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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)

2020-10-29 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月29日(木)10時00分29秒

『難太平記』の足利尊氏「降参」という表現は清水説の当否を超えた重要な問題なので、少し詳しく検討します。
清水氏の現代語訳はなかなかの名訳だとは思いますが、念のため少し範囲を広げて『難太平記』の原文を紹介しておきます。
これは国会図書館デジタルコレクションで読めます。
リンク先ページの「コマ番号」に「351」を入れると『難太平記』の最初のページが出てきて、「353」に下記箇所があります。

『群書類従. 第拾四輯』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783

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六波羅合戦の時。大将名越うたれしかば。今一方の大将足利殿先皇に降参せられけりと。太平記に書たり。返々無念の事也。此記の作者は宮方深重の者にて。無案内にて押て如此書たるにや。寔に尾籠のいたりなり。尤切出さるべきをや。すべて此太平記事あやまりも。空ごともおほきにや。昔等持寺にて。法勝寺の恵珍上人。此記を先三十余巻持参し給ひて。錦小路殿の御目にかけられしを。玄恵法印によませられしに。おほく悪とも誤も有しかば。仰に云。是は且見及ぶ中にも以の外ちがひめ多し。追て書入。又切出すべき事等有。其程不可有外聞有之由仰有し。後に中絶也。近代重て書継けり。次でに入筆者を多所望してかゝせければ。人高名数をしらず書り。さるから随分高名の人々も。且勢ぞろへ計に書入たるもあり。一向略したるも有にや。今は御代重行て。此三四十年以来の事だにも。無跡形事ども任雅意て申めれば。哀々其代の老者共在世に。此記の御用捨あれかしと存也。平家は多分後徳記のたしかなるにて。書たるなれども。それだにもかくちがひめありとかや。まして此記は十が八九はつくり事にや。大かたはちがふべからず。人々の高名などの偽りおほかるべし。まさしく錦小路殿の御所にて。玄恵法印読て。其代の事ども。むねとかの法勝寺上人の見聞給ひしにだに。如此悪言有しかば。唯をさへて難じ申にあらず。
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このように確かに『難太平記』の原文にも「降参」という表現はあるのですが、私はこれは「宮方深重の者」「此記は十が八九はつくり事にや」などと同じく、かなり極端な誇張表現ではないかと疑っています。
従来の学説は「降参」を文字通りに受け取っていますが、そこに根本的な誤解があるのではないか、というのが私見の出発点です。
このように考える理由として、「降参」を文字通り受け取ると、今川了俊が見たという『太平記』に記された尊氏の叛逆は相当間抜けな物語になってしまうことが挙げられます。
仮に尊氏が名越高家戦死を知って初めて後醍醐帝への「降参」を決意したとしたら、『太平記』は一体どのような物語になるのかを、西源院本の第九巻に即して少し丁寧に考えてみたいと思います。
『太平記』第九巻は、

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1 足利殿上洛の事
2 久我縄手合戦の事
3 名越殿討死の事
4 足利殿大江山を打ち越ゆる事
5 五月七日合戦の事
6 六波羅落つる事
7 番場自害の事
8 千剣破城寄手南都へ引く事
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と構成されていて、「足利殿上洛の事」は次のように始まります。(兵藤校注『太平記(二)』、p35以下)

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 先朝船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。
 その中に、足利治部大輔高氏は、所労の事あつて起居も未だ快からざりけるを、また上洛のその数に載せて催促度々に及べり。足利殿、この事によつて心中に憤り思はれけるは、われ父の喪に居して未だ三月に過ぎざれば、悲歎の涙乾かず。また病気身を侵して負薪の愁へ未だ止まざる処に、征伐の役に随へて相催す事こそ遺恨なれ。時移り事反して、貴賤位を易ふと云へども、かれは北条四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。われは源家累葉の貴族なり。王氏を出でて遠からず。この理りを知りながら、一度は君臣の儀をも存ずべきに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖によつてなり。所詮、重ねてなほ上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきものをと、心中に思ひ立たれけるをば、知る人更になかりけり。
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足利尊氏は既に第三巻に登場していますが、こちらは元弘元年(1331)九月、笠置攻めの応援部隊として上洛した軍勢リストに名前が出ているだけです。(兵藤校注『太平記(一)』、p151)
本格的な登場は第九巻ですが、尊氏は第九巻の冒頭から「先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきもの」と決意しています。
清水氏流に言うならば、まことに「室町幕府創世記」の出発点にふさわしい尊氏の断固たる決意表明ですが、仮に尊氏が名越高家討死で初めて後醍醐への「降参」を決めたとするならば、この部分はどのような記述になるのか。
「源家累葉の貴族」である自分が「人臣に下つて年久し」い「北条四郎時政が末孫」ごときにあれこれ命令されてくやしいけれども、「ひとへに身の不肖によつて」だから仕方ない、と嫌々出かけて行ったと記すのか。
それとも尊氏の内心は一切語らず、淡々と出発の事実だけを記すのか。
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