五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

吉野詣 奈良旅4

2013年06月12日 | 悔いのない人生とは?
今まで何度奈良を旅したかきちんと数えた事はありませんが、長谷寺、室生寺方面、法隆寺や信貴山方面、二上山を眺めながらの當麻寺詣、山の辺の道、明日香、多武峰方面、柳生の里や浄瑠璃寺方面、奈良坂、高畑を抜けた新薬師寺あたりや春日原生林等、地図を頼りに自分なりにパーツに分けて随分歩いてきました。

修学旅行で奈良に行ったのが初めてであり、10代~20代の頃はインドやアジアの国々に興味を持ち旅しているうちに、改めて奈良を歩きたくなり、旅をしたのが、「私の人生の奈良期」のプロローグだったのかもしれません。

仕事や勉強会で年に数回関西を訪れる機会を与えられた10数年前から、一気に拍車がかかり、時間を作って奈良や京都巡りに費やしてきました。
でも、さすがに吉野は遠いというイメージが付き纏い、なかなか足を踏み入れることができずにいました。

今回の旅行は、ジャンボタクシーの定員9名に合わせて旅のメンバーを募ったことで、心身ともに楽に移動することができました。しかも、私達は金峯山寺まで行くのが精一杯だと思っていたのですが地元で育ったこの道30年の運転手さんが気を利かして上千本まで案内してくれたのです。

源氏物語に登場する現場に立ちたくなり、平家物語を読むにつれ、特に西行や義経にまつわる場所を訪れたくなり、現場に立つことで私の頭の中で物語の再現が成されていくこと自体が、今や私の趣味と生活そのものと言っても良いかもしれませんし、生き甲斐だと言いきることもできます。

吉野川を渡り、吉野杉の製材工場の脇を通り抜け、吉野駅に立ち寄り、グングンと山道を上って行くと道路の途中に後醍醐天皇御陵がありました。「鎌倉時代から室町時代を生き抜いた後醍醐天皇がこの山奥にあるの何故か?そして後醍醐天皇の怨霊を恐れ、御陵の入口を北にし京都に向け、怨霊を封じたのであろう…」と勝手な推測でタクシー内で盛り上がっているうちに上千本の水分(みくまり)神社に到着しました。
修験の香り漂う地であり、社殿は関東の香取神社をコンパクトにしたようなイメージを受け、時代を経るごとに役割が重なり、安産祈願へと変化していったように見受けられました。
分水嶺にある社であるゆえに修験道を確立した役行者以前の古層の祈り場であることは確かでありましょう。地が持つ力がとても強いと感じました。
神仏習合の名残である八角の御輿を拝見することもできました。

たぶん、この分水神社から先がさらに修験道の大奥になるはずで、豊臣秀吉が修験の山の奥の奥まで桜の山にしたことも修験者に対する制圧にも繋がるであろうし、現在では桜木を植えることが修験そのものであることを知り今回の旅の驚きの一つでもありました。

役行者(小角)も空海も西行も、そして芭蕉もこの山で多くを学んだはずです。そして、頼朝に追われた義経が静御前と別れた場所が西行が三年間住んだと云われている庵跡と同じ場所であろうことも感慨です。女人禁制の修験の山に女を入れることは危険極まりなく、歩けるはずもありません。静御前は後ろ髪を引かれる思いで都に戻り母の元に戻りますが、直ぐに頼朝に捕えれてしまいます。鎌倉に連れて行かれ、義経の子を宿ったことが解りますが、生んだ子供は無残にも由比ヶ浜に沈められてしまうのです。義経はこの吉野の山から平泉に逃れるのですが、日本海から東北に抜ける大きな関門が有名な安宅です。
東大寺再建のために勧進して巡る修行僧を装った弁慶の名シーンが、この安宅の関です。

吉野と云えば、能楽では「二人静」が有名です。里の女と静の合舞いによって、静御前の霊を間近に見ている様な感覚に成る演出がとても美しいです。

分水神社から少し下がったところには車も停車できる展望台があります。お天気の良い日は大阪城も見えるらしいのですが、ホンマカイナ!と思うくらい山々が連なっていました。役行者の生まれ故郷にである葛城山を望み、思わず手を合わせたくなる情動に駆られた風景に、憧れの吉野の地に立った臨場感が湧き立ちました。長きに渡り修験者しか見ることのできなかった風景を見ることができる時代に生きている自分は本当に幸運です。いや、、、昔々の自分の祖先は修験の山々を駆け巡っていたやもしれませぬが。。。( ^^;)

続く・・・
明日も吉野を綴ります。

クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする