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『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)

2020-10-30 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月30日(金)11時06分45秒

続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p36)

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 相模入道、かかるべき事とは思ひもよらず、工藤左衛門尉を使ひにて、「御上洛延引心得候はず」と、一日が中に両度までこそ責められけれ。足利殿、反逆の企てすでに心中に思ひ定められければ、なかなか異儀に及ばず、「不日〔ふじつ〕に上洛仕り候ふべし」とぞ、返答せられける。
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上洛が遅いと責め立てる北条高時に対し、「反逆の企てすでに心中に思ひ定められければ」ということで、尊氏の倒幕の決意が既に確定的であることが再び強調されます。
この後、高時を補佐する長崎入道円喜の助言で、尊氏に対し、正室の赤橋登子と「幼稚の御子息」(千寿王=義詮)を人質とし、更に起請文を提出することが命ぜられます。

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 即ち夜を日に継いで打つ立たれけるに、御一族、郎等は申すに及ばず、女性〔にょしょう〕、幼稚の子息までも、残らず御上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道円喜、怪しく思ひて、急ぎ相模入道の方に参り申しけるは、「誠にて候ふやらん、足利殿こそ、御台〔みだい〕、君達まで皆引き具し奉つて、御上洛候はんずるなれ。事の体〔てい〕怪しく覚え候ふ。かやうの時は、御一門の疎かならぬ人にだに御心を置かれ候ふべし。況んや、源家の氏族として、天下の権柄を捨て給へる事年久しければ、もし思し召し立つ事もや候ふらん。異国よりわが朝に至るまで、世の乱れたる時は、覇王、諸侯を集めて牲〔いけにえ〕を殺して血を啜〔すす〕り、二心〔ふたごころ〕なからん事を盟〔ちか〕ふ。今の世の起請〔きしょう〕これなり。或いはその子を質に出だして、野心の疑ひを散ず。木曽殿、御子清水冠者を大将殿の御方へ出ださるる例、これにて候。かやうの例を存じ候ふにも、いかさま足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に留め申されて、一紙の起請文を書かせまゐらせらるべしとこそ存じ候へ」と申しければ、相模入道、げにもとや思はれけん、やがて使者を以て言ひ遣はされけるは、「東国は未だ世閑〔しず〕かにして、御心安かるべきにて候ふ。幼稚の御子息をば、皆鎌倉中に留め置きまゐらせられ候ふべし。次に、両家体〔てい〕を一つにして、水魚の思ひをなされ候ふ上は、赤橋相州御縁になり候ふ上、何の不審か御座候ふべきなれども、諸人の疑ひを散じ候はんためにて候へば、恐れながら、一紙の誓言を留め置かれ候はん事、公私に付けてしかるべくこそ存じ候へ」と申されたれば、足利殿、鬱陶いよいよ深まりけれども、憤りを押さへて出だされず、「これよりやがて御返事申すべし」とて、使者をば返されけり。
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「鬱陶いよいよ深まりけれども」、もちろんそんな感情を出すことなく使者を返した後、尊氏は弟の「兵部大輔殿」直義に相談しますが、これが『太平記』に直義が登場する最初の場面です。(p38以下)

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 その後、御舎弟兵部大輔殿を呼びまゐらせて、「この事いかがあるべき」と、意見を訪〔と〕はれければ、且〔しばら〕く思案して申されけるは、「この一大事を思し召し立つ事、全く御身のためにあらず。ただ天に代はつて無道〔ぶとう〕を誅して、君の御ために不義を退けんためなり。その上の誓言〔せいごん〕は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞〔ことば〕を載せられ候ふとも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候ふべき。就中〔なかんずく〕、御子息と御台〔みだい〕とを鎌倉に留め置き奉らん事、大儀の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず。公達は、いまだ御幼稚におはし候へば、自然の事もあらん時には、そのために残し置かるる郎従ども、いづくへも懐き抱へて逃し奉り候ひなん。御台の御事は、また赤橋殿さても御座候はん程は、何の御痛はしき事か候ふべき。「大行〔たいこう〕は細謹〔さいきん〕を顧みず」とこそ申し候へ。これら程の小事に猶予あるべきにあらず。ただともかくも相州入道の申されんやうに随ひて、かの不審を散ぜしめ、この度御上洛候ひて後、大儀の計略を廻らさるべしとこそ存じ候へ」と申されければ、足利殿、至極の道理に伏して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹をば、鎌倉に留め置き奉り、一紙の告文〔こうぶん〕を書いて、相模入道の方へ遣はさる。相州入道、これに不審を散じて、喜悦の思ひをなし、乗替〔のりかえ〕の御馬とて、飼うたる馬に白鞍置いて十疋、白覆輪〔しろぶくりん〕の鎧十両引かれけり。
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尊氏から相談された直義は、起請文など別に心配する必要はない、「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開します。
そして、正室と子息を人質の取られようとも、子息は幼児だから万一のときには郎従が抱えてどこにでも逃がせるし、正室は執権・赤橋守時の妹だから幕府も手を出すはずがない、「大行は細謹を顧みず」(大事業を行うときは、些細な慎みは顧みない)と言われているように、起請文や人質といった小さなことは気に懸けず、当面は北条高時の命令にハイハイと従っておいて、上洛した後に大事業を行いましょう、と提案します。
これを聞いた尊氏は「至極の道理」だと感心して、直義の提案を了解します。
ま、私は基本的に『太平記』を大河ドラマのようなものだと考えるので、以上の全てが歴史的事実を反映しているとは思いませんが、起請文に関する直義の極めてドライな感覚は面白いですね。
黒田日出男氏は起請文の決まり文句である「身の八万四千の毛穴毎に」といった表現を生真面目に受け止めて「中世民衆の皮膚感覚と恐怖」という陰気な論文を書かれており(『境界の中世 象徴の中世』所収、初出は1982年)、もちろん黒田氏の認識が全くの的外れということではないとは思いますが、しかし、一方では中世にも起請文破りを何とも思わない人たちが大勢いたはずです。

『起請文の精神史』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90dbd4d5b3b86a9902c3934f5a587e24

直義自身が本当に上記のような理屈を述べ、それを尊氏が「至極の道理」と認めたかどうかはともかくとして、『太平記』の作者がこのような場面を設定し、多くの読者・聴衆もおそらく、さほどの抵抗感もなく受け止めたであろうことは、中世人の宗教観を正確に認識する上で極めて重要な事実だと私は考えます。
ま、それはともかく、『難太平記』が記すように、仮に尊氏が名越高家討死で初めて後醍醐への「降参」を決めたとするならば、この場面もどのような記述になるのか。
北条高時から人質と起請文を要求された尊氏が、特に悩むこともなく淡々と高時の要求に応じました、とでも書くのでしょうか。
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