学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

勅撰歌人「平守時朝臣女」について(補遺)

2021-03-15 | 尊氏周辺の「新しい女」たち
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月15日(月)10時42分45秒

川添昭二氏は、「平守時朝臣女」は英時の姪、とあっさり言っておられますね。
『中世九州の政治・文化史』(海鳥社、2003)の「第二章 神祇文芸と鎮西探題歌壇」「四 鎮西探題歌壇の形成」において、

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 北条(赤橋)英時は最後の鎮西探題として鎌倉幕府滅亡とともに博多で誅滅された。武家歌人として相当に高く評価されていたらしく、勅撰集への入集は、『続後拾遺和歌集』二、『風雅和歌集』一、『新拾遺和歌集』一、『新後拾遺和歌集』二という数である。私撰集では『続現葉和歌集』一、『臨永和歌集』七、『松花和歌集』四(内閣文庫賜蘆拾葉」巻一、国文学研究資料館、福岡市住吉神社、久曾神昇氏など所蔵)が知られる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58396f164d9d92ae0617c9f683bfd1e8

という指摘(p46)をされた後で、川添氏は「大友氏第六代の当主で豊後守護。鎮西探題の評定衆及び三番引付頭人」である大友貞宗の歌人・禅宗保護者としての側面を述べ、「当時、武家としては第一級の文化人であった。浄弁の九州下向は、北条英時・大友貞宗らが三代集の伝授、和歌指導などのために招いたのかもしれない」(同)とされます。
そして、大友氏の文芸活動に関して、井上宗雄氏の研究を基礎に更に検討された後、次のように書かれています。(p48以下)

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【前略】浄弁の九州下向は、以上のように、九州在地における自主的な文芸愛好を幇助指導するものであった。その指標となるのは『臨永和歌集』と『松花和歌集』(後述)である。両集は成立もほぼ同時期で、作者も当代現存歌人でしかも共通するものが多く、二条派の浄弁が両集に関係していたと見られる。
 『臨永和歌集』の内容については前に述べているので、ここでは武家歌人の入集状況について見てみたい。すでに井上宗雄氏が触れておられるが、参照しながら述べていく。北条英時・同守時女<英時姪>・大友貞宗・東氏村・斎藤基明・斎藤基夏・二階堂行朝・島津忠秀・安東重綱・足利高氏というような状況である。全体的に見て、武家歌人は、北条氏一門・得宗被官・有力御家人・法曹系御家人などであるが、とくに九州関係者が多いことが注目される。平(北条)英時・平(北条)守時朝臣女・平(大友)貞宗・宗像氏長・平(下広田)久義・平(渋谷)重棟・藤原(斎藤)利尚・藤原(少弐)貞経・藤原光章・藤原(飯河)光兼・藤原光政・平(渋谷)重棟女・藤原(少弐ヵ)貞千など、そうである。これらのうち藤原貞千、宗像神社の大宮司宗像氏長(のちに氏範)を除くと他はすべて鎮西探題関係者である。
 そのうち少弐貞経は、大宰少弐、筑後守、筑前・壱岐・対馬の守護、鎮西探題の評定衆で二番引付頭人。藤原貞千も少弐氏か、としておく。大友貞宗については前述。他は平守時女・平重棟女を除き、いずれも鎮西探題の職員である。鎮西探題は、蒙古合戦後、九州の御家人を異国防禦に専念させるため鎌倉幕府が博多に設けた裁判機関である。約四十年間、鎌倉幕府の九州支配の出先機関としての役割を果たす。鎮西探題には好学をもって知られた金沢氏一門の実政・政顕らがいるが、文化的側面はほとんど知られない。最後の赤橋英時に至って文芸面の事績が知られるのである。赤橋家は北条氏の中でも文事にすぐれた家柄であり、前述のように、英時自身勅撰集の作者である。『臨永和歌集』においても、鎮西探題府の武家歌人中鎮西探題の北条英時とその姪(守時の娘)の歌数が多い。武家としての家格の高さによるところもあろうが、やはり力量のしからしむるところでもある。『新拾遺和歌集』第十九雑歌中一八七七によれば、英時の姪は英時とともに九州に下ってきていた。
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列挙されている人名が興味深いので長々と引用してしまいましたが、川添氏の言われるように、ごく素直に考えれば「平守時朝臣女」は英時の姪ですね。
ただ、どうしても年齢の問題があって、仮に「平守時朝臣女」が英時と同時に九州に下ったとすると、年齢の点で相当に無理が出てきます。
即ち、英時は元亨元年(1321)十二月六日の時点で鎮西探題に在任していることが確認されていますが(細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」31)、この年には永仁三年(1295)生まれの守時が二十七歳なので、その娘は何歳なのだ、という話になります。
もちろん、『新拾遺和歌集』第十九雑歌中一八七七には「平英時にともなひて西国にすみ侍りし事をおもひ出でて」とあるだけなので、「平守時朝臣女」は鎮西探題在任中の叔父・英時を訪ねて、しばらく英時邸で暮らしていた、と考えれば済むのかもしれません。
しかし、その場合でも『臨永和歌集』で「平守時朝臣女」が「武家歌人として相当に高く評価されていた」英時と同程度の「力量」を認められている歌人であること考慮すると、どうにも若すぎる感じは否めません。
ということで、私としてはやはり「平守時朝臣女」は久時娘・守時養女であり、赤橋登子とは姉妹の関係と考えるのが自然のように思われます。
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