五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

鎌倉の大仏

2013年06月05日 | 第2章 五感と体感
昨日の腰越勉強会のお題は「鎌倉・長谷の大仏」でした。

現在は浄土宗であり、お寺の名前は高徳院です。

壇ノ浦の戦いが1185年。

平家が東大寺を焼き打ちした後、東大寺再建に力を貸したのは頼朝であり、鎌倉八幡宮を中心に鎌倉と東大寺は長い期間親交を深めています。

長谷の大仏は、1243年に造られたと吾妻鏡には書かれてあるそうです。

昨日のブログにも書きましたが、腰越に縁が出来、K邸のリビングから万福寺の裏側を望み、その先の海を望むと、義経の憂いが伝わってきます。

道教~山岳信仰~役小角、都の明日香に暮らした豪族、他国の民族、権力者も草の民も風土に育くまれた文化で生き、時代を隔てて生きた義経もまた、山に住まう人々に多く助けられながら生き延びていきます。

政権を握った頼朝は、長きに渡る西の文化を模しながら、武家文化を増強し禅宗の寺が鎌倉時代のイメージを強化させていきます。

現代の鎌倉は、私が片足を突っ込みながら育った自分の生活圏でもあったので、寺院巡りというよりも暮らしに根ざしていたと云ったほうがしっくりきます。

でも、歴史の学びを深めていくと、長谷の大仏でさえ、鎌倉時代の抑圧的な模倣の精神に、儚さを感じる対象となってしまうのです。

平家物語を読むにつれ、平家に肩入れする私の心があるのかもしれませんが、従兄弟である義仲の子を娘と共に育てながらも梯子を外して追い打ちし、兄を慕う義経を最後の最後まで追い詰めていく執拗さを忘れることはできないのです。

家臣に父を殺された頼朝の愛と憎しみの表裏を感じざるを得なく、抑圧的なもののなかに大きな罪悪感も垣間見え、それらが鎌倉という地のアイデンティティになっていることも感じたりします。

吾妻鏡をまともに読んでいないので、ここで突っ込んだことを書くに憚られますので、まずは吾妻鏡をよく読んでから鎌倉の学びをしていかないと、鎌倉というフィールドに立ちながら鎌倉を題材にした学びは進まない思うようになりました。

鎌倉の大仏。。。伽藍が津波で流され、なんども造り変えられ、修復され、今に至るわけですが、未だに私の意識の外にある大仏様をもう少し学びを深めてから考えていきたいと思うのです。

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