学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)

2020-10-02 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月 2日(金)11時10分27秒

山口昌男・中沢新一の対談「『太平記』の世界」(『國文學 : 解釈と教材の研究』36巻2号、學燈社、1991)に入る前にちょっと足踏みしていますが、やはり約三十年も前の話なので相当古い部分も多く、そのまま紹介しても分かりにくいところがけっこうあります。
たまたま昨日、暫く前に国会図書館に遠隔複写を依頼していた兵藤裕己氏と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)が届いたので読んでみたところ、最近の『太平記』の研究状況が平易に説明されており、これを先に見た方が山口説との比較ができて便利そうなので、概要を紹介したいと思います。
兵藤裕己氏は『太平記〈よみ〉の可能性 : 歴史という物語』(講談社、1995)を著し、最近では西源院本の校注書『太平記』全六巻(岩波文庫、2014~16)を出されるなど、国文学界での『太平記』研究の第一人者ですが、芸能史にも詳しく、琵琶法師や浪曲の研究でも有名な人ですね。
1950年生まれなので、呉座勇一氏より三十歳年上です。

兵藤裕己
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E8%97%A4%E8%A3%95%E5%B7%B1

対談なのでしっかりした章立てになっている訳ではなく、話題も行きつ戻りつしていますが、全体の構成を掴むために、編集者が付けたであろう小見出しを列挙すると、以下の通りです。

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歴史研究の対象としての『太平記』
ドキュメンタリーとしての『応仁の乱』
物語と歴史の距離
歴史認識の枠組みと『太平記』
日野富子と阿野廉子像
『太平記』の影響、テクストの多義性
正成は「楠木」か「楠」か
戦後歴史学におけるコンテクスト
『太平記』成立の三段階
オリジナル(原本)という難題
流布本の問題点
語られる時代と成立時期の近さ
『太平記』作者の「史官」意識
『太平記』が放つ「流毒」
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最初に兵藤氏が川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ─治承・寿永内乱史研究』(講談社、1996)、市沢哲編『太平記を読む』(吉川弘文館、2008)、野口実編『承久の乱の構造と展開─転換する朝廷と幕府の権力』(戎光祥出版、2019)等に言及しつつ、『太平記』の史料的価値について呉座氏に尋ねると、呉座氏は、

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『平家物語』を対象とする川合さんや、『承久記』を対象とする野口さんのような中世前期の研究者と、中世後期の研究者のあいだに温度差、意識の違いがあるのではないか、ということは思っています。実際、「軍記・語り物研究会」にも歴史学の研究者が参加していますが、参加者の中心は中世前期の研究者だと思います。
 結局、中世前期は史料が少ないので、『平家物語』なしに源平合戦を、『承久記』なしに承久の乱を研究するのは難しい。そこで、どうやってそれらに史料的価値を見出していくかについて、かなり積極的に考えられ、議論されてきたところがあると思います。
 一方、南北朝など中世後期の研究者にとっての『太平記』は、そこまで研究対象として積極的に検討されてこなかったのです。史料として『太平記』を用いることに慎重であるような気がします。
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と答えます。(p12)
そして、呉座氏の『応仁の乱』(中公新書、2016)についての若干のやり取りの後、『歴史REAL南北朝』での小秋元段氏の発言に関連して、呉座氏は次のように述べます。(p14以下)

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 『歴史REAL南北朝』(洋泉社、二〇一七年)というムック本で小秋元段さんが、私の『応仁の乱』に言及していました。『応仁記』をほとんど使わず、あるいは意図的に排除して、主に『経覚私要鈔』『大乗院寺社雑事記』という二人の日記を使って応仁の乱を描いている。『応仁記』という、意図をもって後代に書かれた物語を使わず、同時代の文書や記録だけで書くスタイルを面白く感じた。では、同じように南北朝内乱を記述することはできるのか。すなわち物語である『太平記』を使わず、洞院公賢の日記『園太暦』など当時の一次史料だけでこの時代を描けるのだろうか、といった趣旨です。
 今日のテーマにもつながる問題かな、と思います。なおかつ、ここが難しいところではないでしょうか。『太平記』にはいろいろと問題があるけれど、では『太平記』なしで南北朝内乱史を描けるかというと、やはり描きづらい。結局、その辺の物語と歴史の距離感を、とくに歴史学のほうはまだうまく掴めていないのかな、と思っているところです。
 先ほどの話に戻りますが、治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦を『平家物語』を使わずに叙述することはあり得ません。だからこそ『平家物語』を史料としてどうやって使っていくかは、歴史学もかなり考えてきたと思います。しかし南北朝内乱については、けっこう微妙です。『太平記』なしでは描きづらいけれど、じゃあ『太平記』に全面的に依拠しないと無理かというと、そうでもないからです。
 つまり論文のレベルだと、『太平記』がなくても一次史料だけで何とか執筆できます。だから「史料として『太平記』を使うと危ないな」と、意図的に避ける。慎重な態度をとります。ところが、いざ通史や概説書を書こうとすると、『太平記』なしでは書けません。結局、『太平記』を使うことになるので、そこがある意味でダブルスタンダードのようになっているのです。そういうことがあって、南北朝の研究者は、『太平記』を史料としてどう使えばいいかについて、実のところ、少なくとも近年になるまではあまり考えてこなかったのではないか。正面から向き合ってこなかったのではないか、と感じます。
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うーむ。
論文執筆に際して、多くの歴史研究者が『太平記』を意図的に避けているかというと、私の乏しい知見の範囲でも、『太平記』に言及する論文はけっこうあるように感じます。
まあ、一次史料で書けるだけ書いて、その論旨に適合する『太平記』の記述があればちゃっかり利用し、論旨に反する記述はあっさりスルー、見なかったフリをする、というご都合主義的、つまみ食い的な利用の仕方をしている人も多そうですね。
コメント
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