学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)

2020-10-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月24日(土)21時44分47秒

数回のつもりで始めた兵藤・呉座対談の検討、ずいぶん長くなってしまいましたが、これが最後です。
前回投稿で引用した部分に続けて、兵藤氏が水戸光圀の『大日本史』や由井正雪などに言及し、「『太平記』の多義性というかテクストの重層的なあり方が、日本の近世・近代の政治史をつくりだしたようなところがある」という、兵藤著の読者にはお馴染みの議論をすると、呉座氏が「おっしゃる通りですね。【後略】」と受けます。
そして、兵藤氏が久米邦武の論考「太平記は史学に益なし」に「太平記の流毒」という表現があることを紹介し、久米の「太平記の流毒」を歴史学から遠ざけようとする「使命感」を論ずると、呉座氏が、

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呉座 久米事件以降のアカデミズム史学はその傾向がより顕著ですね。ただ、遮断してしまえば、アカデミズム史学のなかは安全、安心かもしれませんが、その外はどうすることもできないわけです。だから南北朝正閏問題などがどんどん出てきて、最後は「楠公精神だ!」という玉砕賛美の流れになってしまいます。アカデミズム史学がイデオロギッシュな物語から距離を置いても、外側の世界は結局『太平記』によって埋め尽くされてしまう。それはけっこう現代的な問題でもあるかな、と思います。
 『太平記』には、通俗的な歴史小説の原点のような性格があります。日本史学、歴史学で研究されている内容は、やはり一般の方にはあまり伝わっておらず、一般の人たちがどこで歴史を学び影響を受けているかというと、やはり司馬遼太郎らの歴史小説や大河ドラマなどになると思います。
 「太平記は史学に益なし」といって遮断したとしても、物語的な歴史観によって学界の外堀を埋められてしまう図式・構図は、長いあいだずっと変わっていないのかもしれません。
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と応答します。(p39)
このあたり、近年、「陰謀論」との戦いを繰り広げておられる呉座氏にとっては深刻な危機感の反映なのかもしれませんが、正直、私などには呉座氏の危機感があまり理解できず、アツモノに懲りてナマスを吹いている人を眺めるような若干の滑稽感すら感じます。

呉座勇一の直言「再論・俗流歴史本-井沢元彦氏の反論に接して」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74400
「俗流歴史本」の何が問題か、歴史学者・呉座勇一が語る
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65110

ま、それはともかく、この後、

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兵藤 アカデミズム史学の外側で、『太平記』的な「物語」はどんどん増殖して、社会に甚大な影響を与えてしまうと。

呉座 与えてしまうわけです。そういう意味で、手を付けなければいという問題ではありません。近づくと危険なので、敬して遠ざけるようなところがずっとあったような気がしますが、やはり歴史学もきちんと『太平記』について語るべきだと思います。

兵藤 そうですね。今日は、呉座さんの歴史学の視点をとおして、たいへん刺激的で有意義な対談ができたと思います。ありがとうございました。
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ということで、年齢差三十歳の二人の対談は大団円を迎えます。
兵藤氏はマルクス主義の歴史にやたら詳しい、国文学の世界では異端的な「社会派」であり、呉座氏も近年「社会派」への道を歩まれているようなので、二人はとても気が合ったみたいですね。
さて、私も二人の対談を検討する過程で、ある程度自分の意見を言ってきたつもりですが、『太平記』が「複数の異質な成立段階を抱えこんで」いるがゆえに「テクストは重層的・多義的で、さまざまな読みを許容してしまう」(p38)という、兵藤氏の議論の出発点であり終点でもある論点については正面から批判はしてきませんでした。
詳しい議論は後で行いますが、私は巻二十七「雲景未来記の事」に登場する「愛宕山の太郎坊」に倣って「高見の見物史観」(仮称)というものを提示したいと思っていて、『太平記』の「重層性・多義性」を兵藤氏とは別の立場から論証するつもりです。
即ち、『太平記』は別に「複数の異質な成立段階を抱えこんで」はいないけれども、その作者は幕府に政治的・経済的に依存しない知識人の集団であって、それぞれ異なる専門分野と政治的立場で知識・経験を積んだ複数の知識人が自身の歴史観を率直に述べ、それらを無理に統一しようとしていない、と仮定します。
複数の素材をじっくり煮込んでドロドロにしたシチューのような料理ではなく、それぞれの素材の良さをそのまま生かしたサラダボウルのようなイメージですね。
このように仮定すれば、『太平記』は自然に「重層的・多義的」になり、「さまざまな読みを許容してしまう」とともに、相互に矛盾・対立があろうとも全然オッケーということになります。
ある人は幕府の要人を誉め、別の人はその悪口を言い、ある人は南朝を誉め、別の人は悪口を言う、といった具合いに、結果的に全方位的に悪口を言うことも可能となります。
従って、呉座氏の「義満の父である義詮があそこまでひどく書かれることはないのではないでしょうか」(p34)や、「少なくとも今残っている『太平記』のテクストを見ると、結局、登場人物をみんな批判しているようなところがあります(笑)。すべてを批判しているという意味で公正中立と言えるかもしれません。ともあれ、そういう書きぶりが、特定の視点に立っている感じを読者に与えません。南朝も駄目、北朝も駄目、幕府も駄目、みんな駄目、という評価になっていることをどう捉えたらいいのでしょうか」(p35)といった「素朴な疑問」も解消されることになります。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その9)(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fc06c6a477e7273102fc2816e5682446
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c61a0b004c656b87b9a80b4ab5225644
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兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その16)

2020-10-24 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月24日(土)10時50分32秒

少し戻りますが、兵藤氏は「怨霊史観のような、なんだか訳の分からない史観」、呉座氏も「怨霊が大活躍する第三部は、もう本当に訳がわかりません(笑)」(p37)などと言われています。
しかし、『太平記』の怨霊エピソードはそんなに難解ですかね。
「怨霊史観」という表現は、当時の人々が本当に怨霊を恐れていたことを前提としているように思われますが、そうでもないなと思わせる話が『太平記』にはあります。
例えば巻三十四の「吉野御廟神霊の事」では、延文五年(1360)五月頃、南朝への幕府側の厳しい攻勢が続く中で、

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 ここに、二条禅定殿下の候人にてありける上北面〔しょうほくめん〕、御方の官軍かやうに利を失ひ、城を落とさるる体〔てい〕を見て、敵のさのみ近づかぬ先に、妻子どもをも京の方へ送り遣はし、わが身も今は髻〔もとどり〕切つて、いかなる山林にも世を遁ればやと思ひて、先づ吉野辺まで出でたりけるが、さるにても、多年の奉公を捨てて、主君に離れまゐらせ、この境ひを立ち去る事の悲しさよ、せめては今一度、先帝の御廟に参りて、出家の暇〔いとま〕も申さん
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ということで(兵藤校注『太平記(五)』、p329以下)、二条師基の家来であった上北面が、たった一人で後醍醐帝の御廟へ参り、「終夜〔よもすがら〕、円丘の前に畏まつて、つくづくと憂き世の中のなり行く様を案じ続」けている中に疲れて少しまどろむと、御廟が振動します。
そして、

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 暫くあつて、円丘の内より、誠に気高げなる御声にて、「人や候ふ、人や候ふ」と召されければ、東西の山の峰より、「俊基、資朝、これに候ふ」とて参りたり。この人々は、君の御謀叛を申し勧めたりし者どもなりとて、去んぬる元徳三年五月二十九日に、資朝は佐渡国にて斬られ、俊基はその後、鎌倉の葛原岡にて工藤次郎左衛門尉に斬られし人々なり。貌〔かたち〕を見れば、正しく昔見たりし体にてはありながら、面〔おもて〕には朱を差したるが如く、眼〔まなこ〕の光り耀いて、左右の牙〔きば〕針を立てたるやうに上下に生ひ違ひたり。その後、円丘の石の扉を押し開く音しければ、遥かに見上げたるに、先帝、袞竜〔こんりょう〕の御衣を召し、宝剣を抜いて御手に提〔ひっさ〕げ、玉扆〔ぎょくい〕の上に座し給ふ。この御貌も、昔の龍顔には替はつて、怒れる御眸〔まなじり〕逆に裂け、御鬚左右へ分かれて、ただ夜叉羅刹の如し。誠に苦しげなる御息をつかせ給ふ度ごとに、御口より炎ばつと燃え出でて、黒煙〔くろけぶり〕天に立ち登る。
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ということで、何とも恐ろしい容貌の後醍醐帝が日野俊基・日野資朝に「君を悩まし、世を乱る逆臣どもをば、誰にか仰せ付けて罰すべき」と勅問すると、俊基・資朝は、「この事は、すでに摩醯首羅王〔まけいしゅらおう〕の前にて議定あつて、討手を定められ候ふ」と答えます。
そして、後醍醐帝が重ねて「さて、いかに定めたるぞ」と問うと、「今南方の皇居を襲はんと仕り候ふ五畿七道の朝敵ども」は楠木正成の担当、二木義長は菊池武時の担当、細川清氏は土居・得能の担当、「東国の大将にて罷り上つて候ふ畠山入道道誓」は「殊更瞋恚〔しんい〕強盛の大魔王、新田左兵衛佐義興」の担当との返事があります。
もちろん楠木正成・菊池武時・新田義興らはこの時点でみんな死んでいて、それぞれの怨霊が「討手」となる、という話ですね。
この後、「主上、誠に御快〔こころよ〕げに打ち咲〔え〕ませて、「さらば、やがて年号を替へぬ先に、疾〔と〕く疾く退治せよ」と仰せられて、御廟の中へ入らせ給ひぬと見まゐらせて、夢は忽ちに醒めにけり」と続きます。
さて、こうして長々と怨霊話が続いた後、どのような展開になるかというと、

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 上北面、この示現に驚いて、吉野よりまた観心寺に帰り参り、内々人に語りければ、「ただあらまほしき事を、思ひ寝の夢にも見るらん」とて、さして信ずる人もなかりけり。
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ということで、拍子抜けするほどあっさり終わってしまいます。
多くの人は後醍醐帝が登場する怨霊譚を、あってほしい事を夢に見ただけ、という何とも合理的な夢解釈で切って捨てた訳ですね。
もちろん、『太平記』の多くの場面では、この種の怨霊エピソードの後、みんなそんな話は信じなかった、などといったコメントは付されませんが、しかし、それは人々が怨霊話を信じたかどうかとは別問題です。
巻二十の「結城入道堕地獄の事」や巻二十四の「正成天狗と為り剣を乞ふ事」など、『太平記』の怨霊話はどれも念入りに作られた面白い話で、多くの人がこの種の怪談をエンターテインメントとして楽しんだ、と考えることも十分に可能であり、むしろ、こうした話を当時の人々がみんな信じ込んでいたと思うのは莫迦げている感じがします。
歴史研究者では、この種の怨霊話をまともに信じ込んでいる人の代表は山形大学名誉教授の松尾剛次氏で、松尾氏の『太平記 鎮魂と救済の史書』(中公新書、2001)は、恵鎮周辺の人脈の分析などそれなりに鋭い指摘もあることはあるのですが、全体的にはかなり莫迦っぽい本ですね。

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足利尊氏や新田義貞、楠木正成ら名だたる部将が活躍する『太平記』。しかしこの名高い戦記物がめざしたのは、英雄譚と言うよりも、南北朝動乱を生きた、名もなき人々への鎮魂と救済ではなかったか。怨霊の跋扈する、不条理にも見える物語世界が内包する『太平記』の精神とは。また、登場人物たちの体現する儒教的道義論や因果応報論が担ったものとは何なのか。単なる戦記物の枠を超えた『太平記』の世界への招待。

http://www.chuko.co.jp/ebook/2013/07/514513.html
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