投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年10月 9日(木)22時30分4秒
>筆綾丸さん
呉座氏もけっこう大きな問題の一環として和知の場面に注目されているようですね。
筆綾丸さんが既に引用された箇所の直前の文章、念のため確認しておくと、
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最後に、本章の主要な議題の一つであった「人返」協約について補足しておきたい。従者に関する「人返」協約が結ばれる原因としては、元の主人(本主人)と現在の主人(当主人)との間で従者の帰属をめぐる争いが多発していたことがあげられる。こうした主人権をめぐる争いには、既述の通り政治的・経済的・社会的な背景があるが、より根源的な問題が潜んでいることも無視できない。それは中世人の名誉観念に関わる問題である。
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という具合ですが、うーむ。
確かに『とはずがたり』には「下人」という表現が出てきますが、それは兄弟喧嘩の中での理不尽な悪口の一部であって、実際には二条はおよそ「下人」ではないですからねー。
注(1)を見ると、
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(1)これまでの研究により、当時の史料に見える従者(武家奉公人)は三つの階層に分類できることが明らかにされている。最上位は「被官」で、「内者」「郎従」「悴者」「若党」などとも呼ばれる。彼らは有姓で侍身分を有し、みずから同名や従者を従えてイエを形成している。次が「中間」で、「僕従」「小者」などとも表現される。彼らは無姓・凡下である。最下位が「下人」で、「中間」よりも身分が低く隷属性が強い。(後略)
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ということで、「下人」は無姓・凡下の「中間」より更に下の非常に隷属性が強い従者ですが、最上級貴族の出自を誇り、芸術的才能に溢れたお客様として短期間滞在しているだけの二条は、およそ「下人」とは程遠い存在ですね。
まあ、永原慶二氏の<在地領主の「家」権力>論ほどトンチンカンな印象は受けませんが、「従者(武家奉公人)」、特に「下人」でないことが明らかな二条の「日記文学」(私見では自伝風の小説)における冒険譚を基礎として「より根源的な問題」=「中世人の名誉感情に関わる問題」を論じるのは些か乱暴な感じがします。
※追記
引用部分を再掲しておきます。
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鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
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※筆綾丸さんの下記二つの投稿へのレスです。
日記文学 2014/10/06(月) 21:09:38
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鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
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以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。
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鎌倉後期の宮廷女房が著わした日記文学『とはずがたり』には、作者が備後国和知郷の地頭代官和知氏の家に泊まっていたが、のちに和知氏の兄の家に移ったところ、和知氏が「年来の下人に逃げられ、しかも兄にかどわかされた」と怒り、兄弟喧嘩に発展した、という有名な逸話が見える。先行研究は、仮初めに宿泊した者を下人とみなす和知氏の認識に注目し、在地領主層のイエ支配権(家父長権)の強大さを説いている。だが兄との対決をも辞さない和知氏の激昂ぶりからは、自分の支配下にあった者に逃げられることは恥辱である、という意識も読み取れるのではないだろうか。被保護者=従者にしてみれば単なる”移動”のつもりでも、保護者=主人側には”逃亡”と映るのは、そのためである。
したがって従者の主人権をめぐる争いは、従者に逃げられたことを屈辱と感じる本主人と、まだ短期間の主従関係とはいえ一度扶持した者を手放しては沽券に関わると考える当主人という、双方の面子のかかった戦いであり、ゆえに平和的な解決は難しかったのである。(『日本中世の領主一揆』280頁)
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以上は、「第七章 領主の一揆と被官・下人・百姓」の末尾の記述ですが、この章だけ重要な引用史料が「日記文学」で、他の章と比べると、非常に異質なものがあります。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/90a74e07e5f92655c5dcc2c04cbd5919
以前、小太郎さんが仰っていましたが、「後深草院二条のような女の証言」はどこまで信用が置けるのか、危惧を覚えますね。『とはずがたり』の記述から恥辱(屈辱)というようなものを導き出せるものなのかどうか・・・。
京都に大学がなかった頃の話 2014/10/08(水) 17:32:21
小太郎さん
『とはずがたり』の和知一族の話は、恥ずかしい話ですが、今だによく理解できないんですよ。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1409/sin_k787.html
高橋昌明氏の『京都〈千年の都〉の歴史』をパラパラ捲ると、次のような記述がありました。
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千本通丸太町上ル西側奥には内野児童公園がある。その一角に「大極殿遺址」と刻まれた石碑が立つ。立派な台座をともなう堂々たる碑である。遷都千百年記念事業として京都市参事会が建てたもの。
この場所を大極殿の跡地と比定したのは、在野の歴史家である京都府の役人湯本文彦で、平安京のことや桓武天皇の事績、および京都市の沿革・歴史を記した『平安通志』全二〇冊は、彼が発議し編纂主事となって、一八九五年、京都市参事会によって刊行された。わずか二年で完成できたのは、湯本の豊かな学識と、江戸後期以来進められてきた京都研究の蓄積、編纂に協力した田中勘兵衛(号教忠)・碓井小三郎ら、これまた在野の学者たちの力による。田中教忠は古文書・古典籍の収集家・考証家として知られ、平安神宮の造営は彼の提案にもとづく。碓井小三郎は、京都の名所・旧跡・伝説等の研究・保存に尽力し、二〇年かけて京都の地誌『京都坊目誌』を完成させるなど、故実家として知られる。(20頁~)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6
http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/index3.html
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi30.html
1895年と言えば、日本全国において(帝国)大学は東京にあるだけで京都には(帝国)大学がない時であるから、そんな時代の「在野の歴史家」とか「在野の学者たち」とは何なのか、よくわからないものがあります。京都府立総合資料館が「アカデミズム」の以前と以後というふうに分けているのも面白く、アカデメイアの豹変には私塾長の君子プラトンも驚いているかもしれませんね。
小太郎さん
『とはずがたり』の和知一族の話は、恥ずかしい話ですが、今だによく理解できないんですよ。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1409/sin_k787.html
高橋昌明氏の『京都〈千年の都〉の歴史』をパラパラ捲ると、次のような記述がありました。
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千本通丸太町上ル西側奥には内野児童公園がある。その一角に「大極殿遺址」と刻まれた石碑が立つ。立派な台座をともなう堂々たる碑である。遷都千百年記念事業として京都市参事会が建てたもの。
この場所を大極殿の跡地と比定したのは、在野の歴史家である京都府の役人湯本文彦で、平安京のことや桓武天皇の事績、および京都市の沿革・歴史を記した『平安通志』全二〇冊は、彼が発議し編纂主事となって、一八九五年、京都市参事会によって刊行された。わずか二年で完成できたのは、湯本の豊かな学識と、江戸後期以来進められてきた京都研究の蓄積、編纂に協力した田中勘兵衛(号教忠)・碓井小三郎ら、これまた在野の学者たちの力による。田中教忠は古文書・古典籍の収集家・考証家として知られ、平安神宮の造営は彼の提案にもとづく。碓井小三郎は、京都の名所・旧跡・伝説等の研究・保存に尽力し、二〇年かけて京都の地誌『京都坊目誌』を完成させるなど、故実家として知られる。(20頁~)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6
http://www.pref.kyoto.jp/dezi/data/index3.html
https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi30.html
1895年と言えば、日本全国において(帝国)大学は東京にあるだけで京都には(帝国)大学がない時であるから、そんな時代の「在野の歴史家」とか「在野の学者たち」とは何なのか、よくわからないものがあります。京都府立総合資料館が「アカデミズム」の以前と以後というふうに分けているのも面白く、アカデメイアの豹変には私塾長の君子プラトンも驚いているかもしれませんね。
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