投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年10月22日(木)10時47分33秒
小見出しの十四番目、「『太平記』が放つ「流毒」」の続きです。
前回投稿で引用した発言を含め、この対談の中で兵藤氏は「天狗が予言した来世の未来記」である巻二十七「雲景未来記の事」に何度か言及されていますが、これは非常に面白いエピソードですね。
この話の位置は諸本によって若干の違いがありますが、西源院本では観応の擾乱の第一段階、足利直義が高師直を暗殺しようとして失敗、逆に師直が反撃して「御所巻」の事態となり、結局、直義が引退を余儀なくされ、直義側の上杉重能・畠山直宗が越前に流されて殺されるという話の後に登場します。
羽黒山の雲景という山伏が都に上って、天龍寺を見学しようと出かけたところ、途中で別の山伏に行き合い、「天龍寺もさる事なれども、それは夢窓の住所〔すみか〕にて、さしたる見所なし。われらが住む山こそ、日本無双の霊地にて侍れ。修業の思ひ出に、いざ見せ奉らん」(兵藤校注『太平記(四)』、p311)と言われて、愛宕山に行きます。
そして、更に愛宕山の「秘所」に案内されると、そこにはやたらと物知りの老僧がいて、この人は源頼朝・北条義時・後鳥羽院から北条高時・後醍醐天皇に至る時代の流れを滔々と弁じた後、後醍醐も「誠に堯舜の功、聖明の徳のおはせねば、高時に劣る足利に世をば奪われさせ給ひぬ」などと、仮に『太平記』が室町幕府の「正史」だとしたらとても許されそうもない過激発言をして、更に「持明院殿」、即ち北朝も「ひとへに幼児の乳母を憑〔たの〕むが如く、奴〔やっこ〕と等しくなりおはします程に、仁道の善悪これなく、運によつて形の如く安全におはしますものなり」などと切って捨てます。
そして、更に「三種の神器」に関する独自理論を展開した後、幕府の内訌が今後どのように展開するかを聞かれると、「天変はいかにもこの中にあるべし」(天がもたらす異変はまさしく近いうちに起こるだろう)などと不気味な予言をするものの、詳しい説明を避けたまま、「客来の事あり」などと言って消えてしまいます。
雲景が案内してくれた山伏に、あの人は誰なのかと聞くと、「今は何をか隠し奉るべき。世に人の持てあつかふ愛宕山の太郎坊にておはします。上座なりつる上綱は、諸宗の人集まり、徳業名望世に聞こえたる玄昉、真済、寛朝、慈恵、頼豪、仁海、尊雲等の高僧達よ。その上の座席に、玉扆〔ぎょくい〕を敷き並べたるこそ、代々の帝王、淡路の廃帝、後鳥羽院、後醍醐院、次第の昇進を遂げて悪魔王の棟梁となり給ふ、やんごとなき賢帝達よ」と言われます。
尊雲(護良親王)を含め、奈良・平安以来の一癖も二癖もある高僧や、「悪魔王の棟梁」となった天皇たちが軒並み天狗になって「愛宕山の太郎坊」を囲んでいて、特に後醍醐はけっこうな悪口を言われながら黙って聞いていたらしいこともちょっと面白いですね。
ま、この世界では、そのくらい「愛宕山の太郎坊」は偉いのだ、ということでしょうが。
さて、兵藤氏の発言を受けて、呉座氏は次のように応答します。(p37以下)
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呉座 兵藤さんも書かれていますが、新田・足利の武臣抗争史や源平交替史、あるいは後醍醐の一代記といった大きな物語が、最終的に無効化されていくのですよね。『太平記』作者が提示したかったはずの大きな物語は無効化され、むしろ楠木正成に代表される身分制相対化の論理が作者の意図を超えて後代に影響を与えた、というのが兵藤さんのご意見ですよね。この逆説的な享受史が『太平記』の魅力だと思います。由井正雪や、尊王攘夷運動に与えた影響について考えるときも、そう感じます。
『太平記』が単純に、後醍醐の物語や源平交替の物語のような形できれいにまとまっていたら、もしかしたらここまでの影響を後代に与えなかったかもしれませんね。
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うーむ。
ここから先は、兵藤氏の『太平記<よみ>の可能性 歴史という物語』(講談社選書メチエ、1995)を未読の人には分かりにくい話が続きますが、同書を読むと兵藤氏が網野善彦氏の多大な影響を受けていることが分かります。
同書が出版された1995年というと、一般の歴史ファンの間ではまだまだ「網野史学」が絶賛されてはいましたが、歴史研究者の世界では網野氏は「壊れたテープレコーダー」ではないか、と揶揄する声も増え、その後、網野説を批判する個別研究が続々と蓄積されて、現在では「網野史学」に誤りの多いことが研究者の「共通理解」であり、従って兵藤説は既に梯子をはずされているように見えます。
そして、呉座氏などは網野批判の急先鋒の一人で、兵藤氏が「網野史学」経由で自身の楠木正成像の造型に利用している『峯相記』などは、呉座氏の研究で評価が一変していますね。
それなのに呉座氏の兵藤説に対する評価はずいぶん甘いように思われますが、それは何故なのか。
呉座勇一氏『戦争の日本中世史』