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松沢裕作『生きづらい明治社会』(その4)

2018-10-14 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月14日(日)11時02分52秒

私は昔、戦前の財界に少し興味を持って、小島直記などが書いた著名財界人の伝記をまとめて読んだことがあります。
その程度の限られた範囲の知見でも、大倉喜八郎は非常に好印象を残した人物だったので、松沢裕作氏の大倉評に奇異な感じがしたのですが、松沢氏が引用する『致富の鍵』を実際に読んでみると、やっぱり大倉は面白い人物ですね。
大倉は故郷の新発田にいた若年の頃から狂歌が大好きで、狂歌を一生の趣味としており、『致富の鍵』にも諧謔の風味が横溢しています。
松沢氏は大倉とは正反対の生真面目な、大倉から見れば冗談の分らない朴念仁なので、『致富の鍵』との相性は悪そうですね。
さて、前回投稿で紹介した部分だけでは、貧困者を助けることを嫌悪する大倉が、明治天皇に良く思ってもらうために一回だけ珍しく寄付をしたように見えるかもしれませんが、そうではありません。
この点、復刻版『致富の鍵』の冒頭に置かれている「東京経済大学名誉教授・史料委員会顧問」の村上勝彦氏の「解説」に要領の良い説明がありますね。

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三、慈善と自助、健康法と趣味

 喜八郎の労働観はまた、独特の慈善事業観となる。また常に奮闘して働けるようにすべく、独特の健康法と「くつろぎの哲学」が彼にはあった。貧苦は遊惰の結果なので、貧民救済は惰民救済となり、人に依頼心を起こさせ、独立して飯を食う精神を鈍らせる。だからそんなものは本当の慈善ではない。慈善事業には消極的と積極的の二つがあり、貧民救済は前者であり、独立して生活できるようにすべく人々に職は与え、そのために青年への教育の機会を与えるのが後者である。彼の生涯にわたる巨額の寄付の中には、この積極的慈善である教育機関の設立・運営に関わるものが多い。自ら設立した三つの商業学校(大倉商業学校・大阪大倉商業学校・善隣商業学校)のほか、現在の慈恵医科、同志社、工学院、拓殖、慶應、早稲田、日本などの各大学、あるいはその前身校などに対してである。商業学校設立の動機の一つとして、商売には商業道徳の観念が不可欠で、それは学校教育で養成されるという経験・信念があった。
 かといって彼は消極的慈善に無関係だったわけではない。医療による貧民救済のため、明治天皇の発意と下賜金に基いて設立された恩賜財団済生会と、貧民・病者・孤児・老人・障害者などの福祉のため、渋沢栄一が生涯にわたって尽力した東京市養育院とには多額の寄付をしている。だから「孤児院より人傑の出たことはない」という彼の言葉は、額面通りには受け取れない。慈善もやり方次第では人を益し、世を利することもある、物事は多面的に見なければならないと、彼がいっているからだ。では彼の巨額の寄付行為はいかなる考えによるのか。富や財産は単に個人の努力だけでなく、時勢・社会・国家の急激な進歩にもよる。だからその恩に報いるためにも独り占めすることは許されない。富の永久的独占は不当で、自分の子供(喜七郎)には事業は譲るが財産の相続は別であり、「子孫の為に牛馬にならず」という標語を自身が経営する大倉組の事務室に掲げていると、彼はいう。
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ということで、大倉は松沢裕作氏の勤務する慶応大学にも寄付をしています。
ま、自ら設立した商業学校や恩賜財団済生会・東京市養育院などへの寄付に比べれば少額でしょうが。
大倉が設立したのはそれほど裕福ではない若者を対象とする商業学校であり、ビジネスエリートを育成した慶応大学に比べればマイナーな存在ですが、自助を重んずる教育方針はけっこう福沢精神と重なるのではないですかね。

大倉喜八郎(東京経済大学サイト内)
https://www.tku.ac.jp/tku/founder/okura/
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