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『とはずがたり』と『徒然草』に登場する久我通基

2017-11-28 | 小川剛生『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年11月28日(火)11時50分52秒

「徒然草百九十五段にも登場する内大臣通基」は『とはずがたり』にも登場しますので、ここでその場面を紹介しておきます。
『とはずがたり』全五巻のうち、前三巻までは宮廷生活篇で、変態っぽい後深草院と愛欲の妄執に身を焦がす「有明の月」を中心にあんなことやこんなことが次々に起き、後深草院二条は後深草院の子を一人、「雪の曙」(定説では西園寺実兼)の子を一人、「有明の月」(仁和寺御室、法助法親王説と性助法親王説あり)の子を二人産んだ後、後深草院の正室である東二条院の命令で宮廷を追い出されます。
四・五巻は出家修行篇と呼ぶ国文学者もいますが、ま、諸国漫遊篇という感じで、四巻では何の説明もないまま既に出家していた二条は東国に下り、鎌倉・信濃善光寺・浅草などに滞在し、帰京してからも奈良の社寺や伊勢の内宮・外宮を訪問したりします。
五巻に入ると二条は西国に向い、厳島・足摺岬・讃岐白峯訪問後、備後和知で地方豪族の内紛に巻き込まれたりします。
帰京すると東二条院の訃報を聞き、ついで後深草院の臨終を見舞い、崩御後、葬列を裸足で追いかけたりします。
そして後深草院三回忌に深草の法華堂に詣でた後、「万里の小路の大納言師重」(北畠親房の父)から来た手紙の返事に一首を贈り、次いで「久我の前の大臣」と和歌の贈答をします。(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、講談社学術文庫、1987、p440)

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【前略】久我の前の大臣は、同じ草葉のゆかりなるも忘れがたき心地して、ときどき申し通ひ侍るに、文遣はしたりしついでに、彼より、
  都だに秋のけしきは知らるるを幾夜ふしみの有明の月
問ふにつらさのあはれも、忍びがたくおぼえて、
  秋を経て過ぎにしみよも伏見山またあはれそふ有明の空
またたち返り、
  さぞなげに昔を今と忍ぶらん伏見の里の秋のあはれに
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この後、後深草院と東二条院の娘である遊義門院へ贈った一首の次は「跋文」なので、『とはずがたり』全五巻の本当に最後の最後に「久我の前の大臣」との歌の贈答が出てくるのですが、この人は二条の従兄弟・久我通基で確定していて、異説を聞きません。
さて、ここで小川剛生氏の『新版 徒然草 現代語訳付き』(角川文庫、2015)から、久我通基が登場する第195段の訳を見ると、

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第一九五段 ある人が、久我畷〔こがなわて〕を通っていた時、小袖を着て大口袴〔おおくちはかま〕を穿いた人が、木彫りの地蔵の像を田んぼの水に浸して、丁寧に洗っていた。不思議に思って見ているうちに、狩衣〔かりぎぬ〕を着た男が二、三人現れて、「ここにいらっしゃったぞ」と言って、この人を連れて去っていった。久我内大臣通基〔こがないだいじんみちもと〕公でいらっしゃった。
 正気でいらっしゃった時には、落ち着いていて思慮深く、品の良い方でいらっしゃった。
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ということで(p394)、精神障碍者の話ですから教科書などには載りませんが、決して後味は悪くなく、むしろ清々しい印象を残す逸話ですね。
これを単独で読むならば何の問題もないのですが、『とはずがたり』跋文直前の二条と久我通基との歌の贈答と照らし合わせると、ちょっと妙な話になってきます。
というのは、嘉元二年(1304)崩御の後深草院の三回忌の仏事は徳治元年(1306)七月に行われていて、二条と師重・通基との歌の贈答も同じ時期なのですが、通基は徳治三年(延慶元年、1308)に亡くなっています。
『徒然草』第195段では、久我家の別荘があった久我畷近くでの目撃談の日時は明示されていませんが、文章全体の雰囲気からすると通基は相当長く患っていたような印象を受けます。
そこで、仮に『徒然草』の著者が『とはずがたり』を読んでいたとしたら、精神を病んでいた方と歌の贈答が出来たなんて、二条さんはずいぶん器用な方ですね、という嫌味になりそうですね。

久我通基(1240-1308)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E9%80%9A%E5%9F%BA
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