投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 4月13日(火)10時46分13秒
従来、護良親王は後醍醐により征夷大将軍を「解任」、すなわち一方的にその地位を剥奪されたと考えられてきましたが、「解任」を裏付ける史料はなく、護良が元弘三年(1333)八月末ころに「将軍宮」といった称号を使わなくなったことが分かっているだけです。
そして、約一年の空白があって、建武元年(1334)十月に護良は逮捕・監禁されます。
「解任」後、直ちに護良が逮捕・監禁されてくれたら二人の関係は非常に分かりやすいのですが、この空白期間はいったい何なのか。
ちなみに白根靖大氏(中央大学教授)などは護良の逮捕・監禁が元弘三年十月のことだと誤解されていますね。
南北朝クラスター向けクイズ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f646366405cf851acf7b8cf9ee85c1b
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f
白根氏の錯覚の元をたどると佐藤進一氏の「公武水火の世」論に至るのですが、佐藤氏は『太平記』とともに『梅松論』を妄信していて、『梅松論』の作者を「一人の歴史家」などと呼んでいます。
しかし、『太平記』と同様、『梅松論』もそれほど信頼できる書物ではないばかりか、『太平記』の作者が相当なレベルの知識人であるのに対し、『梅松論』の作者はせいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54
佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになってしまいます。
佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/786499f16170be4f041762c180b82c23
そして、この僅かな期間に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」といった法令も出されていて、この法令の性格を巡っては佐藤氏と黒田俊雄氏、小川信氏の間で古い論争があります。
私も「旧領回復令」について少し書いていますが、それは後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤説には何とも不自然な感じが漂うといった印象論に過ぎません。
このあたり、旧来の議論の評価は私には荷が重いのですが、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)の最後の方に、「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、少し紹介してみました。
美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e989657e9472e017aebd35c8dd0841e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932a4ebec574341dd46db74ab4c70443
また、私は吉原弘道説が後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思っているのですが、ただ、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏によれば、建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
ただ、森氏のこのような認識は『梅松論』に大きく依存しています。
森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統的な後継者ですね。
「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c3a5af51f71a59ad6472f5f65492c1
従来、護良親王は後醍醐により征夷大将軍を「解任」、すなわち一方的にその地位を剥奪されたと考えられてきましたが、「解任」を裏付ける史料はなく、護良が元弘三年(1333)八月末ころに「将軍宮」といった称号を使わなくなったことが分かっているだけです。
そして、約一年の空白があって、建武元年(1334)十月に護良は逮捕・監禁されます。
「解任」後、直ちに護良が逮捕・監禁されてくれたら二人の関係は非常に分かりやすいのですが、この空白期間はいったい何なのか。
ちなみに白根靖大氏(中央大学教授)などは護良の逮捕・監禁が元弘三年十月のことだと誤解されていますね。
南北朝クラスター向けクイズ
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6f646366405cf851acf7b8cf9ee85c1b
南北朝クラスター向けクイズ【解答編】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f6d0f6f585a180760d494ad4f9b0c01f
白根氏の錯覚の元をたどると佐藤進一氏の「公武水火の世」論に至るのですが、佐藤氏は『太平記』とともに『梅松論』を妄信していて、『梅松論』の作者を「一人の歴史家」などと呼んでいます。
しかし、『太平記』と同様、『梅松論』もそれほど信頼できる書物ではないばかりか、『太平記』の作者が相当なレベルの知識人であるのに対し、『梅松論』の作者はせいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。
「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54
佐藤氏は『太平記』の「二者択一パターン」エピソードを信じ、かつ『太平記』流布本に従って護良の帰京は六月二十三日とするので、征夷大将軍任官も二十三日となります。
とすると、せっかく征夷大将軍に任官した護良が「解任」されるまでは実質僅か二か月であって、その僅か二か月の間に後醍醐・護良・尊氏間でものすごい政治的闘争があって、結局護良が敗退した、という極めて忙しいスケジュールになってしまいます。
佐藤進一氏が描く濃密スケジュール(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61ce17b3011e58911b01615de3e15c31
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/77c04b04be9f0c36d0f780efee94d1e3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/786499f16170be4f041762c180b82c23
そして、この僅かな期間に「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」といった法令も出されていて、この法令の性格を巡っては佐藤氏と黒田俊雄氏、小川信氏の間で古い論争があります。
私も「旧領回復令」について少し書いていますが、それは後醍醐と護良の人間関係に着目した場合、佐藤説には何とも不自然な感じが漂うといった印象論に過ぎません。
このあたり、旧来の議論の評価は私には荷が重いのですが、美川圭氏の『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(中公新書、2018)の最後の方に、「旧領回復令」や「朝敵所領没収令」、そして「綸旨万能主義」や雑訴決断所の機能などに関する近時の学説が簡潔に整理されていたので、少し紹介してみました。
美川圭氏『公卿会議─論戦する宮廷貴族たち』(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8e989657e9472e017aebd35c8dd0841e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/932a4ebec574341dd46db74ab4c70443
また、私は吉原弘道説が後続の研究者たちによって基本的に支持され、現在では中先代の乱までは後醍醐と尊氏は決して対立関係にあった訳ではないことが多くの研究者の共通認識となっていると思っているのですが、ただ、九大系の大御所・森茂暁氏は未だに頑固な佐藤進一派ですね。
森氏によれば、建武新政発足の当初から後醍醐・護良・尊氏の三つ巴の緊張状態がずっと続いていて、護良が失脚しても「後醍醐にとっては依然として問題は解決され」ず、「中先代の乱を契機に」、「尊氏と後醍醐との政治路線の食い違い」が「表面化したことはまちがいない」のだそうです。
ただ、森氏のこのような認識は『梅松論』に大きく依存しています。
森氏が一次史料の取り扱いには極めて厳格なのに、『太平記』や『梅松論』のような二次史料に対しては極めて甘いことが私にはどうにも不思議なのですが、この点でも森氏は佐藤氏の正統的な後継者ですね。
「発給文書1500点から見えてくる新しい尊氏像」(by 角川書店)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/47c3a5af51f71a59ad6472f5f65492c1
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます