学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

六人部暉峰と六人部是香

2021-11-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月23日(火)12時41分39秒

>筆綾丸さん
六人部暉峰(1879~1956)は名前を聞いたこともありませんでしたが、六人部(むとべ)というと、国学者の六人部是香が連想されます。

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没年:文久3.11.28(1864.1.7)
生年:文化3(1806)
幕末の国学者,神道家,歌学者。通称は縫殿,美濃守。号は葵舎,篶舎。六人部忠篤の子。幼少に父と死別,伯父の山城国乙訓郡向日神社(向日市)祠官六人部節香の養子となり,その職を継いだ。文政6(1823)年江戸に出て平田篤胤に入門し,よく研鑽して,平田派関西の重鎮として重んじられた。その著『顕幽順考論』は,人間存在を顕と幽との両世界に分けて神の性質について説いたもので,孝明天皇に進講するという栄誉に浴した。晩年は職を子の是房に譲って隠居,京都三本木に神習舎を開いて門人に教授した。歌学の造詣深く,歌格(歌の規則)研究の集大成ともいうべき『長歌玉琴』を著した。<参考文献>佐佐木信綱『歌学論叢』
(白石良夫)


毎日新聞記事によれば、

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 上村松園と同時代に京都画壇で活躍し、その後忘れられた女性画家がいた。名を六人部暉峰(1879~1956年)という。近代日本画の巨匠、竹内栖鳳に師事し、やがて栖鳳との間に7人の子をもうけ、表舞台から退いた。【中略】 暉峰は向日神社の神官の家に生まれ、10代前半で栖鳳に入門した。


とのことなので、年齢差が七十三歳ですから、是香の孫くらいですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

白川殿攻落図 2021/11/23(火) 10:42:17
https://mainichi.jp/articles/20211121/ddm/014/040/016000c
保元の乱を論じた研究者で、この絵に言及した人は寡聞にして知りませんが、早熟の画家がいたのですね。
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