このまえ上野の国立博物館にでかけたら「創立150年」の垂れ幕が掛かっていた。そこで頑張って暗算すると、2023年の150年前といえば1873年だから、上野の東叡山寛永寺が戊辰戦争で薩長に焼かれた1869年のわずか4年後に創立したことになる。東京国立館がある場所は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺、東叡山寛永寺だったのだが薩長の新政府軍が戊辰戦争で焼き払った。
なにしろ江戸城が無血開城したもんだから、わざわざ攻め登ってきた薩長の軍は徳川家の菩提寺でも焼き払わないと収まらない。国立博物館だけでなく、その真ん前の上野公園の一帯も東叡山寛永寺だったから、彰義隊の抵抗むなしく薩長はそこらを手当たり次第に破壊し尽くした。だから、上野公園も4年後に開園して、今年で150年になる。花見客の頭上に150周年の横断幕が張ってあった。桜の木の下には彰義隊士の死体が埋まっている。
そんなわけで、薩長が炎上させた東叡山寛永寺の焼け跡にわずか4年で創立された国立博物館の初代館長は当然、薩摩藩出身の某が任命された。某の胸像が博物館の敷地にあるのを、たまたま見つけた。某は辞官後、出家して園城寺子院の住職になり「石谷」と号したとか。もしかすると後ろめたかったのかもしれない。
東京国立博物館にでかけたのは、特別展「東福寺」を見物したいからだった。寛永寺の焼け跡にある博物館で東福寺の展示を見るのは妙な気持ちだ。宋の時代に大陸から渡ってきた禅が日本で盛んになるころ、大陸では仏教がいよいよ道教にやられて滅びつつあった事情が偲ばれて妙な気持ちがいや増した。禅の興隆を強調する展示を見れば見るほど、彼の地で仏教が衰亡するさまが思いやられる。ぼくはいつもこうなんです。普通に展示を見られないんです。
特別展の展示物はだいたい撮影禁止だったが、この仏手は撮影OKだった。旧本尊の釈迦の左手が屹立していた。本来は左膝の上に甲を下にして置かれ、与願印を結んでいたという。それをどうして立てたのか。仏手だけ大事に展示するということは、旧本尊は仏手しか現存しないんだろう。だから旧本尊なんだろう。現本尊の釈迦か何かの仏像がきっと東福寺にあるに違いない。(何を見せられているのか……)
特別展の券を買って入館すると、ついでに常設展を見て回ることができる。心の隅でそれを目当てにして足を運んだところもある。常設展の展示物は特に断りのあるもの以外だいたい撮影OKだ。著作権は切れているし、国民の財産なんだから当たり前といえば当たり前のこと。しかし、こういうところの予算は良識のない泥棒たちの政府によって削られがちだから今のうちに見ておいたほうがいいと思って、ときどき上野の東叡山寛永寺が炎上した焼け跡へ吸い寄せられるのだった。
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