特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

Negative speaker

2014-03-19 09:15:09 | 特殊清掃 自殺
年柄年中、あちこちの街に出かけている私。
ある時、ある街で、妙な看板が目についた。
そこには、
「ネガティブスピーカーと楽しく会話」
と、デッカイ文字。

「ん? ネガティブスピーカー!?」
「ネガティブスピーカーと楽しく会話なんてできんのか?」
と、私は、少し驚いて頭を傾げた。
そして、自分の仕事を棚に上げて
「世に中にはヘンテコな商売があるもんだな」
と感心しながら苦笑。
しかし、その看板をよく見ると、「ネガティブスピーカー」ではなく「ネイティブスピーカー」と書いてある。
それは、どこにでもある、英会話教室の看板だった。

“ネガティブスピーカー”と“ネイティブスピーカー”はまったく別物。
そもそも“ネガティブスピーカー”なんて言葉、聞いたことがない。
「“ネイティブスピーカー”を“ネガティブスピーカー”と読み間違えるなんて、何とも俺らしいや」
マイナス思考が服を着たような人間である私は、再び苦笑したのだった。


故人は50代の男性。
死因は縊死。
現場は、一時代前のアパート
間取りは2DK。
死後、結構な日数が経過しており、深刻な汚染と異臭があった。

入室して、まず目指したのは遺体汚染痕。
それは、和室の押入れの前に残留。
畳は何枚もの新聞紙に覆われ、更に、その新聞紙は大量の腐敗液に覆われていた。
上を見上げると、押入れの天井板は外され、梁が露出。
故人は、押入れの天井裏の梁を使って首に体重をかけたよう。
そして、そのままの状態で何日もの時間が経過したようだった。

警察がその辺にある新聞紙・タオル・毛布などを腐敗液の上に敷くことはよくある。
自分の靴が汚れないようにするために。
そして、この現場の床にも、多くの新聞紙が敷かれていた。
しかし、それは、故人が敷いたもの。
それが、腐敗液発生の後に敷かれたものであるのか、その前に敷かれたものであるのか、汚染状態を見てすぐにわかった。

故人は、自分なりに後のことを考えたよう。
それを気にかけるようだから、多分、故人は決行前に用を足したはず。
それでも、糞尿が少しは垂れることを想定したのだと思う。
しかし、その用意も虚しく、遺体は著しく腐敗し、新聞紙では到底まかないきれないほどの汚物を発生させたのだった。

特掃作業は、特に困難なものではなかった。
フローリングとは違い、畳の場合、必要な作業は、「掃除」というより「撤去」。
汚れた畳は、そのまま撤去すれば済む。
あとは、敷居や柱に着いた腐敗液を除去すればいいだけ。
ただ、パックリと口を開けた押入の天井は、まるで処刑台の下にいるかのように錯覚するくらいの寒々しさがあった。
そして、それが作業の邪魔になりそうに思えた私は、まず先に押入の天井板を元に戻し、その光景を自分の視界から消した。

結局、作業自体は、身体的に重いものにはならなかった。
ただ、私には、別のものが重くのしかかった。
それは、故人が残したメモ・・・
同じことが書かれた何枚ものメモが、部屋のあちこちに散乱。
警察は、それらを遺言・遺書の類とみなさなかったのか、そのまま放置。
それが、私の精神に重くのしかかってきたのだった。

「金も仕事も家もない」
「人生50年 余分に生きてしまった」
何枚ものメモには、すべてそう書いてあった。それだけしか書いてなかった。
そこからは、故人が、経済的にも社会的にも困窮していたこと、そして、明日に対して夢も希望も持てなくなっていたことがハッキリうかがえた。
そして、故人は、今に疲れ、将来を悲観し、生きることをやめた・・・

故人は、どんな気持ちでメモを書いたのだろうか・・・
何故、同じものを何枚も書いたのだろうか・・・
死にたがる自分が納得するためだったのだろうか・・・
生きたがる自分を説得するためだったのだろうか・・・
新聞紙を敷くときの気持ちはどんなものだったのだろうか・・・
・・・私の頭には、そんな思いばかりが過ぎった。
そして、私は、悲しい、寂しい、虚しい、同情・・・そんな言葉では片付けられない重苦しい心境に陥った。
同時に、思いたくなくても、それが自分のことのように思えてしまい、重苦しい気分は下へ下へと引きずり下ろされていったのだった。


少子高齢化
経済格差・教育格差・拡大する貧困層
上がるばかりの税金・社会保険料等
下がるばかりの年金・医療費等
不景気・財政赤字
就職難・結婚難
環境破壊、大地震の想定
あたたかみのない競争社会
殺伐とした人間関係etc・・・
残念ながら、将来を悲観しようと思ったら、その材料はいくらでもある。
そんな中にあっては、夢や希望を持つことは簡単なことではない。

とりわけ、私のような、何の取り柄も能力も経歴もない中高齢者はそう。
特に、私は、右に出る者が他にいないくらいのネガティブ人間(かなり重症)。
何事も悲観すること、マイナスに考えることが大得意。
大方の事について、ポジティブに捉えることを苦手とし、楽観すること、プラスに考えることができない習性を持つ。
だから、何の根拠もなく将来を楽観してポジティブに考えることなんて、簡単にはできない。

病死、孤独死、自殺、事故死、事件死・・・
私は、それらを作り事ではない現実として体感している。
時に励まされ、時に奮い立たされ、時に精神を立て直すチャンスが与えられる。
ただ、そこで受け取り、自ら発生させるものは、プラスのものばかりではない。
時に不安感を煽られ、時に虚無感に襲われ、時に疲労感に苛まれる。
一人一人の死から感じたことをプラスに転じることが故人に対する礼儀みたいに思いながらも、それができなくてマイナスに落ち込むことも少なくない。

だから、自分自身のことについては、愚痴や弱音、暗い話や悲観的な話が多い。
ブログの上でも、連々脈々と似たような陰鬱話を繰り返してしまうのだ。
ただ、それは、自分にできるかぎり正直に書こうとしていることの現れでもある。
もちろん、誰かに読まれていることを意識して、汚い部分に蓋をして、きれいな結論に向かおうとする自分・向かう自分がいないわけではない。
また、ときには、無理矢理、ポジティブなキャラクターを作りあげたりもする。
誰かにいいカッコしたいがために。自分を叱咤激励するために。

自分を肯定するために、自分を否定する。
人から肯定してもらいたいから、自分を否定する。
自分を善人にするために、偽善者を自称する。
人から善人にみてもらいたいから、偽善者を自称する。
本質(事実)を非難されることを嫌い、上辺だけでも賞賛されることを好む。
これが私の器。
これが私の限界。
これが私。

私は、ポジティブな話をたくさんしたいけど、多分、できない。
ポジティブな人間になりたいけど、多分、なれない。
自分ではどうしようもできない苦悩の人生を歩いているから。
弱い自分を自分ではどうしようもできないから。
それでも、私は、生きなければならない。理由はどこかにある。
だから、こうして生き、そして、その生苦をこうして吐露しているのである。


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