その電話は、修学旅行から帰った数日後のチエちゃんに、突然、掛かってきました。
「チエ~、電話だぞ~」
「うーん、だれ~?」
「てるよしとか言ってるぞ」
「???・・・」
理解できるまで、少しの時間が要りました。
中学の時、ちょっとの間、お付き合いをしていた
てるよし君からでした。
「会いたい」という電話です。
チエちゃんの中では、もう終わった恋でしたから、ためらいもありましたが、取りあえず、会う約束をしたのです。
数日後の日曜日、チエちゃんは家族には単に友達に会うからと言って、約束の場所へと出かけました。
そこに待っていたのは、黒と見まがう程の深い緑色の
トヨタ・マークⅡハードトップの運転席に座った てるよし君でした。
てるよし君は農家の長男です。
春に農業高校を卒業し、家業を継ぐことになったのでしょう。
ご両親は彼のわがままに負けて、こんなスポーツカーを買い与えたに違いありません。家業を継いだことへのご褒美でしょう。
チエちゃんの村でも、仕事を求めて都会や地方都市へ出て行く若者が多く、地元に残り、農業を継ぐ若者は貴重な存在だったのです。
カッコイイ車を手に入れたら、次はナビシートに乗せる女の子です。
男の子なら、誰しも考えることです。
それで、てるよし君はチエちゃんのことを思い出したのでしょうか?
てるよし君は、チエちゃんをドライブに誘いました。
チエちゃんは少し話をしたら帰ろうと思っていたので困惑しましたが、スポーツカーに乗って、ちょっとしたデート気分を味わってみたい誘惑に負けてしまったのです。
「どこに行く?」
「A高原に行きたい」
チエちゃんは、紅葉で有名な観光地を指定し、途中の車の中では、お互いの近況や友達の噂話、思い出話に楽しい時を過ごしました。
A高原に着く頃になって、あやしい雲が覆い始めていた空から、ポツポツと雨粒が落ちてきました。そして、とうとう土砂降りになってしまったのです。
目的地に着いても、二人はマークⅡから降りることができませんでした。
あのよ~、チエ・・・・・
・・・・・
見詰め合った二人の間に沈黙が訪れ、気まずい雰囲気が流れました。
チエちゃんは、ドキドキしました。これは、かなり、やばい状況です。
帰ろっか?
うん、帰ろう!
チエちゃんは、内心ほっとしました。
それから、チエちゃんは2~3度 てるよし君からの誘いの電話を受けましたが、二度とその誘いに応じることはありませんでした。
付き合う気もないのに、てるよし君と会うことは危険だと感じていたからです。
チエちゃんは、両親の苦労を見て、農家のお嫁さんにだけはなりたくないと思っていたのです。
チエちゃんは、まだ16歳。やっと大人の入り口に立ったばかり。
こうして、ひとつ、
大人への階段を登ったのでした。