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「巻二 新島守」(その4)─西園寺公経

2018-01-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月 2日(火)10時01分12秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(上)全訳注』、p113以下)

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 時政は建保三年かくれにしかば、義時はあとを継ぎける。故左衛門督の子にて、公暁といふ大徳あり。親の討たれにしことを、いかでか安き心あらん。いかならん時にかとのみ思ひわたるに、この大臣また右大臣にあがりて、大饗など珍しく東にて行ふ。京より尊者をはじめ、上達部・殿上人多くとぶらひいましけり。さて鎌倉にうつし奉れる八幡の御社に神拝に詣づる、いといかめしき響きなれば、国々の武士は更にもいはず、都の人々も扈従しけり。たち騒ぎののしる者、見る人も多かる中に、かの大徳うちまぎれて、女のまねをして、白き薄衣ひきをり。大臣の車より降るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうち落しぬ。その程のどよみいみじさ、思ひやりぬべし。かくいふは承久元年正月廿七日なり。そこらつどひ集れる者ども、ただあきれたるより外の事なし。京にも聞し召し驚く。世の中火を消ちたるさまなり。扈従に西園寺宰相中将も下り給ひき。さならぬ人々も泣く泣く袖をしぼりてぞ上りける。
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「時政は建保三年かくれにしかば、義時はあとを継ぎける」とありますが、時政は元久二年(1205)、政子と義時によって伊豆に追放され、建保三年(1215)に死去するまでの十年間は全く権力と縁のない存在ですね。
『増鏡』の作者はそのあたりの関東の事情は良く知らず、後に北条氏が執権の地位を世襲したことから時政・義時間も世襲と想像したようです。
あるいは、そもそもそうした関東の細かい事情には興味がなかったかもしれません。
実朝が建保七年(承久元年、1218)に頼家の遺児・公暁に暗殺された事件に際し、京都から「尊者をはじめ、上達部・殿上人多く」がいた中で「西園寺宰相中将」、即ち西園寺実氏(1194-1269)の名前だけが挙げられていることは、次の摂家将軍の下向に関する西園寺公経の描き方と併せ、少し気になるところです。

公暁(1200-19)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%9A%81

さて、実朝没後の若干微妙な朝幕関係についてです。

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 いまだ子もなければたち継ぐべき人もなし。事しづまりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほすまもなく、しをれ過ぐすをぞ将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「公達一ところ下し聞えて、将軍になし奉らせ給へ」と公経の大臣に申しのぼせければ、「あへなん」と思す所に、九条右大臣殿の上はこの大臣の御女なり。その御腹の若君の二つになり給ふを下し聞えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんも同じ事と思し定め給ひぬ。
 その年の六月に東に率て奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。むつきの中の御有様は、ただ形代などをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなれど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞはじめなるべき。かの平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後はその御太刀あづかるべし」と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。
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「故大臣の母北の方二位殿といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほすまもなく、しをれ過ぐすをぞ将軍に用ゐける」とあるので、『増鏡』の作者は「故大臣の母北の方二位殿」即ち北条政子(1157-1225)が短期間であっても将軍職に就いたと認識している訳ですね。
実朝横死を受けて、幕府は当初、朝廷に親王将軍の下向を要請したものの、後鳥羽院に拒否され、代わりに九条道家(1193-1252)と西園寺公経(1171-1242)の娘・倫子の子、三寅(後の頼経、1218-56)が僅か二歳で鎌倉に下向することになります。
『増鏡』の書き方だと、「公達一〔ひと〕ところ」としているので幕府側は親王を要請した訳ではなく、また朝廷側は西園寺公経が「あへなん」(まあよかろう)と思っているところに公経の女婿である九条道家が三寅でどうかと提案し、公経が「孫でもいいかな」と了解したということで、全て西園寺公経中心になっていますね。
承久の乱の直前の時期、誰を将軍として下向させるかは朝廷の最重大事であり、それを決定できるのはもちろん後鳥羽院だけです。
西園寺公経は親幕府派として特に警戒され、承久の乱に際しては後鳥羽院の指示で監禁され、殺されかかった人ですから、この時期に自由な裁量で誰を下向させるかを決定できたはずはないのですが、『増鏡』は西園寺公経の存在を際立たせていますね。

北条政子(1157-1225)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%BF%E5%AD%90
九条頼経(1218-56)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
西園寺公経(1171-1244)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C

最後の方、「かの平家の亡びがた近く、人の夢に、『頼朝が後はその御太刀あづかるべし』と春日大明神仰せられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ」はおそらく『平家物語』巻五・物怪之沙汰を受けたものです。
すなわち、「神祇官の議定の場のような所で、平家に味方していた厳島大明神が追い立てられ、源氏の守護神八幡大菩薩が、平家の預かっていた節刀を頼朝に与えたいというと、藤原氏の氏神春日大明神が、その後で私の子孫に与えてください、といった」という話で(井上、p120)、近年、研究が盛んな「二神約諾神話」の一変形ですね。
「二神約諾神話」は慈円の『愚管抄』に相当な分量の記述があり、様々なバリエーションがあるものの、基調は摂関家の存在を荘厳する神話であって、『増鏡』の作者が摂関家関係者であれば取り上げたいと思うはずの題材です。
ただ、ここでの書き方は『平家物語』を読んでいれば誰でも書けるもので、これを根拠のひとつとして摂関家関係者が『増鏡』作者だろうと想定するのは些か苦しいような感じがします。
「二神約諾神話」については小川剛生氏なども論文を書かれていますが、ネットでは藤森馨氏の次の論文が参考になりますね。

藤森馨「二神約諾神話の展開」
https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/236-244%E8%97%A4%E6%A3%AE.pdf

なお、蘭渓道隆にも「二神約諾神話」の要素を取り入れた説法があって、以前、少し触れたことがあります。

二神約諾神話
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/697686aea7e8431c51f8a2a7ac800d18

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