたわけです。この話は、作者たちの史官意識というか、乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなものを語っているでしょう。
政界のどんな実力者だろうと、仁木や畠山、斯波は批判されるし、細川も批判される。有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じても、歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持は維持される。『太平記』の後半、第三部では、源平交替とか源氏嫡流の「国争い」といった構想の枠組みは失われます。でも、その作者たち──具体的にどんな人たちをイメージしたらよいか、わたしにもまだよく分かりませんが、作者たちの共有した歴史家としての矜持のようなものが、乱世の歴史をともかくも書き継ぐという、一見不毛ともみえるモチベーションを支えたのでしょう。
-------
うーむ。
正直、兵藤氏の言われることは私には全部が全部、何から何まで頓珍漢に思われます。
呉座氏は「『太平記』が必ずしも南朝寄りとは言えないことは共通理解だ」と言われますが、それより更に多くの、おそらく全ての研究者が賛成する「共通理解」として、『太平記』に極めて誇張が多いことが挙げられます。
数字だけ見ても、せいぜい数百人くらいの軍勢が千人はおろか、万人ぐらいに膨れ上がっている例が山ほどありますが、こうした適当さ、話を面白くするためだったらいくら誇張してもかまわない、という『太平記』作者のいい加減さは、「太史の官」の、たとえ首を刎ねられようとも「事実をありのままに記」すのだ、正確な史実を後世に残すのだ、という姿勢とほんの少しでも重なるところがあるのでしょうか。
数字だけでなく、『太平記』には笑い話、奇想天外・荒唐無稽な怨霊譚など、「史官意識」の欠片も窺うことのできない虚実入り乱れたエピソードが溢れていますが、そこに「乱世の歴史を書き継ぐ矜持のようなもの」が本当にあるのでしょうか。
「政界のどんな実力者だろうと、仁木や畠山、斯波は批判されるし、細川も批判される」のはその通りですが、それは『太平記』の作者たちが権力者に殺されるのを覚悟で、決死の思いで歴史の真実を記したからではなく、逆に誰を批判しようと、別に殺されることもない環境にいたことを示すと考える方が自然です。
少なくとも小嶋法師は別に殺されることもなく人生を全うしていますし、他に『太平記』の作者やその周辺で殺害されたような人の話も聞きません。
また、「有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じても、歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持は維持される」というのは極めて奇妙で、私には兵藤氏の論理がさっぱり理解できません。
いったい、そのような態度のどこに「史官意識」があるのか。
『難太平記』が述べるように「有力大名の「高名」の書き入れ要求に応じ」るという事実が本当にあったのならば、それは『太平記』の作者に「史官意識」もなければ「歴史を書き継ぐ者、語り継ぐ者としての矜持」もないことを示していると考える方が素直です。
兵藤氏の主張はあまりに莫迦げており、まだまだ言い足りませんが、長くなったので、いったん切ります。