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歩くことが唯一の趣味ですから。

柏から

2021-02-27 | Weblog
田んぼの畦道をそのまま残して立体的な都市にしたような柏の駅前には昭和の未来感がある。
川崎の古書店で100円だった昭和48年初版の『千葉県歴史散歩』(千葉県高等学校教育研究会
歴史部会編・山川出版社刊)を手にして柏にきた。



手賀、布瀬方面のバスに乗りたいのだが、およそ50年も昔の本だから現在の交通アクセスは
スマホでネット検索して確認しなきゃ。どうやら駅の向こう側、東武バスの東口1番乗り場
らしい。停留所で路線図と時刻表を見ると、布瀬行きバスまで2時間ある。



やむをえず、畦道の上を舗装したようなアーケードで猫をかまう。いやな予感がしたのだが、
2時間後のバスのその次はさらに5時間後だから、行きはよいよい帰りはこわい。遭難しそう。
コンビニで何か食べ物と飲み物を買い込んだほうがいいかもしれない。



2時間後の路線バスで東台まで45分ぐらい揺られる。柏市文化課がネットに上げた2014年の
情報によれば、徒歩5分のところに手賀城主原氏の墓があるはずなんだけど、どこにあるのか
わからない。GoogleMAPにも出てこない。



「周辺には(中略)手賀城址などがあります」と柏市文化課のネット情報にあるから、例の本
と照らし合わせて現在位置の把握を試みる。「…手賀城につく。小田原北条氏に属した原氏の
居城で、興福院の近辺に空堀や土塁の一部が残っている……」興福院を検索するとヒットした
ので、そちらのほうへ歩いていく。



興福院平和公園という、真新しい共同墓地がある。この近辺が城址なのだろうか。50年も前の
記述なので様子がおかしい。それでも空堀や土塁のように見えなくもない土地の起伏を頼りに、
城址らしい場所を探す。北条氏の子分なら石垣のない城だろう。



墓地を見渡す四阿(あずまや)で、持参したおにぎりを頬張りながら、ここが本丸だろうかと
いぶかしむ。史跡めぐりというより、ごっこの領域……子供か。例の本を開くと、こんなこと
が書いてある。「…本丸は現在稲荷祠が建っているあたりで、興福院内の妙見祠は二の丸跡、
門前右側は陣屋跡と推定される…」稲荷祠がないから、ここは本丸ではない。



記録に頼るのを一旦やめて、土地のかたちを見渡す。興福院を出たところから見える、あそこ
がいかにも城っぽい。なんか稲荷祠のような影もある。めんどくさいけど、どうせバスもなく
居場所もないのだから歩いて行って確認しよう。空堀のような窪みも散見される。



農家の私有地の隅っこに設けられた石段を上がってみると、稲荷祠が建っていた。見晴らしも
いいし、ここが手賀城の本丸だった場所だろう。いまは畑になってるが、丸く縄張りしてある。
畑を通り抜けて車道のほうへ出てみると、証拠物件があった。



手賀城址、の石碑が傾いている。ここが本丸ということは、さっきの興福院は場所がおかしい。
そこで共同墓地の案内所に入って、例の本を見せて尋ねることにした。「興福院の境内に原胤親
の墓がある」と書いてありますが、どこかわかりますか?



若いお兄さんが何か思い当たったようで、GoogleMAPを印刷してくれた。「本院のほうなら、
この地図には名前が出ませんが(と、手賀下の坊子供の遊び場の文字を指さしながら)ここに
あまり大きくない建物があります。今いる平和公園共同墓地は、分院なんですよ」…どうりで
昔の本とGoogle MAPの情報に食い違いがあると思った。歩いて本院へ。



その本堂に向かって左にある、下の坊子供の遊び場が二の丸の跡らしい。丸く縄張りしてある。
さっきの本丸との位置関係もおかしくない。本院の境内にあるという原胤親の墓とやらはどこに
あるのだろう? 本堂に向かって右側に墓地があった。



この中のどれか。昔すぎて文字など薄れて読めないだろうし、時期的にささやかな墓石だろう。
見つけることはあきらめた。原氏は北条氏滅亡後、徳川氏に属したが、キリシタン大名となった
ため1613年に家が断絶になった。例の本にそう書いてある。そのキリシタン墓地がどこぞにある
ようなことも書いてあるが、どこだかわからない。GoogleMAPにも出てこない。



潜伏キリシタンがこの土地にも存在したのではないだろうか。明治6年にさっそく手賀教会堂が
すぐ近くに建てられた。藁葺き屋根と瓦屋根のある珍しい教会。千葉県指定文化財ということで
補修作業が行われていた。

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