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目崎徳衛氏「山田重忠とその一族」(その3)

2023-09-06 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
何故に慈光寺本で山田重忠が「重定(貞)」なっているかというと、素直に考えれば、たとえ世間で重忠が「飛び切りの有名人」であろうと、慈光寺本作者は重忠にはさほど関心がなかった、ということだろうと思います。
私は慈光寺本に描かれた「重定(貞)」による鎌倉攻撃案は創作だろうと考えていますが、作者にとって「重定(貞)」に仮託した鎌倉攻撃案は重要であっても実在の重忠本人は重要ではなかった、だから名前を間違えた、と考えます。
この点は後で再論します。
さて、「3 美濃・尾張の清和源氏」に入ると、山田一族の歴史が詳しく描かれますが、重忠に直接関係する時期の部分のみ引用します。(p220以下)

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 『吾妻鏡』建久元年(一一九〇)四月二日条に、美濃国の地頭・佐渡前司重隆が公領に妨げをしたことについて、頼朝が権中納言経房に送った書状がある。また同年六月二十九日条に、諸国の地頭の太神宮役夫工米対捍について朝廷に進めた請文があるが、その中で頼朝は「尾張国の住人重家・重忠等の所課の事、法に任せて御沙汰あるべく候也」と、冷たく突き放している。重隆(高)、重家(宗)は右の横妨・対捍によって常陸と土佐に配流されることになったが、彼らはすなおに配所に赴かなかったので、頼朝は謀反を警戒して在京の大江広元に書状を送っている(『吾妻鏡』八月十三日、十一月二日)。この時重忠は流罪になったとは知られないが、それは若年の故に免れたのか、『吾妻鑑』の脱漏ないしは誤記であろう。
 ともかくも重忠の同族は、鎌倉の御家人体制に組込まれるに至らず、むしろ頼朝の意向に背く所業が多かった。おそらく彼等は京に近い美濃・尾張の地理的位置と院政政権との関わりの深さから、坂東の武士のように幕府主流を構成しにくい外様的立場にあったのであろう。重忠が後鳥羽院に召使われるに至った由来もここにあると考えられる。
 『明月記』建保元年(一二一三)四月二十六日条に、法勝寺九重塔供養の盛儀に寺の諸門を守護した武士の交名が収められている。乱直前の後鳥羽院親衛隊の全容をうかがうべき好史料であるが、この時山田次郎重忠は南面の東脇門を固めている。他の武士二十数名がすべて衛門尉などを帯しているのに、重忠だけは「山田次郎」である。最も官職に恵まれなかったこの重忠が最も勇戦奮闘したところに、彼のいさぎよさを見ることができる。したがって、「大臆病の君」にだまされて死ぬのは口惜しいなどという未練がましい悪口雑言はこのいさぎよい武士のものではあるまいと、前に私は述べたのである。
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第三節は以上です。
重忠の生年・没年齢は不明ですが、『吾妻鑑』建久元年(1190)六月二十九日条に、

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諸国地頭等造太神宮役夫工米事。多以有対捍之聞。造宮使頻申子細之間。重被仰下畢。仍日頃被経其沙汰。且被触仰地頭等。且被進請文云々。其状云。
 去四月十一日御教書。五月八日到来。役夫工米間事。奉行弁親経朝臣奉書謹給候畢。知行八ケ国宛文并返抄等。載別目録注進之。此中。相摸武藏者近境候之間。能令加下知。早速致究済之勤候畢。自余六箇国者。相隔其程候之故。申付国務沙汰人之間。守先例。令致沙汰候歟。而驚被仰下候之旨。尋古宛文候之処。如此所注申候也。子細見于件注文等候歟。尾張国住人重家。重忠等所課事。任法可有御沙汰候也。凡近国之輩。寄事於左右。致対捍候はゝ。只いかにも可有御成敗候也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma10-06.htm

と「尾張国住人重家。重忠等」が登場しているので、仮にこの年に(相当若く見積もって)二十歳として、承久の乱の時点では五十二歳ですね。
目崎氏は「重忠の同族は、鎌倉の御家人体制に組込まれるに至らず」と書かれていますが、重忠を含め、一族が地頭になったりしているのはこの条で明らかなので、一応は御家人ではあったものの、坂東の武士とは事情が異なり、幕府にガチガチに縛られているような存在ではなかった、という意味なのでしょうね。
それにしても、建久元年から二十三年後の建保元年(1213)に、「後鳥羽院親衛隊」二十数名のうち、重忠だけが無位無官であり、更に八年後の承久の乱の時点でも、重忠が未だに無位無官というのはどういうことなのか。
幕府の覚えは目出度くなく、かといって朝廷からもさほど尊重されていない重忠が、山田一族の中で指導的立場に立てるものなのか。
世渡り下手の野人タイプだった重忠は、山田一族の中でも少し浮いた存在だったけれども、とにかく戦略や戦闘技術に秀でていたので、いざ戦争となったら実力で周囲をねじ伏せていたのか。
私にはよく分りませんが、目崎氏は「最も官職に恵まれなかったこの重忠が最も勇戦奮闘したところに、彼のいさぎよさを見ることができ」るとされています。
しかし、「最も勇戦奮闘」から、重忠が武士の意地・面目・体面を重視する人物であったであろうことは推測できるものの、それは「いさぎよさ」と結びつくのか。
重忠の「いさぎよさ」を高く評価する目崎氏は、「したがって、「大臆病の君」にだまされて死ぬのは口惜しいなどという未練がましい悪口雑言はこのいさぎよい武士のものではあるまい」とまで言われますが、重忠が世渡り下手の野人タイプの人だったら、流布本に記された程度の悪口雑言は、むしろ重忠にふさわしいような感じもします。
ただ、第四節で紹介されている『沙石集』でのエピソードは、重忠は少なくとも野人タイプではなかったことを示しているようです。
となると、何故に重忠が承久の乱の時点でも無位無官だったのか、謎は深まります。
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