仮に『吾妻鏡』の編者が『承久記』を読んでいたとしても、「押松丸」関連の話は幕府の独自情報も相当に含まれているので、『承久記』をひとつの素材として参照しただけ、ということになります。
しかし、北条義時が長江荘の地頭だったという慈光寺本にしか出て来ない話との関係で、これを事実と考える研究者が多い中世史学界の現状においては、『吾妻鏡』の編者が『承久記』を読んでいたかどうかは結構微妙な問題になりますね。
ま、それは後で検討するとして、『吾妻鏡』の編纂過程の解明に取り組んできた研究者たちが、何故に『承久記』を『吾妻鏡』の素材候補と考えなかったか、というと、あるいは、『吾妻鏡』の原史料は幕府の公的機関や、そうした機関で文書行政に関与した人々の子孫が保管してきた文書類を中心として、『明月記』など、何らかの手段で入手した公家社会の古記録、更には御家人から提出を求めた文書など、信頼性の高そうな古文書・古記録に限定されていたはずで、創作の要素が強い軍記物語など対象外だったはず、という思い込みによるのかもしれません。
また、『承久記』の場合は、その成立時期がはっきりしないという問題があります。
仮に『承久記』が『吾妻鏡』の後に成立した可能性が高いのなら、『吾妻鏡』の素材候補として取り上げられるはずもありません。
国文学界では、慈光寺本の成立時期については一応の共通理解が成立しているようですが、他の諸本については諸説あるのが現状で、これが解決されない限り、歴史研究者が及び腰になるのも無理からぬところはありますね。
そのような現状において、長村祥知氏は、自らの研究の必要から『承久記』諸本の成立時期について一応の見解を述べておられますが、私には長村氏の研究史整理に若干の疑問があります。
『中世公武関係と承久の乱』の「第三章 <承久の乱>像の変容─『承久記』の変容と討幕像の展開─」は、
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はじめに
一 北条義時追討計画と『吾妻鏡』の<承久の乱>像
1 討幕論の再検討
2 東国有力御家人と京
3 北条氏の対応と『吾妻鏡』の歴史像
二 『承久記』諸本の変容
1 慈光寺本・流布本『承久記』と院宣
2 前田家本『承久記』と官宣旨
三 承久討幕像の定着
1 義時追討命令の行方
2 中世後期の編年体歴史叙述と式目注釈書
3 『公卿補任』の変容
おわりに
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と構成されていますが、長村氏は「はじめに」で、「主に『承久記』の検討から、文学作品において討幕の視点は南北朝期以降に表れるとして西島三千代氏の研究」(p111)に言及された後、第二節の冒頭で、
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『承久記』は承久の乱を考える上で不可欠の史料であり、西島氏が諸本の展開とともに討幕の視点が表れることを論じた作品であった。
『承久記』の現存諸本については、①慈光寺本『承久記』、②流布本『承久記』、③前田家本『承久記』・『承久兵乱記』、④『承久軍物語』の四種に分類し、おおよそ①②③④の順に成立したとする考えが最も有力であろう。ただし、古活字本(流布本)『承久記』をもとに『吾妻鏡』を参照して江戸時代に成立した④『承久軍物語』以外については、各本の成立時期や各本同士の関係等をめぐって従来から諸説があり、いまだ定説を見るに至っていない。
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とされ(p118)、ついで「慈光寺本『承久記』が諸本中最も古態を示し、鎌倉中期ごろに成立したことは、ほぼ通説となっている」(p119)とされた後、注(24)において、
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(24)流布本『承久記』の成立時期については、鎌倉後期説と南北朝期以降説がある(研究史は、西島三千代「『承久記』研究における発見のいくつか」(日下力・田中尚子・羽原彩編『前田家本承久記』汲古書院、二〇〇四年)参照)。後者の代表として、例えば注(3)西島論文は、流布本『承久記』を、討幕が可能となった現実を反映しているとして、南北朝期以降の成立と見なす。しかし記述のごとく、すでに『吾妻鏡』が倒幕の<承久の乱>像を主張しており、この論点の限りでは西島説は成り立ち難い。西島氏以外にも、『平家物語』等の他作品を受容したという前提から流布本『承久記』の成立を南北朝期以降と見なす論者は多いが、流布本『承久記』がそれらの作品に影響を与えた可能性をも踏まえて再検討する必要があろう。十五世紀という時代環境を重視する議論ではあるが、鈴木彰「『承久記』との交渉関係」(同『平家物語の展開と中世社会』汲古書院、二〇〇六年。初出二〇〇二年)は、流布本『承久記』が『平家物語』八坂系第二類本に影響を与えたことを指摘している。さしあたり本章では、鎌倉後期に流布本『承久記』の骨格が成立し、数段階の変容を経て現存の流布本本文に至ったと考えておきたい。
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とされています。(p133)
これを読んだ人は、「鎌倉後期に流布本『承久記』の骨格が成立」といっても、結論として流布本がきちんとした形で成立したのは相当遅いのだろうな、という印象を持つでしょうが、『新訂承久記』(松林靖明校注、現代思潮社、1982)の「承久記解説」には、
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最後に、流布本の成立年次については、あまり研究が進んでおらず、後藤丹治氏が後鳥羽院、土御門院の諡号から仁治三年(一二四二)七月以降、また『神明鏡』に『承久記』が引用されているところから鎌倉時代後期の作品としたのがはじめで、それを冨倉徳次郎氏が、当然使用すべきところで順徳院という諡号を用いていないので、順徳と諡〔おくりな〕された建長元年(一二四九)七月二十日以前の成立であろうと、その幅を狭めたのが、現在通説となっている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd96ac0339701f5295e0eea83ac73b0e
とあり、『承久記』研究をリードされてきた松林靖明は、流布本は1240年代成立と考えるのが「通説」とされています。
1240年代は「鎌倉後期」ではなく「鎌倉中期」と考えるのが普通でしょうが、長村氏は何故に「鎌倉後期」と書かれるのか。
西島論文は未読なので、あるいは西島氏が松林氏とは全く異なる研究史整理をされているのかもしれませんが、いささか不審なので書いておきます。
※追記(2023.1.22)
長村氏の「承久の乱と歴史叙述」(『軍記物語講座第一巻 武者の世が始まる』所収、花鳥社、2020)では「流布本の成立時期は鎌倉中後期説と南北朝以降説がある」とあり(p215)、『中世公武関係と承久の乱』での「鎌倉後期説」から「鎌倉中後期説」に変化している。
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