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「聖徳太子や弘法大師の後身」

2010-09-02 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 9月 2日(木)23時36分45秒

>筆綾丸さん
私も「後醍醐天皇の寺社重宝蒐集」を読んでみました。
良い論文だと思いますが、コレクター後醍醐の宝物蒐集活動を詳しく知っても、では後醍醐への理解が深まったと思えるかというと私の場合はむしろ逆で、後醍醐は何を考えているのか訳わからん、という印象が強まっただけでした。
注にあげられている論文には読んでいないものがかなりあるので、少しずつ勉強したいと思います。
ところで、p306には、

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 ちなみに、後醍醐が自己の正当性に不安を抱いていたことは、三種の神器に対する態度からも明らかである。尊氏勢を洛中から撃退してまもない建武三年(延元元=一三三六)二月七日、内侍所神鏡が比叡山の行在所から後醍醐の住む花山院邸に渡されたが、三月ニ八日、後醍醐自らが神鏡を新造の唐櫃に移している(『御神楽雑記』乾)。建武新政の崩壊に直面した後醍醐が、自己の権威の源泉ともいうべき神器の保全にいかに心を砕いたかがうかがえると共に、その内なる不安を見て取ることができよう。
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とありますが、他方、次のページには以下の記述があります。

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 後醍醐が臨席した東寺塔供養の場において、後醍醐と聖徳太子・弘法大師とを結びつける表白が読まれた以上、後醍醐自身も自己を神仏の応現として捉えていた可能性は極めて大きい。先学がいうように、四天王寺や高野山の『御手印縁起』の写本作成の態度からもそれは首肯されよう。してみれば、後醍醐の重宝蒐集活動の奥底にその自己認識を見出すのはあながち誤りではあるまい。すなわち、後醍醐は聖徳太子や弘法大師の後身であるがゆえに、彼らにまつわる重宝が後醍醐のもとに帰すべきであるという論理がここに生ずるのである。後醍醐が諸寺から幾多の重宝を召し上げ、多くの僧侶がこれに協力した背景の一つには、中世密教の秘説に根ざした神秘的な後醍醐観があったと考えられる(なお、かかる観念は前述した後醍醐の不安定な権威の裏返しであろう)。
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「後醍醐自身も自己を神仏の応現として捉えていた」とすると、「自己の正当性に不安を抱」くようなことがありえるのか。
自分が聖徳太子や弘法大師の生まれ変わりだ、という確信があったら、それこそどんな苦境にあっても自己の信念を曲げず元気一杯生きられたでしょうから、後醍醐はそういう確信ないし妄想を抱いた神がかった人だった、という説明はありうると思いますね。
ただ、それと「後醍醐が自己の正当性に不安を抱いていた」ことは両立するのか。
神がかった人なら自分の正当性に微塵の疑いも抱くことなどないのが自然では、と私は思います。

>アルチンボルド
実に不思議な人ですね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

a devotee of occult arts 2010/09/01(水) 19:17:12
小太郎さん
坂口太郎氏『後醍醐天皇の寺社重宝蒐集」を読んでみました。
後醍醐による「重宝の奪取」という表現が、三箇所(291頁、292頁、305頁)ありますが、同時代の用語は「被召」や「被渡」だから、天皇の地位からして、すこし違和感を覚えました。
「東寺仏舎利の歴史の上で、後醍醐が最多の奉請数を誇ることは著名であるが、かくも非合法な手段によって仏舎利を獲得しようとした執念には驚嘆すべきものがある」(294頁)
これは、合法・非合法の問題ではなく、あえて言えば、「押借」という不条理の問題でしょうか。重宝の召し上げは顕密仏教を掌握支配する態度を示したもの、という黒田俊雄氏の見解に対して、坂口氏の結論は、重宝蒐集は討幕計画をはじめとする政治状況と密接に関連していた、ということですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_II,_Holy_Roman_Emperor
コレクター後醍醐で連想するのは、神聖ローマ帝国の皇帝ですね。ルドルフ二世像(アルチンボルド画)と後醍醐天皇御影(清浄光寺蔵)は、似ているような似ていないような。

Rudolf's collections were the most impressive in the Europe of his day, and the greatest collection of Northern Mannerist art ever assembled.
Rudolf's love of collecting went far beyond paintings and sculptures. He commissioned decorative objects of all kinds and in particular mechanical moving devices. Ceremonial swords and musical instruments, clocks, water works, astrolabes, compasses, telescopes and other scientific instruments, were all produced for him by some of the best craftsmen in Europe.

Rudolf を Takaharu、Europe を Japan、Northern Mannerist を Esoterism、scientific instruments を密教法具に置き換えてやれば、これはもう後醍醐ですね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Cabinet_of_curiosities
後醍醐の二条富小路内裏の五節所(所謂クンストカマー)は、こんな感じだったのでしょうね。

「国家安泰の象徴であり、東寺のものであり、国家のものでもあり、公共性の高いはずの仏舎利」(内田氏『後醍醐天皇と密教』118頁~)
「東寺の仏舎利は東寺のものであるが、国家が管理する代物でもあった」(同書60頁)ので、「東寺のものであり、国家のものでもあり」ということになるのかもしれませんが、仏舎利の「公共性の高」さとは何なのか、意味がわからない。無造作な表現ですね。
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