散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

近松と西鶴の墓

2024-01-20 | Weblog

兵庫県尼崎市のJR塚口駅(大阪から数駅)で降りて、ちかまつロードを歩いていくと10分か15分くらいで近松公園に着く。近隣には近松保育園やネオ近松と称するアパートなど、近松門左衛門にちなむ建物がいくつかあった。近松という地名ではないが「近松のまち あまがさき」として市や県が注力してる。

近松門左衛門は江戸時代の劇作家で、人形浄瑠璃(文楽)の台本を多く残した。福井藩士の次男として承応2年(1653)に生まれた次郎吉は、父の杉森信義が浪人したので寛文7年(1667)京都に出てきて、丁稚奉公をはじめる。奉公先の縁で浄瑠璃や歌舞伎に接し、天和3年(1683)というから30歳で書いた「世継蘇我」が上演されたらしい。

人形浄瑠璃の公演をチケットぴあなどで調べると、どうも関東より関西のほうが上演の機会が多い。近松は西で浄瑠璃を書いて、竹本座で上演したのだから。とはいえ、時代物を書いているうちは泣かず飛ばず。世話物の「曽根崎心中」が当たって名を成すのは元禄16年(1703)だから人間五十年を越えて、苦労の末の遅咲き。

売れっ子になった近松は宝永3年(1706)大阪に移り住み、そこの地縁で尼崎を描いた「五十年忌歌念仏」を上演したのが宝永4年(1707)。六十代になって尼崎の荒寺、廣済寺の再興を資金面で助けたのが正徳4年(1714)……昭和50年(1975)その寺の隣に建てられたのが近松記念館で、近松公園の一角を占める。

正面は施錠してあり、通用口に回るよう貼り紙がしてあったので、そっちから入ると管理人さんが出てきて入館料200円を徴収し、展示室を開錠して電灯と空調をつけ、展示の案内をしてくれた。前の管理人さんが3年前に他界してから、老後の3時間労働でここの番をしている。浄瑠璃は先日、初めて見たそうだ。

隣の廣済寺は、再興の恩人である近松のため、本堂の裏に離れを設けて仕事部屋として近松に提供した。この「近松部屋」は明治の末まで残っていたという。1階と中2階の2部屋あり、近松記念館の模型で概略がわかる。

中2階への短い階段が記念館に展示されている。実物だという。管理人さんにその話を聞かなかったら、ガラスの向こうに展示されている梯子のようなものを目にしても気に留めなかったかもしれない。

近松の墓は大阪の谷町筋にあるのだが、隣の廣済寺にも実はあり、どちらも本物だと管理人さんは言う。昭和25年(1950)に墓を掘ったら骨があったとか、後に過去帳が出てきて近松の戒名が記録されているとか、証拠(になるのか?)をいろいろ取り揃えてある。かえってあやしい。

せっかくだから廣済寺のほうの墓も見ていく。寺域を描いた江戸時代の絵図を見ると周囲がまるで海のようなのは、水田だからそう見えるらしい。カラーだったら水田とわかりそうだけど、墨だけで描くと木立のところが島のようではないか。

廣済寺の墓地に入ると近松の墓が整えてあり、思ったより小さかった。「冥土の飛脚」「国性爺合戦」「日本振袖始」「心中天の網島」「女殺油地獄」「関八州繋馬」など百の戯曲で名を轟かせ、享保9年(1724)に没した。それから300年。

大阪に戻り地下鉄の谷町六丁目駅から谷町筋を下ると、八丁目のガソリンスタンド脇にあるのが近松門左衛門の墓だ。このへんには相撲の力士を贔屓にする支援者がたくさん住んでいたので、いまでもパトロンのことをタニマチと称する。近松にも熱烈なタニマチがいたのだろう。

世話物で名を馳せたから、伝統的な時代物を高尚とする向きからは邪道と蔑まれた。しかし庶民は時代物を喜ばず、近松が書いた時代物は20年ずっと空振り続きで竹本座が潰れかけたところで一発逆転、三面記事的な要素のある実話を元にした世話物の浄瑠璃が大ヒット。いまでは古典として残っている。

近くの誓願寺で無縁仏の中に埋もれていた井原西鶴の墓石、明治の文豪、幸田露伴が発見して現在は墓地の中央通路の奥にしっかり据えてある。無縁仏の中から見つける露伴の熱意すごい。職業戯作者を近代作家の祖として敬う思いが強かったのだろう。露伴がいなければ無縁仏のままだった。

 

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番町界隈2

2023-12-02 | Weblog

番町界隈を歩いてブログを書いたとき、文人通りを行き来しても島崎藤村の住居跡が見つからなかった話をしたら、ご家族のかたが場所のわかる地図をくれたので改めて尋ねてみた。見つからないわけだ。脇道に曲がった場所で、案内板が木に隠れてた。

枝をかき分けて字を読むと、昭和12年(1937年)から藤村が6年間ここに住んだそうだ。6年後の昭和18年(1943年)は没年だから、晩年の住居ということになる。たまたまなんだろう、画家の藤田嗣治のアトリエが同時期に目と鼻の先にあった。藤田は藤村の亡くなる前後に神奈川へ疎開し、転居後のアトリエは空襲で焼けた。

いまはアパートになっている藤村の住居跡も、だから空襲で焼けたに違いない。もっとも藤村は昭和18年(1948年)に大磯の自宅で亡くなったというから、空襲以前に疎開なのか転居なのか大磯に移っていた。文人通りの住民はこぞって神奈川に越したのかもしれない。泉鏡花は空襲より先に近くの住居で逝去した。

そこから四谷駅のほうへ出て、お堀端の公園沿いに市谷駅のほうへ進んだら、内田百閒の住居跡があるはず……いただいた地図を頼りに尋ねると、あそこの角地がそうに違いないけど光文書院のビルがあるだけで案内板や記念碑のようなものはない。『ノラや』のノラはこの辺で失踪したのだろうか。

ノラを探して徘徊する百閒もかくやと近隣を捜索したら別の旧居跡に看板が出ていた。藤村が番町に転居してきたのと同じ昭和12年(1937年)に百閒も番町に越してきて、いまの番町公館のところに住んだが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け出され、看板の立つ場所の掘建小屋に戦後も3年ほど住んだ。そのあと光文書院の場所に三畳御殿を建てて移り住み、昭和46年(1971年)に亡くなるまで暮らした。

さらに市谷駅のほうへ足をのばし、フランス出身の風刺画家ジョルジュ・ビゴーの住居があった角地にきてみた。工事をやっていて痕跡ひとつなかった。道路をはさんで向かいに吉行淳之介が住んでいた(時期はぜんぜん違う)というので、右往左往して調べたが何もそれらしき跡はなかった。

二七通りを九段のほうへ歩いていくと、寺田寅彦の住居跡は見つからなかったけれども東京家政学院の門前に『明星』発祥の地の案内板があった。明治33年(1900年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社の機関誌として始まり、高村光太郎、北原白秋、与謝野晶子(鳳昌子)らが寄稿した。集英社の『明星』とは別物。

その先の路地に入って1本目の通りとの角地が、平塚らいてうの住居跡のはずなんだけど何の痕跡もなかった。明治44年(1911年)に25歳で雑誌『青鞜』を創刊して、「原始、女性は太陽であった」という表題の文章を寄稿し、大変な話題になった。そのわりに案内板すらない。

二七通りに戻って九段のほうへ歩くと、塙保己一の和学講談所のあったところでまたビル工事か何かやっていた。『群書類従』を編纂した江戸時代の人で、若くして目が不自由になり、琴だか三味線だか弾いていたのが学問に志して古文献の研究に邁進したすごい学者さん。アパートか雑居ビルにでもなるのかな。

その先の永井荷風の住居跡はこのような更地になっていた。靖国神社のほうへ曲がったら小山内薫の住居跡があると思って、行ったり来たりしたけどアパートや飲食店があるだけで手がかりすら見つからなかった。塙保己一の和学講談所の跡の工事現場に戻って、国木田独歩の住居跡を探しにいく。

そこは大妻女子大や付属校が密集するエリアになっていて、国木田独歩の住居跡や坪内逍遥の住居跡や武林無想庵の住居跡を、いまどき珍しいセーラー服の学生らが通り過ぎる。もっとも独歩や逍遥や夢想庵の住居跡として表示があるわけでもないので、おそらく誰ひとり意識することなく入学から卒業まで通過するだけ。

坂を下って大杉栄の住居跡がどうなってるか見にきたら、そこの角地はセブンイレブンになっていた。獄死したアナーキストの住居跡がコンビニエンスストアになってるとは意地の悪いこと。もちろん案内板や記念碑の類など、あるはずもない。つまらなくなってきたので、そこから地下鉄に乗って家に帰った。つづき(番町界隈3)は、また今度にしよう。

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京都1200年

2023-11-25 | Weblog

京都の中心は時代と共に東へ東へ移動してきた。たとえば京都駅などは平安京の中心線より、かなり東に位置しており、南に下がってもいるので、1200年前だったら京の外れもドン外れ、ギリギリの隅っこだ。芥川龍之介の小説『羅生門』に出てくる、荒れ果てた城門より東にあたり、やや北だからどうにか平安京の内側とはいえ、あの小説の時代なら荒廃すさまじき場所だったはず。

そんな京都駅から烏丸通をまっすぐ北へ上がると京都御所がある。北朝の初代、光厳天皇が1331年に即位した場所で、当時ごたごたしたことは明らかだ。北朝ができる前の正統(のちの南朝の源流)が内裏を置いていたのは現在の岡崎、平安神宮のあるところで京都御所よりさらに東だった。代々の内裏も、北朝の御所も、794年にできた平安京の内裏より東にかなり寄ってる。

南朝はその後、滅びたから、北朝の御所が天皇の在所として明治の首都移転まで続いた。明治天皇も北朝の系統なのだ。1331年から1869年までだから538年間。しかし京都には東京遷都を歴史的な事実として認めない人がけっこう存在しているという噂を聞いたことがある。その人たちには、この御所がいまも日本の中心なんだろう。

そんな御所も幾度も焼亡し、現在の建物は1855年のもの。京都は空襲で焼けなかったけどその前に何度も焼けている。社寺も仏像も古いものが残っていない。そういうのは滋賀にむしろ多い。さて、1869年に北朝の明治天皇が東京の宮城(元・江戸城で現・皇居)に移るまで、御所(南朝に遠慮してるのか内裏と呼ぶことは少ない)の周辺には多くの宮家や公家が住んでいた。

御所のまわりの細い水路はこんな水量でも皇室を守る結界の役割を果たしていたのだろう。俗世の堀とは意味合いが違うから、こんな規模でいいんだ。この外で暮らした貴族がこぞって東京へ、明治天皇を追いかけて移住したから、御所の周辺が荒れ放題に荒れた。これはいかんということで公園として整備されたのが、いまの京都御苑。だから現在、京都御苑の中に京都御所が収まっている。

順路に沿って京都御所を見学したあと、京都御苑を突っ切って南の端まで出てくると丸太町通が東西に通っている。丸太町通を西へ歩いていくと、794年に平安京ができたときの内裏があった場所に至る。そこで丸太町通を西へ西へ、黙々と歩いていく。けっこうな距離だけど昔の人も歩いたんだから歩くしかない。烏丸通を超えて千本通のほうへ、丸太町通を西へ歩く。

途中、堀川通の手前に真新しい看板があり、宇治の平等院を建てた藤原頼道の屋敷がここにあったというから寄り道する。令和3年にこの地に社屋を構える企業が宣伝を兼ねて藤原頼道の邸宅「高陽院」の跡地であると訴えかけたものらしい。

さらに丸太町通を西へ進み、堀川通を渡って千本通との交差点に至る。そこがまさに平安京の元の中心、大極殿があった場所だと表示が出てる。794(鳴くよ)うぐいす平安京から1200年たった1994年、発掘調査でここがその場所だとハッキリしたって書いてある。いまとなっては御所からも内裏(平安神宮)からも遠く、京都観光の繁華街からも離れている。見物客などいない。

それまでは、千本丸太町の交差点より北西に位置する内野公園(児童公園)の場所が大極殿だと思われていた。明治28年(1885年)このあたりが荒れ果てたのを見るに見かねた役所が急遽、写真のような大極殿跡の石碑と石段を児童公園の一角に築いた。しかしその場所はズレていたことが百年あまり後、平安遷都1200年の1994年に判明した。それから早、30年が過ぎ去ろうとしている。

昭和38年(1963年)の下水道工事で見つかった、平安京の内裏の回廊の一部の跡に遺構と石碑があった。千本丸太町の交差点から信号ひとつ分、北に上がって東に折れたところ。平安遷都の当時の文書を元におおまかな場所の見当はついているんだろうけど、実際に学術調査をやって初めて「ここだったのか」ということになるらしい。公文書の保管は大切なことで、安倍政権みたいに公文書改竄を平気でやるようになると国は滅ぶ。国賊というのは安倍晋三みたいな人のことだと、京都1200年の歴史を歩いて遡りながら思った。

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読売ランド前から

2023-11-18 | Weblog

向ヶ丘遊園で下車して歩き回ったのが思ったより楽しかったもんで、小田急線の下り列車でさらに2駅ほど都心を離れて読売ランド前で下車した。向ヶ丘遊園は2002年に閉園したけど、読売ランドはまだ閉園していない。木造コースターが超怖いと聞いたことが昔あるのだが、いまも木造のままかどうか。

新宿からくると自然に南側の改札を通ることになる。読売ランドは北側らしいので、踏切(←これが都心には滅多にないので少し懐かしい)を渡って駅の反対側に回り、郵便局を過ぎて右手の路地に入る。「この先行き止まり」のほうへ歩いていくと多摩自然遊歩道に足を踏み入れることになる。

遊歩道の立札のところで、向こうから老人が列をなして歩いてくる。旗を見ると歩こう会かなんかの群れだ。こんなのと遊歩道ですれ違ったら難儀だから立札のところでやり過ごす。100人ばかり、あとからあとから家畜のように連れられてくる。どうしてもホロコーストを思い出してしまう。その妄想を振り払うのが大変だった。

老人たちが途絶え、やっと1人きりになったので多摩自然遊歩道を静かに歩くことができる。住宅地のすぐ裏にこんな山道のようなものがあるとは。そこはかとなく縄文人がかつて暮らしていても不思議ではない雰囲気が漂う。ヒッピーとかのコミュニティがあってもおかしくないような……?

そうそう、こういう衝動的なのか意図的なのか判別しがたい絵が遊歩道の両側に現れてきてね。そうすると向こうから原始的なのか文明的なのか、言い方を変えると下手なのか上手なのか形容しがたいエレキのバンド演奏のようなものが聴こえだし、静かに歩くどころではなくなる。

森の中に突如、出現したコミュニティ。これはヒッピーの祭典だろうか。多摩方面にはいまだに、そういうムーブメント的なものが残っているのだろうか。1991年の夏に青森県の六カ所村で体験した、いのちの祭りにどこか似てる。この人たちもやっぱりNO NUKEを唱えているんだろうか?

森を抜けると車道があって、道なりに進んだら日本テレビの生田スタジオに出た……ここ、タレント取材にきたことある。1999年か、1998年ぐらいかな。収録に来てるタレントの上がり待ちで、夜7時ぐらいから待機して夜9時すぎから洋服のショッピングについて話を聞いたような。もう忘れた。

さらに歩いていくと、よみうりランドが見えてきた。キャーキャー歓声は聞こえるけど、はたして木造コースターが健在なのかどうか遠くから眺めてもよくわからない。こっちは裏手みたいだし、正門に回って入園するのもおっくうだから、よみうりランドに寄らないで京王よみうりランド駅をめざす。

途中、こんな見晴らしのいい場所に出た。山じゃないか、自分がいる場所。そんなつもりじゃなかったから、水も持たずに歩いてきた。ほとんど手ぶらだ。こんな装備で大丈夫か。死亡フラグが立たないうちに里に下りて駅まで歩く。京王よみうりランド駅のつもりが京王稲田堤の駅に出た。かまわないから京王で帰った。

 

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向ヶ丘遊園

2023-11-10 | Weblog

楽しそうな名前の駅だと思って電車を降りた。向ヶ丘遊園。かつて遊園地があったようだが、いまはもうない。ようこそ生田緑地へ!と改札口に掲示してあり、遊園地なきあと緑地がいちばん推しみたいだから、その緑地のほうへ歩いていく。

途中、川を渡って府中街道を越える。このあたりに向ヶ丘遊園の入口があったらしいんだけど、いまはとくにそれらしき様子がない。2002年に閉園して、もう20年以上になるから無理もないだろう。まっすぐ生田緑地のほうへ進む。

駅から1本道だから迷いようがない。10分ほど歩くともう緑地に入る。そこに日本民家園があるので寄っていく。各地から民家を移築してきて保存している野外博物館のようなところで、進んでいくと思ったよりたくさんの民家が寄り集まって農村に迷い込んだみたい。

このように正門を入ると宿場があり、その先に信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村がある。神奈川の村は関東の村じゃないかと思うけど、ここはおそらく神奈川なので他の関東とは一線を画す意識があるのだろう。川崎市なのかな?

これが信越の村だった。雪で倒壊しないためだろうか、屋根の角度が関東の村(含む神奈川の村)と比べて鋭角のように思える。何が面白いのか見物して歩いてるおじさんの姿がそこらじゅうに見られる。もっとも自分も同じように、つまらない顔で徘徊してるおじさんに過ぎない。

関東の村に差し掛かると、子供たちが嬉々として麦わらの民芸品を青い目の外国人に装着してもらっていた。日本の伝統文化はこのように、ものずきな外国人らによって守られていくのだろうか。そういうものなのかもしれない。

さびしい気持ちになったので日本民家園を抜け出して、生田緑地をさらに奥へ進むと青少年科学館があった。しかしながら青少年だった時期はとっくに過ぎ去り、残念ながら科学っていう気分でもないので、素通りしてさらに生田緑地の奥へ急ぐ。

メタセコイアの林を通る。こういうところを歩くと、どうしても思い出さずにいられないのはフルタ製菓のセコイヤチョコだ。丸太を縦割りしたような形状でウエハースをクリームで包み、チョコで覆っている。植物はセコイア、チョコはセコイヤ。そうなのだから仕方ない。画家がルノワール、喫茶室がルノアールなのと同じ。

メタセコイアの林を抜けると、そこはもう岡本太郎美術館だった。川崎市立と表示されているから、ここはやはり神奈川県川崎市なのだ。これでいいのだ。ゲイジュツはバクハツだ。ムン!なんだかわからない。岡本太郎はテレビで奇人変人ぶってたが、『自分の中に毒を持て』などの著書を読むと、まともな思考力のある人だったことが露呈する。

せっかくだから美術館を見物して、することがなくなったので元きた道をまっしぐらに戻った。駅前の珈琲館に寄ってドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第4部を読み、混んできたので店を出て小田急線の普通列車で新宿駅まで座って続きを読んだ。そんなことはどうでもいいか。

関連記事:   日本昭和村

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番町界隈

2023-11-05 | Weblog

関東大震災で壊滅するまでは番町界隈にちらほら作家や画家、音楽家などが住んでいた。震災後は郊外へ移り住んだ。いまの地理感覚だと山手線の外側へ。まだ倒壊する家屋もないような、手つかずの森や野原が多かったから、被災者が住みつくのに適していた。話はそれるが、震災で被災した寿司職人が地方へ散った結果として、江戸前寿司が全国に広まった。

そんな100年前の震災以前、いまの地理感覚だと地下鉄の麹町とか半蔵門とかに程近い、日本テレビ旧本社ビルの再開発問題で揉めに揉めているという(警官うろつく)番町あたりに暮らした作家や画家、音楽家などの名残というか痕跡というか、ゆかりを求めてある日そこらを歩いて回った。「番町文人通り」という愛称もあるらしい。

たとえば明治29年(1896年)、有島武郎、有島生馬、里見弴の作家3兄弟の父がここに自宅を構えた。3兄弟ともすでに青少年だったから、ここで育ったといっていいかどうか疑問ではあるけど、多感な時期を過ごしたのは間違いない。このへんは徳川の時代に直属の武士を住まわせた場所で、いざとなったら将軍が甲州へ逃げる突破口だった。幕府の瓦解後、住む人が減り、家を構えやすくなった。

3兄弟の長男、『生まれ出づる悩み』や『或る女』の有島武郎が大正12年(1923年)6月9日に軽井沢で自殺し、同年9月1日に関東大震災が起こると、3年後に作家の菊池寛がこの地に住んで文藝春秋社を起こした。文春砲でおなじみの、あの会社だ。菊池寛は芥川賞・直木賞を設立した人でもある。『真珠夫人』なども書いた。

有島3兄弟や菊池寛が住んだ場所はこのようなアパートになっている。大都市の宿命で戸建に住む人が亡くなると跡地はほぼ100%アパートになる。そうでなければ事務所や商業施設になる。番町界隈はアパートばかり。日本テレビ旧本社ビルの再開発が揉めに揉めているのは、ほかでもない地元アパート住民の猛反対があるから。

明治43年(1910年)から泉鏡花が死ぬまで、『婦系図』のモデルでもある愛妻すずと暮らした旧居跡は有島3兄弟や菊池寛の住居跡のアパートのすぐ裏手だった。震災後もここで暮らし続けたようだから、泉鏡花は番町の文人の代表例といってもいいのかもしれない。みんな散り散りになってしまったから。

みんな散り散りになった後、昭和12年(1937年)にパリから帰ってきた画家の藤田嗣治(晩年はフランスに帰化してレオノール・フジタ)がこの地にアトリエを構え、敗戦直前に神奈川の小渕村に疎開するまで住んだ。アトリエは転居後の空襲で焼けたというから疎開して正解だった。ちなみに泉鏡花は空襲より前に他界していた。

藤田嗣治のアトリエがあった場所も、このようなアパートになっている。すぐ隣か、もしかしたら同じ場所に、震災より前に作家の島崎藤村が住んでいたようなのだが、跡地の看板が見つからなかった。芥川龍之介には批判されたけど島崎藤村は日本文壇の功労者なのだから、看板ぐらいあってもいいのに。ちなみに藤村は神奈川の大磯で戦時中に逝去した。神奈川に疎開するのが流行りだったのか。

「君死にたまふことなかれ」で有名な歌人の与謝野晶子と、雑誌「明星」(といっても戦後の芸能誌じゃないほう)を主宰した与謝野鉄幹の夫婦は、明治44年(1911年)から4年間この地に暮らした。ほかにも直木三十五、武田麟太郎、初代中村吉右衛門、網野菊、串田孫一といった人たちが周辺に住んだらしいが、串田孫一の住居跡しか看板が見つからなかった。

だいぶ離れたところに、作曲家の滝廉太郎の居住地跡があった。明治27年(1894年)から7年間、亡くなる2年前まで住んでいたというから、これまで看板の出ていた誰よりも先に暮らし始めた先輩だ。「荒城の月」「花」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」などを作曲した人で、場所も離れているし時期も早いし別格かも。

滝廉太郎の住まいは袖摺坂に面していた。今でこそ車道が2車線もあるが、もとは行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったので袖摺坂という。そんな由来と一緒に、作家の国木田独歩もこのへんに住んでいたと案内表示に書いてある。一番町のほうが、文人の住みつくのは四番町などより早かったのかもしれない。そしてみんないなくなった。

関連記事:  田端(文士村)

 

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はじめての熊野古道

2023-10-28 | Weblog

もともと修験者たちの修行場だったんだろう。陸の孤島というべき熊野(その名の由来も隅の野らしい)が穢れを祓う霊場として、俗塵まみれの上流階級から憧憬されるに至ったのは平安末期のいわゆる院政のころ。天皇が退位して藤原摂関家のしがらみを断ち切り、上皇として実権を掌握した時代だった。それはもう、生きているだけで穢れる実感ものすごく、祓わずにいられなくて上皇が大勢のお供を従えて熊野詣でを繰り返した。その経路が熊野道で、熊野詣でが廃れると道も廃れたが、近年になって「ここがそうかな?」と見当つけて部分的に整備されたのが熊野古道。

治天の君と敬われる上皇(院)の権力の源というべき始祖・神武天皇が九州から畿内へ東征するとき、激しい抵抗にあって回り道したのが現在の熊野だった。そのとき、3本足の八咫烏が神武天皇の道案内をつとめ、おかげで畿内に攻め込むことができたのだから、皇室は熊野をおろそかにできない。だから熊野本宮を敬い、京から約半月かけて本宮大社に詣で、そのあと速玉大社と那智大社に詣でる熊野三山めぐりを果たしてから、また約半月かけて京に戻る熊野詣でに熱心だった。

800年も昔の参詣道がそのまま残っているはずもない。皇室の主な尊崇が伊勢神宮へ移ると熊野詣では廃れ、道も多く荒れ果てた。時代が下って江戸期に、庶民がお伊勢参りをするようになると、ついでに熊野に参る人も増え、京から熊野大社への熊野道(紀伊路・中辺路・大辺路)とは別に、伊勢から熊野大社をめざす熊野道(伊勢路)も踏み固められた。他に高野山から熊野大社に至る小辺路と合わせて、紀伊路・中辺路・大辺路・小辺路・伊勢路の5ルートを熊野道(熊野古道)という。

とてもじゃないが全ルート踏破などできないので、要所だけ歩くべくバス移動する。ちなみに院政期の熊野詣では京から淀川を舟で下り、大阪湾の手前で陸に上がって、輿で紀伊半島をひたすら南下する。窪津王子、坂口王子、郡戸王子、上野王子、阿倍野王子(たぶん、あべのハルカスの近く)など、王子と呼ばれる道標をたどって熊野をめざす。王子は数が多いので、九十九王子と総称された。

おおむね紀伊路をバスで南下し、中辺路と大辺路に分岐する交通の要衝、「口熊野」ともいう現在の田辺のまちを少し歩く。ここにはJR紀伊本線の紀伊田辺駅で下車しても訪れることができる。田辺の自慢は合気道の開祖、植芝盛平で、熊野古道に面した植芝盛平翁生誕の地をまず見物。といっても家屋はなく、空地に石碑があるだけ。このあたりは植芝姓の家が多く、植芝の名を屋号にした店なども散見された。

口熊野というだけあって交通の要衝の田辺は史跡が多く、近世の著名人(相撲取りや商人など)の墓も多い。それらを見物して歩くうちに雨が降り出した。レインコートを着用して町歩きを続ける。紀伊路がここで終わり、中辺路と大辺路に分かれる。中辺路が院政期に流行した熊野詣でのメインルートで概ね山歩き。大辺路は紀伊半島の海沿いルートで、江戸期の文人墨客は風流がって大辺路を遠回りした。

山歩きの中辺路と海沿いの大辺路の分岐点に近い、出立王子の跡には鳥居もあれば祠も碑もある。これだけあれば見過ごさないけど、九十九王子と呼ばれる道標には何も痕跡めいたものがなく見過ごしがちな王子もある。およそ百年前(たしか大正11年)に埋め立てられる前は、出立王子のすぐそばが海岸線であり、大辺路は海岸線に沿い中辺路は山へ入って行った。上皇は海辺で潮垢離をし、身を清めてから中辺路を進んだという。潮垢離がどんな段取りの儀式だったか、記録がないのでわからない。

一説によると田辺は武蔵坊弁慶の故郷だという。弁慶は実在しない説が有力なので、田辺に伝わる伝説も後世の創作かもしれないが、熊野詣でを完遂する脚力のない人が熊野詣でと同じご利益を得ることができる神社がこの地にあり、弁慶の父が熊野別当を務めていた。院政期の少し後、源平合戦の折には熊野別当の司る熊野水軍の去就が源平の明暗を分けたが、どちらに就くか判断を誤れば死活問題になるので弁慶の父は紅白の鶏を闘わせて占い、紅なら平氏、白なら源氏に水軍を加勢させることにした。そのときの様子が銅像になって、闘雞神社に設置されていた。

白い鶏が紅い鶏に勝ったので、熊野水軍は源氏に味方することになり、結果として平氏は海戦に敗れて滅んだ。三種の神器も海に沈んだ。そんな逸話に因んで紅白の闘鶏が社にデザインしてあった。紅白歌合戦も、源平の合戦に端を発しているので、男女で勝敗を競うのは伝統を歪めて差別を助長する近代の忌まわしき趣向である。そんなメッセージを紅白の闘鶏が発信しているかどうかは、資料がないのでわからない。

さて、熊野本宮に詣でるのと同じご利益が得られるという世界遺産の闘雞神社は、本宮と同じ社殿の配置になっており、そこには本宮と同じ十二柱の神が祀られている。だから、よく眺めておいた。ところが、中辺路を通って辿り着いた本宮の社殿はここと様子が違っており、一見すると、四柱の神しか祀られていなかった。なぜだろう。それについては熊野本宮に到着してから、明治にかの地を襲った災難の詳細と一緒に書き留めておこう。

中辺路と大辺路の分岐点に、町人でも読めそうな道標が立ったのは江戸期だろうか。熊野に至るメインルートの中辺路について「左くまのみち」かなんか大きく彫ってあり、その下に小さく「すくは大へち(まっすぐは大辺路)」とある。中辺路を通って熊野本宮をめざすのは明日にして、そこらの宿に泊まる。繰り返すが、大辺路を行くと風光明媚な海沿いを歩くことになり、遠回りながら風情があるので江戸期には大辺路もそこそこ人気があった。

一例を挙げるなら、海沿いの大辺路を行くと道中こんな奇観も目にすることができたから、参詣ついでに物見遊山する近世人が喜ぶのも理解できる。熊野詣での最盛期、末法と信じられた平安の院政期には、かえって信心深い人が多かったので明媚な風光なんか眺めるよりも中辺路の山道をひたすら(輿に乗って)熊野へ急く人ばかり。そして現代、中辺路は山歩きが1/3で残りはほぼ車道だけど大辺路は車道ばかり。熊野古道を歩くといったら中辺路(の一部分)を狙い定めて歩く場合が多い。

全長1000kmに及ぼうという熊野古道が全てこんな感じだなんてことは決してなく、ほとんどが車道だし、山道もどこを通っていたか既にわからなくなっている。昭和の終わり(40年代以降)に復元の機運が高まり、有志の踏査なども行われたが明らかになったとは到底言えない。途切れ途切れに遊歩道が整備され、平成の初めに一通り現在のような形になり、後にところどころ世界遺産として認定された。だから外国人の姿もちらほら見かける。コロナの前は中国人が殺到したというが、いまはそれほどでもない。中国人のように見えても台湾か香港の人らしい。

というわけだからバスで遊歩道の入口まで移動して、そこから山歩き気分を味わう。標高はだいたい200mか300mぐらい(最高地点で600mかそこら)だから、感覚的にはハイキング。夏は暑いだろう。院政期の熊野詣では秋に出立することが多かったようだ。紀伊半島は温暖なので冬の古道歩きも夏に比べれば悪くないと評判だ。雪が降るわけでもないようだから、確かに冬はいいかも。

院政期の道標だった王子(九十九王子)とは別に、江戸期の街道に設けられた一里塚の跡もある。見方を変えれば一里塚さえ跡しかないのだから、江戸期に人が歩いた道も埋もれてどこだか不明だったりする。院政期には輿に乗った貴人がすれ違う程度の道幅があった熊野道、よくわからない部分は通りやすいところに新しい遊歩道を敷設して観光の便宜を図り、トイレなども設けて世界遺産の基準を満たした。そう思うと神秘性のようなものは薄れる。しかし、江戸の五街道がいまどうなってるか考えたら古道のありさまも無理ない。

その先に九十九王子のひとつ、近露王子之跡の碑があった。昭和8年に大本教の教主だった出口王仁三郎がこの地にきて休息したとき、当時の村長の依頼で紙に揮毫したのを石に彫りつけて昭和9年に建立した碑だという。昭和10年12月に大本教が2回目の激しい宗教弾圧を受け、この碑も取り壊さねばならなくなったが、村長が「この文字は王仁三郎の筆跡を自分が模写したものである」と主張して、王仁三郎の筆跡を警察に提出した上で、碑面にあった「王仁」の署名を削り、「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去を免れた。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多くあったが、他はことごとく破壊されて、かろうじて残ったのはここだけだと脇の立札に記されていた。

発心門王子の後は神社になっていた。舗装道路を歩いたり、林道を歩いたり、木炭バスの時代のバス通りに並行して通された遊歩道を歩いたりして、熊野古道と推定される新しい道というか、熊野古道に仮託された道をたどると王子の跡がところどころに設けてある。どこまで本当なのか、いまはもう知るすべもない。

水呑王子の跡には廃校になった小学校の校舎とステージがあった。高度経済成長期にその廃校をリゾート会社が買い取り、アスレチック施設のようなものを運営していたという。ステージではフィリピン人ダンサーがセクシーなダンスを披露したが、その施設もやがて潰れてしまい、いまは何もない。ステージ周辺はテントを張るのにちょうどいい空地だから、平成の熊野古道ブームに火がついた頃はキャンプする人もいたのだが、それも禁止になった。

伏拝王子の跡にはカフェめいたものがある。空いてればコーヒーぐらい飲んでもいいんだけど混んでるから素通り。水分も行動食も携行している(山歩きの装備を整えて来ている)から、喫茶店めいたものがなくても平気なのだった。外国人の多さが見て取れる写真ではないだろうか。トイレを済ませて熊野本宮のほうへ歩く。いまのところ車道や林道ばかり歩いているような感じで、まあ遠足かな。

小辺路(高野山と熊野を結ぶルート)との合流地点の近くまでくると、やっと遊歩道っぽくなる。とてもよく整備されているので、山歩きというより散策という感じで、欧米人は雨蓋のついた大きなバックパックを背負ってるけど、日本人や台湾人や香港人や韓国人の中にはスニーカー履きでポーチぐらいしか持ってない、いかにも観光地めぐりといったスタイルの人も多い。熊野三山めぐりなら、それで十分かも。

樹々の合間から、熊野本宮の巨大な鳥居が見えた。あと4kmぐらい歩けば熊野本宮に到着する。高低差も大したことがないし、よく整備された道だから1時間ぐらいで着くんじゃないだろうか。実際のところそんな感じだった。なんかこう、拍子抜けではある。自分の足で歩いてこうだから、輿で運ばれる上皇の熊野詣でなんか楽ちんの極みだったのでは……往復1か月だし、従者が食べ物や飲み物を運んでくれただろうから。もっとも現代人は鉄道や航空機や自動車を利用して巡るし、さらに楽ちん。

古い石畳の道の脇に根を切り払った木が露出している。根のところまで土があったということだ。「ここが古道だろう」という道の土を堀り、邪魔な木の根を切り払うと下に埋もれた石畳が出てきた。これが古い参詣道の石畳らしい。古いといっても江戸時代の技術ではないか。織豊期に発達した城の石積みを応用している節がある。

大小の石が、ある程度の規則性をもって配置されている。大きく見える石は、手前が大きくて奥が小さい。小さく見える石は、手前が小さくて奥が大きい。楔のような石を互い違いに並べることで安定させ、水はけのよさも実現させている。こんなに努力して拵えた道も、200年かそこらで土に埋もれてしまい、どこにあるかさえ掘らないとわからない。しかもこれは江戸期の道だから、院政期の古道とは違う。この下に、また埋もれてるかもしれないが、石畳がないとすれば掘っても気づきにくい。

祓戸王子の跡には祠があった。ここまで来れば熊野本宮(の裏手)は目と鼻の先。熊野古道の主要な部分(熊野本宮をめざすのが熊野詣での主目的)はめちゃくちゃ歩きやすいことがわかった。山歩きの装備は必ずしもいらない。

そして本宮に詣でたら、なんだかおかしい。昨日の闘雞神社は熊野と同じ十二柱の神々を同じ配置で祀っている(だから熊野詣でと同等のご利益がある)と聞いたのに、闘雞神社にくらべて本宮のほうがどう見ても簡素。どう見ても社殿が少ない。それには理由があった。もともと本宮はここではなく、500mぐらい先の河川の中洲に熊野坐神社として存在していたのだが、明治22年の熊野川の大氾濫で社殿が流されてしまい、からくも残った4社だけが現在の本宮に祀られているのだ。

大洪水で流された8社に祀られた神々は、あの大鳥居(山道で樹々の合間から見えたやつ)の向こう側、大斎原(おおゆのはら=旧社地)の祠に祀ってある。せっかくだから、そこまで見に行く。もともとの熊野詣では、そこが主な目的地だったわけだから、いまの本宮でゴールと思ってはいけない。

大鳥居の手前で立ち止まって見渡す景色……明治22年の大洪水では、あの山の中腹にある小学校の1階までが水浸しになった。田んぼは完全に水の下、熊野坐神社も押し流された。しかし考えてみれば、河川の中洲に神社を設けて明治22年まで何百年も無事だったことのほうが意外といえば意外だ。社殿によると、十二柱の神々は三つの月のかたちで中洲に降り立ったというから、おいそれと動かすわけにいかなかったのかもしれないが。

石段の上の祠2基に4柱ずつ合祀してある。本宮に移された4柱と合わせて12柱。そして、ここが熊野詣での本来のゴール。ここから川を舟で下って熊野速玉大社に参詣し、那智の滝で知られる熊野那智大社に参詣する熊野三山めぐりを果たして、また輿で京に戻る1か月ツアーが平安末期に上皇が身心の穢れを祓った熊野詣でだった。

あらためて鳥瞰図を眺めると、やはり中洲の社殿が千年もよく洪水で流されなかったものだと思う。昔の上皇は川を下って熊野速玉神社に参ったが、今の庶民はバスで熊野速玉神社に向かう。着いたら何やら祭をやっていた。

祭があまり好きじゃないので音曲の喧騒を逃れると、速玉神社に隣接して地元出身の作家、佐藤春夫の家屋があった。そういえば『田園の憂鬱』とか少年のころ読んだなと思って見物して行くことにした。

佐藤春夫が東京で暮らした家がこうして故郷に移築され、記念館として展示されている。入館料330円だったかを払い、中を見ていく。建物は撮っていいけど中の資料は撮っちゃダメと言われた。「新宮市立佐藤春夫記念館だより第28号(最新号)」を手に取って読むと、1989年11月に開館した当館は移転計画が進行中だという。徒歩10分ほどの旧西村家住宅や旧チャップマン邸のそばに移る予定で、来年度は休館するとか。

東京都文京区関口町にあった佐藤春夫邸は昭和2年の建築で、けっして大きくはないが中が白壁でしゃれている。2階は明るいサンルームだった。老朽化のため屋根が後づけされていた。多くの人はサンマ苦いかしょっぱいかの詩で、春夫知ってるか知らないか。写真を見ると顔が険しい。疲れたから那智大社参りは明日にして、そこらの宿に泊まる。

JRの紀伊勝浦駅から出てる熊野交通バスの那智山行きに乗り、終点の那智山まで行けば那智大社まで近いのだが、それだと面白くないので手前の大門坂でバスを降り、那智大社まで歩いて登る。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をまわる三山めぐりの締めくくり。20年前に吉野から高野山に行って宿坊に泊まり、熊野へ出たときは確か定期観光バスで三山をめぐった。

鳥居から先は神域で、鳥居の手前は人が生活するところ。明確な区別があるのだという。しかし大門坂を通り抜けて那智大社に至る石段を登ると、そこに上皇御一行様が参拝前に宿泊する場所の跡があった。貴人は鳥居の先で寝起きすることもできるが、庶民は鳥居の手前に宿を取る習わしだったんだろう。お伊勢参りのついでに熊野三山をめぐる物見遊山をかねた客などが鳥居の手前で休んだに相違ない。

そんな宿のひとつが手前のすぐ前にあった。立札に「南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡」とある。この地で粘菌の研究をした南方熊楠は博覧強記の人で、最高学府の東京大学の講義をくだらないと断じて退学後、単身ロンドンに留学した。帰国後、家業は弟が継いだので熊楠はぶらぶらして、ここの旅館に三年間も長逗留して何やら研究をした成果が国際的な偉業として現在は認められている。そういえば20年前、熊楠記念館で遺品や資料を見たことがある。

そのころ那智山の樹木を伐採しようと資産家や役人が計画したのだが、粘菌の研究をしている熊楠が立ち上がり反対運動を繰り広げたおかげで、熊野に手つかずの自然が残って今では世界遺産となっている。東京では現在、外苑前や日比谷の樹木を資産家と役人が伐採し商業施設を建てようと計画している。熊楠が聞いたら猛烈に反対するに相違ない。ユネスコも反対している(環境破壊だけでなく文化破壊になるから中止せよと申し出た)にもかかわらず、政官財は耳を貸さずに木を伐ろうとする。日本にはもう観光のほかに立国の手立てがないのだから、自然と文化を大切にしないで一時の金に転んだら衰亡の道しか残らない。それでもいいと考えるのは、文字通り売国奴であり国賊に相違ない。

九十九王子の最後のひとつ、多富気王子の跡に石碑があった。なぜここが最後かというと、京から淀川を舟で下って大阪の中之島で陸に上がり、そこから九十九王子をたどる熊野詣でのメインルートが紀伊路、中辺路をへて熊野本宮にまいり、熊野川を舟で下って速玉大社にまいり、最後にこの先の那智大社にまいるから、手前の大門坂に最後の多富気王子がある。いよいよ終点が近い。

樹々の間からも那智の滝が見える。那智山は熊楠の主張が通って自然林が残されている。熊野でも他の地域、例えば昨日の中辺路の森などは伐採されて杉、檜の建材用の植林だった。和歌山県は7割が山地で、そのうち7割が植林だと誰かが言っていた。自然林はわずか。その自然林に比べると植林の保水力は低い。そのせいかどうか10年ほど前に河川が氾濫して交通が遮断され、復旧するまで熊野三山めぐりが数年間できなくなった。そんな期間を越えて、20年ぶりにやってきた。

十一文関跡を通った。江戸期の関所だろう。通行人から十一文ずつ徴収したようだ。そばが食える程度の料金だという。現在の感覚だと数百円から千いくら。こんな関所がたくさんあったというから、旅人にしてみれば痛い。お伊勢参りや富士講やなんかは近隣で金を出し合って代表として若い衆が物見遊山をかねた参詣をしたようだから熊野に寄る人もそうだろう。路銀が不足したり、紛失したり、盗難にあったら関所を通れなくて難儀する。そんな人のために、ふところに余裕のある人が関所で多めに金を払い、「困った人がいたら通してあげて」と役人に言付けする共助の文化が江戸期にあったという。

大門坂を登り切ったら、そこから那智大社の石段をまた登らなければならない。ちなみにバスで終点の那智山まできても、結局この石段は登らないといけない。輿で運ばれたきた院政期の上皇も、下馬の標示から先はさすがに自分の足で歩かなければならなかっただろう。まさかおんぶやだっこというわけにもいくまい。

なんらかの萌えキャラが境内にいた。本宮てるて、那智霧乃、速玉ナギ。さすがに那智大社だからセンターは那智霧乃。3人とも八咫烏を従えている。それぞれ手旗を持っているからバスガイドの設定なのかもしれないが、帽子はガイドというより運転手のものだし、装束は巫女さんだ。はたして何をする人だろう。

廃仏毀釈で神仏習合の世界観が破壊されるまで那智大社と渾然一体だった那智山青岸渡寺の向こうに那智の滝が見える。那智といえば大学に那智という名の学生がいて、いつも晩ごはんはナッツだとか話していたからリスみたいな食生活だなと当時は思っていたけど、いま考えるとキャバクラか何かで働いてたんだな。どうもメイクや髪型や物腰が夜っぽい感じだったし。

青岸渡寺を通り抜けて那智の滝まで歩いてきた。20年前はこんなに水量が多くなかった。前の晩に雨が降ったから溢れているのだろうか。滝を見て熊野三山めぐりを終えたら、院政期の上皇御一行様はまた中辺路と紀伊路をへて京へ戻った(淀川の舟は従者が綱で引いて上皇を遡らせたんだろう)。江戸期の参詣者は元の道を帰ったんだろう。修行者の中には、補陀落渡海といって棺桶のような箱に入り、舟で海に流された者も代々いた。補陀落浄土に逝けると信じられていたから。青岸渡寺の名のルーツではないだろうか。山を下ると海辺に補陀落山寺があり、そこから出発したようだ。江戸期に時代が下ると信心が弱まっているので、箱に入って舟で流された僧侶が死ぬのを怖がり、こっそり箱を蹴破って島に隠れているところを見つかった。それからは補陀落渡海がおこなわれなくなった。さっバスで帰ろう。

 

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上高地の河童

2023-10-20 | Weblog

芥川龍之介の『河童』は上高地にいる河童だった。ちゃんとそう書いてある。長野の上高地に行くと河童橋に人が群がり、河童橋の河童が芥川の河童と知ってか知らずか記念写真など撮っている。橋のたもとの売店には、河童にちなんだ土産物がいろいろ販売されている。芥川龍之介が上高地を舞台に『河童』を書いた結果だ。

100年ほど前の小説だから、『河童』の内容のハイカラぶりが今では風化してわかりにくい。缶詰も、腕時計も、精神病も、牧場も、『河童』に出てくる文物はどれもこれも時代の先端を行く舶来品ばかりで、いまとなっては古びてしまったが100年前はハイカラそのもの。いずれも小説の小道具になるくらい新しかった。

100年あれば時代は変わる。当時、上高地には牧場があり牛が飼われていたが、いまはもうない。当時、上高地には河童が出没していたのかどうか定かではないが、いまは出没していない。100年の長さを思いながら歩いていたら、インド人の家族が水辺で遊んでいた。そこだけ切り取ると、ヒマラヤ山中の湖畔にしか見えない。

三年前の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川をさかのぼるよりほかはありません。僕は前に穂高山はもちろん、槍ヶ岳にも登っていましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登ってゆきました……こうして河童に遭遇するのが芥川の『河童』で、この秋もういちど上高地を訪ねて『河童』を読んで散策しようと宿を予約していたんだけど、うっかり足の確保が後手に回ったもんだから……後手に回っても列車とバスを乗り継げば辿りつけるとはいえ、なんとなく面倒になってキャンセルした。つまり行きもしないでブログを書いたのがこれです。

 

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秋のない日本アルプス

2023-10-09 | Weblog

中央アルプスの千畳敷カールは例年なら9月下旬から10月上旬に紅葉を楽しみながらトレッキングできると聞いたので、10月初めにどんなものか見物しに出かけてみた。今年の夏は暑かった。東京など6月から9月まで猛暑日が相次いだので、8月に避暑をかねて千畳敷から木曽駒ヶ岳へ山登りしにきたとき、マイカー規制の区間のバスとロープウェイがひどく混んでいた。行楽の秋だから今回も混んではいたが、真夏ほどではなかった。それはいいとして、千畳敷はすでに冬だった。

9月下旬になっても紅葉しないまま、気温だけが急激に下がり、10月初めには朝夕の気温が氷点下になり霧氷が生じるありさま。秋のないまま夏から冬に季節が移った、例年であれば短い秋があるのにと地元の人も驚いていた。東京にいても夏から冬へと急に変わったように感じていたが、標高の高い場所もそうか。秋はすでになく、思えば春もなかった。梅雨もなかったし、日本を特徴づける四季はすでに観念の中にしかなく、一般のモラルと足並みを揃えるかのように崩壊した。秋のない日本アルプスで寒さに凍えながら実感した。

 

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田沼意次の墓と染井霊園

2023-10-07 | Weblog

閉塞の時代に立身出世を遂げた田沼意次は男の嫉妬で汚名を着せられて失脚したらしい。男の嫉妬は恐ろしい。死後も悪漢として歴史に記されて弁明の機会もなく後世に誤解を広められる。菅原道真は男の嫉妬で失脚するや雷神となって祟りをなしたが、田沼意次は祟ることなく悪評の広まるに任せたから、より開明な人格者かも。

そんな田沼意次を大河ドラマの主人公にと、かつての領地・相模藩(いまの静岡県牧之原市)の有志が今年7月24日=田沼意次の命日に、菩提寺である東京都豊島区駒込の勝林寺に墓参りして祈願したことを翌々日の朝刊で読んだ。猛暑の最中だったから涼しくなったら行ってみようと覚えておき、10月にやっと出かけた。

天明八年戌申秋七月二十四日卒と、墓跡の左側面に刻んであるので、正面に戒名しかなくても田沼意次の墓だとわかる。失脚した後も生き永らえ、幕末に69歳で没したようだ。父は足軽だった。幕政に参画する機会などあるはずない出自ながら、能力がよほど高かったのだろう。8代将軍吉宗が旗本に取り立て、9代将軍家重が大名に取り立て、10代将軍家治が老中に取り立てた。

墓石の右側面に、當寺中興開基 田沼主殿頭源意次朝臣と刻んである。田沼時代には蝦夷地開発、印旛沼干拓、株仲間結成など進歩的な善政を敷いて幕政を改革したが、家柄第一伝統墨守の守旧派が危機感に苛まれ、一説によると10代将軍家治を暗殺して田沼を失脚させた。その際、意次より優秀で腕利きと評される嫡男・意知を暗殺し、老い先短い意次は生かしておいた。無念な意次の墓石がこれ。

一代で身を起こし宰相にまで上り詰め、失脚したのち金権政治と揶揄されるところが田中角栄に似ている。角栄は米国の意に沿わない善政を敷いてスキャンダルに巻き込まれ失脚したが、田沼時代は米国の傀儡ではなかったから、スキャンダルは幕閣の手で引き起こされて歴史に記された。幕閣は儒者だから商売のような下賤の行いで財政が上向き、世襲が軽んじられることなど断じて許せなかったらしい。

 白河の清きに魚も澄みかねて もとの濁りの田沼恋しき

田沼を失脚させて政権を乗っ取った白河藩主の松平定信が苛烈な悪政を敷いて民を苦しめたので、このような狂歌が詠まれた。昨今は田沼の評価が高まって、大河ドラマの主人公にという動きもあるくらいだが、いまの住職が小学生だったころは「うちの寺」に田沼意次の墓があることを隠していたそうだ。

勝林寺の墓地に隣接して染井霊園がある。そこには明治以降に没した著名人が数多く眠っているようだ。このブログどうしても墓地ばかり訪れがち。田沼は幕末に没した人だけど、二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)は46歳で明治42年(1909)に亡くなった。ずいぶん若くして死んだんだな。

墓石には本名の長谷川辰之助と大きく刻まれ、その右脇にペンネームの二葉亭四迷と彫ってある。文学に志すと親に告げたとき、くたばってしまえと言われたので二葉亭四迷という筆名にしたと聞いた。『浮雲』は日本初の口語体小説というから、どんなものかと読んでみたら硯友社とかの美文調より読みやすくて意外だったっけ。

高村光雲・高村光太郎・高村智恵子の3人は一緒の墓に入っている。なんでそんな?と思ったらこれは高村家代々之墓だから3人というより全員で入っている。有名なのが3人だから霊園の案内に3人の名前しか記されてない。それだけのことだった。

染井はソメイヨシノ発祥の地だと、霊園の立て札に書いてあった。オオシマザクラとエドヒガンを交配させて伊藤家の伊兵衛が作ったというソメイヨシノは、花が咲かなくなる時期をもうすぐ迎えるとか。

花を見るためなのか、霊園にベンチが並べてある。せっかくのベンチなのに、ホームレスが横になれないように肘掛けをつけて嫌がらせしている。ある時期から、都内のベンチはこのようにホームレス排除のしかけが施されるようになった。排除が好きな知事のせいだろう。公約も実現せずに余計なことばかりして、来年の都知事選挙ではもういいかげん落選してほしい。ベンチを見てそう思った。

 

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さよなら国立劇場

2023-09-25 | Weblog

あって当たり前だから、その気になればいつでも行けると思ってる場所がなくなるのは痛い。名画座や行きつけの喫茶店ぐらいでも痛いし、しばらく行ってなかった公共施設も、なくなると分かると惜しい。歌舞伎や文楽、落語などを楽しみに学生のころときどき寄ってた国立劇場が、10月で公演を終えて取り壊されるという。歌舞伎とか落語とかは10月も上演の予定があるのに、あれれ?

加齢とともに伝統芸能から遠ざかりつつあるけど、なぜか文楽が無性に見たい。調べたら文楽をしっかり見る機会は、9月24日で終わってしまう。あわてて23日、24日の両日チケットを買い、通し狂言「菅原伝授手習鑑」を鑑賞することにした。非常に有名な演目ながら通しで上演するのは50年ぶりらしい。そんなことで伝承できるのか心配……つぎの機会あるんだろうか?

オープン当初、なにも最高裁判所のとなりで芸能やらなくてもと揶揄されたのも記憶に新しい国立劇場、もう取り壊すなんてもったいない。いつ完成したか調べたら生まれる前だった。そうか、大人たちが囁きあうのを幼少のころ耳にして記憶したということか。調べたら最高裁判所の建物のほうが後にできている。なにも国立劇場のそばに裁判所おっ立てなくても、という順序になる。

とくにこれ、大劇場と小劇場の裏手にある演芸場がすぐ横に聳える要塞のような最高裁に睨まれて、どうしても卑屈にならざるを得ない。だから落語はどうも見る気分にならない。歌舞伎もなんか気が引ける。ところが文楽(人形浄瑠璃)は品があるせいか、小劇場が裁判所から比較的に離れてるせいか、よそで鑑賞する機会が乏しいせいか、さよならしておきたかった。

あらためて観る「菅原伝授手習鑑」は平安時代に題材をとっている(菅原道真の失脚と復讐にまつわる物語)なのに、登場人物というか人形がみんな儒教道徳にしばられすぎて、がんじがらめすぎて背筋が寒くなる。江戸時代の脚本だから致し方ないのだろう。観ていてだんだん平安時代ということを忘れて江戸時代としか思えなくなり、儒教にしばられない能や狂言との違いを感じる。

それでも「菅原伝授手習鑑」の間に挿入された明るい演目「壽式三番曳」は、狂言の影響が色濃かった。「能や狂言が好きな人は変質者」と言い放った橋下徹が文楽について「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると作品世界に入っていけない」「クラシックや文楽が芸術ならストリップも芸術だ」などと変質者以下の発言をしたこと、思い出さなくていいのに思い出した。維新の関係者は文化や行政の破壊しかしない。ひさしぶりに観る文楽が最高だけに、あいつらは許せん。

さよならだからなのか、千穐楽のときは配るものなのか、入口でこんな封筒を渡された。もらってもどうしたらいいものか。五円玉ぐらい入ってるのかな? と中を確認したら、べつになにも入ってなかった。文楽をしっかり見る機会は当分ないけど、10月も1日単位の出し物はつづく。舞踊とか謡とか。異色なのは「ナイツ独演会」で、チケットが残ってたら行きたいのに売り切れ。

「壽式三番曳」と「菅原伝授手習鑑」の幕間に、席を立たずに座って休んでたら場内アナウンスで国立劇場の緞帳について解説が始まった。前の日は幕間にトイレに立ったり売店を冷やかしたりしたので、さよなら公演だから緞帳を見せびらかしてるのか連日こんなふうに緞帳を見せびらかしてスポンサー名を読み上げるのか、判別するのが難しかった。ことによると連日やるお約束なのかも。

前の席のおばちゃんが動画で緞帳を取ってる(写真の下方にスマホが見切れてる)ので、わざわざ動画でなぜ? と思ったら、場内アナウンスの説明を録音したくて動画モードにしてるのだった。安土桃山時代にこのようなモダン美がすでに確立していたとか、この緞帳の提供は竹中工務店ともう一社だとか、そんなようなこと。幕間なので人が出入りして動画に入るのを、おばちゃんは嫌がっていた。

3枚目の緞帳は三井住友カードがスポンサーだったのを覚えている。緞帳のことなどどうでもいい。文楽を鑑賞してると人形が人間にしか見えなくなる。リアルさの極みで、それが人形なのだと気づかせるシーンが時折あり、緊張と緩和(あるいは同化と異化)で場内が笑いに包まれる。うつむいた人形遣いも微笑んでいる。そこがいいんじゃないか。「人形遣いの顔が見えると作品世界に入っていけない」なんて、とんでもない。

悲劇的な場面は人形だからこそ容赦なく、人間がやるより切ない。人間がやるより哀しい。人間がやるより残虐、非道、冷酷。そこがいい。首を引きちぎって投げ飛ばすなんて、人形じゃなきゃできない。千穐楽の前の日、国立劇場の裏手にある伝統芸能情報館で文楽の人形かしらを見物しながら、そんなことを思った。千穐楽で実際に悪役が部下の首を引きちぎって投げるシーンがあり、退治されて当然という流れを作るために必要なことながら、歌舞伎であれをやるのは無理だと思った。やると作り物めいて滑稽になる。

伝統芸能情報館も国立劇場と一緒に取り壊されるのかもしれない。取り壊されるに違いない。おそらく見納めだろう。そう思ったから、いちおう写真に撮っておいた。近ごろは工事の人手が不足しているから、計画通りに建て替えが進むとは限らないし、つぎに国立劇場で文楽を楽しむのはいつのことだろう。公演自体は場所を変えて、確か北千住のホールで12月にやったり、年明け外苑前のホールでやったりするらしい。場内アナウンスで宣伝していた。

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白樺湖から車山をへて霧ヶ峰へ

2023-09-22 | Weblog

1日に数本のバスで茅野から上がってくると、白樺湖でアナウンスが流れた。標高約1400m、1周約4kmの人造湖だという……人造湖? そうだったのか。下車して畔を歩いてみる。遊歩道(というよりランニングコース)が敷いてあり、1時間とかからず散策できる。ボートで釣りをしてる人や、木陰にイスを置いてお茶など沸かして飲んでいる人がいて、のどかなものだ。

白樺湖は農業用の溜池として1940年、戦時中に着工した。敗戦が近い1944年、資金難を理由に工事が中断され、戦後の1946年に再開、数年かけて人造湖ができた当時は「蓼科大池」と名づけられたが住民に不評で、1953年に白樺湖と改称。そのころから観光開発が行われ、1980年代に観光のピークを迎えたが、1991年から観光客が減り続けて30年あまり。

湖畔を歩くとバブルの残骸が至るところで野ざらしになり、日本の発展と衰退を手に取るように見物できるテーマパークのよう。向こうに車山が見える。肉眼だと山頂に気象観測台が確認できて、それとわかる。タイミングが合えば茅野からくる1日数本のバスに乗って10分ほどで車山高原に到着し、そこからリフトで山頂まで上がれる。湖畔からリフトまで歩いても1時間かそこら。

1925mの山頂に上がると、気象観測台に寄り添うように車山神社が鎮座している。四隅におっ立つ御柱は、ふもとの諏訪大社の影響だろう。諏訪の神社や祠には御柱がつきものだ。諏訪湖の花火の会場にも御柱がおっ立つ。男性の陽物をかたどる石棒もあちこちにおっ立つ。長野の人は……少なくとも諏訪湖のあたりの人は、棒状のものをおっ立てるのが好きなんだな。

山頂からは八ヶ岳の連峰が望める。反対側に目を向けると、霧ヶ峰に至る高原の小径が続く。写真では分かりにくいが肉眼ならば一目瞭然。ここから先は、上り道もあるが基本的には霧ヶ峰まで下りだから割合に楽な気分で歩き通せる。日本の四季は失われ、5月から9月まで真夏日・猛暑日のオンパレードだから、今年は霧ヶ峰に2回もきたし、来年以降も手軽な山歩きにくるだろう。

車山から下りてくる途中にある湿原がまた、高山植物が豊かで歩きがいのあるところだ。白樺湖も人造湖になる前は湿原だったそうだから、こういう感じだったんだろうか。観光目的なら湿原のままのほうが案外よかったかもしれないが、戦前の人たちにその発想はなかった。農業用の溜池を作るので精一杯だった。湖畔が観光開発された後も、用水は農業に使われてるという。

蓼科湖もほぼ同じころ農業用の溜池として設けられた人造湖だというから湿原だったのかもしれない。蓼科湖と白樺湖の水は茅野や諏訪などふもとの田んぼで米作りの役に立っているそうだが、水量の確保というよりも、溜池でいったん温めることで冷水の害からイネを守るのが目的らしい。人造湖ができる前は、雪解け水が冷たすぎて、田んぼのイネが生育せずに人が飢えがちだったとか。

霧ヶ峰まで下りてくると、あとは路線バスが1日に何本か、上諏訪まで送り届けてくれるのでソフトクリームを食べるもよし、うどんかそばでも啜るもよし、時間調整にそこらへんを歩き回るもよし。上諏訪と霧ヶ峰を結ぶバスは先ほどの湿原や車山高原のリフト乗り場まで延びているから、茅野ではなく上諏訪を起点にしてもこの界隈は散策することができる。

霧ヶ峰ではグライダーの離陸を間近に見物できる。どうやら自動車で引っ張って凧のように宙に上げたあと、凧糸がわりのケーブルをグライダー側でリリースして気流を生かし飛ぶようだ。切り離されたケーブルがパラシュートで降りてくるのが、のどかでなかなかいい。あのグライダー、観光用に営業してるのかと思えばそうではなく、クラブの会員にならないと乗ることができない。なんだそうか。

 

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松山ふたたび

2023-09-17 | Weblog

時間が余ったので松山を少し観光した。いつだったか四国を香川→徳島→高知→愛媛と巡ったとき最後に泊まったのが松山だった。自然豊かなところを経て市街地にきたせいか煌びやかに見えた。九州の博多、北海道の札幌に匹敵する四国の松山として、珠玉のように感じた。

それから十数年のあいだ日本全国津々浦々をいよいよ不況が襲ったせいか、それとも今回は東京から直行直帰したせいか、再訪した松山はどこか寂しさを感じる地方都市のひとつで、大街道なども往年のギラギラした雰囲気を失い果て、どちらかといえばシャッター街に近づいた印象。

急いで帰りたい。しかし時間が余ってる。そこで前回まだ松山になかった、坂の上の雲ミュージアムにきてみた。平成19年に誕生したということは、おそらく前回の松山にまだなかったはず。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は昭和の終わりに読んだから前回あれば存在ぐらいは意識したと思われる。

三角形の狭小地に合わせた三角形のビル内部が三角形の螺旋スロープになっていて、大回りにぐるぐる歩かされる割にあまり展示物が目を引かず、三角形の一片にあたる窓から見える萬翠荘の眺めがいいことが取り柄だった。旧松山藩藩主の子孫の久松某伯爵が大正11年(1922年)に別邸として建てた館。

それ以前に明治の文豪、夏目漱石が松山中学に英語教師として赴任したとき下宿した小料理屋の愛松亭(あいしょうてい)が、萬翠荘の傍に復元されて「漱石珈琲店」として営業中だという。ちょうどコーヒーが飲みたくなったところなので、坂の上の雲ミュージアムのカフェではなくそっちで憩うことにした。

「小生下宿は眺望絶佳の別天地」と漱石が子規に手紙でかつて自慢したと、漱石珈琲店がいま自慢している。後に旧藩主の子孫が自慢げにフランス風洋館を建てるほどの場所だから眺望はいい。というより、この上に松山城があり、中腹に漱石の下宿とか子孫の洋館があるわけで、坂の上の雲ミュージアムはそのまた端っこ。

マドンナ珈琲と称するブレンドコーヒーをブラックでいただく。すごくおいしいのかと期待したら、それほどでもなかった。思えば漱石の『坊ちゃん』に出てくるマドンナは俗物の典型みたいなところがあり、あまりイメージがよくない。うらなりと交際してたのに赤シャツと結婚するような不確かなお嬢さん。

漱石は『吾輩は猫である』の作家でもあり、ここに下宿していた当時はまだ英語教師のはしくれで『猫』は1行たりとも執筆してないはずだけど、店にはこれ見よがしに猫の置き物があった。よくできた置き物だから、剥製かなと思ってよく見たら、目玉が動くし息をしている。生きた本物の猫だった。

萬翠荘に寄るつもりはなかったんだけど、せっかくすぐそばまで登ってきたんだし、ついでに中を見物していく。101年前の洋館……こういうところにはコスプレイヤーが大勢あつまって耽美なポートレイト撮影をしているのではないかと懸念されたが、そんなことはなかった。

『バスカヴィル家の犬』という2022年公開の映画(見てない)のロケ地になったと自慢してあった。シャーロック・ホームズはイギリスで活躍した私立探偵なのだからフランス風の洋館じゃ何かとマズいのではないかと思ったけど、この映画はおそらく原作通りではないから洋館ならフランス風でもよかったんだろう。

天皇家っぽい人の肖像画が2点、父子のような感じで飾ってあるから、昭和と平成の天皇かなと思ったらそうではなく、皇太子だったころの昭和天皇と即位してかなり後の昭和天皇だった。ということは大正と昭和にこの館へ立ち寄ったに違いない。ちなみに左が皇太子時代で、右が天皇に即位した後の肖像。

もう帰ろうかと思ったが、時間があるので松山城下を何百mか回り込み、お山の上の松山城へと敷設されたロープウェイ乗り場まで歩く。この日も9月とはいえ残暑が厳しく、蒸し暑い猛暑日だった。萬翠荘からロープウェイ乗り場まで歩いただけでも、頭がだんだんボーッとしてくる。

ロープウェイでアクセスできる城というのも珍しい。おまけにリフトまである。どっちに乗ってもいいのだが、リフトのほうが1人でのんびりできるからリフトにした。歩いて登ることも可能なんだけど、そんなことしたら熱中症で倒れてしまう。しかし強者がタオルを頭に巻いて本丸まで駆け上がり、駆け降りるのを見た。

松山城は日本に12しかない現存天守閣(できた当時のまま失われていない天守閣)の1つ。たしか現存天守閣は12か所すべて訪ねたことがあり、松山城は2度目だ。標高200mかそこらなので、せいぜい1℃くらいしか松山市街と気温が変わらないはずなのに、風の通りがいいせいか少し涼しく感じる。たわいない観光これで終了。

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石鎚山炎上

2023-09-08 | Weblog

西日本最高峰の石鎚山(1982m)に登頂する計画を立てていたのだが、10日ほど前に八甲田山で遭難した(なんでもないところで尻餅をついて尾骶骨を石に打ちつけて微妙にまだ痛い)ので、登頂はあきらめた。しかし、せっかくの機会だから七合目にある修験道場、石鎚神社中宮成就社ぐらい見ておこうと訪ねてきた。

松山駅から鈍行でおよそ2時間かけて伊予西条駅へ。そこからバスで険しい山道を約1時間。だいたい標高450mから1300mまでロープウェイで7分あまり。さらに徒歩で1kmぐらい行くと成就社がある。修験道場というから古びて神さびて厳しい場所を想像してきた。しかし何やら新しく、年輪のようなものがない。

これはどうしたことかと訝りながら、そこらへんを歩きまわる。昭和57年7月1日竣工の成就社復興記念碑なるものがあった。側面の文字を読むと、昭和55年11月13日に旅館から出火して成就社礼拝施設等ことごとく類焼したと刻んである。1980年そこらじゅう焼け野原になり、1982年に建て直して今年で40年あまり。

それでどこもかしこも新しく、歴史の重みがないわけだ。絵馬など眺めていたら雨が降ってきたので旅館の食堂に身を寄せ、カレーライスでも食べて身体をあたためる。「次こそは……リタイア組」という絵馬が意味不明で、いったい何を願うのか考えていたら、ふと思い当たるところがあった。

石鎚山登頂を目指して成就社の登山口からスタートしたけど、途中で断念したリタイア組が、次こそは……(登頂したい)と絵馬を掲げたのだろう。その気持ちなら自分にも分からないことはない。四国までくる機会なかなかないし、これからどこで野宿しようかと迷いながらロープウェイ駅まで戻ってきた。

徒歩3分のピクニック園地は水場、トイレ、自販機がありテント泊OK(無料)だなんて完璧じゃないか。残暑という名の猛暑がつづく日本列島、どこへ行っても寝苦しい時節だったが、標高1300mの園地は涼しく、ホームレス志向のある自分などには願ってもない居場所だった。四国はお遍路さんの文化があるから、このような穴場がまだ他にもあるかもしれない。

 

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酸ヶ湯と八甲田山

2023-08-26 | Weblog

はじめに来たのは2009年ぐらいだった気がする。八甲田大岳の中腹にある酸ヶ湯温泉には湯治部と旅館部があり、湯治部は昭和初期の木造2階建トイレ共同アパートといった風情で旅館部(見たことない)より安価なので9月の終わり、シルバーウィークと呼ばれだした時期に転がり込み、何泊かした。山は冷やかす程度だった。

つぎは昨年だった。13年前はメールで予約を申し込み、返信をもって予約成立だったのがウェブサイトで予約完結できるようになっていたので、見違えるかと思って訪ねたら全然そんなことはなく、湯治部は相変わらず神田川のアパートみたいな感じで、そこが気に入った。天気に恵まれず、やはり山は冷やかす程度だった。

今年はしっかり山歩きしようと思って、また湯治部のアパートに転がり込んだ。部屋にいても、うっすら硫黄のにおいがする。酸ヶ湯温泉は昭和29年(1954)に国民保養温泉地第1号に指定された。その理由は「卓越した効能と豊富な温泉の湧出量、広大な収容施設、清純な環境、交通の便、低廉な料金」などで、同時に指定されたのは茨城県の日光湯元温泉と群馬県の四万温泉。

国鉄時代は向かって右端に張り出したそば屋の位置に、国鉄酸ヶ湯温泉駅があったので、鉄道でアクセスできて便利だったがJR東日本が廃線にしたので現在は青森からバスに1時間ほど乗らないとたどり着けない。今年90周年をうたっており、何基準の90周年かと思ったら昭和8年(1933)酸ヶ湯温泉株式会社に改組して大浴場などの増改修に着手してから90年だった。

おそらくこのポスターの千人風呂もそのとき計画されたものだろう。混浴の千人風呂は実際に入浴すると千人も浸かることができず、せいぜい百人がいいところだろう。ポスターに写り込んでる人数を数えても、やっと百人を超える程度。これは撮影用にぎっしり詰め込んであり、普通の入浴でこの人数は無理だ。

酸ヶ湯温泉が発見されたのは江戸時代の貞享元年(1684)で、狩人が仕留め損ねた鹿が傷を癒したので鹿湯(しかゆ)……それが訛ってすかゆになったとも、後に酸性の湯とわかって酸ヶ湯になったともいう。温泉の周辺にいくつか登山口がある。そこから八甲田大岳に登頂しようと思ったが、到着した翌日は天気が思わしくなかったので奥入瀬を冷やかした。

雨降りでも渓流ぐらいなら傘を手にぶらぶら歩けると思って十和田湖行きのJRバスに乗ったら、どうにか天気が保ちそうだったので奥入瀬の上流で途中下車して十和田湖まで歩いた。湖畔の食堂でにわか雨をやり過ごし、雨上がりにまたJRバスに乗って酸ヶ湯に戻った。部屋にいると窮屈だから公共のサロンでブログを下書き。

土曜は泊まり客で賑わうサロンも日曜は閑散としている。昭和51年(1976)から二冬にわたり、この宿を基地にして映画『八甲田山』のロケが行われた。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を元にした映画では、日露戦争の演習で冬の八甲田山を行軍した大日本帝国陸軍の部隊が撤退の決断を怠って全滅した。太平洋戦争にしても、マイナンバーカードにしても、インボイス制度にしても大阪万博にしても、リニアモーターカーにしても原子力にしても何にしても、日本人は引き返すことができずに破綻する。山歩きは強行せずに、困難があれば引き返す(出発しない)に限る。

翌日は雨に降られることもなく八甲田登山を楽しむことができた。モヤがなければ、360°の眺望をまのあたりにできるそう(青森市街とか、南八甲田連峰とか、太平洋とか……)だが、近くの峰のほか何も見えなかった。薄々そうじゃないかと思った。ちなみに日露戦争の予行で全滅した部隊は青森からここまで辿り着くことができず、もっと手前で遭難したという。恐ろしいことだ。

 

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