学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)

2020-10-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月31日(土)17時12分45秒

前回投稿で引用した部分の最後、北条側に若干同情的に見える記述もありましたが、これも別に『太平記』の作者が心から同情している訳ではなくて、勝者と敗者の立場の違いをくっきりと描きたい程度の意図なのでしょうね。
さて、続きです。(p42以下)

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 四月二十七日には、八幡、山崎の合戦とかねてより定められければ、名越尾張守、大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道〔つくりみち〕より向かはる。足利治部大輔高氏朝臣は、搦手〔からめて〕の大将として五千余騎、西岡よりぞ向はれける。
 八幡、山崎の官軍、これを聞いて、「難所に出で合ひて、不意に戦ひを決せよ」とて、千種頭中将忠顕卿は五百余騎にて、大渡の橋を打ち渡り、赤井河原にひかへらる。結城九郎左衛門尉親光は三百余騎にて、狐川の辺に相向かふ。赤松入道円心は三千余騎にて、淀の古川、久我縄手〔こがなわて〕の南北に三ヶ所に陣を張る。これ皆、強敵〔ごうてき〕を拉〔とりひし〕ぐ気、天を廻らし地を傾くと云ふとも、機をとぎ勢ひを呑める今上りの東国勢一万余騎に対して、戦ふべしとは見えざりけり。
 足利殿は、かねてより内通の子細ありけれども、もしたばかりもやし給ふらんと、坊門少将雅忠朝臣、寺戸、西岡の野伏ども五、六百人駆り催して、岩蔵の辺へ向かはる。
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ということで、官軍側も上洛したばかりで気勢の盛んな東国勢に正面からぶつかろうとはせず、様子を見ています。
また、尊氏に「内通の子細」があることを知らされていた官軍側の「坊門少将雅忠朝臣」は、なお万一の謀略に備えて尊氏の動きを警戒していたとのことで、このあたりもそれなりにリアルな描写ですね。
以上で第二節が終わって、第三節「名越殿討死の事」に入ります。(p43以下)

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 さる程に、「搦手の大将足利殿は、未だ明けざる程に京を立ち給ひぬ」と、披露ありければ、大手の大将名越尾張守、さては早や人に前〔さき〕を懸けられぬと、安からぬ事に思はれて、さしも深き久我縄手の、馬の足も立たぬ泥土〔でいど〕の中へ馬を打ち入れ打ち入れ、われ前にとぞ進まれける。尾張守は、元来気早〔きはや〕なる若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚かすやうにして、名を揚げんずるものをと、かねてよりあらまされける事なれば、その日の馬、物具〔もののぐ〕、笠符〔かさじるし〕に至るまで、あたりを耀かして出で立たれたり。
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この後、名越高家の行装がいかに立派であったかが延々と語られます。
省略しようかなとも思いましたが、作者がそれなりに気合を入れて書いているであろう部分なので、そのまま引用します。(p44以下)

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 花曇子〔かどんす〕を滋紅〔こきくれない〕に染めたる鎧直垂〔ひたたれ〕に、紫糸の鎧の金物〔かなもの〕繁く打つたるを透き間もなく着下して、白星の五枚甲〔かぶと〕の、吹返〔ふきかえし〕に日光、月光の二天子を金と銀とを以て彫り透かして打つたるを、猪頸〔いくび〕に着なし、当家累代の重宝〔ちょうほう〕鬼丸と云ふ金作〔こがねづく〕りの丸鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を一振〔ひとふり〕帯〔は〕き添へ、鷹うすべ尾の矢三十六差いたるを筈高〔はずだか〕に負ひなし、黄瓦毛〔きかわらげ〕の馬の太く逞しきに、三本唐笠を金貝〔かながい〕に磨〔す〕りたる鞍を敷き、厚総〔あつぶさ〕の鞦〔しりがい〕の燃え立つばかりなるを懸け、朝日の影に耀かして光り渡りて見えたるが、ややもすれば軍勢より前〔さき〕に進み出で進み出で、あたりを払ひて懸けられければ、馬、物具の体〔てい〕、軍立〔いくさだち〕の様、今日の大手の大将はこれなりと、知らぬ敵はなかりけり。されば、敵も自余の葉武者〔はむしゃ〕どもに目を懸けず、ここに開き合はせ、かしこに攻め合はせて、これ一人を討たんとしけれども、鎧よければ、裏を掻かする矢もなし。打物〔うちもの〕の達者なれば、近づく敵の切つて落とされぬはなかりけり。その勢ひの参然〔さんぜん〕たるに辟易して、官軍数万の兵、すでに開き靡きぬとぞ見えたりける。
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ということで、衣装・武具・馬・馬具の全てが立派過ぎて、誰が見ても大将に見える名越高家めがけて官軍側の攻撃が集中しますが、鎧が良いので矢は射通せず、高家は剣の達者なので近づく敵も切って落とされ、あまりに高家の勢いが盛んなので官軍側も退却してしまいます。
ま、ここも高家の立派さを強調すればするほど、次の場面の描写が引き立つことを狙っての誇張表現なのでしょうね。
さて、「気早なる若武者」、名越高家の運命や如何に。
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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その3)

2020-10-31 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月31日(土)12時59分1秒

偽りの起請文を書いたって別にかまわないと直義が言うと、尊氏も直ぐに「至極の道理」だなどと納得してしまう場面、けっこう笑えるように思えますが、この記述に注目している研究者はあまりいないようですね。
直義の文書に関するドライな感覚は、建武二年(1335)十二月、後醍醐との対決を避けるために自分は出家するとゴネる尊氏を翻意させるため、たとえ出家しても勅勘は免れないのだという趣旨の偽綸旨を十数通偽造する場面でも遺憾なく発揮されますが(第十四巻、「箱根軍の事」)、こちらは宗教的権威ではなく天皇の権威の問題です。
この時、尊氏の依怙地さに周囲が困惑する中で、上杉重能が「謀(はかりごと)の綸旨を二、三通書いて、将軍に見せまゐらせ候はばや」と提案すると、直義はあっさり了解します。
そして重能に命じて名宛人を異にする十数通の綸旨を偽造させると、それを持った直義は建長寺(『梅松論』では浄光明寺)に籠る尊氏のもとに行って、敵から奪ったと称する綸旨を尊氏に見せ、「とても遁れぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思し召し翻して、氏族の浮沈を御扶け候へかし」と涙ながら訴え、それを聞いた尊氏は「謀書とは思ひも寄り給はず」、それでは仕方ない、自分も戦うぞと宣言します。(兵藤校注『太平記(二)』、p376)
綸旨の偽造だなんて天皇の権威を全く無視する恐ろしい所業ではないか、大変な犯罪ではないか、と思われますが、別に『太平記』は重能や直義を非難することもなく、直義の小芝居に騙された尊氏も、後から直義に苦情を言ったりはしません。
まあ、私は『太平記』を大河ドラマのようなものと考えるので、偽綸旨のエピソードも真偽不明と言わざるをえないと思いますが、しかし、『太平記』の作者は、綸旨の偽造ぐらい別にたいしたことじゃないよね、という基本的発想で書いていて、読者・聴衆も、まあ、そんなもんだよね、で納得してしまっているように思われます。
こうした文書に関するエピソードは、南北朝期において宗教的権威とはいったい何だったのか、天皇の権威とはいったい何だったのか、という問題を考える上では極めて大事な素材のように思いますが、こうした問題を追及している歴史学研究者は誰かいるのでしょうか。
国文学研究者では、小秋元段氏が「「雲景未来記」の批評精神と『太平記』の現実感覚」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019)で偽綸旨のエピソードについて少し検討されているので、後で紹介したいと思います。
さて、「降参」の問題に戻って、『太平記』第九巻「足利殿上洛」の続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p40)

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 足利殿御兄弟、吉良、上杉、二木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ。
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今川了俊がこの記述を見ていたとすれば、自分の家の順番など、相当に気になるところでしょうね。
上杉が「御一族」の中に入っていて、しかも吉良に次いで二番目というのはちょっと不思議な感じがしないでもありません。
また、足利の「御一族」が三十二人で「高家の一類」が四十三人ですから、数の上では高一族の方が三割強多くて、これも少し意外です。
以上で第一節が終わって、第二節に入ります。(p40以下)

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久我縄手合戦の事

 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足らずと欺〔あざむ〕きながら、宗徒〔むねと〕の勇士と憑〔たの〕まれたりける結城九郎左衛門尉、敵となつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外〔ほか〕国々の勢ども、五騎、十騎、或いは転漕〔てんそう〕に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢いよいよ重なり、武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり。かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。
 かかる処に、足利殿は、京着の翌日より、伯耆船上〔ふなのうえ〕へひそかに使ひを進〔まいら〕せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。
 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも寄るべき事ならねば、日々に参会して、八幡、山崎を攻めらるべき由、内談評定一々に、心底を残さず尽くされけるこそはかなけれ。「太行〔たいこう〕の路〔みち〕能〔よ〕く車を摧〔くだ〕く。若し人心に比すれば、これ平路なり。巫峡〔ぶこう〕の水能く船を覆す、若し人心に比すれば、これ安き流れなり。人の心の好悪太〔はなは〕だ常ならず」と云ひながら、足利殿は、代々、相州の恩を戴き、徳を荷〔にな〕うて、一家の繁昌、恐らくは天下に人肩を双ぶべき者ぞなき。その上、赤橋前相模守の縁になつて、公達あまた出で来させ給へば、この人よりも二心〔ふたごころ〕はおはせじと、相模入道ひたすらに憑〔たの〕まれけるも理〔ことわ〕りなり。
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ということで、尊氏は「京着の翌日」、即ち四月十七日に伯耆船上山の後醍醐に使者を送って自らの反逆の意思を伝え、後醍醐は格別に「叡感」があり、朝敵追罰の綸旨が下されたことが記されます。
他方、六波羅の両探題や名越高家は尊氏の陰謀を知る由もなく、日々参会して戦略を練っていたのははかないことであり、足利家は代々北条家の恩を受け、経済的に極めて豊かで、更に尊氏は執権赤橋守時の妹を正室に迎えたのだから、まさか裏切ることはないだろうと北条高時が思っていたのも理だ、という『太平記』の書き方は、けっこう幕府側に同情的なようにも思えます。
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