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「巻八 あすか川」(その12)─後嵯峨法皇崩御(その1)

2018-02-08 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 2月 8日(木)18時31分18秒

それでは『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p159以下)

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 その頃ほひより、法皇時々御悩みあり。世の大事なれば、御修法どもいかめしく始まる。何くれと騒ぎあひたれど、怠らせ給はで年も返りぬ。睦月の初めも、院の内かいしめりて、いみじく物思ひ嘆きあへり。
 十七日、亀山殿へ御幸なる。これや限りと上下心細し。法皇も御輿なり。両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿さぶらひ給ふ。道にて参るべき御煎じ物を、種成・師成といふ医師ども、御前にてしたためて、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言承りて、北面の信友といふに持たせたりけるを、内野の程にて参らせんとして召したるに、二の瓶に露程もなし。いと珍かなるわざなり。さ程の大事の物を悪しく持ちて、うちこぼすやうはいかでかあらん。法皇もいとど御臆病そひて心細く思されけり。
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その頃から後嵯峨法皇は時々病気になられた。天下の大事なので平癒の御修法などが厳重に開始された。何やかやと騒ぎ合ったが、御治りにならないで年が改まり、文永九年(1272)となった。正月の初めも院の中はひっそりと沈んで、みな心配して嘆き合った。
十七日、亀山殿へ御幸となった。これが最後の御幸であろうと、上下すべての人が心細く感じる。法皇も御輿に乗られる。大宮院・東二条院はいつもの通り一つの車に一緒に乗られる。その車の後ろに御匣殿が陪乗される。道の途中でお召しになる煎じ薬を、和気種成・同師成という医師が御前で調合して、銀の水瓶に入れて、中納言・四条隆良が(薬を奉る役を)承って、北面の武士の信友という者に持たせてあったのを、内野のあたりで差し上げようとして水瓶を召したところ、二つの水瓶にお薬は一滴もない。本当に不思議なことである。これほど大事なものを下手に持ってこぼすなどということはどうしてあろう。法皇も、いちだんと気弱な気持ちになられて、心細く思われたのであった。

ということで、この部分も基本的には『とはずがたり』に拠っています。
「御匣殿」は富小路殿舞御覧に出てきた女性と同一人物と思われますが、誰かははっきりしません。

「巻八 あすか川」(その4)─富小路殿舞御覧
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfa7af54134ac031a3daa1e82e4d01bb

『とはずがたり』では後深草院は大宮院・東二条院の車とは別の車で同行し、その車には後深草院二条が陪乗していたのだそうです。
また、奇妙なことに『とはずがたり』と『五代帝王物語』では途中で薬を差し上げる役目は中御門経任が担当しているのですが、『増鏡』では四条隆親の末子・隆良となっています。
「隆良の中納言」とありますが、四条隆良は文永九年(1272)時点で正四位下・右少将・越前守であり、権中納言となるのは遥か二十二年後の永仁三年(1294)六月ですね。
しかも、同年十二月にはこれを辞し、翌永仁四年(1295)十二月に死去しています。
ということで、ここに「隆良の中納言」とあるのは非常に不思議で、「いと珍かなるわざ」です。
なお、文永九年(1272)、中御門経任(1233-97)は権中納言従二位・太宰権帥ですから「経任の中納言」ならば正しい表現となります。

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 新院は大井河の方におはしまして、ひまなく男・女房上下となく、「今の程いかにいかに」と聞えさせ給ふ御使ひの、行きかへる程を、なほいぶせがらせ給ふに、睦月もたちぬ。いかさまにおはしますべきにか、と、たれもたれも思しまどふこと限りなし。かねてよりかやうのためと思しおきてける寿量院へ、二月七日渡り給ふ。ここへは、おぼろげの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて法の道ならではのたまふ事もなし。六波羅北南、御とぶらひに参れり。西園寺大納言実兼、例の奏し給ふ。
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後深草院は大井河に面した御殿におられて、絶え間なく殿上人や女房、だれかれとなく遣わして、「今の御容態はいかがか」とお尋ね申しなさる、そのお使いが戻ってくる間をも、なおご心配になられておられる。そんな状態で正月も過ぎた。どうなられるのであろうと誰もが思い惑うこと限りない。二月七日、前もって、こういう事態のためにお定めになっていた寿量院へお移りになる。ここへはなみなみの人は参らない。南松院の実伊僧正、浄金剛院長老覚道上人などだけが参上し、御前で、ただ仏の教えのことより他は仰せもない。六波羅探題の北南がお見舞いに参る。西園寺大納言実兼が、例の通り奏上される。

ということで、『とはずがたり』を見ると後深草院二条もお使いの一人となり、「長廊をわたるほど、大井川の波の音、いとすさまじくぞ覚え侍りし」という感想を記しています。
西園寺実兼(1249-1322)は五年前の文永四年(1267)に父・公相に先立たれ、ついで文永六年(1269)、祖父・実氏も死去したので西園寺家の家督と関東申次の地位を承継しており、ここでも関東申次として六波羅探題北方(赤橋義宗、1253-77)と南方(北条時輔、1248-72)のお見舞いを取り次ぐ役となっています。

「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597

『とはずがたり』によれば両六波羅の訪問は二月九日ですが、僅か六日後の十五日、「二月騒動」が勃発し、六波羅南方・北条時輔は北方・赤橋義宗に討たれることとなります。
『とはずがたり』と『五代帝王物語』には、六波羅南方の火災を嵯峨から遠望する様子が記されますが、『増鏡』は無視しています。

二月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
北条時輔(1248-72)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%BC%94

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